晴耕雨読 -田野 登-

大阪のマチを歩いてて、空を見上げる。モクモク沸き立つ雲。
そんなとき、空の片隅にみつけた高い空。透けた雲、そっと走る風。
ふとよぎる何かの予感。内なる小宇宙から外なる広い世界に向けて。


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*橋 昇氏の「〈戦争の記憶〉学童疎開と空襲体験」には、
吉野町三丁目の「六道の辻」の写真が載せられています。
    *橋 昇氏:2013年10月『福島区歴史研究会会報』創刊号

次の写真は、福島区歴史研究会所蔵のものです。

 

写真図1 戦時中の吉野町二丁目の「六道の辻」

キャプションには次の記述があります。
◇六道の辻で防火演習
 昭和十七年三月頃
 左 愛生薬局  中 衛生会館  右 カガシ屋 

 

写真の向きは、橋氏によりますと、
西から東です。
前回の地図に照らしますと
吉野町三丁目から二丁目を撮ったものです。
新家側から市中を向いてのアングルです。

 

時は昭和17(1942)年3月頃とあり
「六道の辻」の南西の橋氏の実家が空襲により
焼失するのは昭和20(1945)年6月のことで、
3年前の写真です。

 

「六道の辻」一帯が戦禍で焼失したのは
次の地図から読み取ることができます。

写真図2 「大阪市戦災焼失区域図」
      日本地図(株)1946年4月発行

地図の左下(南西部)の「西野田」を
道路(現在の北港通、かつての聖天川跡)が
中央の鉄道ターミナルの野田阪神から
斜め下(南西)に描かれています。
その両側が黄色く塗られています。
それが焼失区域です。

福島区は、あまり焼かれていないにもかかわらず、
この地域は黄色く塗られています。

道路を挟んで下側(南側)が吉野町、新家です。
「六道の辻」一帯は、焼失区域に含まれます。

 

先日12月23日(土)に「六道の辻」に出向きました。
写真図3 現在の「六道の辻」(福島区吉野4-24-15)

写真は、福島区歴史研究会所蔵と
同じアングルで撮りました。
西から東です。
写真の右の建物は元の「衛生会館」です。
昭和17年の建物は焼け残り、
今日まで健在なのです。


現在はKICビルとして、
自動車・二輪車用商品の企画及び輸入、
TV通販商品等の並行輸入、
国内メーカー製品の輸出に事業展開をしているようです。

この建造物など
戦時の被災を物語るものとして
大事に見守り続けたいとボクは思います。

 

究会代表
『大阪春秋』編集委員 田野 登

 

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*橋 昇氏の「〈戦争の記憶〉学童疎開と空襲体験」で
記された吉野町三丁目の「六道の辻」を
古地図で読図しました。
    *橋 昇氏:2013年10月『福島区歴史研究会会報』創刊号

 

*「最新大大阪市街地図」昭和12(1937)年の
此花区吉野二丁目が
西の吉野三丁目と接する場所から
北西から南東に伸びる街路が表記されています。
 *「最新大大阪市街地図」:「最新大大阪市街地図」
                           昭和12(1937)年、和楽路屋発行
             『大阪春秋』130号付録
この交叉点が「六道の辻」です。

写真図1 「最新大大阪市街地図」昭和12(1937)年

南西には学校の表記があります。
昭和12(1937)年当時、この学校は、
*HP「なにわふくしま資料館」によりますと、
「新家国民学校」の前身の「大阪市第四西野田尋常小学校」です。
   *HP「なにわふくしま資料館」
  :http://osaka-web-museum.na.coocan.jp/school-sinke.htm
場所は現在の大阪市立野田中学校で、
昭和12(1937)年当時、新家一丁目です。
その西の新家二丁目には寺が表記されています。
この寺は南徳寺です。
現在は「南徳寺新家墓地」だけ残っています。

 

地図上では「六道の辻」の位置する
五叉路から東と西では街区の表記には
粗密の相違が見られます。
やはり、「六道の辻」を南北に走る道路が
境界線のように見えます。

 

この付近を*昭和3(1928)年「最新大大阪市街全圖図」と
照合しました。
  *昭和3(1928)年「最新大大阪市街全圖図」
      :日文研所蔵地図
   http://tois.nichibun.ac.jp/chizu/images/2462729-o.html
たしかに寺、学校の北東に
五叉路が見えます。
それは「六道の辻」でしょう。

 

さらに溯って
*明治44(1911)年「實地踏測大阪市街全圖」に
照らしました。
   *明治44(1911)年「實地踏測大阪市街全圖」
      :日文研所蔵地図    
    http://tois.nichibun.ac.jp/chizu/santoshi_1156.html
すると、寺の東部には池が表記されています。
現在の新家公園、野田中学校は、
その池を埋め立てた土地と
部分的には重なります。

 

新家公園、野田中学校の北東に位置する
「六道の辻」はといいますと、
まだ全く街区の表記は見られません。

ということは、ここの「六道の辻」は、
大正年間に、西野田吉野町が
市街地化する中で敷設された街路ということになります。

 

この「六道の辻」は、街並みの変化が
著しい中で生き延びていました。
次回は、「六道の辻」の戦時中と
現在の写真に沿いながら
記述します。

 

究会代表
『大阪春秋』編集委員 田野 登

 

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12月2日(土)の第76回浦江塾では
昭和6(1931)年12月に
地元(現在の福島区鷺洲)に生まれ
今もお住まいの
内藤眞治さんによる「戦中の浦江界隈」の
お話が聴けました。

その際、空襲による焼死者を
大勢、焼くのを手伝った話を聴きました。


「・・・・ウチの父が
 警防団の役をしていて、
 私も中学生やったもので、
 亡くなった方を焼くのを手伝いに行きました。
 それは酷いもので
 遺体をトタン板に載せては、
 次から次へと焼きました」とのこと。

 

明くる3日(日)午前中に
内藤さんに現地まで連れて行ってもらいました。
その場所は、福島区も西の端、
北港通を野田阪神から南西に
日産大阪販売(株)福島店が
現在建つ場所は吉野5丁目14−20 です。

 

写真図 遺体を焼いたという場所

北港通の大開側から

西を向き

正面の日産の建物が

その場所と聞きます。

 

いくら何でもそんなことを
今、そこにいる人に確かめようはありません。

その場所は、
ひょっとしたら、通称「六道の辻」やないかと
ボクは考えました。
「六道の辻」だと「六道へゆくという辻」で
火葬場に通じる道です。
内藤氏が、
その場所を「六道の辻」が言われたのではありません。

 

そこで*福島区歴史研究会年報に
「六道の辻」について書かれてあることを知り、
橋 昇氏の「〈戦争の記憶〉学童疎開と空襲体験」に当たりました。
 *福島区歴史研究会年報:橋 昇、2013年10月
            「〈戦争の記憶〉学童疎開と空襲体験」
             『福島区歴史研究会会報』創刊号
通称「六道の辻」が記事に見えます。
◇忘れもしない昭和20年6月1日。(中略)
 当時私の家は*吉野三丁目(吉野町三丁目)の
 六道の辻付近にあったので、
 その方向を見上げれば、
 黒煙と火花がだんだん激しくなってきているので、
 心の中は恐怖と心配で一杯だった。

 

遺体が焼かれたから「六道の辻」の通称が
生じたのではなさそうです。
場所についても疑問があります。

 

そこで、2014年5月に
鼠島・野田新家の昭和30年前後の世間話で聞いた
「六道の辻」を思い出しました。
ブログ「「福島区魅力再発見ウォッチング」で歩く野田新家」です。
   ↓ここをクリック
https://ameblo.jp/tanonoboru/entry-11848279970.html

そのブログには、地元の昭和2年生まれの男性、
同7年生まれ女性、同13年生まれ女性の3人からの
聞き取り調査に次のように記述しています。
◇この地で髪無地蔵を祀り始めた昭和30年頃、
  まだ公園ができてなくて、
  小さな池もあって、
  空き地には人が住んでいた。

 

「この地」とは、新家公園です。
この年も地蔵盆の夜、盛大に踊ってました。
ブログの引用を続けます。
◇この時代、この新家には
 豚を飼っている家や馬小屋も
 たくさんあったと聞きます。 
 そんな時代ですので、
 馬力屋が事故を起こしたりもしたようです。
 通称・六道の辻という
 5本に分かれる辻で
 馬力に轢かれた人は首藤病院に入院した。

 

「六道の辻」は、「5本に分かれる辻」で
交通の難所ではあっても、
火葬の場所とは聞いてませんでした。
六道の辻は新家公園からすぐ東に位置します。

遺体を焼いたという場所と
「六道の辻」の場所の位置関係を
知りたい思いに駆られて
昨日2017年12月23日(土)歩きました。
次号にまわします。

 

究会代表
『大阪春秋』編集委員 田野 登

 

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12月2日(土)の第76回浦江塾では
昭和6(1931)年12月に
地元(現在の福島区鷺洲)に生まれ
今もお住まいの
内藤眞治さんによる「戦中の浦江界隈」の
お話が聴けました。

 

今回も前回に引き続き
浦江中一丁目の内藤氏の近所の
戦時中の出来事を書きます。

今回の話は、軍需工場に化した角一ゴムにまつわる
ハプニングです。

 

ボクの子どもの頃、
戦後の聖天市場に出る北東角に
コンクリートの建物の一角が残っていました。
確か、朱の鳥居が書かれていいました。
それからすれば、
男性が立ち小便する場所だったのでしょう。
その辺りが今回の舞台です。

 

内藤さんによりますと、
そこには昭和湯という風呂屋があった。
写真図1 昭和湯という風呂屋のあった場所

北から南を向いて撮りました。

西側(右側)が風呂屋のあった場所です。

現在では路地が狭まっていて
コンクリートの建物の一角などなく
風呂屋を偲ぶよすがなど
微塵もありません。

 

写真図2 「鷺洲衛生組合管内地図」昭和4(1929)年発行

この地図では、
「浦江本通壹丁目」の南浦江局とある郵便局の
斜向かいの隣「浦江中壹丁目」の16番地です。
この地図には風呂屋の表記は見えません。

 

内藤氏作成地図は、これです。
写真図3 内藤氏作成地図

郵便局の隣は自転車屋、その隣は鉄工所、
その斜向かいを東に行きますと
「昭和湯」があります。

 

その昭和湯の管理は
戦線が拡大するにつれて
となり組住民10所帯に任されるようになりました。

 

 「当番が3日に1遍ほどの順で廻ってきて
 風呂の使用も認められてました。
 ある時、子どもの私が当番の時、
 湯船にのんびり浸かっていました。
 その時、
 それを知らいでか、
 何やら若い女性たちが大勢、
 裸のまま、入ってくるではありませんか。
 子どもながら私は驚くやら
 恥ずかしいやらで・・・・?」

 

さぞ女性たちも驚いたことでしょうが、
実は、この若い女性たちは
角一ゴムの軍需品生産に勤労動員された
女子生徒たちだったのです。
寮は近所にあったといいます。

 

内藤さんが、いったい何歳の時だったのでしょう。
ご本人は小学校3年生の頃だったといいます。
まだ思春期には
達していなかったのでしょうが、
記憶違いでないなら
昭和15、16年の出来事になります。

 

戦時中の一コマです。
次回は、どこの話を取りあげようかな?

 

究会代表
『大阪春秋』編集委員 田野 登

 

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12月2日(土)の第76回浦江塾では
昭和6(1931)年12月に
地元(現在の福島区鷺洲)に生まれ
今もお住まいの
内藤眞治さんによる「戦中の浦江界隈」の
お話が聴けました。

 

今回は浦江中一丁目の内藤氏の近所の
戦時中の出来事を書きます。
場所は、現在、鷺洲中公園の東北隅です。
写真図1 鷺洲中公園の東北隅

この場所が戦時中の悲劇の場所です。

 

写真図2 「鷺洲衛生組合管内地図」昭和4(1929)年発行

この地図で現在の鷺洲中公園は、
浦江歓喜天から南に流れる川が
西(左)に流れを変え、
南登口橋にさしかかる場所の北(上)の辺りですので
現在の公園の東北隅は、
「浦江中壹丁目」の37番地の
南が36番地に接する場所です。

 

内藤氏作成地図は、これです。
写真図3 内藤氏作成地図

戦前まで長屋が建ち並んでいました。
内藤さんの云う「浦江山脈」です。
その家屋は建物疎開で破壊されました。

 

その訳は角一ゴムが
軍事工場として軍事用のタイヤなどを生産するに及び
空襲に遭う虞が生じ、
延焼を恐れてのことらしい。

建物疎開は軍隊が主役で
町内の警防団も加勢して

ロープで引き倒し、
スコップと鶴嘴で更地にしたという。

 

その空き地の一画に町内の人用の防空壕が
掘られたという。

「空襲警報が発令され
 町内の人たちは防空壕に逃げ込んだ。
 その中に町内に住まない女の子がいた。
 ところが、町会の責任者は、
 その女の子は『他所の子や』言うて
 防空壕に入るのを許さなかった。
 空襲が終わって防空壕から出てみると、
 防空壕の外に
 その女の子が亡くなっていた」という。

 

内藤氏は、現在のその場所を指さします。
現在の鷺洲中公園の東北隅です。
昭和25年生まれのボクが
小学校に入る前までは
その場所は広っぱでした。 
小学生当時は「中一公園」と云って
野球をして遊び、
夏休みには、ラジオ体操の会場でした。
その場所がほんの10年程前に
そのような悲しい出来事があったとは、
この年になって始めて知りました。

 

身近な所に
戦争の悲劇の舞台があるものなのですね。
次回は角一ゴムにまつわって
内藤眞治さんが思わぬ体験をした
嬉しいやら恥ずかしいやらの話です。

 

究会代表
『大阪春秋』編集委員 田野 登

 

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