晴耕雨読 -田野 登-

大阪のマチを歩いてて、空を見上げる。モクモク沸き立つ雲。
そんなとき、空の片隅にみつけた高い空。透けた雲、そっと走る風。
ふとよぎる何かの予感。内なる小宇宙から外なる広い世界に向けて。


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今回は、
『折口信夫全集』16、中央公論社、1996年の
「第二部 日本文学の戸籍 第二章 上代歌謡」
「三、難波方(ルビ:ナニハガタ)」にある
「本 難波潟。潮満ち来れば、あまごろも
 末 あまごろも 田簔の島に、鶴(ルビ:タヅ)たち渡る」の
《[語句の吟味]○田簔の島》の記述を
引き続き小出ししながら考えます。


◇後世其跡を伝へる所もないではないが、
 所在は今明らかでない。

 

微妙な表現で、
折口には「田簔の島」を比定する
固有名詞(地名)による所在説の提示は
この先を読んでもありません。
だからボクは、津守なのか、木津なのか、江戸堀なのか、
中之島なのか、鷺洲なのか、佃なのかと想像するばかりです。

 

折口記述を続けます。
◇難波のうちで、川筋に近い所にあり、
 舟行の人々は、これを見る機会が多かった所らしい。

 

この歌の「田簔の島に、鶴たち渡る」の情景は
海上を漕ぎ行く舟から
浅瀬の先の砂州の眺めなのでしょう。

 

以下、「田簔の島」の
名の由来となる「田簔」の語義に言及します。
◇田簔は田に著て(着て?)行く簔で、
 田作り以外にも用ゐた腰簔であらう。

 

折口の解釈では「あま」は「海人」だったわけで
名こそ「田簔」であれ、
「あまごろも」の吟味の記述では
「海人特有の簔」でした。

 

折口記述を続けます。
◇その腰簔を常用してゐるのが、
 海人の服装だったのであろう。
 特殊なものであったのだ。
 当時の人には、
 田に入る時にばかりつけた田簔を

  年中つけてゐたのが注意をひいたのだ。

 

「当時の人」とは、古代・文学では上代の人、
とりわけ古代の貴族の目にとまったというのです。
これは、折口の想像です。
折口は、「腰簔を常用」すると解釈したところから、
エスニックな異国風な民を想像しているのです。

 

折口記述を続けます。
◇古代では、

  女の子がつけてゐた、腰裳(ルビ:コシモ)とは別に、
 裳をつけず、肌に直に簔をつける人々があつたので、
 旧日本の村々は、

  田作りの時期だけに用ゐる様になつてゐたのに、
 海人は尚常用したのが、珍しかつたのである。

 

この折口の記事の初出は、戦後間もない
昭和23年12月20日刊行の通信教育部の教材でした。

次回、折口の想像する世界を
検証してみることにします。

 

究会代表 田野 登

 

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『折口信夫全集』16、中央公論社、1996年の
「第二部 日本文学の戸籍 第二章 上代歌謡」
「三、難波方(ルビ:ナニハガタ)」にある
「本 難波潟。潮満ち来れば、あまごろも
 末 あまごろも 田簔の島に、鶴(ルビ:タヅ)たち渡る」の
《[語句の吟味]○あまごろも》の記述を
引き続き小出ししながら考えます。


◇海女(ルビ:アマ)の着てゐる衣。
 それを、田簔を起す枕詞とした。
 海人は、もと海人部(ルビ:アマベ)の民を言ひ、
 普通の旧日本種族と部族が違つてゐた。

 

記述はエスニックな方面に展開します。
大阪湾の島に
「海人部」という
「普通の旧日本種族と部族が違」う民がいた?
かつてボクも「海民」について考え、
大阪市港区の三十間堀川入堀の町に
調査に出かけたことがあります。
潜水夫の集住する一画です。
初出は『大阪春秋』第91号1998年9月
「続生業の聞書-
 アジアに活躍する徳島県・伊島の潜水技術-」です。
拙著2007年『水都大阪の民俗誌』和泉書院の
《第3章 川筋の生業世界》にも記しています。

 

潜水工事に携わる人たちは、
伊島(徳島県阿南市伊島町)出身でした。
*宮本常一は、1974年「海から来た人々」に
次のとおり記述しています。
 *宮本常一:宮本常一・川添登編『日本の海洋民』未来社

 

◇大分県に海部(あまべ)郷、
 広島湾内には海(あま)郷があり、阿摩荘がある。
 淡路島南淡町に阿万、
 摂津に尼崎、徳島に海部郷がある。

 

宮本の記述は、折口に倣ったものか否かの
確認はしていませんが、
摂津国の海辺に
「海から来た人々」が集住したことは
間違いないと考えます。

 

《[語句の吟味]○あまごろも》の記述の続きに
戻ります。
 ◇此頃でも、海辺の民の様子の変つた衣服が、
 えきぞちつくな感じを与へたのだ。
 さう言ふ漁撈の為の服装をして、
 それに海人特有の簔をつけてゐたのである。
  田簔の田を隔てゝ簔だけにかゝつてゐる枕詞である。

引用文中のイタリック体は、
『折口信夫全集』によるものです。
すぐさま鵜匠の腰蓑を連想しますが、
上代歌謡の詠まれた当時の
貴族たちにとって
摂津国の「海人部の民」の
風俗への関心は異国情緒だったとでも
いうのでしょう。

 

折口は、「あまごろも」が「簔」にだけかかるについて
次のように記述します。
◇海人がたみのをつけると言ふ

 知識も残つて居ないし、
 たみのが田作りにつける簔といふ外、
 知れてゐないのだから、
 「あま衣みの」と続くものと見るべきである。

 

海女の着ているのは、「簔」だというのです。
「田簔」というモノ自体については、
「田簔の島」の[語句の吟味]にまわします。
このような歌枕の世界に入り込んでしまって、
どこまでが実体のともなう形象なのか?
折口の記述は、仔細であって

時に飛躍します。
次回、たどります。

 

究会代表 田野 登

 

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「いずれ、
 「田蓑の嶋」歌への折口信夫の解釈も
紹介することにしましょう」と
《田蓑の島の「かざめ」なる蟹(2) 
2017-02-09》と書き残して早くも三ヶ月が経ちました。
ようやく「田蓑の島」に戻って来ました。
蟹談義以来のことです。

 

しばらくは《折口信夫の想像した「田蓑の島」の民》と題して
折口の想像力を借りて
歌枕「田蓑の島」を探索しようと思います。

『折口信夫全集』16、中央公論社、1996年の
「第二部 日本文学の戸籍 第二章 上代歌謡」は
昭和23年12月20日刊行の通信教育部の教材が初出とのことです。

 

「上代歌謡」の「三、難波方(ルビ:ナニハガタ)」に
「本 難波潟。潮満ち来れば、あまごろも
 末 あまごろも 田簔の島に、鶴(ルビ:タヅ)たち渡る」が
挙げられています。
《[語句の吟味]○難波潟》の記述は
次のとおりです。

◇潟。遠浅の海。難波の海の沖の浅瀬。
 さう言ふ浅瀬を含んで、難波浦に面した海一帯を言ふ。

 

「上代歌謡」に詠われる「難波の海」は、
今日の上町台地の近くまで迫っていました。
折口の生家の「木津」も
かつての水辺を想起させる地名です。

 

《[語句の吟味]○あまごろも》の記述は
注意深く挙げることにします。

◇海女(ルビ:アマ)の着てゐる衣。
 それを、田簔を起す枕詞とした。

 

ここでは「あまごろも」の「あま」は
「雨」でなく「海女」「海人」と解釈しています。
ほぼ同時代のに*『萬葉集』に当たりました。
  *『萬葉集』:『萬葉集四』1982年『新潮日本古典集成』
『萬葉集』第15巻3782番歌の
「雨隠り」の訳がされている箇所の
*『総索引単語篇』による用字は「安麻其毛理」です。
 *『総索引単語篇』:正宗敦夫編
『萬葉集総索引単語篇』

                             1974年、平凡社

「雨」の用字は「安麻」です。

『萬葉集』第15巻3641番歌の
「海人娘子」の訳がされている箇所の
*『総索引単語篇』による用字は「安麻乎等女」です。
「海人」の用字は「安麻」です。
『萬葉集』第15巻3638番歌の
「海人娘子ども」の訳がされている箇所の
*『総索引単語篇』による用字は「安麻乎等女杼毛」で、
「海人」の用字は「安麻」で
いずれも「雨」との違いはありません。

 

このことからしますと
「あまごろも」を一概に「雨衣」と解釈して
「雨合羽」で済ませるのではなく、
折口のように

「海女衣」「海人衣」と解釈することも可能なのです。

 

問題は、「海女」「海人」ちゅうのは誰なのかです。
古代の大阪湾の島にすだく民の問題です。
次回に折口説を紹介します。

 

究会代表 田野 登

 

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市岡新田大堤痕跡探索は、
まあ、このようなものかいなぁと思いながら、
大堤跡を尻無川に向けて歩きました。

 

三ツ樋橋が架かっていた場所から
東西に堤跡があります。
これは編集主幹氏もあまり興味を示しません。
三十間堀川跡の堤で、
海に向かって築堤されたものではありませんから。

 

しかたなく甚兵衛渡しまで出て
渡船に乗って大正区側に渡ることにしました。
何年ぶりでしょう。対岸に渡るのは。
ともかく船上からの市岡新田に狙いを定めることにしました。
残念ながらブログアップは諦めました。
護岸壁の先の、往時の新田風景など望むべくもございませんた。

むしろ大正区側で上陸してびっくりしたのが、
この錦絵です。

写真図1 甚兵衛渡船場大正区泉尾側の錦絵

「浪花百景「しりなし漆づゝみ甚兵衛の小家」」です。

この場所近くには
川守子安地蔵が渡し場に祀られていました。
たしか木でできた案内板はありました。

錦絵にはプレートが貼られています。
写真図2 錦絵のプレート

「平成20年3月 大正区役所」と刻まれています。

 

この同じ錦絵については
     ↓ここをクリック
http://ameblo.jp/tanonoboru/entry-12269070311.html
《 甚兵衛小家って江戸時代の「大正区」の風景?2017-04-26 09:50:44 》に
取り上げました。

その際、取り上げた大正区側の錦絵は
「財団法人大正区コミュニティ協会」設立20周年を記念し、
平成17年12月に
「江戸時代の大正区の風景」のパネルが設置されたものでした。

コミュニティ協会が設置して
約2年後に区役所が設置しているのです。
逆ではありません。
区役所が追随しているのでしょうか?

 

港区側の名勝地が
大正区側で顕彰されているのです。
何気なく訪れた人、今、流行のマチ歩きの人たちは
「しりなし漆づゝみ甚兵衛の小家」が
かつてあった場所を勘違いしないとも限りません。
観光の仕掛けの罠には気をつけたいものです。

 

この後、大正区コミュニティ協会前の
錦絵を求めて大正通まで出ながら
千島公園の昭和山に登ってしまい、
もう一つの「甚兵衛小家」の錦絵を確認できずに、
編集主幹を徒労に終わらせて
少しは申し訳なく思っています。

写真図3 昭和山からの眺め

港区側を眺めました。
手前の橋が、なみはや大橋、
背後の橋は港大橋です。

昭和山を下りながら森林浴でも
多少出来たかな?

 

結局、JR大正駅まで歩きました。
この日、マンションに帰って
携帯電話の歩数を見れば3万歩を越えていました。

そのつもりではなかったのですが、
初夏の好天に恵まれてのマチ歩きの一日でした。

 

究会代表 田野 登

 

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今週日曜日5月7日、『大阪春秋』の
市岡新田の記事の決着を付けるため、
編集主幹と歩きました。
はたして如何?

 

ボクはこの日も、福島区鷺洲の実家から
大阪市立中央図書館まで
徒歩でゆきました。
調べ物を終え、
図書館のある西長堀から、木津川を下って
境川から約束の場所の弁天町駅に向かいました。
途中、木津川右岸に鯉のぼりを見つけました。
写真図1 木津川右岸に鯉のぼり

地元小学校の児童たちオリジナルの鯉のぼりでした。
昨今、めっきり鯉のぼりを見かけなくなる中で
川面に勢いよく泳ぐ鯉に爽快感を覚えました。

 

弁天町駅で落ち合って
波除公園の新田会所碑、
弁天東公園の波除山跡碑。
ことさら新田の痕跡を感じてもらえません。
ボクは解体工事の情報の入っている
安治川内港の弁天埠頭が気がかりで、
遠目から状況を眺めました。
写真図2 解体工事の情報の入っている弁天埠頭

たしかに立入禁止の柵が見えます。

めざすは、市岡新田の大堤痕跡を求めて
夕凪交差点です。
夕凪交差点に向かう道筋に
東西方向の高低差は認められません。
南北方向は戦後、嵩上げがあった跡が肉眼で見えるのですが・・・・。

いくら空想家のボクにも
元禄11年築堤された堤に寄せる波の音は・・・・?
どうかなぁ?
「夕凪アベニュー」の街灯を撮りました。
写真図3 夕凪アベニューからの市岡グランドビル名店街方面

道路の反対側には、市岡グランドビル名店街が見えます。
この道路が新田の大堤痕跡といえば
そうなんです。
元禄の世の海に向けての最前線なのです。
その後、この最前線は新田開発に伴い
西へ西へ進みます。

それにつけても、
かろうじて夕凪橋から
大正末から昭和初期にあった遊園地「市岡パラダイス」に至る
パラダイス通りの道筋だけが
大堤痕跡といえなくもないところなんです。

 

この地は、往時の新田の名残が見えなくなるほど、
戦災・水害被害に余儀なくされて
史上稀な「地上げ・嵩上げ」が実施された場所だということは
理解してもらえたと思います。
これで決着を付けたことにしましょう。
後はお任せすることにしましょう。

 

究会代表 田野 登

 

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