晴耕雨読 -田野 登-

大阪のマチを歩いてて、空を見上げる。モクモク沸き立つ雲。
そんなとき、空の片隅にみつけた高い空。透けた雲、そっと走る風。
ふとよぎる何かの予感。内なる小宇宙から外なる広い世界に向けて。


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昨夜は「スーパー名月」とやらで、
大きくて美しい月をめでることができました。
久々に長山雅一先生からいただいた
四天王寺参りの続きを紹介します。

長山先生はボクの小学校の9年先輩であるだけに
天王寺さんにお参りするにしても
同じ「福島西通」の停留所からのスタートでした。
路面電車が「しんどそうに橋を登り対岸へ一気に下る」話の
続きです。

●阿弥陀池を過ぎ、
 しばらくすると
 そのまま、まっすぐ堺の出島の海水浴に行く線と
 天王寺の西門に行く線とに分かれます。
 西門に行く線は太鼓屋さんの看板を見て、
 東の丘へ向かう。


以下、田野による書き込み。
店先に立派な太鼓が陳列されている光景は
ボクの記憶にも焼き付いています。
大阪が誇る太鼓文化の発信地です。
「勘助町」、「大国町」を過ぎて
上町台地にさしかかります。

長山先生とって上町台地は「東の丘」なんですか?
同じく西大阪のような沖積層の上に住んでいる
ボクにとりまして
上町台地を東に連なる丘陵とする認識は
実に新鮮で明瞭な解釈です。
以下、長山氏の文章の続きです。


●そして、新世界、動物園、一心寺を通り、
 登りきって天王寺西門で市電を降り、
 石の鳥居から境内へ。
 このルートは、子供の頃の私にとって、
 お参りの後の楽しみであり、参詣の目的でもあった。
 というのは、参詣後に新世界で食事をし,
 動物園で遊んだ。戦後入ったゾウなど楽しみであった。
 境内の様子は次回に。


以下、田野による書き込み。
「東の丘」を登りきったところに
天王寺西門があるのですね。
まさに「極楽浄土の東門」に当たるのでしょうか?
かつての海は豊饒の場所であったのでしょう。
石の鳥居からは
光り輝く光景が広がっていたことでしょう。
その光景を想像するのに
今しばらく時代を超えた感興に耽りたくもなります。
不図、気づけば俊徳丸・弱法師(よろぼし)が
杖を片手に佇んでいた。
それは「秋」ならず「春」の彼岸のことでした。

ボクの性能に自信のない再生装置が
「住吉の松の隙(ひま)より 眺むれば・・・・」の章句を
再起動し始めます。
●「月落ちかゝる淡路島山と。
 「眺めしは月影の。
 「詠めしは月影の。今は入日や落ちかゝるらん。
  日想観なれば曇も波の。淡路絵島。須磨明石。
  紀の海までも。見えたり見えたり。満目青山は。心にあり」


実際に、西門石の鳥居の場所から
「淡路絵島。須磨明石」が
豊饒の海を隔てて眺めることができました。
そのことは『摂津名所図会』といった
絵入りのガイドブックの高津神社の絵馬殿からの
足下の市中の眺めや『道中膝栗毛』の
「また風景を御覧なら、

住吉沖に淡路島、兵庫の須磨明石」の
記事からも想像できます。

こんにちはいかがでしょう?

写真図1 西門からの夕日



西門前交差点付近から西を臨んだものです。
今春の彼岸の中日の光景です。


一心寺は長山氏の文章
「そして、新世界、動物園、一心寺を通り」とありますように
逢坂の半途にある寺です。

その墓場からのショットがこれです。
写真図2 一心寺墓地からの光景




引用文に
「新世界で食事をし,
 動物園で遊んだ」とあります。
動物園のある場所は
一心寺の崖の下で
新世界は、その先です。


「新世界」と云えば「通天閣」ですが、
長山先生による天王寺参りの
記憶の世界に通天閣が登場しません。
長山先生の少年時代には
通天閣が未だ再建されていませんでした。
再建されたのは昭和31(1956)年のことです。
ボクが小学校1年のことです。


長山先生とボクの体験は重なり合いながらも
微妙に異なります。
やはり9年の年齢差があるのでしょう。
次回の「境内の様子」の記事が寄せられるのに
今からワクワクしております。
昭和25年生まれのボクが
見聞することのできなかった世界が
きっと展開することでしょう。


究会 代表 田野 登

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浦江塾で大阪市内河川クルーズの醍醐味が聴けます。
来月の浦江塾の葉書が届きました。
写真図  浦江塾案内の葉書




以下、文面を記します。
郷土誌を見直す『浦江塾』のご案内
大阪中之島の川を観光船が行き交うのを見られたことが
あるでしょう。その船を運航しているのが百年の歴史を
誇る一本松海運(株)会社です。船上から見た大阪の光景、
最近のクルーズ船のこと。枚方中之島を結ぶくらわんか
船等々。お話に興味が尽きません。楽しみです。    
 日時 10月3日(土曜日)午後7時より
 場所 妙壽寺(福島区鷺洲2-15-10)駐車可
 テーマ 「大阪市内河川クルーズの様相」
       一本松海運(株)営業主任
         鈴木麻希先生
終了後、情報交換等の雑談を行います。ご参加下さい。


ともども楽しみです。
その楽しみは、企画して、それが叶う楽しみです。
堂島川の緑道を中之島から福島に向かって
歩くのはボクの散歩道です。
図書館から実家に帰る道です。
そんな折、黄色い船体の遊覧船を見かけます。
思わず手を振りたくなりますが、
恥ずかしくてできません。
先達ても名勝・蛸の松のあたりで
黄色い船体を見かけました。
一本松海運の「きらり」です。

早速、*同社HPに当たりました。
http://www.ipponmatsu.co.jp/gallery/ship_introduction/detail01.html
●2008年9月に就航したばかりの新型旅客船。
 大阪の大変低い橋を通過する為、
 潜水艦と同じように船体に川の水を取り込み、
 船ごと沈めて運航します。
 天井は後方にスライドするため
 フルオープンで景観を満喫できます。
 現在は企画クルーズ

「落語家と行く なにわ探検クルーズ」の
 使用船舶として活躍しております。
 船内は木目調の癒し空間となっているうえ、
 各座席にはテーブルが設置されており、
 ゆっくりと飲食をお楽しみいただけます。


いかがでしょう。
浦江塾では、船上からの眺めも
紹介されるようです。
昭和の大阪は観光艇「水都」は短命でした。
拙著2007年『水都大阪の民俗誌』和泉書院に
次のように記しました。
●戦前の船に「水都」はあった。
 観光艇「水都」である。
 大阪市は昭和11(1936)年6月から観光艇「水都」を就航した。
 これは、行程28キロ、所要時間2時間のコースだった。
 淀屋橋北詰桟橋(土佐堀川)を出航し、
 中之島剣先(北区中之島)から堂島川に入り、
 安治川を下って大阪港を巡航して、木津川運河・木津川を上り、
 川口(西区川口)から土佐堀川に入って
 淀屋橋北詰(北区中之島)に戻るというものだった。
 しかし、昭和15年(1940)年には早くも一般運航が全く中止され、
 この観光艇「水都」は、戦時体制に入って短命に終わった。


聞くところによりますと
当時の大阪に魅力がなかったようです。
水上からの眺めが

洗濯物の満艦飾ではしかたありません。
大阪の町家は川を背に、通りを表に建ってます。
川からお忍びで上陸もあるにはありました。
道頓堀川筋の芝居茶屋がその場所でした。
丹後半島の舟屋ではありませんが、

表通りの建物は
川側から見ますと2階に見えます。
今でも戎橋南詰のかに道楽本店のあたり、
地下に下りてゆく感じがします。


川筋の町家はともかく
今回のお話では
新たなアングルから見た大阪を発見することでしょう。
よもや戦前と同じ轍を踏むことはないでしょう。
行政も最近にになって
「水都」を発見したのか、他にウリがないことに諦めたのか、
河川にテラスを設けることを許しています。

ボクの散歩道では、
リバープレースのある道頓堀川。
それに中之島精霊流しでお世話になっている
中之島バンクスのある堂島川など
新しい試みです。


社会学者のことばであったかどうか忘れましたが、
橋も建物もヒトの眼差しがあって
初めて輝くものなのでしょう。
同じことは人間一人一人についても云えることですが、
大いに水上からの眼差しを
この街に注ぎましょう。
「水都大阪」が輝きを取り戻すことを願って。


大阪の街に関心を持っておられる方の参加を期待します。
もちろん船に詳しい方もお越し下さい。
いつもどおり、参加費無料、手続き不要です。
ただ、PowerPointで映し出される画像の中には
貴重なものもあります。
知的所有権が絡んだりもしますので
携帯電話で撮られるのはご遠慮下さい。

なお当日の発表は講師が変更するもようです。
内容は、ご案内のとおりでお願いしております。


究会 代表 田野 登

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産経学園(梅田校)で「野田新家の生業を探る」を話します。
来週火曜日9月30日です。

写真図1 表紙




何を話すかなのですが、
この都会の中に
近世にあっては舟を擁する生業が行われていたことの
ボクの小さな「発見」の経緯です。

「野田新家」とは、どこ?
大阪市福島区の西端で
此花区に接する地域です。

写真図2 コンテンツ




1 「生業」を考える
2 「むかし」を思う 
3 「原地形」を求める 
4 「いま」を歩く
5 近世初期の「地勢」を読む
6 近世の「生業」を探る


ボクのペンネームは「田夫野人」です。
ブログのタイトル「晴耕雨読」は
文人の理想にほど遠く
歩いては調べ、調べては歩きたくなる自分を
半ば揶揄しております。

今回は「発見」の過程を話したいのです。


大阪市福島区のような市街地を歩いても
池や沼、原野などありません。
それが道路の勾配、湾曲でわかるのです。
もちろん絵地図を読みながら歩くからです。
地形がわかれば、人々の暮らしを知りたくなります。
「村明細帳」は農本主義の時代の記録です。
その行間を読み解きます。
漁撈活動が見え出します。

そう云えば本村のエビス神社の狛犬の台座に

「かち網中」の刻字がありました。

写真図3 恵美須社狛犬(野田恵美須神社。福島区玉川4)
     安永8(1779)年奉納




 
「かち網」ってどんな漁法?
大阪府立中之島図書館所蔵「摂津国漁法図解」に
描かれております「歩行網」です。
口では云えませんので
画像で示します。
ブログではアップの許可を取ってなくて
お見せできずに残念です。


「野田新家」は1614(慶長19)年の大坂冬の陣では
軍事上の拠点ともなりました。
その辺は『大坂御陣覚書』を読みます。


写真図4 《6 近世の「生業」を探る》





本題の《6 近世の「生業」を探る》は
「享和元年酉六月
蛭児之宮神祭ニ付取締リ請印形帳
摂州西成郡 野田村」なる古文書を
援用します。

要は安治川開削後、土地が寂れ
水の漬くような新田ばかりが出来し
問屋の賑わいもなく、
浜までの渡御も途絶した云々と書かれています。


今日、エビスの御旅所があり
抽水所のある場所が
近世、海の民の息づく町であったことに
ボクは気づきました。


本講座についての
お問合せ、お申し込みは
直接、電話でお尋ね下さい。
電話:06-6373-1241 
大阪産経学園 担当者 白石


究会 代表 田野 登

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今回は
先週土曜日9月19日、阪俗研セミナーでの
折口信夫の合邦ヶ辻解釈をめぐっての続きです。
溝渕雅子氏からいただいたコメントの後半を紹介します。

●私にとって手に余るテーマでした。
 恥ずかしながら折口学、マレビト論の内容を知りません。
 『弱法師』『摂州合邦辻』は多少知っていても、
 論文「玉手御前の恋」も知りません。
 折口が注目し、先生が丹念に迫られる「頬かむり」
 地域の特性をあぶり出して重ね合わせ、
 「折口学」解明の端緒と着目される。
 難しいです。
 玉手の真実は分りませんが、
 継子を訪ね歩く女性が、
 人目を忍んで頬かむりをする姿は
 私には自然に映るだけなのです。


以下、田野による書き込み。
また「頬かむり」に戻りましたが、
話は前進させましょう。
「継子を訪ね歩く女性」です。
ただ、よくある「継母」「継子」の関係ではありません。

この芝居では最後のどんでん返しまでは
継母が継子に邪恋をいだくという設定で
事が運ばれています。

折口は自説を展開する中で
玉手御前の父親である道者・合邦のことばを
引用します。
玉手が合邦の庵室を訪ねる場面からたどります。
●併し、玉手御前は、頰かむりして、親の家にやつて来る。
 気は鳥羽玉の玉手御前、俊徳丸の御行方、尋ねかねつゝ、
 人目をも忍びかねたる頬かぶり包み隠せし親里も・・・
 この頰かむりは、普通の女の服装ではない。
 身分の低い者は、普段の生活にも頰かむりをするであらうが、
 まあ異例であらう。それをしてゐる女は、乞食に多い。


芝居台本の「人目をも忍びかねたる頬かぶり」に対して
折口の「この頰かむりは、普通の女の服装ではない」は
ノーマルなものでないと断定的に、しかも
「それをしてゐる女は、乞食に多い」とまで
賤視のまなざしが注がれる人たちに
玉手をカテゴライズします。

折口の論の続きをたどります。
折口は合邦が玉手に投げかけた罵詈を引用します。
●其ばかりでなく、父の合邦が
 「そのざまになつてもまだ
 俊徳様と女夫になりたいと言ふのか」と言ふが、
 此も非人乞食の服装を言つてゐるのではなからうか。
 殊に、始めにあげたくどきの中でも、
 玉手自ら、「跡を慕うてからはだし」と言ひ、
 次第に流転して身が落ちて行く様が示されてゐる。


この後、玉手の口から、俊徳丸への恋の「真実」は
俊徳丸の助命のためのトリックだったと語られます。
その真偽はともかく、父は「そのざまになつても・・・」と
言います。
折口は、「そのざま」を「非人乞食の服装」と
言い換えて、
玉手が俊徳丸を追っかける様を
「流転して身が落ちて行く様」とまで述べます。

高安長者の奥方の末路を
零落した女人と解釈しようとしています。
こうなれば、まるで折口信夫の「貴種流離譚」にまで
走りそうです。
準備ができていませんので、
その方向への発展は差し控えます。


写真図 玉手の水跡




ボクが主張したかったことは、
殊更、玉手御前の「人目をも忍びかねたる頬かぶり」を
「非人乞食の服装」と深読みするところに
折口のこだわりがあって
そこに折口の一連の、一連と云っても
多々、言い換えのある言説を解く端緒があると
ボクは読んだのです。


マレビトである神が零落した果てを
漂泊する芸能者に重ね合わせると云った
幻視を「マレビト論」に仕立てたと
ボクは考えています。
いずれ異人論の観点から「マレビト論」を
解釈したいものです。


究会 代表 田野 登

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先週土曜日9月19日、阪俗研セミナーで
折口信夫の合邦ヶ辻解釈をめぐって、話しました。
阪俗研メンバーでもあります溝渕雅子氏に
コメントをお願いしましたところ、
早速、メールで送っていただきました。

それが、二つの感想を寄せられましたので
片方だけとというのも勝手すぎますので
2回に分けてボクなりの答えを書くことにします。
今回は前半だけ紹介します。

●子どもの頃、親に連れられて詣でた四天王寺さん、
 動物園も、美術館へも行きました。
 しかし着くまでの道すがら
 何かしら緊張を強いられる場所として記憶に残っていました。
 また「弱法師」では高安通俊が俊徳丸を探しに行くのが、
 なぜ四天王寺なのか不思議でした。
 それがセミナーでの丁寧なご説明で、そうだったのか!と。


以下、田野による書き込み。
今回は、場所の問題です。
この点は折口を題材にしながらも
共通認識が得られそうです。
「子どもの頃、親に連れられて詣でた四天王寺さん、
 動物園も、美術館へも行きました」とあります。
親の教養からして「美術館」は連れられた
記憶はありません。

ボクの場合、天王寺参りは一心寺がセットでした。
なぜなら、墓を持たない大阪住まいの者の多くが
そうでありますように
亡くなった爺さんのオコツは一心寺に納めて
骨ボトケとして祀られていたからです。
天王寺参りでは
母は兄ちゃんが祀られているといって
大きくて薄暗いお堂を詣でました。
エーレードーです。
あのお堂が、かつての鐘楼だと知ったのは
調べ初めてからのことですが、
「エーレードー」が「英霊堂」だとは
なんとなくわかっていました。

家族・親戚の間でも戦死者のことは、
遺影を飾り話題にもしていたからです。
ボクには会ったこともない伯父がいて
彼はニューギニアで戦死したと語られていました。
母方祖母の家の店の間にはヘルメットを被った
伯父の写真が遺影として飾られていましたもので
視覚によって記憶されています。
その伯父の戦死は後々まで母と叔母との間に
確執や遺恨を残すことになりました。


「何かしら緊張を強いられる場所」とありますが、
日頃、見たこともない情景に出くわすのが
天王寺参りでした。
天王寺動物園の南門のあたりでは、
死んでいるのかと思うような
男の人を見たことを覚えています。
除けて通りすぎていました。
「行き倒れ」で済ませてました。
(今、思えば酔いつぶれて寝てはったんかとも。)


普段、見馴れない情景でありながら
そっけないものでした。

「お彼岸」は非日常的な時間であって、
ボクにとって四天王寺界隈は
「非日常的な空間」でした。
空間なんてよそよそしいものではありません。
いまひとつ境内での見世物の記憶は
ボンヤリしています。
ここに書けば郷土誌『上方』の記事に惹かれて
嘘を書くことになりますのでやめときます。


四天王寺には、普段からさまざまな人たちのお参りがあり
身を寄せていました。
それは日常的で常態でした。
ボクは胃潰瘍で2回、近くの病院に入院したことがあります。
一回目は32歳の時ですから1982(昭和57)年で
二回目は男の厄年の前だったから、
その10年後の1992(平成4)年のことです。
なぜ、この時にこだわるのかですが、
入院していた時、治療を終えると
毎日のように散歩に出かけてました。
そこでは、しばしば路上生活者の人と出会ったからです。

散歩道は決まっていて、病院から庚申堂、四天王寺、
夕陽丘図書館でした。
それが、その10年で情景が変化していました。
その界隈から路上生活者が見えなくなっていました。
今、*ウィキペディアで「天王寺博覧会」に当たります。
*ウィキペディア・・・:最終更新 2015年1月16日 (金) 04:06
●1987年(昭和62年)8月1日から11月8日に
 大阪府大阪市天王寺区の天王寺公園で開催された地方博覧会(以下略)


この博覧会が影響を及ぼしてか、
10年の経過の間に街全体が
こざっぱりしたといえば一面的でありまして、
襞のような、奥行きのある空間でなくなり
かつての天王寺界隈の、あのさまざまな人たちの
身を寄せる場所でなくなっていました。

中世の絵巻「一遍上人絵伝」「法然上人行状絵図」に
描かれた車の付いた小屋や
門前での上人から施しを受ける人たちの姿は
まったく想像の世界になりました。
画像が許可を得てませんので
アップできずに残念です。

四天王寺界隈も
中世アジールといった宗教的な避難所を
偲ばせる場所ではなくなっていました。
今日は秋のお彼岸です。
檀那寺での法要を終え
お能の「弱法師」は春の彼岸ですが、
石の鳥居に沈む夕日に向かって
見ず知らずの人たちと一緒に
般若心経を挙げながら手を合わせることにします。

写真図1 今春の日想観を修す行事



写真図2 西門前での夕日




究会 代表 田野 登

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