晴耕雨読 -田野 登-

大阪のマチを歩いてて、空を見上げる。モクモク沸き立つ雲。
そんなとき、空の片隅にみつけた高い空。透けた雲、そっと走る風。
ふとよぎる何かの予感。内なる小宇宙から外なる広い世界に向けて。


テーマ:

前回、*『寛永諸家系図伝』の
慶長19(1614)年の大坂冬の陣記事の
幕府軍の足どりを追う作業を通じて
野田新家の近世大阪における位置づけを
試みると記しました。
   *『寛永諸家系図伝』:『寛永諸家系図伝』第10、九鬼守隆、
            (続群書類従完成会、1986年)

 

同書記事を続けます。
◇*翌日、井楼を攻とり、
 首七級・生虜(ルビ:いけとり)三人ならひに
 舟奉行佐々淡路守が舟じるし〔半角割注:鳥毛の棒〕・
 大船二艘〔半角割注:福嶋丸・伝法丸〕・
 兵船数艘をとり、
 すなハち勝山・岡山にいたりて
 大権現・(秀忠)台徳院殿の尊聴に達し、
 御感の仰をかうふる。
 すなはち福嶋をもて陣場とす。
    *翌日:慶長19(1614)年11月29日

 

徳川方は
一日がかりで「福嶋」を攻め落とします。
新家から福島までの間、
「井楼」を攻め取ります。
防禦は、けっして城廓ではなく、
「やぐら」のような簡素な施設です。
「野田城」は
すでに廃城であったのでしょう。
兵卒を斬り落とし、生け捕りにし、
「大船二艘・兵船数艘」を略奪します。
この戦闘は水路を場とする船戦であったのです。

 

福島に陣取って以降の徳川方の足どりは
同年12月1日の記事から読み取られます。
◇同十二月朔日、難波橋にせめいる。
 先手ハ高麗橋にありて鉄砲をハなつ。
 翌日、五分一嶋を陣場とし、
 難波橋にをひて鉄砲をはなつ事三日なり。

 

「五分一嶋」を中之島に比定する説があります。
写真図1 中之島六丁目のテニスコート脇の説明板
     
「・・・中之島の起源については、
 古くから豊臣・徳川の大阪の陣に際し、
 「五分一島(ルビ:ごぶいちじま)」と
 呼ばれ陣場とされていたが・・・」と
記されています。
残念ながら、いつ、誰が立てたのかは不明です。

 

ここまでの幕府軍の進軍経路を
まとめますと
〈新家→葭嶋→福嶋→
 五分一嶋→難波橋→高麗橋〉となります。

 

今日、西の此花区、

東の福島区のどちらからも

周辺に追いやられている感じのする「新家」が

近世初期にあっては、
軍事的に如何に重要な地点であったかは、
明らかです。

 

写真図2 大阪市都市環境局 西野田抽水所門扉
     住居表示に注目
     福島区と此花区の境界を示す。

 

次回、出発点の「新家」に戻ります。
貞享元(1684)年、開削の安治川(新堀)以前の
地勢、とりわけ水路に注目します。

 

『第一西野田郷土誌』1935年には、
「徴証とすべき古記録が存じてゐない」と記された
新家への渡御について、
「享和元年蛭児之宮神祭取締リ請印形帳」を
仔細に読むことにします。
「新家」を中心に据えて
大阪の西北部の町を見た場合、
如何なる空間が立ち現れるのかを
試してみたいのです。

 

究会代表
『大阪春秋』編集委員
大阪あそ歩公認ガイド  田野 登

 

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