折口信夫の「なにわ・大阪」を探る(2) | 晴耕雨読 -田野 登-

晴耕雨読 -田野 登-

大阪のマチを歩いてて、空を見上げる。モクモク沸き立つ雲。
そんなとき、空の片隅にみつけた高い空。透けた雲、そっと走る風。
ふとよぎる何かの予感。内なる小宇宙から外なる広い世界に向けて。

前回から折口信夫の世界を
自分なりに辿っています。


勝手な話ですが、
「折口信夫」はボクの祖父と
生きた時代が殆ど重なります。
折口が明治20(1887)年生まれで
昭和28(1953)年死去です。
ボクの祖父は戌年生まれですので
たしか明治19(1886)年生まれで
昭和29(1954)年死去です。

だから、「折口信夫が記述した大阪」を
考えるというのは、
ボクにとりましてはお祖父ちゃんの
生きてきた大阪を想像するようなものです。


そんな祖父は
小学校も4年しか出ていないと聞いておりますが、
丹波から大阪に出て
やがて大阪の浦江に住みつきました。
浦江や大仁(だいにん)や豊崎といった
昔の阪神北大阪線沿線の街の記事が見つかっていません。
ボクの祖父や父は
その沿線の工場街で
糊口をすすっていました。


折口の生まれ育った木津からすれば
大大阪時代の
方角からすれば
正反対(真逆)の大阪です。
折口がミナミなら
祖父はキタです。
真逆であるだけに
中心に対する周縁として共通します。
両者ともかつての
ムラ、近郊農村であったことに違いがありません。


はたまた
折口が大阪を発ったのに対し
祖父は大阪に入ったのです。
これも転出者と転入者といった
真逆の関係です。


ずいぶん勝手に折口と
関係を取り結びました。
要は、大阪者3代目のボクの
足場を確かめた上で、
折口の記述する「なにわ大阪」を
探ろうとします。

今回は、折口を探る自分との関係を
確かめることに終始しました。
次回、このような関係性が
いかなるモノを気づかせるか、
試みたいと思います。


究会代表 田野 登