晴耕雨読 -田野 登-

大阪のマチを歩いてて、空を見上げる。モクモク沸き立つ雲。
そんなとき、空の片隅にみつけた高い空。透けた雲、そっと走る風。
ふとよぎる何かの予感。内なる小宇宙から外なる広い世界に向けて。


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今回も
5月28日(土)、「外島保養院」跡地探訪への道すがら
立ち寄りました五社神社で拝見した「牛の薮入り」の写真の
「何らかの記念行事」から書き始めます。

五社神社宮司さんにお調べいただきましたところ
宮司さんの祖父に当たられる方が
社掌に就任された時の記念写真ではないかとの
結論に達しました。


それは大正6(1917)年5月5日とのことです。
そうとなれば「外島保養院」と「くさ神さん」とが
結びつくことはありません。


5月28日(土)当日に戻ります。
小一時間、応対していただいたことに謝意を申し
五社神社を下向する時、小雨が降り始めていました。
中島1丁目の中心街を西に抜けて
中島川左岸(北岸)をめざすことにしました。
途中、中島北町会に向かう所に
川北小学校前という大阪市バスの停留所を過ぎます。
階段を登りますと
中島北町会の集合住宅がありました。
写真図1 集合住宅南の階段



この先、中島川左岸に至る島の北部の街区は
嵩上げされた街なのです。
中島川左岸をひたすら西へ
海をめざして歩きました。

阪神電鉄が開発した住宅が建てられてます。
その名に「四季のまち」が添えられてます。
環境がよくなり緑地や公園が整備されています。
左(南)に折れて中島公園に寄り道をして
再び中島川左岸に戻ることにしました。

中島1丁目と2丁目の境界を北に歩きました。
もしかしたら、
この道は昔の防潮堤に沿った道ではないか?
写真図2 昔の防潮堤に沿った道



それであれば「外島保養院」の建物があったのは
このあたりでは?
現在は鋼材などを扱う広大な工場敷地になっています。
写真の右が防潮堤の外、まさに「外島」です。
ともかく「外島保養院記念碑」は
まだ先、海側です。


バス停留所「中島川東」を過ぎますと
中島新橋です。
もう、そろそろ中島の西端です。
中島川左岸の防潮堤の手前の
フェンスに囲まれた中に
石碑らしきモノが見えました。
写真図3 フェンスに囲まれた中の石碑



「外島保養院記念碑」と読み取られました。
写真図4 「外島保養院記念碑」



碑文には以下の文字が刻まれています。
●明治四十二年四月 法律第十一号ニ基ヅキコノ地ニ第三区府県立「外島保養院」設立サレル 即チ 大阪府主管ノモト京都 兵庫 奈良 和歌山 滋賀 三重 岐阜 福井 石川 富山 鳥取ノ二府十県連合ニヨル 公立ハンセン病療養所トシテ開設サレタノデアル
 昭和九年九月二十一日室戸台風ノ襲来ニヨリ施設ハ壊滅流失 患者百七十三名職員三名職員家族十一名ガ死亡スル大惨事トナリ生存患者四百十六名ハ全国六施設ニ分散委託 昭和十三年四月岡山県長島ノ西端ニ名称ヲ光明園ト改メ復興昭和十六年国立移管 邑久光明園ト改称現在ニ至ル/ 平成八年四月「らい予防法」廃止サレル 強制収容絶対隔離ヲ根幹トシタ日本ノハンセン病対策ノ終焉ヲ記念シ外島保養院ノ日々ニ思イヲハセ茲ニ記念碑ヲ建立スルモノデアル/ 平成九年十一月 邑久光明園入園者自治会


この碑文には
明治42(1909)年4月、この地に
公立ハンセン病療養所として
「外島保養院」が開設されたとあります。
昭和9年9月21日に襲来した室戸台風の
大惨事が刻まれています。
防潮堤の外に設けられた施設ゆえのことです。

帰り道、
保養院の「外島」の位置を再確認しました。
写真5 「保養院」の設けられた「外島」



写真の正面(西)のフェンスの場所が防潮堤であれば、
この先に「外島保養院」があったと推測します。
写真の右(北)に中島川左岸の防潮堤が
東西に続きます。
「外島保養院記念碑」の位置は
この先、約1000m西南西です。


6月5日(日)は
鴻池新田会所にて
「島洲の街・大阪」を講演します。
先着30名です。
詳しくは
 ↓ここをクリック
http://ameblo.jp/tanonoboru/entry-12134475661.html
「島洲の街・大阪」を鴻池新田会所で話します」


究会代表 田野 登

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今回も
一昨日5月28日(土)、西淀川区中島2丁目の
「外島保養院」跡地探訪への道すがら
立ち寄りました五社神社での
「牛の薮入り」の写真をめぐっての
「くさ神さん」祈願を記します。

はたして「外島保養院」と「くさ神さん」とが
結びつくか否かはこれからの展開次第です。

「牛の薮入り」の写真の年代設定のことです。
今、手許に海老江八坂神社(福島区海老江)における
「牛の薮入り」の写真があります。
写真図1 海老江八坂神社での「牛の薮入り」
     『上方』30号掲載



菅笠を被った農夫の傍らにいる牛の
飾り物は五社神社の写真と違いがありません。
違いは見物衆の服装です。
ことごとく男性は鍔のある帽子を被り
大抵は洋服です。
海老江と中島の地域の違いというより
撮影年代の違いが感じ取られます。

実は、海老江の「牛の薮入り」の写真は
郷土研究誌『上方』同人主催の
「梅田の牛の薮入り」を再現した行事の際、
撮影したものであって、
それを『上方』30号口絵写真として
掲載したものなのです。

『上方』30号は昭和8(1933)年6月発行です。

って五社神社の写真の年代設定にかかります。
こちらは、明らかに昭和初期以前で、
大正期、あるいは明治期と推定します。
場面は何らかの記念行事の時です。


前回の香具波志神社宮司による画賛には
「いづれの頃よりの事か知らねど」と
昭和24年当時、すでに年代は不詳です。
同社の宮司さんに訊ねましても分かりませんでした。


これから先はボクの推測ですが、
五社神社の写真は
衣装が揃っていることなどから
何らかの記念行事の際の撮影でしょう。

それでは、いったい何の記念行事でしょう。

この段に至って、
宮司さんからお聞きした
「くさ神さん」の昭和30年代の信仰の話が
俄然、意味を持ち始めます。

「くさ神さん」には
その当時、中島の川を挟んで対岸の
初島新地(兵庫県尼崎市)の芸妓「げいこ」が
参って御利益を授かったのか、
芸妓提灯を奉納していたとのこと。
男性を相手にする新地の女性が患う病気には、
皮膚疾患が考えられます。


これは牛が道草ならぬ
瘡「くさ」を食むという言い伝えに基づきます。
この言い伝えは『神社仏閣願懸重宝記』の
「 同(四天王寺)境内九頭龍権現の事」の
次の記事と符合します。

●同庚申堂の境内九頭龍権現社ハ
 世に庚申の神忌と唱へて
 瘡毒の小児を連て参詣の輩
 道にて草を七種摘とりて
 九頭龍権現へ捧け平癒を祈り
 御礼参にハ牛の絵馬土の牛を奉納す


たわいない話ですが、
野草を摘み取り
お堂に奉納されている絵馬や土製の「牛」に
捧げるというものです。
牛さんが瘡毒を平らげて下さるというのです。

初島新地の芸妓は「くさ神さん」から
粽ならぬ何らかの授かり物をいただき、
皮膚病治癒の霊験に
感応道交したのでしょう。


次回、「何らかの記念行事」を推測することにします。
ボクの脳裏には、ようやく
「外島保養院」が見え隠れし始めています。


究会代表 田野 登

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前回に続き
一昨日5月28日(土)、西淀川区中島2丁目の
「外島保養院」跡地探訪への道すがらを記します。

五社神社の宮司さんは
ボクと同年配の女の方でした。

お話しをお聞きする中に
なるほど、あの時代はそうでしたと
場所は西淀川区と福島区と多少の違いはあれ、
相槌を打つこともありました。

懸案の一つの「牛の薮入り」の写真は
これです。
写真図 「牛の薮入り」の写真




撮影年代が不詳とのことです。
傍らに絵画と画賛の詞が奉納されています。
自讃の左下に
「西淀川区神社絵巻の絵と詞を謹写し奉納す」とあり
「昭和二十四年夏 加島住 藤 大直」とあります。
この方は
淀川区の香具波志神社宮司の方とのことです。


この画賛には次の記述がみえます。
●元禄元年新山開発当時の勧請なりとぞ
 ことに珍らしきは
 五月五日節句の日をもつて
 牛の薮入とて家畜をいたはる
 動物愛護の風習なり
 いづれの頃よりの事か知らねど
 特筆すべき事なり


このように農繁期を控えた時期に
牛をいたわる風習は
広く西日本に分布するものです。

以下、
*拙論「梅田の牛の藪入りの都市民俗
-農耕儀礼との関連-」を適宜、用いて記します。
*拙論:拙著2007年『水都大阪の民俗誌』和泉書院
    原題「「梅田牛駆粽」考
       -都市生活者から見た農村行事-」
    『日本民俗学』第211号、1997年8月
 
大坂の梅田に「牛駆粽」
あるいは「牛の薮入」という農耕儀礼が
明治の初め頃まで行われていました。
この儀礼は多く記述されていますが、
前回、とりあげました
浜松歌国著・文化13(1816)年
『神社仏閣願懸重宝記』初篇(『浪速叢書』鶏肋)の
記事を引用します。
香具波志神社宮司による画賛を頼りに
写真との照合を試みたいと思います。


●毎年五月五日の朝北野梅田道にて
 牛かけといふ事あり
 此日近在の農夫野飼の牛の角に
 いろいろの野花をむすびつけ
 梅田の野ミちに放ちやりて
 牛のこゝろのまゝに遊バしむる
 これを牛のやぶ入りともいふ
 このとき牛に付そひ居る農夫
 見物の諸人に粽をあたへる
 小児疱瘡をかるくする為なりとて
 乞受てかへる牛かけを見るも一興あり


今、一度、写真を観察します。
たしかに「牛の薮入」と墨書したのを
男児が胸元から提げています。
牛が5頭ずつ5列ほど写真機に向かって
整列しております。
両脇には農夫が控えております。
その牛の角には飾りが施され
肩には幣串が飾られています。

農夫たちは揃えの姿で
黒い半纏にパッチ、腰帯を締めています。
手ぬぐいで頬被りしている人もいますが、
鉢巻きをしています。


見物衆が一行を取り巻いております。
この撮影の時が、

特別の企画の時であったのでしょう。

記念の時に違いありません。

見物衆の服装は、大人から子どもまで
神職の右に写る3人の男性を除いて

女も男も和服です。
時代を読み取ることができそうです。


次回は年代の明らかな
海老江の八坂神社(福島区海老江)での
「牛の薮入」の催し時の写真と照らしながら
読み解こうと思います。
「外島保養院」跡地までに
おいしい道草を食ってます。
今、しばらく、お付き合い下さい。


究会代表 田野 登


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来週の日曜日、2016年6月5日は
鴻池新田会所で「島洲の街・大阪」を話します。

一昨日5月28日(土)、西淀川区中島2丁目の
「外島保養院」跡地を探訪してきました。
「外島保養院」とは
この中島に明治42年に開設された
ハンセン病患者の治療施設でした。


阪神なんば線の出来島駅で下車しました。
どんよりした空模様です。
駅を降りたって北西に行き中島大橋から
中島に「上陸」することにしました。
中島の北端部には立木が1本見えます。
写真図1 中島の北端部の立木




どこかで見た光景です。
中之島の東端部です。
航路の目印の木だったのでしょうが、
船の航行は見えませんでした。


まず「城島のくさ神さん」で有名な
五社神社を訪れました。
写真図2 五社神社




五社神社に参拝したのは、
「くさ」は「瘡」だからです。
皮膚病であってハンセン病との関係を
知りたかったからでもあります。
鳥居前に「五社神社のご由緒」に
次の記述があります。

●元禄元年中島新田開発の時、
 五社五柱の大神達を歓《ママ》請、
 明治四十二年六月村社に列格、
 文化文政の頃、
 津田常則(平常則又は城常則とも云う)と呼ぶ神官あり。
 此の人「此の世に住める人の病む“くさ”は
 悉に救ひ治むべし」との神勅を蒙り
 疫病消除に霊験あらたかにして、
 誰ゆうとなく当社のことを
 城島のくさ神様と呼ばれ
 近郷から祈願に参拝する者の
 跡が絶えなかった。(以下略)


くさ神さん信仰の発端は
どうも「文化文政の頃」に
神官に託宣が下ったとのことのようです。
近世勧化本にみられる流行神の
霊験譚の展開です。

「文化文政の頃」とありますが、
『神社仏閣願懸重宝記』初篇が
歌舞伎狂言の作者・浜松歌国の筆によって
出版されたのが
文化13(1816)年です。


はたして
この大坂の西の海に開かれた新田開発に
勧請された神に
この時代、
「近郷から
祈願に参拝する者の跡が絶えなかった」とは
いかがなものだろうと思っておりました。


ひととおり境内の調査を終え、
社務所を訪ねましたが、お留守でありました。
またの機会にでも
宮司さんにお目にかかって
お話しをお聞かせいただこうと思っていた矢先、
たまたま帰館なさいました。


そこで拝殿に掲げられていた
「牛の薮入り」の写真を
拝見させていただき、
昭和30年代、「くさ神さん」に対し
実際に行われていた祈願を
耳にすることになります。
お礼を申し下向して
「外島保養院」跡地に足を運ぶ頃には
すっかり小雨が降り出してました。


次回は

「牛の薮入り」の写真からにしましょう。


究会代表 田野 登

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禅寺で梅田墓周辺の話が聴けます。
住職からのハガキが先ほど届きました。
6月の浦江塾のご案内です。
写真図  浦江塾のご案内のハガキ



文面は以下のとおりです。
郷土誌を見直す『浦江塾』のご案内
前回は旧大淀地区の大淀を見ましたが、今回は中津地区を
探訪します。この地区は今も雨季にはカニがほうている
所のようです。以前には寺社が多かったようで、七墓や
「浜の墓」に纏わる火葬発祥の地として行基菩薩の伝説が
残っています。地域の隠れた面白い情報がありそうです。
    
 日時 6月4日(土曜日)午後7時より9時迄
 場所 妙壽寺(福島区鷺洲2-15-10)駐車可
 テーマ 「梅田墓とその周辺の話」
地域情報サイト「梅田の北っかわ!」管理人
平井 裕三先生
終了後、情報交換等の雑談を行います。ご参加下さい。


以下、田野による書き込み。
お寺でお墓の話?
「何の不思議もない」
てなもんや、おまへん。
会場のお寺から徒歩、15分程の所に
かつて大きなお墓がありました。
「梅田三昧」「梅田火屋」とも
絵地図に描かれた梅田墓が
明治の初めまでありました。
今で云うと
「うめきた」「グランフロント大阪」の西あたりです。


どなたかや言えまへんが、
「墓場があったからマチが栄えたんや」とか?
ホンマかいな?
もともと「梅田」は
低湿地「埋田」で寂しい場所でした。
くれぐれも死骸を埋めたや、おまへん。


今回、地域情報サイト「梅田の北っかわ!」に
ひと味違った切り口で
都会の裏側を発信し続けられている
平井裕三さんに
前回の「北区から見た大淀(浦江・大仁)」とは
異なる視点で
「梅田墓とその周辺の話」をしていただくこになりました。


平井裕三さんは、いったい何故「梅田の北っかわ!」を
立ち上げられたのでしょう?
キタの繁華街「梅田」と「梅田の北っかわ」とは
どない違うのでしょう?

大阪通の方でも
知っているようで知らない問題です。

打合せの段階で平井さんから送られてきた
PowerPointにキーワードとして
「行基」「萩」「日本初の火葬場」が挙げられていました。

これは、おもしろいと住職に持ちかけ
今回、実現の運びとなりました。

ボク的な関心では
なぜ「梅田の北っかわ」に大坂七墓が集中するのでしょうか?
なぜ行基菩薩が開いたとされる寺社が散在するのでしょうか?
行基菩薩の遠祖とされる王仁博士との関連は?
この浦江・大仁には王仁塚の伝承があり
王仁神社が鎮座します。


そのあたりの話を
都心周縁の民俗としての関心で
聴いてみたいのです。

福島区、北区にお住まいの方でなくても
昔のお墓・火葬場に関心のある方、歓迎します。


いつものように参加手続き、参加費不要です。
記名もありません。
30名程度しか資料は用意しません。
お早めにお越しください。


究会代表 田野 登

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