前回、野田村小字名①~⑧と
*地方文書「享和元年蛭児之宮神祭取締リ請印形帳」記事中の
地名との照合から始めると予告しました。
*地方文書「享和元年蛭児之宮神祭取締リ請印形帳」
野村豊、1958年『漁村の研究-近世大阪の漁村-』三省堂
以下「1801エビス祭礼陳情書」と表記
その前に「1801エビス祭礼陳情書」に
「蛭児之宮」とある
野田恵美須神社のHPに立ち寄ることにします。
↓ここをクリック
http://www.noda-ebisu.com/yuisho.htm
「由緒」の「地車」の項です。
◇むかし野田村は、
六つの町に分かれていまして、
そのうち一町が太鼓を、
一町が神輿(みこし)を、
そして他の四町が地車を持っていました。
すなわち四台の地車があったのですが、
老朽化したため大正の中ごろから廃絶していました。
それを復活しようという気運が起こったのが、
昭和六年で、このとき昔の四台のかわりに、
一台の大きな地車を作ろうということになり、
岸和田の専門家を招いて、
一年がかりで作らせたのが今の地車です。
そういわれてみますと、野田のエベッサンの地車は
近くの福島の天神さんや、
海老江の八阪さんよりも、たしかにでっかい。
写真図1 野田恵美須神社地車
撮影:2015年1月十日戎
「四台のかわりに、一台の大きな地車」を拵えたのでした。
注目しますのは「むかし野田村は、
六つの町に分かれていまして」の記事です。
「1801エビス祭礼陳情書」記事中に
「本郷六町」という言葉を見かけたことがあります。
◇乍併古例相止候儀者神慮之恐も有之、
新家より者幟提灯ニ而社参仕、
野田本郷六町者御輿・太鼓・地車ニ而
他村へ参リ候儀者無之、村内ニ而出し来リ候
「野田本郷六町」は「新家」と
並記されています。
この記事は、
古例中止後の新家と野田本郷六町の
取り決めです。
それまで祭礼に御輿・太鼓・地車を出していた
「野田本郷六町」の「六町」とは、
何町でしょう?
「1801エビス祭礼陳情書」を溯ります。
次の記事があります。
◇其砌より
当村内弓場町と申所ニ御輿人足出し来り候、
東町と申者太鼓人足出し来り候、
堤町・大野町・奥町・北野町四町者地車四ツ出し来り候、
新家者幟提灯ニ而、
右御輿御迎ニ参リ、
則野田西ノ口と申所より
御船ニ而新家御渡有之候儀古例ニ御座候
祭礼の「古例」をしたためています。
「弓場町と申所ニ御輿人足・・・」
「東町と申者太鼓人足・・・」
「堤町・大野町・奥町・北野町四町者地車・・・」
「新家者幟提灯・・・」
新家は「野田西ノ口」まで
幟・提灯を仕立てて迎えに行き
御輿渡御をしていたのです。
その際、弓場町、東町、堤町
大野町、奥町、北野町の六町が
御輿に供奉していたのです。
「野田本郷六町」の「六町」は、
御輿に供奉した六町です。
この町名は、
*藤論考に挙げた
8つの小字名と重なるようで重ならない。
それに、ここでは「新家」が出て来ました。
*藤論考:藤 三郎「野田城と戦国三好一族」
『なにわ福島ものがたり』福島区歴史研究会、2012年初版
往時の「野田城」周辺の
町が見え出したところで
次回まわしです。
大阪民俗学研究会代表
『大阪春秋』編集委員 田野 登