晴耕雨読 -田野 登-

大阪のマチを歩いてて、空を見上げる。モクモク沸き立つ雲。
そんなとき、空の片隅にみつけた高い空。透けた雲、そっと走る風。
ふとよぎる何かの予感。内なる小宇宙から外なる広い世界に向けて。


テーマ:

妙寿寺住職からの
浦江塾12月のご案内が一昨日、届きました。
楽しみなお話が聴けそうです。


写真図 はがき


晴耕雨読 -田野 登-



はがきの内容は下記のとおりです。

郷土誌を見直す『浦江塾』のご案内
地方では現在でも地名に「大字」「字」名が付いて
います。浦江でもかつては字名が付いていて妙壽寺は
浦江村字南里中でした。字名はその地の特徴を表して
いるようです。里中はおそらく村の中心地だったかも。
この字名を調査されている方がおられます。乞ご期待。
   
 日時 12月7日(土曜日)午後7時より
 場所 妙壽寺(福島区鷺洲2-15-10)駐車可
 テーマ 今も使われる福島区の旧地名と字名
      大阪市史研究家 清水 聡先生
終了後、情報交換等の雑談を行います。ご参加ください。
浦江塾で発表される方を募っております。気軽にどうぞ。


以下、田野コメント

字名は、地域史研究の基本資料です。
字名から、埋もれたり、壊された地形が想像されることもあります。
福島区玉川の野田城遺構の推定も字名からなされたものでした。

国語学的観点からも忘れかけている言葉、
とりわけ生業に関する語彙として興味深い分野であります。
もちろん民俗学におきましては、柳田国男の地名研究は
字名をたくさん資料として扱っています。

嘘々しいマチのガイドだとか、読み物が横行する今日、
伝説以前の地理を割り出す上で字名研究は重要です。

清水聡氏は、大阪民俗学研究会会員として
今後、彼の踏査した大阪市域における地蔵堂の場所など
いずれ、公表されることが待ち望まれる方です。


案内文は、住職が書かれたものです。
福島区に限られた話ではありません。
当日のお話が楽しみです。

浦江塾は、来月1月はお休みです。
この次は2月までありません。


阪俗研は、12月30日の夕日を見る会を
浦江塾の時に案内文を配布します。
さて今年、天保山へは、どのような道筋で行くのやら?
浦江塾でもお話のあった此花区コースを
西村芳行、村尾清一郎両会員を中心に
練っている最中です。


問合せは、ブログトップの阪俗研に
 
究会代表 田野 登

AD
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

テーマ:

今回は、築港住吉神社の由緒を取り上げ、
住吉さんを奉祀した「天保町」について
想像してみます。


想像とは?と思われるかもしれません。
現在、「天保町」は、存在しないのです。
「天保町」は、今では海に没してありません。
戦後の安治川内港化工事により、削り落とされたのです。


由緒を取り上げます築港住吉神社は、
11月17日(日)、大阪民俗学研究会メンバーと
フィールドワークをした神社です。

写真図1 築港住吉神社


晴耕雨読 -田野 登-


神社境内には、由緒を誌す碑文があります。

その碑文をテキストにして
「天保町」という、
かつて存在した町の暮らしを想像してみようと思います。


その方法としまして
『すみのえ』住吉大社社務所発行(現在休刊)の
*「築港住吉神社沿革略誌」(「沿革略誌」と略表記)
と校合しながら、
拙著2007年『水都大阪の民俗誌』和泉書院の記述を
交えながら述べようと思います。
*「築港住吉神社沿革略誌」:
川嵜一郎1995年4月「住吉大社の年中行事」『すみのえ』216号所載記事

以下、石碑碑文「境外末社住吉神社御由緒」を挙げますが、
適宜改行しました。


石碑「境外末社住吉神社御由緒」

 御祭神/住吉大神/底筒男命/中筒男命/表筒男命/息長足姫命(神功皇后)
 当社は天保13年3月18日大阪城代幕命を奉じ 
 摂津一の宮なる住吉大社より四座の御分霊を
 目印山(旧天保山)に勧請し 
 爾来 本社と本末の関係を以て祭祀を継続し 
 大阪三郷の関係住民及び海運業者の
 日夕の崇拝するところの守護神なり
 ついで元治元年天保山に台場の築かるに及び
 天保町に奉遷し 
 明治39年9月19日官幣大社住吉神社の境外末社となり 
 翌40年12月西区靱中通2丁目なる永代浜住吉神社を合祀し
 大正6年天保町より築港遊園地なる現在地に奉遷し 
 以て築港一円の氏神として奉斎することになれり


この碑文からは、
この地域の幕末から近代にかけての
歴史を読み取ることができます。


目印山(旧天保山)とは、
天保年間に川浚えでできた
大阪湾に築かれた人口の山です。
川浚えの際、「砂持ち」と称して、
町衆が盛大に繰り出してその心意気を競いあい、
そこに松や桜を植え、狂客たちは詩歌連俳の集いを催し、
酒宴を開いたものです。


本文では祭神を
「大阪三郷の関係住民及び海運業者の
 日夕の崇拝するところ」と記述しておりますが、
地元住民の思いは、いかがなものでしょうか?

「沿革略誌」は次のように綴っております。


●而して該住民多くは漁業を営み運漕に従事し
 海によりて生活するものなれば
 暴風怒濤のために難船すること屡にて、
 住民常に憂慮嘆息したりし結果、
 遂に同業者相図り信仰厚き住吉大神を奉祀せん事を決し、
 天保13年御分霊の遷座式を執行し
 爾来「目標山住吉神社」と称し奉れり。


「沿革略誌」では、住民の多くが漁業者であり、
海運に携わる人たちであったゆえ、
暴風怒濤への「憂慮嘆息」の思いから
住吉大神を奉祀し、恩沢を仰がんとしたと読み取ることができます。
海に出て漁をする、港で海運に携わる、
天保町の人々にとって、
「板子一枚下は地獄」といった処世観から
住吉の神のご加護もまた、
この上もなく、ありがたく感じられ
勧請したことでしょう。


「元治元年天保山に台場の築かるに及び
 天保町に奉遷し」とあります。 
「沿革略誌」では、この間の事情を
「幕府社地を破壊し砲台となすに至り、
 神社を天保町に遷し奉れり」と
綴っています。
「目標山住吉神社」は社地を奪われたのです。
いわば、天保町の住民は、
忝くも大正6(1917)年の築港遷祀に至るまでの
50年間奉祀してきました。
その間、明治38(1905)年から、
「目標山住吉神社」は
官幣大社住吉神社境外末社に編入されています。


住吉の神を奉祀してきた「天保町」とは
どのような町だったのでしょう。
この天保町は、今では海に没してありません。
戦後の安治川内港化工事により、削り落とされたのです。

この天保町について、画家である本木元一氏は、
*「私の少年時代(大正時代の末頃)海辺の天保町は、
船大工と漁師の町であった。
海岸には漁師の網や魚籠が干してあった。
真夏になるとそれらの漁師たちが、
午後の町を大きな声を張り上げて
『天保町の昼網っ』と勢いよく流して歩き、
昼寝の夢を破ったものであった」と記しています。
 *本木元一、1984年『安治川物語上』山一印刷所


天保町は、船大工と漁師の町だったのです。

「天保町」についての想像は、
戦後、八幡屋に移住してきた、
天保町出身者からも可能です。
その一人が、綱取り船の船長です。


写真図2 八幡屋の漁港


晴耕雨読 -田野 登-


その方とは、ボクが市岡高校に勤めていた時、
港区の地蔵調査がきっかけで出会いました。
もう30年程前のことです。

昨夏、訪問しましたが、留守でした。
ご近所の方に尋ねますと
港区の病院に入院しておられとのこと。
調査の帰り、見舞いに立ち寄りました。
あれほど、いろんな話を聴かせていただけたのですが、
すっかり忘れておられました。

多少、寂しい思いもしましたが、
お元気だった時、話されたのを
記録しておいてよかったとも思いました。


その方の天保町時代の話の中で、
船玉さんの話を書きとめています。
その方は大正11(1922)年、
当時の西区天保町生まれの方です。


「フナダマさんは、シケの前、
ジャラジャラ鳴って危険を報せると聞くが、
実際にその音を聞いたことはない。
ジージージーとも、ジャージャージャーとも
虫が鳴くように聞こえたともいう。
フナダマさんが騒ぐらしい」と
書きとめています。


天保町の海運業者にとっては、
何でもない話なのでしょうが、
聴く者にとりましては、
この都会の片隅で、
フナダマさんの幻聴を聞けたことは
驚きでした。


そのような町の出身者、
あるいは二世、三世が
港区の港湾地帯では
港住吉神社の氏子として
住吉信仰の伝統を継いでいるのです。

ボクは八幡屋の漁港を訪ねるたびに
どこかしら、懐かしさのような感情をおぼえます。
彼ら海に生きる人たちの暮らした「天保町」への
興味はまだまだ尽きそうにありません。


ボクは12月2日の住吉大社セミナーで、

「水都大阪をめぐる住吉信仰」を講演します。

   ↓ここをクリック

http://ameblo.jp/tanonoboru/entry-11442915132.html



究会代表 田野 登





AD
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

テーマ:

今回は、大阪民俗学研究会のメンバー4人と
京橋駅界隈を11月9日にフィールドワークしました。
その際、コムズガーデンを上がった
京橋公園にお地蔵さんを見つけました。


取り上げます「延命地蔵尊」は
なにわヒストリー
《お地蔵さんのある風景-京橋駅付近を歩く》のコースから
外れているお地蔵さんです。


なぜ外れているのか?
以下に示します由緒の解説で述べることにします。
地蔵堂傍らの扁額に記されております
「延命地蔵尊由緒」の全文を紹介します。
便宜的に改行し、記述内容ごとに番号を振りました。


写真図1 「延命地蔵尊由緒」


晴耕雨読 -田野 登-


延命地蔵尊由緒
①往昔より京、伏見との旅人の往来繁き京街道に沿う地、
摂津之国東成郡野田村坂口に在り
②文化の頃(1804~1818)より近在住民の尊崇を受け
③家内安全、安産育児、無病息災を祈願する延命地蔵尊として
衆人の日々篤き信仰に依り守り祀られて来た。
④而し世の変遷に順い、
或る時は「蒲生の墓域」に移り又、
地下鉄建設公営に伴ない両三年東野田公園に仮祀され
漸く今般京橋公園に復座建祀される。
⑤冀くは諸人を哀愍護念し給えと希い奉り茲に撰文する。
⑥維時 平成2年(1990年)陽春3月 有志合掌


構成は以下のとおりです。
①地蔵祭祀の場所
②地蔵祭祀の時代と祭祀者
③地蔵への祈願と異名
④地蔵の移し祀り
⑤撰文動機
⑥地蔵堂建立年月と祭祀組織


①地蔵祭祀の場所
「摂津之国東成郡野田村坂口に在り」とあります。
尊像の近接写真をご覧下さい。


写真図2 尊像の近接写真


晴耕雨読 -田野 登-



「摂州東成 野田 坂口」と刻まれています。
あるいは、この刻字から
「由緒」が記されたと考えることができます。

前回、ブログ「絵地図の曲線を読む」2013-11-21 21:53:26を
アップしました。
その中の*「文化年間絵地図」をご覧下さい。
*「文化年間絵地図」:玉置1980年前掲書
   第11図  増脩改正摂州大阪地図全(その一)東半 
        文化3年(1806)

この地図の三叉路を分岐する京街道すぐの所に
「野田村ノ内阪口」の表記があります。

ちなみに平成5年3月、大阪市都島区役所建碑の
「旧町名『野田町』」には、
「・・・町名の坂口町は
 大坂口の町であることの
 略称であると考えられ・・・」との記述があります。
たしかに京街道を基準にすれば、その地点は
「大坂」への出入口ということになります。


現在の地蔵堂の場所は、都島区東野田町1丁目の
京橋公園内です。
「文化年間絵地図」の三叉路の地点からは
西北西200メートルの場所です。
往時の京街道からは外れています。
だから今回、歩くコースに組み込まなかったのです。


②地蔵祭祀の時代と祭祀者
現在の「由緒」が正しければ、
「文化年間絵地図」の時代には祭祀されていたことになります。
仮にそうであったとしても
地蔵堂までも地図に表記されることはなかったと推測します。
祭祀者は「近在住民」と読み取られます。


③地蔵への祈願と異名
祈願内容として「家内安全、安産育児、無病息災」が
挙げられます。
「家内安全」という表現は、
文化年間頃から用いられていたかどうかは分かりません。
「延命地蔵尊」という異名は、
中世にまで遡ることができる「子安」とともに
古くから、汎くから認められる異名です。

「衆人の日々篤き信仰に依り守り祀られて来た」とある
「衆人」とは、前項の「近在住民」と理解されます。
しかし、京街道への通過地点であった往時においては、
旅人による信仰も行われていた可能性はあります。


④地蔵の移し祀り
地蔵尊は、しばしば移し祀られます。
それも同じ町内を転々とします。
「「蒲生の墓域」に移り」とあります。
時代からしますと
三宅貞次郎「蒲生・野江」『上方』56号1935年8月号記事の
調査の対象となりますが、
次に写真で示すような、舟形光背陽刻に
持物が錫杖・宝珠?で、これだけの背丈の地蔵尊像は
記事中の「特異な墓碑」中には見出せませんでした。


写真図3 延命地蔵尊像


晴耕雨読 -田野 登-


「地下鉄建設公営」とは、
*大阪市営地下鉄「鶴見緑地線」の工事を指します。
平成2(1990)年に花博の開催に合わせて
京橋駅-鶴見緑地駅間が開業し
当初の路線名は鶴見緑地線でした。
*大阪市営地下鉄「鶴見緑地線」・・・:
ウィキペディア「大阪市営地下鉄長堀鶴見緑地線」
最終更新 2013年10月20日 (日) 02:23


今日の地蔵堂のあるのは、京橋公園ですが、
地蔵尊は公園といった公的な場所に、
しばしば安置されます。

この安置場所の公共性をめぐっては、
「宗教か習俗か」で、大阪では、
平成3(1991)年3月27日、控訴審判決が示され
原告側の宗教とする主張が斥けられました。
このことにつきましては、
拙著『大阪のお地蔵さん』1994年、北辰堂に
詳しく述べております。


⑤撰文動機
「諸人を哀愍護念し給え」とは
時代がかった表現のようでありますが、
撰文者の思いとして、
地蔵尊に衆生済度を託す思いが表現されています。


⑥地蔵堂建立年月と祭祀組織
「維時 平成2年(1990年)陽春3月」とあります。
「京橋駅界隈の地蔵尊(1)」に挙げました
都島区片町2丁目11番地先の「二人地蔵尊の由来」には
地蔵堂建立年月は「昭和44年4月」でした。
この時は、万国博覧会開催を控え、
*京阪本線は、昭和44(1969)年11月30日に
京橋駅が移転・高架化する半年前の時で、
市街地の街路の変更があった時期でありました。
*京阪本線は、・・・京橋駅が移転・高架化:
 ウィキペディア「京阪本線」最終更新 2013年11月4日 (月) 16:14

前回の「二人地蔵尊」は万国博覧会開催に伴う
私鉄駅高架化に伴っての移し祀りであったのに対し、
「延命地蔵尊」は、花と緑の博覧会に伴っての
地下鉄駅の開業に伴うものでありました。

京橋公園の東に隣接する地下商店街の*コムズガーデンの
開業日は、平成2(1990)年3月20日です。
 *コムズガーデン:
 ウィキペディア「コムズガーデン」
 最終更新 2013年8月19日 (月) 05:28


奇しくも、この地域が鉄道駅工事により
再開発が行われたのかを物語るものです。

「有志」とありますのは、地蔵尊の
移し祀りに関わった周辺に住む
町内の有志の人たちと推察します。


今回、取り上げました「延命地蔵尊」からも
地域の再開発の歴史の一端を知ることができます。
やはり地蔵堂は、地域の記憶遺産なのです。

新しい花が供えられております。
地域の人たちの暮らしの中に
お地蔵さんはおられるのです。


写真図4 延命地蔵尊地蔵堂


晴耕雨読 -田野 登-



11月27日(水)午後実施の
《お地蔵さんのある風景-京橋駅付近を歩く》についての
お問合せは、OSAKAゆめネットまで
  ↓ここをクリック
http://ameblo.jp/tanonoboru/entry-11628526645.html

1


究会代表 田野 登

AD
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

テーマ:

住吉大社セミナー「水都大阪をめぐる住吉信仰」の
講演の日が近づいてきました。


昨日11月22日、午前中、

謡曲「弱法師」(よろぼし)の
「住吉の松の隙(ひま)より眺むれば・・・」など
授業で朗読し
午後には、
打ち合わせのため住吉大社に参りました。


翌日に新嘗祭を控え
ご多忙のところ権禰宜の小出英詞氏に
お会いでしました。


今回、住吉大社に参ったのには
訳があります。
表紙の太鼓橋の写真の目が粗くて
撮り直すことが、その一つ。

写真図1 書き換えた表紙


晴耕雨読 -田野 登-


タイトル「水都大阪をめぐる住吉信仰」を
どうしても緑で表現したくなりました。


今回の講演では、「水都大阪」を
とりわけ「北祭」にまつわる
港区築港1丁目に鎮座する
「境外末社港住吉神社」との関連を切り口に
港で働く人たち、
漁業に携わる人たちにとっての
「住吉っさん」についてお話ししたいと思います。


太鼓橋の写真を撮っておりましたら、
思わぬ来訪者に出くわしました。
神池の鴨です。

写真図2 神池の鴨


晴耕雨読 -田野 登-


ボクにとりましては今季2度目の鴨との遭遇です。
1度目は、市岡コース下見の時の
尻無川右岸瓦屋倉庫下の川面でした。

なぜか、ボクの訪ねる場所では鴨に遭遇します。
「水都大阪をめぐる住吉信仰」のPowerPoint完成間近です。


究会代表 田野 登

いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

テーマ:

前回、絵地図の通称「蒲生墓」と水路の位置関係が
現在の地形が東西反対になっていることを
取り上げました。
この問題を解くことから始めましょう。


写真図1 *陸地測量部大阪地図


晴耕雨読 -田野 登-



*陸地測量部大阪地図:玉置同書
 第22図 陸地測量部大阪地図 明治19年(1886)

写真図1によって墓地をご覧下さい。
右中央やや下に右から「野田村」とあります。
その下、地図の右隅中央下部に右から「字西七反田南」
その下に右から「蒲生村字外嶋」が見えます。
その間に墓地の表記が見えます。
これが通称「蒲生墓」です。

それでは、近世絵地図に通称「蒲生墓」より西にある水路は?
見たらないのです。


墓より東(右)になら見えます。
鯰江川から墓の所で分かれて
北上する水路が描かれております。


写真図2 JR京橋駅北口の地図


晴耕雨読 -田野 登-

現在の地図で確認しましょう。


南から、寝屋川があります。
北にJR学研都市線があります。
さらに北には京阪本線が北東にカーブしています。
問題の通称「蒲生墓」は、その間にあります。

歩けばJR京橋駅東の商店街を東に行けば
大阪市建設局東野田抽水所があります。
その南で、昔の鯰江川跡土手道の下に東西に、
土手道に沿ってあります。


問題の水路跡は、通称「蒲生墓」を東に出て
最初の道路を抽水所を左に見て、まず北東に行きます。
国道一号線を渡り、桜宮中学校を過ぎたあたりから
道路が左に緩やかにカーブします。
そのあたりから、京街道跡の商店街が近づきます。
まさに絵地図の表現する水路と

街道に挟まれたエリアにさしかかります。
その後は、当日、案内します。
前回の冒頭に挙げました浜田レポートのとおりです。


『上方』56号記事にあります「悪水路の付け替へ」の
痕跡は見当たりません。
近世絵地図が、墓と水路の位置関係を
東西を逆に表記し続けていたのを
墓地の位置を確定したゆえに
水路の掛け替えと解釈したと
ボクは考えます。


それは、明治の実測図に照らした上で
今日の水路跡道路の道の湾曲と
絵地図の2度湾曲する曲線との対応によります。

近世絵地図には、左右の位置関係の取り違えはあります。
それも版を重ねています。
この通称「蒲生墓」と水路との関係がそうでした。
しかし、水路の曲線は正しく表現されております。
ボクは、実際に踏査して描いたとは考えておりません。

まさに水路と街道に挟まれた場所に刑場が描かれております。
その施設が街道筋の狭まった場所に
位置していたことを意味するのです。

その証拠は?

地蔵堂に求められます。
現在、京街道を挟んでの向かい側(西側)に
町内で祀る立派な地蔵堂があります。

かつて、ボクはこの地蔵堂を
調査したことがあります。 
*その時の記事を引用します。
*その時の記事:田野登「京橋駅界隈原風景(下)」
   『大阪春秋』71号、1993年6月、写真キャプション
●都島中通三丁目14番の路上にある地蔵堂。
 その傍らに木製の塔婆が立てかけられていて
 「・・・為野江刑場於死刑無縁之諸霊・・・」と墨で記されている。


写真図3 当時の都島中通三丁目14番の路上にあった地蔵堂


晴耕雨読 -田野 登-


この地蔵堂につきましては、*『大阪のお地蔵さん』にも
取り上げました。
 *『大阪のお地蔵さん』:

  田野登1994年『大阪のお地蔵さん』北辰堂


●往時、京街道と奈良街道との分岐点がこの地であった。
 京街道は現在の京橋商店街に沿ってあった。
 京阪京橋駅のある京阪モールから歩いて
 15分もしたとところの左手に、地蔵堂がある。
 もちろんそろそろ場末らしく
 商店街の賑わいも絶えるあたりである。
 木製の塔婆が立っている。
 読めば「・・・為野江刑場於死刑無縁之諸霊・・・」とある。
 消えかかった墨の字は「野江刑場」と読むことができる。
 早速、向かいのお爺さんに尋ねたところ、
 この地蔵堂から京街道を挟んで反対側の、
 南北に細長く続く商店街一帯が、
 刑場跡であるとのことを知らされた。


件の施設は、街道と水路に挟まれた
すぼんだ場所にあるのであって、
ことさらマチの交叉するような場所ではありません。
そこには、現在も町内の人たちが
地蔵尊を祀り町内の安全を祈願しておられます。

地蔵堂を調べて歩けば、
しばしば災厄を除けるために
尊像を安置し、祀り込めることがあります。

大正区の調査におきましては、
木津川口刑場跡地に「浪除地蔵」が祀られていました。


絵地図の曲線を読むことによって
街道と水路に挟まれた場所を特定しました。
その地が刑場跡地であって、
今日にあっては、
町内の安全を祈願する

地蔵尊が安置されているのでした。


究会代表 田野 登

いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

AD

ブログをはじめる

たくさんの芸能人・有名人が
書いているAmebaブログを
無料で簡単にはじめることができます。

公式トップブロガーへ応募

多くの方にご紹介したいブログを
執筆する方を「公式トップブロガー」
として認定しております。

芸能人・有名人ブログを開設

Amebaブログでは、芸能人・有名人ブログを
ご希望される著名人の方/事務所様を
随時募集しております。