晴耕雨読 -田野 登-

大阪のマチを歩いてて、空を見上げる。モクモク沸き立つ雲。
そんなとき、空の片隅にみつけた高い空。透けた雲、そっと走る風。
ふとよぎる何かの予感。内なる小宇宙から外なる広い世界に向けて。


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前回、「水都」の実像の末尾に
「煙の都」の悲惨を述べると予告しましたが、
今回は、接続市街地の「近代」を取り上げ、
この「悲惨」の前提として、
接続市街地における修史作業の問題点を記すことにします。


接続市街地における修史作業の問題点を雄弁に述べておりますのは、
西成郡長・大津敏男の記す『鷺洲町史』の序です。
時は、大正12(1923)年、西成郡鷺洲町が「大大阪」に編入される時です。
以下、「テキスト」と表記し、適宜、改行し行末に行数番号を付します。


●夫れ都市は近世文明の中核にして、一国の文化は先つ都市に結晶し、:①
 殊に輓近の趨勢は益々都市集中の傾向を示し為めに :②
 田園の老幼競うて都門に蝟集し、 :③
 都市は其の質と量とに於て愈々其の大を致せり、 :④
 大都市の近郊亦都市に横溢したる人口を享けて日に月に発展し、 :⑤
 農耕地は変して商工の巷と化し、旧態を全く見る可からす。 :⑥
 豈夫れ桑滄の変のみならんや、 :⑦
 如斯して急速に発展したる接続市街地に住居するもの多くは :⑧
 其の地に生れず、其の郷の由来を知るもの蓋し稀なり。 :⑨
 顧るに吾か鷺洲町は第一次の大阪市域変更の当時に在りては :⑩
 中津川に沿ふ寒村にして、桃源の夢平和に生民皆農を業としたりしか :⑪
 爾来星霜幾十たひ、 :⑫
 今や大工場櫛比し商売麕集し以て殷賑なる商工業地帯と化し、 :⑬
 都市と擇ふ所なく昔日の面影を止めす、 :⑭
 名所漸く泯ひ(ほろひ)旧蹟偲ふに由なし。 :⑮


このテキストを読む作業を通じて、
接続市街地における、都市の伝承を見ることの
限界と可能性を探ってみたいと考えています。

テキスト①「近世文明」は、「近代」の文化の物質的な面でありまして、
文化の都市集中の傾向を述べています。

テキストは、③「田園の老幼競うて都門に蝟集し」と述べています。
⑤「大都市の近郊亦都市に横溢したる人口」ついての解釈ですが、
「大都市の近郊亦都市」とは、
接続市街地および市街地(以下「接続市街地」と要約します)です。
③「田園の老幼」とは、
地方の農村からやって来た人たちを指すのでしょうか?
「老幼」は、農村からやって来た人々全般を指すとしか解釈できません。
この人たちにとって、接続市街地とは何だったのでしょう。


そこで、テキストは接続市街地および市街地の変化を
「農耕地は変して商工の巷と化し」と述べます。
これは、近代化に伴うムラからマチへの変化です。
行政的には、村から町への変化で、
この地におきましては、
明治22(1889)年に近世以来の浦江村が、鷺洲村になり、
明治44(1911)年には、鷺洲町になります。
さらに、この町史編纂直後の大正14(1925)年には、
大阪市の第二次市域拡張により、大阪市に編入されます。


テキストは、ムラからマチへの変化の記述に続き、
⑧「急速に発展したる接続市街地に住居するもの」について、
⑨「其の地に生れず、其の郷の由来を知るもの蓋し稀なり」と記します。
新しく流入して来たマチの住民は、
この地に生まれていない者ばかりで、
この地のムラの歴史も習俗も知らないというのです。

急激な都市化の波は、各地から吹き寄せられてきた人たちによって、
マチを形成しました。
かつて、このムラに行われていた生業はもとより、
生業にもとづく神事や祭礼といったムラの伝承を
多数を占める新しい住民は知らないのです。


テキストは、以下、このマチ化現象を如実に記述します。
すなわち、明治22(1889)年の市制町村制施行当時の当地を
⑪「中津川に沿ふ寒村」と云い
その生業を⑪「桃源の夢平和に生民皆農を業」と表現しています。
それに対し、
大正14(1925)年の大阪市の第二次市域拡張による
大阪市に編入される「今」を
⑬「大工場櫛比し商売麕集し以て殷賑なる商工業地帯」と表現しています。

ムラからマチへの変化は、景観の変化をもたらせました。
農村であった地域に、さまざまな施設が建ちました。


マチへの変化について、
拙著2007年『水都大阪の民俗誌』和泉書院には、
⑬の「商工業地帯」を、具体的に次のように記しました。
●明治27、8(1894、95)年の日清戦争後の
 大阪市の発展が影響し、浦江では(明治30(1897)年)岡島友仙創業に続き、
 同32(1899)年鉄道用達合資会社、日本刷子木管株式会社と連なる。
 それに伴って、労働者向けの家屋が建ち、道路が新設され、
 巡査派出所、郵便局の設置、寄席・料理屋・飲食店・小売諸商店の開店、
 会社・工場のあいつぐ創業へと急激な都市化が進行する。


テキストは、この接続市街地が都市と何等変わらなくなり、
かつてのムラの面影をなくしたことを嗟嘆します。
⑮「名所漸く泯ひ(ほろひ)」「旧蹟偲ふに由なし」と記します。

もはや、この地の名所・旧跡が湮滅してしまう虞を述べています。

このような危機意識のもとに、
大正12(1923)年、テキスト『鷺洲町史』が編纂されます。

この事業は、市域拡張により消えてなくなる「鷺洲町」の歴史を
顕彰するためのものでありました。
いわば「近代」による地域の修史作業であります。
古老が健在で、古文書が保存されている地域ならばともかく、
ややもすれば、この町史編纂作業は、
新たに名所・旧跡が記述されることにもなりかねません。
その記述には、「近代」に共通する解釈が加わっていることだってあります。
歴史の空白部分に「近代の伝説」が顔を覗かせたりもします。
当然、町史の記述の信憑性には、地域による高低が生じます。


このように急激に市街地化が進行した地域における
地域史記述の限界は、記述する時点での伝承者の不足にあり、
その記述は検証されなければならない危険性をも孕むものです。
今後の地域史研究の可能性は、「近代」における新たな解釈の層を
丹念に取り除いた先に見出せます。


以上に述べました接続市街地における問題点は、
近代における修史作業全般におよぶものと考えます。

いずれ「近代の伝説」については、述べることにします。
今回は、「煙の都」の悲惨を述べる前提に終始しました。
次回こそ、接続市街地の悲惨を記述しましょう。

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「野田新家いまむかし」を記しましたが、
今回、「肥船差し止めをめぐる野田新家」と題して
上荷船を擁した野田新家村が遭遇した出来事の顛末と
その周辺農村の事情を記します。


野田新家村が遭遇した出来事とは、
周辺農村が起こした肥船をめぐる騒動です。
以下、その件を記します。
テキストは、住田正一編纂1929年『海事史料叢書』第3巻巌松堂です。


●一元禄十六癸未年十月廿三日、太田善太夫殿、松野河内守殿御代、
 摂州西成郡下中島之内十三ケ村、庄屋年寄り訴出候は、
 こへ船にて御城米又は弐俵三俵宛のこりの米、其外少宛の荷物積候処、
 野田新家村前に、上荷茶船より番船を出し置き差留、
 迷惑仕候由訴状差上候処、
 同十一月二日、右村々庄屋年寄被召出、
 被仰渡候は、大坂川内之儀は上荷茶船働場に候へば、
 屎船に米或は大豆油粕干鰯、其外の荷物、尤村より切出し候竹木等も、
 屎船に積候儀、先年より不成儀に候へば、
 当年初て改候儀に無之候。
 上荷茶船之働妨に罷成儀に付、
 御取上不被成候。以来於相背は急度可被仰付由被仰付、
 訴状御戻し被成候事。


「元禄十六癸未年」とありますので、「忠臣蔵」の題材となった
「元禄赤穂事件」での、赤穂浪士吉良邸討ち入りの約1年後のことです。
トラブルを起こしたのは、野田新家村周辺の
摂州西成郡下中島之内十三ケ村の農民たちです。
彼らは「こへ船」(肥船)を使って、
米、大豆、油粕、干鰯、竹木等を運んでいましたところ、
野田新家村前のところで、これを阻まれ、訴訟を起こしたのです。

農民たちが肥船を使って、さまざまな品物を輸送し売買すること自体
御法度です。

いっぽう、野田新家は、七村上荷船を許可された村です。
当方は物流を許可された村でした。

テキストの「七村上荷船組頭船数」によりますと、
「七村上荷船九百弐拾艘/是は川崎天満之三軒屋過書町福島野田伝法、
此七カ所より乗初、七村と号す」とあり、
「四拾弐艘 石原新十郎殿御代官所 下福島村弥左衛門」
「四拾弐艘 石原新十郎殿御代官所 上福島村 甚右衛門」
「四拾弐艘 右同断 中福島村長兵衛」
「石原新十郎殿御代官所/四拾弐艘 野田新家村 升屋弥兵衛」
「四拾五艘 石原新十郎殿御代官所筆頭 野田新家村 治兵衛」
「四拾弐艘 石原新十郎殿御代官所 中福島村 弥兵衛」

現在の福島区に位置する村は
上中下の福島、野田新家、都合4村挙げられ、
6名明記されています。
そのうち、野田新家は2名です。
上荷船の艘数にして、野田新家は87艘を擁していました。
野田新家には、市中の川に物品を輸送する船が
多数所持されていたことがわかります。


写真図1 安永6(1766)年版『難波丸綱目』

(大阪府立中之島図書館所蔵)


晴耕雨読 -田野 登-

 


「七村上荷船筆頭」に「野田村新家 枡屋作右衛門」と見える。




そういった、川内船を多数擁する村の前浜に
農民たちの肥船が荷物を積み込むといった騒動が起きました。
差し止めたのは野田新家の船持たちです。
その差し止めに訴状を役所に提出したのは、周辺の村々です。

裁きは、明快でした。

「上荷茶船之働妨に罷成儀に付、御取上不被成候」
農民たちの行動が上荷茶船に定められた権益の妨害に当たるとして
農民側からの訴状は取り上げられませんでした。


ちなみに農民たちが小便船で町屋へ青物類を売りに出ることは
宝永2(1705)年12月12日にも停止されています。

しかし、次の記事があります。

●こやし等取に参候節は、音信杯に青物類四五把計積候儀は、
 其通之事に候旨、御書付を以被仰付候事。
 
馴染みの町屋に肥汲みの際、大根などをご挨拶に置いてくるのは、
年中行事のようになっていたのです。
いわば、下肥と青物の物々交換は慣例化していたのです。


このように野田村のうちでも、その枝郷である新家は、

格別、河川を生業の場とする人たちの住む場所でしたが、
そこには渡船場も設けられました。
テキストに次の記事があります。


●一摂州大道村左平太御請負渡し船之儀は、
 *1延宝四辰年彦坂壱岐守殿、石丸石見守殿御代、
 江戸堀土佐堀之下より南伝法村、北伝法村、九条村、六軒屋村四ケ所之
 船渡し被仰付、
 其後*2小田切土佐を守殿御代、
 野田新家村より伝法へ之渡し被仰付候。
 此増運上銀は六拾目、此銀は川役人支配にて仕来候(以下略)
*1延宝四辰年:1676年。
*2小田切土佐守殿御代:天明3(1783)年4月19日~寛政4(1792)年1月18日


写真図2  安永6(1766)年版『難波丸綱目』
    (大阪府立中之島図書館所蔵)


晴耕雨読 -田野 登-


「川渡請負人」に
「藤のだ村 あふらや新兵衛」「西野田村 よしや庄七」と見える。

小田切土佐守殿御代に野田新家村より伝法へ渡船が設置されたのです。
伝法は、早くから物流拠点として栄えていました。
万治元(1658)年には、北伝法に、南伝法にも
やがて廻船問屋があらわれています*。
 廻船問屋が・・・ます*:柚木学、1979年『近世海運史の研究』法政大学出版局


伝法は、安治川が新堀として開削される以前、重要な廻船の拠点で
酒や醤油などを江戸へ積み出していました。
一時ほどの勢いが衰えたとはいえ、
そのような物流の先進地・伝法と野田新家が結ばれたのです。


いずれ、『海事史料叢書』の通覧を終えたところで、
本ブログに野田新家情報を追加更新したいものです。

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今回は「水都」の実像に迫ろうとします。
今回も拙著2007年『水都大阪の民俗誌』和泉書院を
資料として用います。


明治42(1909)年10月、
箕面有馬電軌(現在の阪急電鉄宝塚線)による
風光明媚な郊外住宅を売り出す時の
パンフレット「如何なる土地を選ぶべきか」の冒頭は、
次のとおりです。


①美しき水の都は昔の夢と消えて、
 空暗き煙の都に住む不幸なる我が大阪市民諸君よ!
 出産率十人に対し死亡率十一人強に当る
 大阪市民の衛生状態に注意する諸君は、
 慄然として都会生活の心細きを感じ給うべし。
 同時に田園趣味に富める楽しき郊外生活を懐うの念や切なるべし。


この挑発的な、まるで大阪市民に降伏を促す伝単(宣伝ビラ)のような
文句を連ねたのは、
後の阪急電鉄の総帥となる小林一三です。
都市民俗の「近代」に、小林一三の「如何なる土地を選ぶべきか」を
取り上げましたのには、訳があります。


大阪の「近代」を論じるのに、「水の都」(以下、「水都」とも)は、
キーワードして、用いられた時代があります。
それは、明治40年代です。
大阪で第5回内国勧業博覧会が開催された
明治36(1903)年ですから、そのすぐ後です。


管見によれば、明治41(1908)年3月、友松会発行の
『おほさか』児童叢書おほさか地理の巻が
大阪を「水の都」と呼称する表現の上限の用例です。


②市内を縦横に通ってゐる河には大小の船が上下し、
 大厦高楼が影を倒にうつし、
 夜などは電気燈や瓦斯燈の光が水にうつつて、
 大阪市が水の上に浮んでゐるよーで、
 ちよーどイタリヤと云ふ国のヴェニスと云ふ町のよーです、
 それで世の人は大阪を水の都ともいふてゐます、
 河が多くあるから橋の数も亦多いおそらく日本一でせう。


この学校の副読本の記事などは、
イタリアのヴェニスを引き合いにして、
大厦高楼(タイカコウロウ)といい、電気燈、瓦斯燈を挙げるなど
西洋文明に浴し、近代化しつつあった大阪市を
称賛した記事でして、
近代の都市景観を湛えるものです。


友松会『おほさか』児童叢書の後、「水の都」が見られますのは、
明治42(1909)年4月、日本電報通信社支局発行の『大阪案内』239頁です。


③・・・・大川の夕凉み舟遊びは大阪人四季の行楽中
 最も大袈裟に且つ盛んなるものにして
 げに水の都ならでは見ること能はざる名物の一


これなどは、大川の夕涼み舟遊びを取り上げたもので、
狭隘な街区に住む大阪人にとって、
近世以来、水辺は格好の行楽の場所でした。
ここには、①の小林一三の伝単ふうの「毒」など感じられません。


次に示しますは、③『大阪案内』と同じ本の序、2~3頁です。
序に相応しく、本文と比べ対句が散りばめられた格調が高い文章です。


④大阪は煙の都なり水の都なり。
 煙と水とにて彩れる大阪は
 実に日本の大都会にして亦日本商工業の中心たり。
 見よ工場より高く吐き出して蒼空に飛散する煙は
 一面の雲となつて十重二十重に大阪を包めるにあらずや。
 百尺の飛虹とも見るべき。
 幾多の橋影を倒涵して流るゝ所の水は
 縦横に大阪を囲めるに非ずや。
 前者は今の大阪を語り後者は古の大阪を示せり。
 煙突の下には諸種の工業行はれ富の増殖行はる。
 試みに大阪市内の煙突を挙ぐれば高さ六十尺以上
 石炭を燃料とせるもの七百余基。
 其高さ十間以下のもの及び工業を目的とせざるものを加ふれば
 総数一千基に上るべし。
 斯の如きは亦此れ一種の壮観ならずや。
 今の大阪の繁栄十中の七八は蓋し之に因す。
 又河川に就て見んか。
 大阪市街到処に大小の河川あり以て商舶賈船の出入に便す。
 是を以て封建の代諸侯の蔵屋敷あり。
 又大阪の二十四組問屋と江戸の十組との間に行はるゝ賈買の為めに
 往復する所の菱形廻船あり。
 伏見と大阪との交通の為めに淀川を上下する過書船あり。
 昔の大阪の繁栄は全く之に頼りき。


ここに挙げました『大阪案内』序からしますと、
「水の都」を謳った明治の末という時代は、
時すでに「煙の都」と称された時代でもあったのです。

ここでは、「煙」を「百尺の飛虹」と讃え「今の大阪」を語ります。
すなわち工業が行われ、「富の増殖」を見るというのです。
その時代、「水」は既に「古の大阪」と表現しています。

すなわち「大阪市街到処に大小の河川あり以て商舶賈船の出入に便す」と述べ、
以下に往時の水都風景を連ねています。
そこでは、蔵屋敷・二十四組問屋・菱形廻船・過書船を挙げ
「昔の大阪の繁栄」と謳っています。

「水の都」はすでに失われつつある光景なのです。
「水の都」と謂い、「烟の都」と謂いますが、
「近代」の趨勢は、商業都市から工業都市へと
シフトしていました。

工業化の著しい近代になってはじめて
近世の水都景観に気づいているのです。

「水都」は、「烟都」と対句になっていて、
水都を「昔」とする「近代」のパラダイムは、
〈煙-工業-富の増殖〉に傾斜しています。
陸上交通の盛んになりつつある時代において
もはや軸足は「水」にはないのです。

この『大阪案内』は、明治42(1909)年4月発行です。

①に示しました小林一三の伝単ふうの「如何なる土地を選ぶべきか」が
出回る半年前のことなのです。
「美しき水の都は昔の夢と消えて、/空暗き煙の都」で
始まる新住宅宣伝文は、
「大阪は煙の都なり水の都なり。煙と水とにて彩れる大阪」で始まる
『大阪案内』の序文の着想を借用してきたとみることもできます。

ただし、後の阪急電鉄の総帥の名誉のためにも
次にあげる文章が、先行することを示しておきます。
(『大阪春秋』第132号:2008.10:*拙稿「失われし水都の情景」による)
*拙稿「失われし水都の情景」:なにわ大阪民俗資料館
http://homepage3.nifty.com/osaka-web-museum/tano-list.htm


⑤桜宮の春景ハ前に淀川の流をひかへ、
 屋形家根船数をつどへて諷ふあり舞ありて、
 歌妓の妙音川風につたへ実に浪花の一佳景といひつべし。
 尚此川向ひ川崎には近年金吹場をしつらひ
 煙出しの高きこと天をつらぬき其形粧衆人の目をおどろかせり。
 そらにすつ煙を余所に花くもり 半水


この文章は、初代長谷川貞信「浪花百景」の内の
「桜乃宮春景」の画賛です。
画賛を書いたのは、戯作者・一荷堂半水です。
この錦絵が描かれたのは、明治初期と推定されています。


写真図 初代長谷川貞信「浪花百景」の内の「桜乃宮春景」
(大阪府立中之島図書館所蔵)


晴耕雨読 -田野 登-


画賛は、半水自身の狂句
 「そらにすつ煙を余所に花くもり」で結ばれています。
この春景の図像の左に異様な煉瓦組みの造形物が描かれています。
それは、「煙出し」煙突です。
このミスマッチは、いったい何だ!


満開の桜花を滑るように大川を下る屋形船からは川風に運ばれて
「歌妓の妙音」が聞こえて来る長閑な光景です。
画賛はこれを承けて
「尚此川向ひ川崎には近年金吹場をしつらひ
煙出しの高きこと天をつらぬき
其形粧衆人の目をおどろかせり」とつなぎます。


目覚ましきことは、対岸に出来した金吹場の「煙出しの高きこと」です。
その煙で花曇りになったと云うのです。
そこには、伝統的な感性に「近代」との遭遇を余儀なくされた
錦絵師と戯作者の驚きが表現されています。
文明化開化を控えた明治初期に生きる人の感性を
無知蒙昧と言い放つことはできまい。
やがては大阪の水際に煉瓦造りの紡績工場が建ち煙突が林立する
「煙の都」を謳歌する時代が到来するのですから。


都市民俗の「近代」ということで、
「水都」の実像に迫ろうとして、
冒頭に小林一三の「如何なる土地を選ぶべきか」を取り上げましたが、
本当のところは、何が「近代大阪」の実像か、
虚像なのかわかりません。
いずれも、表現者の意図がはたらいています。

あらゆる実像、史実など「実」のつく漢語が
そうでありますように
「近代」というのも、見方を変えますと
さまざまな局面が見えてきます。
切り取り方次第で、光と影が見え隠れするものです。
「近代」もまた百面相なのです。


以下、都市民俗の「近代」を
ボクの切り取り方で紹介しようと考えています。
いずれ「阪急文化」の創始者たる小林一三による郊外住宅の
鏑矢である池田の室町住宅を取り上げ、
彼の地における都市民俗を述べることにもなります。
その前に「煙の都」の悲惨を述べるのが順序でしょう。


9月3日、エル・おおさか文化芸術サロンの第1回として、
「大阪における都市民俗」を話します。

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民俗学という学問分野は、
自国民において今日、伝承される文化事象を探究する学問です。

このような学問分野におきまして、
ボクは、30年ほど、大阪をフィールドに調査し、研究してきました。


地蔵信仰を軸とする民俗宗教。
川筋にわずかに生きる生業。
問屋から露天商にいたる商業。


これらの学問領域をまとめたのが
『水都大阪の民俗誌』(和泉書院2007年。以下「拙著2007年」)です。
この著のフィールドが大阪という都市であることから、
「都市民俗学」として、独自の分野の確立を図ろうとしました。
ボクのフィールドは、幸いなことに近世以来、多くの文献資料を
得ることができることから、自ずから、通時的研究を試みました。


以下、「都市民俗の「近代」」と題して、
しばらく、民俗研究における
「都市の近代」を考えてみようと思います。


拙著2007年の《第3編 34 現代民俗学への傾斜》に
都市民俗について、次のように記しております。

①このように都市民俗研究の動向をたどってみると、
 「現代民俗」に包含され得ない「都市民俗」の領域が存在することを
 主唱する研究は限定的なものとなる。
 「城下町都市民俗論」以後、
 さまざまに歴史的形成過程の異なる都市・マチであった
 宿場町・港町・門前町・鉱山町・漁師町・・・・といった
 地域における都市民俗研究の成果は、けっして多くない。
 そういったなかで、
 金子毅は、2003年『八幡製鉄所・職工たちの社会誌』(草風館)を上梓した。
 この著作は、八幡製鉄所の近代を職工への聞き書きを軸に展開し、
 近代の地方都市・八幡(福岡県北九州市)を歴史的変遷を踏まえたうえで、
 「鉄都」を冠する都市の消長を論究している。
 この論考は、フィールドの場所性によって「近代」に限定されるものの、
 とりあげられた種々の伝承からは
 時代のパラダイムシフトが読み取られる民俗誌でもある。


*『八幡製鉄所・職工たちの社会誌』の地方都市へのまなざしは、
ボクと重なり合います。
 *『八幡製鉄所・職工たちの社会誌』:
 http://www.hanmoto.com/bd/isbn978-4-88323-130-0.html

この書は、都市をフィールドとした歴史民俗学の成果です。
都市における民俗の通時性を追究する場合、「近代」をなおざりにできません。
「近代」の記述は、近世と現代の間を埋めるといったものではありません。
「近代」における民俗事象を、同時代の事象として、
共時的に評価されねばならないと考えます。


辞書の「近代」には
「今に近い時代」「近ごろ」(『広辞苑』第5版、1998年)とも
「日本史では一般に,
 明治維新から太平洋戦争終了までの時期をいう」ともあります。
(*コトバンク デジタル大辞林の解説)
*コトバンク:http://kotobank.jp/word/%E8%BF%91%E4%BB%A3  2013/07/24

都市民俗の「近代」について、考える場合、
日本史で一般に用いられる時代区分を適用し
明治維新から太平洋戦争終了までの時期を指すことにします。


「近代」は、もちろん、時代を指すだけでなく、
英語の“modern”の漢語訳でもあります。
多様な文化事象を指します。
そこに民俗文化の「近代」を見ることが可能です。

拙著2007年におきましても、民俗文化の「近代」を記述しました。
拙著2007年は、3編からなります。

 第1編 大阪の都市民俗誌研究の領域
 第2編 水都大阪の民俗誌
 第3編 「大阪」をめぐる都市民俗研究史


《第1編 大阪の都市民俗誌研究の領域》は次の2章からなります。
 第1章 近世大阪の都市民俗誌
 第2章 近代大阪の都市民俗誌


第2章が都市民俗の「近代」についての記述に当てています。
さらに第2章の構成は、次のとおりです。


 5 近代大阪の都市民俗の展開
   -文献資料にみる近代大阪の民俗文化-
 6 堀江の子供の民俗空間
   -町家での暮らし
 7 此花「奴隷島」の近代女工の都市生活
   -寄宿舎での暮らし-
 8 阪急池田室町住宅の都市民俗
   -郊外住宅での暮らし-
 9 池田チンチン坂から見た都会
   -近郊農村と都市の民俗的連関


このように、異なる場所の「近代」を述べました。

以下、これらの記述を資料として、
次に設定する項目に沿って述べる予定です。


1 景観の「近代」
2 衣食住の「近代」
3 人生儀礼の「近代」
4 年中行事の「近代」
5 生業の「近代」
6 家族の「近代」
7 伝説の「近代」


「エルおおさか」での講座「大阪における都市民俗」は、
9月3日(火)です。
準備を始めることにします。

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今回、阪俗研は「海老江だんじりツアー」を
7月18日の宵、挙行しました。
参加者はボクを入れて6名でした。


何より、ありがたかったのは、
*大阪市スポーツチャンバラ協会代表理事(会長)である 
大平雄喜会員が、 福島区歴史研究会の写真撮影を兼ねて
*大阪市スポーツチャンバラ協会:http://osakasi-spochan.jimdo.com/
参加されたことです。
ボクのカメラでは、この夜間のダイナミックな行事の撮影が不能なので
手ぶらで参加しましただけに、ありがたかったのです。


今回の報告の写真撮影は、すべて大平雄喜会員によるものです。
以下、写真を軸に、平成2年調査の記録を交えながら報告することにします。


野田阪神7時集合の定刻を5分過ぎて、
お宮さんに向けて、ブラブラとマチ歩きを始めました。
遠くに地車囃子が聞こえてきたりします。
あまりの露店の賑わいに、参道をすり抜けて、
東の鳥居で待機することにしました。


8時前、何やら動きがありました。
北之町の太鼓が低い音で打ち鳴らされます。
まさに祭り気分を演出する音です。
毎年、宮入は北ノ町の枕太鼓を筆頭に、
以下三町の順番は毎年繰り上がります。

あの緩やかに打ち鳴らされる太鼓の音が
見物人には、祭り気分をかき立てるのです。
鳥居前に変化がありました。


写真図1 かわいい子たちのお出迎え




晴耕雨読 -田野 登-


人いきれの中を一陣の風が吹き抜けました。
かわいい子たちが境内に入場します。
手に手に弓張提灯を持ち、
揃いの浴衣には左三巴と木瓜の神紋。
中に、白い股引に地下足袋、手拭い頭にと、
格好が決まっているじゃありませんか。
まさにダンジリ予備軍です。
女児もいます。
「児童委員」の襷をかけた男性が誘導しています。


催し太鼓は、鳥居前まで来て、いざ宮入かと
気分をそそっては、引っ返します。
北之町役員は、じらすのが役目だともおっしゃいます。
何度、期待が外されたことでしょう。
さあ、いよいよ本番です。
催し太鼓の音が、荘厳さを増します。
高張り提灯を先頭に弓張り提灯、梵天と続きます。
梵天が突き上げられます。

北之町太鼓の宮入です。


写真図2 北之町太鼓宮入


晴耕雨読 -田野 登-


鳥居前で「男たち」を演じている男性の表情を御覧下さい。
さまざまな顔をしています。
肩を入れ、きばって、担ぎ上げているのです。
この人たちは、日頃、どんな仕事をしているのでしょう。
サラリーマンなんでしょ?
クリカラモンモンと呼ばれる渡世人など想像だにできません。


写真図3 北之町太鼓


晴耕雨読 -田野 登-


狭い参道を通りぬけると境内です。
一斉に拍手が起きます。
見物人が本社前の境内を取り囲んでいます。
「男たち」は、太鼓を差します。
差し上げる時、「エライヤッチャ エライヤッチャ」と
見物人が囃し立てます。

境内を練った後は、しずしずと地車蔵に収まります。

頃合いを見計らって鳥居の外で地車囃子が聞こえてきます。
西之町だんじりの宮入です。

写真図4 西之町だんじり


晴耕雨読 -田野 登-


海老江のダンジリは、いずれも河内型と聞きます。
あのせわしない地車囃子は、大太鼓、小太鼓、鉦が奏でます。
笛は入りません。
大太鼓の野太い音が響きます。


西之町は、境内に入るや、蜘蛛の巣を手水舎に投げつけ
派手なパフォーマンスが始まりました。

「男」たちに混じって、何やら女性もいるようです。
右下に髪を染めたポニーテールの人が写っています。
彼女の前の人物の股引には「西姫」の文字が見えます。
この人物も女性でしょう。
「西姫」の文字は、団扇にも「西之町 西姫」と見えます。
この女性は、「男たち」の周りにいて、
 団扇で扇いでに加勢しているのです。

平成2年度の調査では
「ダンジリには女の子は乗せない。引っ張るだけ」と
「枕太鼓は宮入以外の時には女の子にも叩かせる」と聞きました。
祭事におけるジェンダーによる役割分担があり、
性差によって、役割を分節しているのです。
ジェンダーによる役割分担に反映されているカミ観念は何なのでしょう。
はたして今でも、このことは守られているのでしょうか?
祭事におけるジェンダーによる役割分担に変化があるにちがいありません。
このことに焦点を絞って探ってみたくもなります。


「中老」の掛ける襷の色、鉢巻きの色、団扇の色は水色です。
襷の色分けは西は水色、南は桃色、東は黄色、北は白色と聞きました。
四町は、色によって区別しているのです。
(この色の意味を聞くことを怠っています。)

西之町のパフォーマンスのたけなわの頃、
目を鳥居の外に転じますと、「東之町」の高張り提灯がみえます。
その後方に梵天、さらに先にダンジリが控えています。
東之町の宮入が間近です。
準備は整いました。
さあ宮入です。
一気に東の鳥居から駆け込みました。

写真図5 東之町囃子方


晴耕雨読 -田野 登-



賑やかな地車囃子に載せられて宮入しました。
ダンジリは、動くオーケストラボックスでもあります。
ダンジリに「楽車」の漢字を当てたりもします。
楽器によるそれぞれ場面によって異なるリズムを
マワシと云います。
注意して聴いておりますと、
太鼓の縁の鋲をグリグリッとやりますとリズムが変わったりもします。
鉦の音は、いっそう賑やかに囃し立てます。
この町の古い鉦に「享保三年(1718)」の銘があると聞きました。
今から300年ほど前から、こんなことをやっていたのでしょうか?


写真図6 東之町だんじり

晴耕雨読 -田野 登-


屋根方のパフォーマンスが始まりました。
この町もダンジリをまわしたり、梃子のように前後を上下に揺すったり
まるでせわしない地車囃子に駆り立てられて、
眩惑を楽しんでいるようです。
神輿を揺するのには、
鎮まる神霊を揺すって、我が方に呼び寄せる意味があるとか・・・

この町も屋根の上でサカトンボリ(逆立ち)しています。 
前の宮司が言われたことには、
「もともと屋根の上に乗るのは、電線よけのため」とのこと。
そうであれば、屋根方のパフォーマンスも
近代を遡ることはあり得ないことになります。


ここで一行は、福島区歴史研究会会長・太田勝義氏のお宅に
移動しました。
宮入が、二階の部屋から見物できるとお聞きしたのです。
なるほど、ここからの眺めは素晴らしい!


写真図7 南之町だんじり蔵入り


晴耕雨読 -田野 登-


東之町のダンジリも名残を惜しみながら地車蔵に収まりました。
しんがりは南之町です。
ここは、ここでダンジリを前後に激しく揺さぶっています。
まるで、シーソーのようにギッコンバッコンと
コマ(車輪)が地面に着地する度に、響きます。
鈍い音を立てながら、上下に揺さぶっているのです。

もう10時前です。
南之町のダンジリも散々、境内を練った後、
いよいよ祭りもクライマックスを迎えます。
紙吹雪が舞います。
地車蔵に移動を始めます。
地車囃子の音がフェードアウトします。


大阪締めが始まりました。
まずは、南之町の手締めです。

再度、大阪締めが始まります。
 「ウチマショー(チョンチョン)モヒトツセー(チョンチョン)
 ヨイノサー(チョチョンガチョン)」
お祭りが終わったのです。

しばらくは、興奮冷めやらないのか
境内からざわめきが聞こえてきます。

海老江の祭りが終わりました。
これから夏本番です。

写真掲載を許可してくださった
大阪市スポーツチャンバラ協会代表理事(会長)である 
大平雄喜会員に感謝します。



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