晴耕雨読 -田野 登-

大阪のマチを歩いてて、空を見上げる。モクモク沸き立つ雲。
そんなとき、空の片隅にみつけた高い空。透けた雲、そっと走る風。
ふとよぎる何かの予感。内なる小宇宙から外なる広い世界に向けて。


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12月30日(金)午前に
『大阪春秋』編集主幹・長山公一さんと
歳末の大仁・福島を歩きました。

夕陽を見る会を午後に控え、
大仁八坂神社(北区大淀中)の餅つきに
顔を出しました。

写真図1 大仁八坂神社(北区大淀中)の餅つき

和やかに地元の人たちが餅を搗いておられました。
みなさんマスクをしてます。
食品としての餅に配慮されているのでしょう。
歳末の餅つきは、地域の年中行事なのでしょう。
宮司さんに「大仁」の読み方を訊ねましたところ
「ダイニ」とのことです。

 

編集主幹によりますと
「理容ダイニン」があるとのことでした。
早速、確認しました。
写真図2 「理容ダイニン」

場所は北区中一、なにわ筋沿いの店でした。
 

この後、梅田スカイビル、梅田墓跡を経て
浄祐寺(北区堂島3)の西の
編み笠茶屋のあった辺りに出ました。

 

いかにもかつての場末、アーバンエッジの
雰囲気がします。
編集主幹は電柱に「天神線」という表記を見つけました。
一瞬、この「天神」が
福島天満宮(福島区福島2)を指すとは
気づきませんでした。


ここまで来れば、蜆川(曾根崎川)に架かっていた
梅田橋跡を確かめ
蜆川右岸に
架かっていた江口橋跡地を確認したくなりました。
そうなれば芦間池跡の凹み地(福島区福島1)を訪ねました。
拙稿*「芦分紀行」に次のように綴っています。
*「芦分紀行」:『なにわ福島ものがたり』所載
福島区歴史研究会、2012年)
引用文冒頭「蜀山人」は江戸の文人・大田南畝で、
享和元(1801)年3月25日に訪れています。
◇蜀山人『葦の若葉』55頁は、偶々、
  野田藤への途次、上天神のご開帳に参ることになる。
  近世文人の実見聞記事を挙げる。
  ●梅田橋のむかふに、
   童部の竹に色帋をつけてかつき来るを、
   何そととへは、天神の開帳にまいるなりとて、
   顔に殊更に墨をつけ、
   或は片面墨にてぬれるもあり、
   橋をわたりて上の天神の開帳に参りて、
   裏門より出づ、
   裏門の内右の方に石をたゝみ、

   つき山をつくれるあり

 

「橋をわたりて」の「橋」は江口橋です。
江口橋の北には芦間池がありました。
写真図4 芦間池跡の凹み地①

洒落たお店「お好み酒家 ん」には
正月を控え、注連縄が張られてました。
この店の裏が芦間池跡の凹み地です。

 

北側に廻り芦間池跡の凹み地を確認しました。
写真図5 芦間池跡の凹み地②

芦ではないでしょうが、現在、草が生えています。
建物の下に石組みが見えます。

 

慥かにこの辺りには石組みが見当たります。
これらは芦間池の痕跡と
ボクは推定しています。

 

ほたるまち(福島区福島1)の角の
「改正増補国寶大阪全図 文久3(1863)年」で
場所を確認に歩きました。

 

やっぱり、「大仁・福島」は梅田に近くて
場末、アーバンエッジはおもしろいと
悦に入りました。
編集主幹、いかがでしょうか?

これが2016年最後のブログです。

 

究会代表  田野 登

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平成8(1996)年7月2日、
石切劔箭神社社殿での献牛祭祭典のようすです。
写真図1 社殿での祭典

神職が祝詞を奏上しているところです。

この行事について神社の配布物には
「昭和初期まで石切神社で執り行われていた神事」の
「復活」と記されていました。

 

田植えを終えた農家が、
飼牛の労をねぎらうため、
好物の酒やご馳走をふるまい神社に参拝したとも
記されていました。

 

「連牛像を中心に、時代絵巻のパレード」と
チラシにあった「連牛像」は、これです。
写真図2 「連牛像」

参道の「献牛舎」が取り壊された今日、
この「連牛像」だけが絵馬殿に残り、
「献牛祭」を語る唯一のモノとなりました。

 

パレードに登場する牛さんは
ご覧のとおり、
五色の発泡スチロール製の造り物でした。
写真図3 発泡スチロール製の造り物の牛

パレードの出発です。
耕耘機が作り物の牛を
牽引します。
パレードにはちんどん屋が出れ囃し立ててました。
看板には「石切参道商店街振興組合」の文字が見えます。
写真図4 パレードのちんどん屋

商店街のお店の人たちが運営していました。
夏季大祭を1ヶ月後の8月3日、8月4日を控え、
商店街の人たちは大変、多忙だったとも聞きます。
この辺の事情もあって、
23年の歳月で行われなくなった察せられます。

 

拙著は、この行事を次のように解釈しました。
◇この商店街主催の発泡スチロール製の牛のパレードは、
 かつて農民によって「牛の労をねぎらうため」行われていた行事を
 昭和60(1985)年に丑年に因んで
 参道商店街が中心になって「復活」したものであった。
 このイベントは、主体が
 農民であったものが商店街の商人となり、
 行事の意味合いを異にして、

 商人の行うフォークロリスムスである。
 「復活」当初は、

 枚方市津田の牧場から本当の牛を借りて来たものの、
 途中人出に驚き、暴れ出し角を折ったりして、
 結局現在のような造り物に落ち着いたと関係者はいう。

 

文中の「フォークロリスムス」を
*今日のインターネット情報と照らしますと
「観光化された祭り・イベントや
 新たに創出される習俗」として用いています。

*今日のインターネット情報: http://heiheini.jugem.jp/?eid=1
              「フォークロリスムス」
              2014.04.19 Saturday

しかし、「新たに創出される習俗」の評価の問題は、
なお一考の必要があるように思えます。

 

究会代表 田野 登

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かつて石切参道では
「献牛祭」という不思議なお祭りがありました。
現在は行われていません。
平成8(1996)年7月2日、実際に調査に出かけました。

 

当日、参道に掲示されていたポスターはこれです。
写真図 平成8(1996)年「石切献牛祭」のポスター

「祭典9時30分から石切劔箭神社」
「献牛パレード 神社~参道往復」
「奉納「かかし」コンクール 神社境内」とあります。
「主催 石切献牛祭実行委員会」
「後援 東大阪観光協会」
「協賛 石切参道商店街振興組合」とあります。

 

この行事が、いつ行われなくなったかについて、
協賛団体である
石切参道商店街振興組合の亀井さん(1960年生)に
お訊ねし、調べていただきました。
平成20(2008)年とのことでした。
その事情は噂話ですから
ここに書くことができません。
明日、話しすることにします。

 

拙著2007年『水都大阪の民俗誌』和泉書院に
石切劔箭神社が平成8(1996)年当時、配付していた
「石切さんの献牛祭」のチラシの
記事を載せています。
◇時代絵巻の復活「石切さんの献牛祭」(7月2日)
 献牛祭は鎌倉から江戸時代にかけ盛んとなり、
 昭和初期まで石切神社で執り行われていた神事です。
 田植えを終えた農家では、
 黙々と忠実に働いてくれた飼牛の労をねぎらうため、
 好物の酒やご馳走をふるまったあと、
 紅白の幣帛や錦絵や鈴などで牛を飾り、
 神社に参拝して、五穀豊穣と家内安全を祈願しました。
 美々しく装った牛たちが、近隣から競うように社頭に集って来る光景は、
 誠に壮観だったろうと思われます。
 昭和60(1985)年丑年に因んで、
 この祭りが復活され、境内に親子連牛像も建立されました。
 以来毎年献牛祭を執行し、
 連牛像を中心に、時代絵巻のパレードが繰り広げられます。
 神恩に感謝し、家内安全、商売繁昌の祈願のために、
 一人でも多くご参列ください。
                          石切劔箭神社

 

チラシの「鎌倉から江戸時代にかけ盛んとなり・・・」の
起源の上限は眉唾ですが、当日も、
「献牛祭」は神道石切教の執行する神事でありました。
社殿での祭典が行われていました。

 

次回に、当時の写真をまじえて
行事のようすを記します。

 

明日30日は、夕陽を見る会で
石切参道を歩きます。
関心のある方は
「神霊エリア石切から
西の海にまっしぐら」のご案内 」
   ↓ここをクリック
http://ameblo.jp/tanonoboru/entry-12230964307.html

 

究会代表  田野 登

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昨夜、アップしました「24年前の石切参道風景」に
早速、阪俗研メンバーの梶野耕司さんから
ご指摘がありました。


◇さて30日の石切歩きまであと少しです。
  田野先生のブログには
  24年前の石切参道風景がUPされております。
  「癇の虫」とは前近代的な病理観と書かれておりますが、
  現代医学的には自律神経系の異常、興奮、過敏な状態でしょう。
  現代人はこんな人多くないでしょうか。
  今こそ興奮せず、怒らず、心安らかにしたいものです。
  そんな夕陽が見れたらと思います。

 

ボクが「前近代的な病理観」と表現したことを
問題にされています。
たしかに問題があります。
彼の指摘のとおり、
「現代医学的には
自律神経系の異常、興奮、過敏な状態」であることを
認めます。
ボク自身「近代」という枠組みで
ものごとを済ませてはならないと
常々思っております。

そこで「癇の虫」について考えてみます。
*国語辞書に「癇の虫」を調べました。
*国語辞書:新村出編2008年
『広辞苑第六版』岩波書店
かん‐の‐むし【疳の虫・癇の虫】
◇疳の病原と考えられた虫。
  また、その病気。(以下略)

 

「考えられる」でなく
「考えられた」とあって
過去の認識のような記述です。
そもそも「虫」に興味を抱くのです。
「虫」というのは病原菌?
不可視な存在?
それとも得体の知れない何者か?
ふたたび国語辞書の「虫」を検索しました。

 

◇むし【虫】
①本草学で、人類・獣類・鳥類・魚介以外の小動物の総称。
   昆虫など。(以下略)
②その鳴き声を愛して聞く昆虫。鈴虫・松虫など。(以下略)
③蠕形動物の称。特に回虫。
④回虫などによって起こると考えられていた腹痛など。
   虫気。癇の俗称。(以下略)
⑤潜在する意識。

   ある考えや感情を起こすもとになるもの。
   古くは
心の中に

   考えや感情をひき起こす虫がいると考えていた。
⑥癇癪。
(⑦⑧⑨は省略)

 

よくも、本草学から起こして
繋がりを辿りながら分節したものです。
心身を分離して考えるのでなく、
一体として捉えてみたいと
ボクは思います。

 

外界との関係によって
生じる異常な症状なのでしょう。
その関係性により生じる状態を
比喩としてでなく言葉として
「虫」と称しているのでしょう。

現代の医療行為の分野においても
解明が進行する領域であるにちがいないでしょう。

 

どうしようにも制御出来ない
何者かを
認識するボクでもあります。
ボクは一体、何の虫に取り憑かれているのでしょう。

 

今年は、
天保山で海に沈む夕陽に
何を思うことでしょう。

次回は、石切参道で行われていた祭り
「献牛祭」を
写真をまじえて取り上げます。

 

究会代表   田野 登

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いよいよ今週金曜日12月30日は
恒例の夕陽を見る会で
石切を歩きます。

 

写真を整理していましたら
今から24年前の平成4(1992)年11月28日に
石切参道商店街を
撮影したのが出て来ました。
この時は、新石切から石切参道を
登ったようです。

 

石切藤地蔵尊に立ち寄り、
本殿を見てまわって
参道を石切駅に向けて歩いたようです。

大天狗や北向地蔵、水掛不動を経て
石切大仏にさしかかる手前に
池のようなのがありました。
「耳ナリ」と称されていたようです。
写真図1  「耳ナリ」

なるほど耳の恰好をしていました。
お参りすれば耳鳴りに効いたとか?

この場所は
ボクの記憶では昭和30年代は
空き地のような場所でした。
お行儀の悪いことをする参詣客がいたからか、
大きな水溜まりがありました。
そこに池のようなのが拵えられて
出来たのが「耳ナリ」です。

 

すぐ西隣に薬房がありました。
写真図2
 西隣の薬房

人体模型があって、
背後の絵に元気のない人物が描かれ
「肝臓かん?」「心臓かん虫」「肺のかん虫」と書かれていて
「耳ナリ 耳ダレ 耳イタ 難聴の漢方薬あります」の
貼り紙があります。
漢方薬屋が「耳ナリ」の聖地を仕立てたのでしょう。
それにしても
「癇の虫」とは前近代的な病理観が
描かれていたものです。
石切ならではの情景の一つです。

 

さらに坂を登りますと
「金の鈴 銀の鈴」があったのですね。
写真図3 「金の鈴 銀の鈴」

立像は、お地蔵さんでないようです。
「薬師如来の霊力で
病気を治しています
一目で先祖霊を成仏させる因縁切り寺」とも
あります。

この後、13年を経て聞き書きに伺うとは
当時、ゆめゆめ思ってはいませんでした。

 

24年後の石切探索は
今週金曜日30日です。
関心のある方は
「神霊エリア石切から
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究会代表 田野 登

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