晴耕雨読 -田野 登-

大阪のマチを歩いてて、空を見上げる。モクモク沸き立つ雲。
そんなとき、空の片隅にみつけた高い空。透けた雲、そっと走る風。
ふとよぎる何かの予感。内なる小宇宙から外なる広い世界に向けて。


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前々回、
『折口信夫全集』所収の
「大和時代の文学」から
王仁伝承についての記事を取り上げ、
正史とされる日本紀、続日本紀の記述に
ひそむ小説的態度を挙げると
予告しました。


「小説的態度」を挙げる前に
ボクにおける文学と歴史の関係を
述べようと思います。
本題に入らず、
個人的体験から入るのに
お付き合い下さい。


実はボクにおきましては
文学と歴史の間の区別など大した意味を持たないのです。
そのことを意識しだしたのは
民俗の本物、偽物を真剣に考えた時です。
「偽文書」の存在に気づきました。


それは露天商・テキヤの調査の時です。
彼らは神農を、薬種商とは異なり
秘伝の儀礼で以て祀ります。
詳しくは拙著2007年『水都大阪の民俗誌』和泉書院
《29 商人と社寺》に書いています。

また「大阪市民俗資料調査カード(平成2年度記入)」の
露天商に次の記述をしました。
●江戸時代、武士が薬の行商を始めた。
 この時、大岡越前守から営業を許可され、
 神農さんの巻物を授けられた。
 その巻物は親方に代々受け継がれた。
 先代のNS氏は、戦後、博労衆の四代目を襲名した。
 NS氏は昭和五六年に死去し、
 昭和五七年にNY氏が神農を襲名した。


「神農さんの巻物」の記事の真偽を
問うことが、いかほど大事であることでしょう。
「偽文書」の世界には、
生業にもよりますが、常にいかがわしさが
つきまといます。


*『偽文書学入門』が後に出版されました。
溜飲を下げるとは、このことでしょう。
ボクの「文学と歴史の間」の問題が
記されていました。
 *『偽文書学入門』:

久野俊彦・時枝務2004年『偽文書学入門』柏書房


●由来書や偽文書には、
 作成当時の慣習や伝承が書きとどめられており、
 民間伝承と文字資料とは相互に行き交うものであった。
 歴史と民俗と、
 さらには文字との接点である偽文書には、
 多様で豊かな想像力の世界の一面も見ることができるだろう。


由来書や偽文書を積極的に研究材料とする
見解であります。
今や「口承」に対して「書承」という術語も
見られます。


ようやく本題ですが、
「王仁博士」の「書承」について
いかに位置づければよいのでしょう。
「一人の渡来人が漢学の聖典を
 一遍にもたらせたのは「史実」ではない」と
切り捨てるようなことをボクはしません。


前回引用の『折口信夫全集』5「大和時代の文学」に
次の記事があります。
●初めは、地方誌・家伝のつもりで書かれた伝類も、
 其が、晋・唐小説-所謂、漢・魏小説-の
 外的模倣から内容にまで進んで来た。


前回、日本紀編纂者による
「わかりやすく具体的に
 多くの事柄を捨象」を指摘しました。
そこには舶来の文芸の影響を認めるのは
至極、当然のことでしょう。
折口は飛鳥時代末の「浦島子伝」における
脚色までも晋・唐小説の模倣を述べて
次のように続けます。


●だから、日本紀或は平安朝に成つた
 続日本紀類の資料の記録には、
 さうした歴史と、
 小説と混淆をした態度から出たものが
 多かつたことを予め考へてかゝる必要がある。


「正史」だからと云って
歴史として鵜呑みなどしませんよね。
このような「王仁博士」でしたら
「難波津に咲くや木の花冬ごもり
 今を春ベと咲くや木の花」の歌を
詠んだと伝わる話も
当然、伝説です。


折口信夫によれば
「難波津」歌の本質は何かを
解いています。
次回、折口民俗学ならではの
論法を紹介します。


究会代表 田野 登

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前回から折口信夫の世界を
自分なりに辿っています。


勝手な話ですが、
「折口信夫」はボクの祖父と
生きた時代が殆ど重なります。
折口が明治20(1887)年生まれで
昭和28(1953)年死去です。
ボクの祖父は戌年生まれですので
たしか明治19(1886)年生まれで
昭和29(1954)年死去です。

だから、「折口信夫が記述した大阪」を
考えるというのは、
ボクにとりましてはお祖父ちゃんの
生きてきた大阪を想像するようなものです。


そんな祖父は
小学校も4年しか出ていないと聞いておりますが、
丹波から大阪に出て
やがて大阪の浦江に住みつきました。
浦江や大仁(だいにん)や豊崎といった
昔の阪神北大阪線沿線の街の記事が見つかっていません。
ボクの祖父や父は
その沿線の工場街で
糊口をすすっていました。


折口の生まれ育った木津からすれば
大大阪時代の
方角からすれば
正反対(真逆)の大阪です。
折口がミナミなら
祖父はキタです。
真逆であるだけに
中心に対する周縁として共通します。
両者ともかつての
ムラ、近郊農村であったことに違いがありません。


はたまた
折口が大阪を発ったのに対し
祖父は大阪に入ったのです。
これも転出者と転入者といった
真逆の関係です。


ずいぶん勝手に折口と
関係を取り結びました。
要は、大阪者3代目のボクの
足場を確かめた上で、
折口の記述する「なにわ大阪」を
探ろうとします。

今回は、折口を探る自分との関係を
確かめることに終始しました。
次回、このような関係性が
いかなるモノを気づかせるか、
試みたいと思います。


究会代表 田野 登

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たまたま必要を感じまして
昨日、大阪市立中央図書館で
閉館時間まで*『折口信夫全集』を
繰っていました。
 *『折口信夫全集』:『折口信夫全集』、中央公論社


折口信夫は「難波・大阪」を
どのように記述しているかを知りたかったのです。

この作業の途中、
今週土曜日の「画像が語る浪花ふくしま」が
気がかりになり出し
大仁(北区大淀中)の王仁伝承に関する
情報を『折口信夫全集』に求めました。


本ブログにしばしば取り上げています
大仁の王仁伝承ですが、
今回は『古事記』中巻「応神記」の記事を
一例に挙げます。

本ブログ「大仁八阪神社の王仁博士伝承碑文(1)」から引用します。
    ↓ここをクリック
http://ameblo.jp/tanonoboru/entry-12025758592.html

● 応神天皇からの賢人献上の命を受けて
 百済国が献上したのが
 「和邇吉師」と記しています。
 その時、論語十卷、千字文一卷をも
  この人に付けて献上したと記しています。


「和邇吉師」が
「論語十卷、千字文一卷」を献上したという内容を
解くのにヒントを与えるのは
*『折口信夫全集』の次の記述です。
 *『折口信夫全集』:『折口信夫全集』5,
          1995年、中央公論社、「大和時代の文学」

●・・・・漢文学・漢学の伝来は
 極めて自然に、後来(イマキ)の帰化人の手によつて、
 次第に持ち来たされたのであらう。
さうして其が、意識せられる様になつて、
 学者招聘と言ふ形をとつて来たと考へるべきである。


折口に照らしますと
「王仁博士」や「和邇吉師」といった
学者を招聘したのは
後世の伝説となります。
固有名詞の人名には注意しなければなりません。
これらの伝来を
折口は「極めて自然に」「次第に」と捉えています。

折口は続けます。

●単に、応神天皇15年を以て、
 其最初と見る様なきはどい態度を採る必要はないのだ。
 百済王子阿直岐(アチキ)及び博士王仁の来朝は、
 ちやうど仏教における欽明天皇13年渡来説と等しく、
 公式なるものゝ最初を記念するだけの記述に過ぎない。
 其も単なる実用のものに過ぎなかつたのであらう。


折口の「意識せられる様になつて」に
こだわりますと、
記紀を編纂する段になって
初めて
特定の学者を招聘し
漢文学・漢学を象徴すると
目論まれた固有の文献名「論語」「千字文」を
記述した可能性もあります。

折口は続けます。

●其上、漢学らしい漢学は、
 大陸直接でなく、半島を通して来たことに注意せねばならぬ。
 さうして、恐らくは、教化的意義を有するものが、
 まづ行われたのであらう。
 其俤を、所謂王仁将来として、
 舶載書の初めに、論語・千字文を説く訣なのである。


教化的意義が発生した時、
物語が要請されるのでしょう。
わかりやすく具体的に
多くの事柄を捨象し
些細な言動を誇張するのでしょう。

ボクが「物語が要請される」と
述べたことは
そんなにしゃあしゃあと言うべきでないことに
気づきました。

次回は正史とされる日本紀、続日本紀の記述に
ひそむ小説的態度を挙げます。

もちろん『折口信夫全集』所収
「大和時代の文学」から学んだことです。


究会代表 田野 登

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浦江塾版「画像が語る浪花ふくしま」を話します。
7月4日(土)の浦江塾です。
昨日、妙壽寺住職からはがきが届きました。

写真図 浦江塾案内のはがき





文面は以下のとおりです。
郷土誌を見直す『浦江塾』のご案内
 浦江福島の記録された古い画像を見て戴きます。
記憶が蘇ってくる場合と、思い出しもしないことが
あります。戦後70年、記憶は次第に失われていき
ます。戦前戦後の私たちの記憶を次の世代に伝える
べきものか、それが後世に役立つものか考えます。    
 日時 7月4日(土曜日)午後7時より
 場所 妙壽寺(福島区鷺洲2-15-10)駐車可
 テーマ 「画像が語る浪花ふくしま―浦江塾版」
    文学博士  田野 登先生
終了後、情報交換等の雑談を行います。ご参加下さい。


以下、田野による書き込み。
住職と打合せをしたのは、
福島区女性会講演のあった日の宵です。
画像150コマほどをお見せして
「これを浦江塾ヴァージョンに
作り替えよう思います」とボクは言いました。

最終章の《8  「ふくしま」の情景》を
今回、お話しできなかった浦江周辺の画像に
差し替えるつもりでした。


しかし、
ジェーン台風時の国道2号線の情景や
戦後の野田の商店街や
福島公設市場の写真など
当時の人々の暮らしぶりを語るシーンを
浦江塾でもご覧にいれることにしました。

住職の案内文には、
その時の二人の心の動きが反映しているようです。
「戦後70年、
 記憶は次第に失われていきます」とあります。

ジェーン台風の来た年の一月に生まれたのが
ボクです。

やはり戦後、ボクの親たちが
つましくも精いっぱい生きてきた時代の
写真は外せません。
記憶を共有しましょう。


かつて野田城があった玉川の町並み。
かつての水郷で宮座の神事を継承する海老江。
明治の四季遊覧地であった花の浦江の水辺。
怪火が飛び交ったと伝わる海老江から大開の池沼。
往時の漁村が道なりの道に残る吉野から新家。
野田の安治川沿い新堀は遊郭の栄えた港町。
菅公潮待ち伝説の福島は舟人の町。
ナショナルの広告塔のあった野田阪神。
戦前「大福会」のアーケードの架かった浄正橋筋。
復興された野田藤の雅びなどなど
「福島区」は実に多彩な街です。


今回、ボクがお話ししましたのには
種本があります。
平成14(2012)年初版、福島区歴史研究会編集の
『なにわ福島ものがたり』です。
先輩方による
福島区研究の最先端をゆく成果に基づきます。

昭和56(1981)年、大阪福島ライオンズクラブ発行の
「福島区ふる里散歩道」という地図があります。
その後、平成5(1993)年、『福島区史』が編纂されました。
この間、歴史が書き換えられつつあります。


さて、そのような時代、
「浦江塾版」には、福島区周辺として
お話しできなった場所を盛り込むことにします。
たとえば鷺洲の氏神さんの鎮座する
北区大淀南をはじめ、
かつて梅田墓のあった北梅田、大仁といった地域の
伝説や年中行事などなど
忘れかけていた
あるいは、今まで興味のなかった
記憶の片隅に追いやられていた
地域の歴史に焦点を当てたいと思います。


福島区にお住まいの方ばかりか
北区、西淀川区、此花区、西区など
隣接する区域の方々のご参加を
歓迎します。
参加手続き、参加費不要です。
お早めにお越しください。


究会代表 田野 登

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みなさんは、「遠足」という言葉を聞いて
どのような情景を思い出しますか?

いつの頃のことでしょう?
幼稚園では、どこに連れて行かれましたか?
小学校低学年では?高学年では?
中学校、高校では?


6月27日(土)の阪俗研セミナー
「堀江の子どもの世界Ⅲ」では、
大正時代の小学校の遠足について
宮本又次の記録に基づき考えます。


いったい、その時代の
大阪の子どもが連れて行かれたのは
神社・仏閣ばかりです。
例えば北河内なら
四條畷神社です。
それでは南河内ではどこでしょう?


遠足というのは学校教育の一環でありながら
宗教色の強い行事だったのですね。
民俗宗教というべき側面もあります。
今回、PowerPointでお話しする内容の
一部を載せます。


●「(遠足では)大和の社寺へ連れて行かれたこともある」とある。
 大阪の商家の小学生の遠足の遠出は、
 大和の社寺まで及んでいた。
 当時すでに鉄道が敷設されていたので
 日帰りができた。
 「五、六年生のとき一泊で、
 伊勢神宮(神宮司庁:三重県伊勢市宇治館町)に
 おまいりした。
 関西鉄道で湊町(*浪速区湊町)から乗った」とある。
 伊勢神宮参拝の場合、一泊を要した。
 この記述が遠足の記事に続き、
 この記事のすぐ後に
 「中央公会堂(*中央区中之島)が落成し、
 小学校からつれられていった」と続くからには、
 学校の行事と考えられる。
 テキストに修学旅行という名称は、用いられていないものの、
 それに類する学校行事であった。
 この伊勢神宮参拝を目的とする学校行事は、
 当時、教育の一環として行われた宗教行事でもあったのだろうが、
 「お伊勢さんをお参りする」のは、
 大阪人にとって小学校卒業を以て
 「一人前」とする人生儀礼でもある。


ボクの小学校6年の時を思い出します。
宮本又次の約40年後のことです。
昭和36(1961)年の頃は、
近鉄特急に乗って「お伊勢さん」へのお参りでした。
鳥羽では水族館で海女さんの
アトラクションを見学し、
日和山にエレベーターで登って
山から富士山を見たような記憶があります。
帰りは五十鈴川の橋を渡って
内宮に参り
生姜板を土産に買って帰りました。


それが大阪の小学校の
修学旅行の定番だったのでしょうか?
さすが小学校卒業で「一人前」というには
幼すぎましたが・・・・・。


宮本少年は13歳の時、
京都のあるお寺に家族と参ります。
ボクも同じことを体験しています。
「十三参り」です。
続きは本番で話します。

ボクの興味は
変わったようで変わらない
変わらないようで変わった習俗を探究することです。

セミナーを今回、初めての方も
歓迎します。
前回までのテキストも用意しますので
明日26日㈮中にご連絡ください。

詳しくは次の頁をご覧ください。
  ↓ここをクリック
http://ameblo.jp/tanonoboru/entry-12006359714.html  


究会代表 田野 登

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