晴耕雨読 -田野 登-

大阪のマチを歩いてて、空を見上げる。モクモク沸き立つ雲。
そんなとき、空の片隅にみつけた高い空。透けた雲、そっと走る風。
ふとよぎる何かの予感。内なる小宇宙から外なる広い世界に向けて。


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6月23日(金)の
神崎川・淀川デルタ地帯歩きも
矢倉緑地にさしかかりました。

 

西島最西端を過ぎ、緑地公園の
行き止まりに達しました。
写真図1 矢倉緑地行き止まり

 

神崎川に出ました。
対岸は、6月10日に歩いた中島です。
しばし神崎川・淀川デルタ地帯の先端に出た
感慨に耽りました。

 

さっそく中島の最西端を眺めました。
写真図2 中島の最西端の眺め

阪神高速5号湾岸線の中島パーキングエリアが
中島の最西端です。
すぐ先は兵庫県尼崎市です。
架橋の先は六甲連山です。
暮れかけています。

 

折り返し淀川の側へ引き返しました。
ここかしこに
潮だまりが拵えられています。
出口に向かいます。
打ち出でて見れば・・・・?

写真図3 矢倉緑地打ち出でて見れば

藪を抜ければ水辺、
その先に対岸の街とは、
なかなかの趣向です。
前方(東南)に見えるのは此花区の街です。

 

帰り道は、防潮堤を東に、
西島水門に向けて歩きます。
写真図4 防潮堤の先(東)に西島水門

左手(北)は西島川河口、
防潮堤に平行して
船溜まりが見えます。
漁港です。

 

大野川漁港です。
大野川を挟んで
北の百島・南の福は漁師町です。

写真図5 大野川漁港

大阪市漁業協同組合の監視船、
大漁旗を掲げた漁船。
浜納屋が防潮堤下に見えます。

 

神崎川・淀川デルタ地帯を抜け出し、
この日は福町、姫島、姫里から御幣島まで
歩きました。

大阪湾の最奥部の
デルタ地帯を歩いた喜びを胸に
帰路につきました。

 

究会代表 田野 登

 

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西島川の水も澄んできたのか、
カモが二羽泳いでいます。
写真図1 カモが泳ぐ西島川

「公害」で名を馳せた「西淀川区」ですが、
それは過去の事です。
淀川に向けて南に歩きますと、
やがて両島橋にさしかかります。
「両島」とは、西島と対岸の百島を指すのでしょう。
写真図2 両島橋

写真右手(西)が西島です。
前方(南)に防潮堤が見え、
朱色の西島水門が見えます。
その先は淀川です。

右手(西)に土手を行けば矢倉海岸です。

 

西に歩きますと
対岸の淀川左岸(南岸)の先に
USJのホテル群(写真左手)
が見えます。
写真図3 対岸のUSJのホテル群

その眺めは安治川右岸(北岸)で
ジェットースターの曲線(写真中央やや右)、
その先の赤い橋梁は港大橋です。

 

さらに行きますと
阪神高速5号湾岸線の橋梁の先の遙か彼方に
舞洲の北岸が見えます。
写真図4 阪神高速5号湾岸線の橋梁の先に

       舞洲の北岸 

 

人工島・舞洲も、対岸からは
しっかりとした島に見えます。

 

矢倉緑地の入口にさしかかりました。

写真図5 矢倉緑地の入口

 

「矢倉緑地」とは?
*大阪市HPの「矢倉緑地」に次の記事があります。
 *大阪市HPの「矢倉緑地」:
http://www.city.osaka.lg.jp/nishiyodogawa/page/0000001039.html
◇淀川と神崎川河口にはさまれた矢倉緑地は、
 昭和9年の第1室戸台風で
 水没した田畑を埋め立てた土地で、
 平成 9年(1997年)から造成を行い、
 平成12年(2000年)9月1日にオープンした
 都市公園です。

 

この地は、海没地だったのです。
慥かに
1996年1月発行の
『ビジネス大阪府区分市街地図帳』では、
「西島閘門」より西は、
「防潮堤」と表示があり、
淀川右岸に防潮堤が西に描かれているだけです。
何ら構造物が表示されていません。

 

平成12年(2000年)にオープンした
都市公園「矢倉緑地」からの
眺めや如何?

次回、
神崎川・淀川デルタの最西端に
立つことになります。

 

究会代表 田野 登

 

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掲示板の「西島住吉神社御由緒 略記」(平成20(2009)年記)の
続きです。
◇…この地は大阪湾の深奥部にあたり、
 かつては美しい川辺で遊んだり、
 村の人達が畑仕事や洗濯をしたり、
 のどかな田園風景がみられた反面、
 水禍をまともに受ける土地柄でもあり、
 海上の守護神である住吉大神を勧請し、
 祀られた村人の心が偲ばれます。

 

この地は、神崎川と淀川に挟まれた
デルタ地帯の中州です。
近代化以前の
長閑な田園風景が述べられると同時に、
度重なる海から押し寄せる波への脅威が
述べられます。

 

その時、新田開発の際、
海上の守護神である
住吉大神を勧請した先人への
心に気づきます。
御由緒を続けます。
◇…現在西島の工場地としての様相は、
 この町の富農の息子として生まれた高石義雄氏が、
 若くして鉄鋼に日本の将来のあることを感じ、
 大正年間に生家に伸鐡工場を創立して独立、
 独自の創意工夫と不撓不屈の精神をもって業績を伸ばし、
 高石製鉄所そして大阪製鋼株式会社の設立から、
 更には時代の先を読み各社の合併を成し、
 合同製鐵株式会社の今の姿に至っています。

 

この段は、大正年間から平成20(2008)年に
至るまでこの地の実業家で製鉄業で
功を成した高石義雄氏の偉業が述べられています。
御由緒を続けます。
◇…今度、高石義雄氏の一人娘(高石勝子)として
 この地で生まれ育ち、
 幼き頃祖母と共に参った思い出の神社が
 さびれ果てた状態に心を痛められ
 再建の御力添えを戴き、
 *平成20(2008)年民有地であったこの地の所有権を
 五社神社に移転され、
 この地に生業を営む各社様を始めご縁ある方々と共に
 西島住吉神社大改修事業が執り行われました。

 

昭和22(1947)年の遷宮以来、
幾多の水禍に見舞われたこの地です。
近くは平成7(1995)年の神戸大震災にも遭いました。
写真図 欠損した鳥居

もしかしたら、この鳥居は
神戸大震災の際、倒壊欠損した鳥居かも?

 

この工場敷地の一角に
復活した神社を見るとは、
憩いの場を見つけました。

その足で淀川に向かい、
西島川右岸(西岸)を南に歩きます。

 

次回は、西島水門に出て…
矢倉海岸に向かいます。

 

究会代表 田野 登

 

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6月23日(金)、
西淀川区中島の五社神社に伺ったついでに、
神崎川・淀川デルタ地帯を
防潮堤に沿って歩きました。

 

神崎川に架かる城島橋を渡れば
西島です。
まず西島の東の突端まで
神崎川左岸(南岸)を溯ります。

そこからは、西島川が淀川に向けて
南に流れています。

 

ここでは右岸(西岸)を南に西島地区を歩きます。
対岸は、出来島です。
今回の探訪のきっかけは、
五社神社の宮司が兼務されていると聞いた
西島住吉神社を訪ねることでした。

 

堤防沿い道路の右(西)は中山鋼業です。
西島橋を過ぎ、阪神高速5号湾岸線の
架橋にさしかかる手前に
西島住吉神社に鎮座ましました。
写真図 西島住吉神社

掲示板の「西島住吉神社御由緒 略記」(平成20(2009)年記)に
以下の記述があります。
(漢数字は算用数字に改める)
この地の歴史を知る上で
興味深い資料です。


◇元禄11年(1698)九条村の池山新兵衛が
 420両を納めて開墾し、
 佃・大和田の対岸より西にあるところから
 西島と名付けられた。
 開墾の折、この地の守護神として
 住吉四柱大神を勧請し、
 子々孫々に心を受け継ぎ御加護を戴き、
 今の地の発展につながっています。
 
この西淀川区、此花区、港区のかつての新田地域には
開発にあたり住吉四柱大神を勧請することが多くあります。
御由緒を続けます。
◇…*明治42(1909)年内務省発令の合祀令により、
 五社神社に一旦は合祀されたものの、
 その後*昭和22(1947)年正遷宮祭
 (御祭神がもとの宮に遷られる祭事)が
 執り行われています。

 

明治42(1909)年内務省発令の合祀令の後、
元の地に復することは、
中河内の神社でも複数聞きました。
産土(ウブスナ)への思いは、
50年近くを経た、戦後、昭和22(1947)年
遷宮を実現させました。

御由緒の続きは、
次回に記します。
この地の、往時の風景が述べられます。

 

究会代表 田野 登

 

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真鍋昌賢著『浪花節 流動する語り芸-演者と聴衆の近代』
(2017年3月15日発行、せりか書房)を
読んでの感想の続きを記します。

 

構成は以下のとおりでした。
目次
序章 問題提起と方法意識 6
第一章 衝撃/違和の受容史

  -桃中軒雲右衛門の来阪口演を事例として 34
第二章 〈声〉のカタチ

  -二代目吉田奈良丸の義士伝はいかにして流通したか 59 
第三章 「新作」を量産する浪花節

  -寿々木米若と「佐渡情話」の誕生 83
第四章 総力戦下の浪曲師

  -横断する米若の口演空間 123
第五章 愛国浪曲をめぐる葛藤

  -ポピュラーな「語り物」を分析するための視点 154
第六章 繰り返される「情話」

  -戦時下/占領下の連続性と非連続性 186 
第七章 戦時下に響く「七つの声」

  -二代目天中軒雲中の演じ方について 224
終 章 演者論の可能性 258
あとがき 267

 

前回は《序章 問題提起と方法意識》をとりあげました。
副題に掲げられる「近代」が
「国民国家」という
抽象的な概念で上滑りさせるのではなく、
生身の「なりわいを成り立たせている芸人」の位相をとおして
解析される「近代」でありました。

 

ボクの興味は、
そういった「近代」に肉薄しようとする
真鍋氏の高邁な方法意識にあると記しました。

 

各論の紹介に入ります。
《第一章 衝撃/違和の受容史》は、
明治40(1907)年大阪での口演をとりあげています。
大阪の「平民」にとっての
演者による「武士道鼓吹」の受容をとおして、
階層・ジェンダーの両面から
浪花節の聴衆が重層化する過程を示すものです。
「武士道鼓吹」とは、演者と聴衆にとっての近代は
前近代思潮のリメイクでもあったようです。

 

《第二章 〈声〉のカタチ》では、
1910年代(明治43~大正8年)において、
二代目吉田奈良丸の義士伝の語る「声」が
活字本、あるいはレコードというメディアによって
流布されてゆく様相を記述しています。

 

レコードとは、
演者がその場にいなくても、
「声」だけが聞こえてくる
当時にあっては、不思議な道具であったのでしょう。
次の記述があります。
◇初期のレコードとは、
 レコードの向こう側に演者の身体が存在し、
 その身体によって、
 全体性・連続性・一回性が一体となり
 つなぎとめられているという
 想像力をベースにしていた。
 いわば、レコードは、
 部分性・断続性・反復性のもとに、
 肉声の再現を提供した。

 

身体による「全体性」は

想像力をベースにして、
レコードは「部分性」のもとに
「肉声の再現を提供した」とあります。
浪花節を語るのには、数十分を要します。
初期のレコードは、それだけの長時間に
応えられませんでした。
当時にあっては
断片的にしか聴かせることができなかったのです。

 

そういった時代、
メディアの近代化は、
印刷技術を発達にも見られ、
速記本を普及させました。
浪花節の「声」の全体性を演出するには、
実演の速記本が実現していました。
このようにメディアの発達によって、
肉声が複製されて流布するのが
近代でもあります。

 

《第二章 〈声〉のカタチ》は、
複製された声をあつかう立場からの
メディア文化史を明らかにする
好個の記述でもあると思います。

 

次回は、新曲のネタ話を
紹介します。
前近代と近代の連接を考えます。

 

究会代表 田野 登

 

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