晴耕雨読 -田野 登-

大阪のマチを歩いてて、空を見上げる。モクモク沸き立つ雲。
そんなとき、空の片隅にみつけた高い空。透けた雲、そっと走る風。
ふとよぎる何かの予感。内なる小宇宙から外なる広い世界に向けて。


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昨日の海に沈む夕日は綺麗でした。.

昨日、2015年12月30日
恒例の夕日を見る会を
実施しました。
途中参加者をも加えて19名でした。


都島駅スタートで
順調に3時半頃には天六の駅に着き
絶好の条件で
天保山の夕日を眺めることができました。

ボクは行程の間、ガイドをしていて
写真を撮れたのは天保山での場面だけです。

いずれメンバーから道中のレポートが届きましたら
コラボレーションすることにして
とりあえず太陽が海に沈む
「日没」の写真だけを挙げます。

その前に「日没」の定義を*ウィキペディアから引用しておきます。
*ウィキペディア:【日没】
          最終更新 2015年11月8日 (日) 07:45

●日没時刻は、
 太陽の縁が

 西の地平線の下に沈んだ瞬間として定義される。
 大気による日光の反射により、
 沈みゆく太陽の光線の経路は

 地平線付近で大きく曲がるため、
 実際の日没は

 おおよそ太陽の直径分だけ

 地平線下に沈んだ頃に起こる。


昨日もメンバーと沈みかけか、
沈み終わりかを議論していましたが、
完全に沈んだ時が「日没」です。
その後は薄暮です。

写真図1 沈みかけの太陽




真正面に太陽。
右手(北側)に貨物船。
歳末までおつかれさんです。

写真図2 大関門に沈む太陽




俗称「大関門」は現在、
「なにわの海の時空館」のあった先(南)の
咲洲の北西端の燈台と
夢洲の南東端の燈台の間の水路を指します。
大阪港に入港する船の、まさに関門といわれました。
島影は
淡路島で

大関門の正面は

洲本の南からはるかかなたには

四国徳島県阿南方面なのでしょうか?


写真図3 まさに沈まんとする太陽



まさに海水面に太陽が
沈まんとする、その時
なぜか一人の見物人が
カメラを空中に向けています。
ボクが「かりがねや」と奇声を発したからです。
雁が二列の編隊を組んで

空を翔けていました。
奇声を発してごめんなさい。


写真図4 海水面に接する太陽




この瞬間は
もちろん日没とは云いません。
束の間のドラマの始まりです。
厳かな時の始まりです。

写真図5 海水面に達した太陽



海水面に返照し始めました。
まちがいなく
終わりの時が近づいています。


写真図6 半分没した太陽



とうとう半分が
水中に沈みました。
残りわずかな時間です。


写真図7 日没の太陽



ともしびが消え入るように
太陽は
音もなく海に沈みました。
なぜかこの名残を惜しむ
この時、
遊覧船サンタマリアが通過します。

あとしばらくは
オレンジ色の光が
豊旗雲のように海面にたなびいてました。

時間は戻ることはありませんでした。
この年の
しんどかったことを
西の海にサラリさらりとまでは
ゆきませんが
もうおしまいにしてきました。


究会代表 田野 登

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大阪港のマーメイドを
ご存じですか?


1995(平成7)年6月、
デンマークのコペンハーゲン港と
文化交流の一環として
寄贈されたものらしいのです。


昨夕、2015年12月30日夕暮れ
ボクたちは
天保山に海に沈む夕日を見に出かけました。

たくさんの人がサンセット広場で
海を眺めていて
マーメイドは見向きもされていません。
あいかわらずのマーメイドです。

写真図 大阪港のマーメイド




微妙に

残光に照らされて
青白く輝いています。
西の海を見つめる
この哀しきマーメイドを
いつまでもそっとしておいてください。


究会代表 田野 登

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前回は結論を急いで
「都島史跡マップ」2007年《❹渡辺綱・駒つなぎの樟》の
記事を挙げて
貴人・英雄の行為としての植樹、
樹木に駒を駐めるといった記述を
よくある伝説として位置づけました。


写真 「都島史跡マップ」2007




《津の国の鬼(5)》に掲載許可済み


どうもこれでは
他の事例から引いてきての説明であるだけに
いや、ここの樟は
伝説でなくホンマにあったことやと
反論されかねません。


そこで改めて、
《❹渡辺綱・駒つなぎの樟》の記事が
いかなる事情で成立したのかを
略述したいと思います。
略述とはいえ、長くなりそうで
年明けまで持ち越すこと必至です。


その記事の伝承と記述されている箇所は、
以下のとおりでした。

④この樹は平安時代の中ごろ、
⑤源頼光が社を創建する際に植えたもので、
⑥頼光の家臣の渡辺綱が参詣するとき
⑦馬をつないだとの伝承があるところから
⑧「渡辺綱・駒つなぎの樟」と呼ばれています。


「都島史跡マップ」の伝承は
(1) 源頼光による植樹と
(2)渡辺綱による駒繋ぎの
伝説からなっています。

《渡辺綱・駒つなぎの樟》の記事は
管見によれば近世にまで遡る話ではありません。
当地における駒繋ぎ樟はもとより
「善源寺」の記述された渡辺綱伝承は、
近代以前の文献をも含めて
地元から発信する情報以外に見当たりませんでした。
    ↓ここをクリック
http://ameblo.jp/tanonoboru/entry-12110388110.html
   《津の国の鬼(9)》


地域から発信された情報としては、
「都島史跡マップ」以前には7点
「渡辺綱・駒つなぎの樟」系統の話がみえます。
以下に時系列に並べます。

1)『大阪府全志』巻2、1922年
2)『上方』創刊号、1931年1月
3)木製立て札、1938年5月
4)『大阪府の史蹟と名勝』大阪府1942年
5)『都島区十年の歩み』1953年
6)『みやこじま(都島)』1975年
7) 都島区のおもな史跡・旧跡、1998年頃


いくら遡っても100年に達しませんでした。
『大阪府全志』巻2、1922年刊行の記事を載せます。
●里伝に依れば、
 此の付近は源頼光の居住せし所にして、
 社は*長徳年間(995~998)其の勧請に係り、
 楠は復た其の自ら植ゑしものなりと為し、
 里民は神木として尊重し、
 駒繋楠と呼べり、
 渡辺綱の馬を繋ぎしより此の名ありと(以下略)


《史跡マップ》の記述の原形は
この『大阪府全志』に見えます。
本文の異同を見ます。


源頼光植樹の話は
《史跡マップ》よりは『大阪府全志』に詳しくて、
頼光の「居住せし所」とし
年号までが記されています。
いっぽう渡辺綱駒繋ぎの話は、
『大阪府全志』には
ただ「渡辺綱の馬を繋ぎし」としてあるだけです。

源頼光と渡辺綱をめぐる記述の相違を
伝承の変遷として捉えることにより
伝説の形成過程を辿ることができます。

伝説は、
昔々から同じように
語られているものではありません。
意外かもしれませんが、
伝説は

時には「史実」面して
信憑性を気にしながら
時代時代によって変化を遂げるものです。


『大阪府全志』1922年から
「都島 史跡マップ」2007年までに
一本の大樹をめぐって
何が語られ、何が語られなくなったのか
知らぬ間に伝説を合理化する論理について
考えてみたいと思います。


このことを大事として

真摯に取り組むことにします。

今日は夕日を見る会で

《渡辺綱・駒つなぎの樟》を歩きます。


究会代表 田野 登

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恒例の夕日を見る会は
明日、12月30日(水)13:00に
地下鉄谷町線都島駅改札口をスタートし
地下鉄堺筋線天神橋六丁目駅まで歩きます。
堺筋本町で中央線に乗り換えて
大阪港駅まで出ます。
そして
サンセット広場で

毎年の「儀式」が始まります。


悠々と海に沈む太陽をただ眺めます。
ゆったりとした気分で
音もなく水平線に消えゆく太陽を眺めます。

遊覧船が汽笛を鳴らすこともありました。
慌てふためいて
海遊館からのゲートを潜ったこともありました。
今年は日和にも恵まれそうです。


写真図1 毛馬橋からの水門と閘門



阪俗研メンバーの浅田伸司さんと
先ほど、再度打合せをしました。

順調に歩けば
当初予定を変更して
淀川河川敷公園長柄地区まで足を運び
現地において

旧第一閘門上流側の制水扉や
防潮水門の説明を
彼がすることになります。
写真図2 防潮水門



ボクは技術的な面はさっぱりあきませんので。
錦絵「浪花百景 毛馬」や「長柄三ツ頭」など
ここではアップできない画像を手にして
改修前の淀川の光景を説明します。


毛馬で時間を充分に取るためにも
集合時間厳守です。
ボクの説明はいつもの
見えないモノはお見せしますがモットーです。
昔のこと、道の先の景色は
画像で説明します。
(100枚用意しているのを、今からへつります)

それにしても
現地での説明に時間を要します。
歩くのが嫌いな方はご遠慮下さい。

河川公園の展望の利く場所に行くには
短い坂を登ります。

写真図3 淀川改修紀功碑



これも明治の紀念碑なのでしょう。

先がゆるやかながら尖っています。

理想をめざす時代の精神を感じます。


今回、史跡マップを20名分だけ用意しました。
先着順に配付します。
先着順に自信のない方は
ブログトップのアドレスまでご予約ください。
すでに参加表明のあった方の分は確保しています。
参加費は無料ですが、
事故のないように「自己責任」でご参加ください。


究会代表 田野 登

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鬼がちょっと顔を覗かせば
すぐに、ひっこんでしまう《津の国の鬼》ですが、
下流の橋の下には
鬼もでてくるのですが、
どうも善源寺では出てきそうもありません。
ともかく伝承の記述をじっくり読みます。


「都島史跡マップ」《❹渡辺綱・駒つなぎの樟》の
記事を挙げます。

④この樹は平安時代の中ごろ、
⑤源頼光が社を創建する際に植えたもので、
⑥頼光の家臣の渡辺綱が参詣するとき
⑦馬をつないだとの伝承があるところから
⑧「渡辺綱・駒つなぎの樟」と呼ばれています。


④⑤は平安時代の中ごろの植樹のこと。
⑥~⑧は大樹の伝承と呼称。

⑤の源頼光が社を創建する際に
植樹したというのは、
貴人・英雄の行為としての植樹は
多く見られる伝承です。

「慶長年間(1596年~1615年)に
 当時の広島藩主・福島正則が
 植えたと伝えられる黒松・・・」は
何の木かを答えさせるのは
以前、大阪検定に出題されましたが、
問題自体、「伝えられる」とあって
伝説を問うているのです。
戦国武将・福島正則が中之島に蔵屋敷を
設けたのでは辻褄が合いませんものね。


この手の話はよくあります。
*『摂陽群談』には渡辺綱の植樹の話があります。
 *『摂陽群談』:蘆田伊人、編集校訂、
  1957年『摂陽群談』(大日本地誌大系38)雄山閣
  底本は享保20(1735)年刊。

●同郡(西成郡)福島村梅田川の岸にあり。
 俗称云、
 渡辺綱が植たる松と云へり、


福島にも綱の伝承があるのですね。
ここでは何故か松を植えています。
さすが、これにはオチまで書き込まれています。
続きの記事です。
●亦渡部・福島と、地名の続きに而已歟

これは「わたなべ」繋がりでの福島なのではと
俗称への疑問を投げかけています。


⑥⑦の渡辺綱が駒を繋いだという話も
人名を置き換えれば
どこにでも見られます。
『摂陽群談』には「駒繋松」が挙げられています。
●同郡(東生郡)天王寺一心寺境内にあり。
 東照神君、駒繋せ玉ふ松樹を以て号之、
 寺記詳なり。


徳川家康が陣を張ったとされる一心寺です。
貴人・英雄が神仏に祈願や
勝敗を占ったりするする際、
社寺の前の樹木に駒を駐めるといったのも
よくあるパターンです。
このような話を本当だと信じますか?


⑧に
「「渡辺綱・駒つなぎの樟」と呼ばれています」とあります。
「呼ばれています」や「伝わります」と書かれた場合、
まず書き手・話者に対しては
それまで述べてきたことへの
真偽の責任は問うことはできません。
書き手は伝説として述べているだけなのですから。

書き手の見解は次の段に書き込まれているようです。
その点、この史跡マップは親切です。


次回は、
書き手の見解に対して
ボクなりに蛇足を加えることにします。


究会代表 田野 登

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