晴耕雨読 -田野 登-

大阪のマチを歩いてて、空を見上げる。モクモク沸き立つ雲。
そんなとき、空の片隅にみつけた高い空。透けた雲、そっと走る風。
ふとよぎる何かの予感。内なる小宇宙から外なる広い世界に向けて。


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前回、近世大阪は、まさに「水都」の観を呈しており、
堀川が市中に、網の目のように張りめぐらされ、
多くの物資は船で運搬されていると記しました。

今回は、前回の延享版『難波丸綱目』の、
約30年後の安永6(1777)年に版行されました安永版『難波丸綱目』を
取り上げ、現福島区における諸国問屋・船宿の分布をまとめました。

写真図 現福島区における諸国問屋・船宿の分布(続)


晴耕雨読 -田野 登-


まとめてみて気づいたことがあります。
この30年間での変化です。
諸国問屋・船宿の軒数が増えていることです。
延享版では17軒だったのが、安永版では28軒に増えています。
65%の伸びです。
安治川上一丁目など、2軒から一挙、12軒、6倍に増えています。
それに対して延享版にあって、安永版にないのが、
堂島新地の西半分における諸国問屋・船宿です。


新たな国が参入しております。
延享版では8国だったのが、安永版では13国に増えています。
新たに参入してきた国は、
江戸が安治川上一丁目に1軒
淡路が下福島村に1軒と安治川上二丁目に3軒、
肥前が同じく下福島村に1軒参入しております。
いっぽう、紀伊が上福島村から撤退しております。
ところが、上福島村は、2軒から4軒に増えています。
播磨が3軒、参入しているのです。

播磨国とは、摂津の隣国です。


20年前、福島天満宮の宮司さんから、聞いたことがあります。
「菅原道真公を福島の船人が、播磨まで、供奉した」と.。

菅公が、この地から船出したという話の
記録の上での初見は、『摂津名所図会』です。
寛政10(1798)年、版行のガイドブックです。
安永版、版行が安永6(1777)年です。


7月21日に福島区歴史研究会セミナーで

菅公を祀る福島天満宮にまつわる「餓鬼島伝説」を、
話そうと思います。

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前回は、「福島周辺の廻船問屋」を表にまとめました。
今回は、 延享版『改正増補 難波丸綱目』(延享5(1748)年刊)から
廻船問屋を含む町家記事を表にまとめました。

原則的に用字は、新字体に変えております。


以下、延享版『改正増補 難波丸綱目』をテキストと表記し、
拙稿「芦分紀行」(*『なにわ福島ものがたり』福島区歴史研究会発行2012年)と
照らしながら述べます。
*『なにわ福島ものがたり』:http://o-fukushima.com/rekishi/text/tirasi.pdf

写真図1 延享版『改正増補 難波丸綱目』町家記事


晴耕雨読 -田野 登-

上に掲げた表から人家・商家の建つ町場化が、
上福島村・下福島村の周辺に、
すでに進行していることが認められます。
現在の北区と接する堂島新地、
現在の此花区と接する安治川上一丁目、同二丁目が
町場となっております。
この表に挙げられております地名のうち、上福島村・下福島村を除けば、
いずれも川に沿った、大坂三郷町地なのです。


堂島新地五丁目は、堂島新地でも下流に位置します。
上流は、現在、北区に属します。
田蓑橋は、堂島川に架かる橋で、中之島と堂島を繋ぎます。


写真図2 現在の田蓑橋 南西橋詰 橋を渡って右側が北区。左側が福島区。

晴耕雨読 -田野 登-




梅田橋は、蜆川(曾根崎川)に架かる橋で、堂島と福島を繋ぎます。
現在、梅田橋は、蜆川が埋め立てられてありません。
いずれも、現在、橋を境に上流側(東側)は北区です。
だから、「堂島田蓑橋」「堂島梅田橋」とだけ記されていては、
現在の北区なのか、福島区なのかはわかりません。
したがって、堂島田蓑橋に医師がいた、
 堂島梅田橋に江戸積蝋燭屋があったにしても、
現在の北区側である可能性もあります。

「梅田橋」につきましては、
すでに元禄14(1701)年、岡田?志編纂『摂陽群談』に
「堂島新地裏町にあり。北は西成郡上福島村に渉る処也。
 此所、茶店南北の岸にあり。
 初夏より秋に至るまで、諸人群を成て、都の涼を移す」とあります。
テキスト版行の50年前、
すでに貞享の川浚えにより、堂島新地が出来しておりました。
敷設された納涼の席を京鴨川になぞらえています。
テキスト版行当時は、蔵屋敷が建ち並ぶ堂島新地でありますが、
開発当初は、新地振興策として色茶屋や料亭を浜に誘致していたのです。


写真図3 梅田橋のあった場所。右側北区。左側福島区。

      正面の高架を抜けて直進すれば、うめきた地区。もとの梅田墓。 

晴耕雨読 -田野 登-


「梅田橋」といえば、

近松門左衛門の戯曲『曽根崎心中』(元禄16(1703)年初演)では、
死にに行く堂島新地の遊女お初・手代徳兵衛の渡る橋でもありました。
梅田橋の先、北方は梅田墓に通じる梅田道があるぐらいで、
『曽根崎心中』当時には原野が広がっておりました。
それゆえに、堂島新地の喧噪をよそにして、愁嘆場となるのです。


テキストに、堂島新地には、茶屋株63軒、「風呂屋」などの記載が見えます。
しかし、テキスト版行当時は、

曾根崎新地一~三丁目が蜆川の右岸(北側)に繁昌しており、
ここにも58軒遊山茶屋がある記事が見られます。

今日、云うところの「北新地」の方面に
遊所はすでにシフトしつつあります。


(ちなみに道頓堀には、茶屋株合、190軒とあります。)

(今日風に云えば「ミナミ」が「キタ」より優勢です。)


福島区側の堂島新地には、

むしろ諸藩の蔵屋敷が建ち出しております。
また、堂島の南西端の通称「合羽島」(福島区玉川1)は、
*元禄3(1690)年9月、天満舟大工町・堂島舟大工町の
船大工の船作小屋替え地となりましたが、
*『大阪編年史』第6巻、1969年、大阪市立中央図書館市史編集室

テキスト版行の4年前の
*延享元(1744)年には、すでにその地に家が建ち、
9年後の宝暦3(1753)年には、新船町となっております。
*『大阪編年史』第9巻、1970年、大阪市立中央図書館市史編集室
テキスト版行当時、福島区側の「堂島」も、
町場化が急速に進行していた時代でもあります。


テキストの記事で注目すべきは、
上福島村の雀鮨(原文「上ふくしますゞめ鮨、ふくしまや長兵衛」)です。
元禄年間編纂の『摂陽群談』の「福島雀鮨」に
すでに次の記述があります。
 ●同郡福島村にあり。?(エブナ)魚の小を背割にして、
 潮に浸し令乾之、魚の腹脹て、形雀に似たるを以つて号之
「福島雀鮨」は、その後も語り継がれ、*狂歌五十人一首には、
 ●数おほふ 江鮒のうろこ 福島の 人は仕なれて よい雀ずし
 *狂歌五十人一首:浜松歌国『摂陽見聞歌拍子』の「雀鮓の事」
「道理で福島の人は鱗を削ぐのに仕慣れていることよ。
 そもそも雀鮨とは鱗を削いだ江鮒の腹に
 飯を詰め込んで拵えた「熟れ鮨」なんだから」というのです。
『摂陽群談』の名物土産の部に挙げられているほどですので、
テキスト版行当時までは、実際に賞味することができたのでしょう。


福島区域の町場化は、堂島川、安治川(新堀)沿いに進行しております。
上福島村、下福島村に廻船問屋を散見します。
ところが、農村部には、テキストを読む限り、
何らの商家の記載も見当たりません。
井路川が縦横にめぐる村里であったのでしょう。


写真図4 正面のせり出して見える所がもとの安治川上一丁目、安治川上二丁目

      現在の大阪中央卸売市場


晴耕雨読 -田野 登-


安治川上一丁(町)目、安治川上二丁(町)目は、
*元禄元(1688)年、安治川新地として成立していました。
*元禄元(1688)年・・・:『角川日本地名大辞典』27巻1983年
両町は、野田村の安治川右岸に位置します。
安治川上一丁目の商家としまして、
「長崎本商人」と「油小売卸屋」が記されておりますが、
これは、同じ「豊後屋市右衛門」の名が記載されておりますので、
兼業であったのでしょう。


この両町には、廻船問屋が並んでいたことは、
テキストからも読み取られます。
船を擁する商いが盛んであったことがうかがわれます。
両町合わせて、遊山茶屋が10軒あったことも記されております。
川沿いに立地するところから、
船頭相手の稼業と考えます。

安治川上二丁目には、「芝居弐つ」とも記されております。
芝居小屋が二座あったのでしょう。
このテキスト版行の約50年後、寛政10(1798)年序の
『摂津名所図会』の「安治川橋」の画賛に
「雁金五人男」や「忠臣蔵」の演目のことが記されております。
さぞ、この安治川沿いの通りは、
下流に続く安治川北一丁目から三丁目(現此花区西九条)にかけては
テキスト版行の近世半ば頃、出船入船で賑わう
 港町の観を呈していたことでしょう。


そろそろ、福島地名考に戻り、
田畑からの「福島考」もさることながら、
河海から見た「福島」についても述べたくなってきました。

7月6日の浦江塾では、

  「鼠島・野田新家いまむかし」
7月21日の福島区歴史研究会セミナーでは、

 「餓鬼島伝説」を話します。

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近世大阪は、まさに「水都」の観を呈しておりました。
諸国の蔵屋敷が中之島をはじめとして、市中に連なっておりました。
堀川が市中に、網の目のように張りめぐらされ、
多くの物資は船で運搬されておりました。
諸国からの物資は、廻船問屋が商っておりました。

今日、かつての都心(大坂三郷町地)を流れている川で残っているのは、
いくらあるでしょう?

東西には、堂島川、土佐堀川、安治川、道頓堀川
南北には東横堀川、木津川だけです。
(尻無川は、都心を流れているとは、云えません。)

現福島区域の対岸の西区域には、富島があり、雑喉場、江之子島・・・
などなど、木津川筋には、また
 たくさんの諸国問屋・船宿が分布しておりました。
大坂三郷町地の中心部の「船場」は、
その名にふさわしく、浜で荷が積み卸しされていました。
(一説には「水揚げ」のことばの語源とも。)


現福島区域は、堂島川、安治川以北に位置します。
決して、「都心」では、ありません。
しかし、「福島」辺りにも、諸国問屋・船宿は散見できます。

福島天満宮にまつわる「餓鬼島伝説」を
このブログでも論じることになります。
そこで、準備作業としまして、
現福島区域における諸国問屋・船宿の分布を表にしました。

写真図 現福島区域における諸国問屋・船宿の分布
*延享版『改正増補 難波丸綱目』「諸国問屋?船宿」現福島区のみ
@野間光辰監修1977年『校本難波丸綱目』中尾松泉堂
*延享版:延享5(1748)年刊


晴耕雨読 -田野 登-

現福島区域のうち、三郷町地であったのは、安治川新地と堂島新地です。
この地域には、諸国問屋・船宿が立地しました。
それに、三郷町地に接続するムラである上福島村、下福島村にも
諸国問屋・船宿が営業されていました。

新堀(安治川)開削以前に、栄えたと記録に残る「野田新家」はとなりますと、
延享版『改正増補 難波丸綱目』「諸国問屋?船宿」に
記事が見当たりませんでした。
いずれ、延享版『改正増補 難波丸綱目』の他の生業を
虱潰しに当たって「野田新家」の近世半ば以降を
明らかにしたいと思っております。


7月6日は浦江塾で「鼠島・野田新家いまむかし」を、
7月21日は福島区歴史研究会セミナーで「餓鬼島伝説」を、
話そうと思います。

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「地名覚書1フケ考1」2013-06-10 18:28:03 を
すでにアップしております。
今回は、地図に見える「字大フケ」と、

今日のその場所を写真で紹介します。
写真図1 地図に見える「字大フケ」


晴耕雨読 -田野 登-


この地図は*耕文社により1993年12月
復刻された『鷺洲町史』からの引用です。(掲載許可)
*耕文社:https://twitter.com/kobunshainfo

地図には、「明治43年の鷺洲村」と書かれております。
中央を左右に帯のように描かれておりますのが、
今日の「新淀川」です。
北東から南西に直線に流路が改修された河川です。
地図の左端(南西)に「西野田町」と表記が見られます。
その右上(北東)に右から「大フケ」と文字が記されております。
これが「字大フケ」です。
現在地名では、福島区海老江1丁目2番、3番あたりです。

地図の下(南西)には「西中開」が見え、
地図の右(東)には、「北中開」「南中開」が見えます。
「大フケ」と「北中開」「南中開」との間に灰色に描かれた帯状の
線がやや右上(北北東)から左下(南南西)に走ります。
これは、井路川(イジガワ)を表示しております。
井路川とは、水利や運搬のための水路です。
現在の福島区海老江と鷺洲の境界となる道路です。
井路川の右岸(西側)が海老江で、左岸(東側)が鷺洲です。
「大フケ」は「大字海老江」に属していました。
「大フケ」と「西中開」の境界にも井路川の表記が見えます。

「大フケ」と「西中開」の下(南南西)にも灰色に描かれた帯状の
線が右下(東南東)から描かれています。
これも井路川で、右下(東)にゆけば「上福島三丁目」と接します。
『鷺洲町史』には「聖天川」と表記されています。


写真図2 海老江1丁目2番から元の聖天川上流の光景


晴耕雨読 -田野 登-

東方向を向いて撮ったものです。

前方遠くに見える高層ビルは、ホテル阪神(福島区福島5丁目)、

毎日新聞社大阪本社ビル(北区梅田)です。

この道路が左右に湾曲するのが、井路川の流れの名残です。

井路川の湾曲は、道路のセンターラインのカーブで

読み取ることができます。


「聖天川」とは、地図の中央を上下に白い帯として描かれている
鉄道線の右に見える「東里中」にある「浦江聖天」からついた
呼称です。


写真図3 海老江1丁目2番から元の聖天川下流の光景


晴耕雨読 -田野 登-

写真図2を振り返って南西方向を撮ったものです。

前方に見える高架が阪神野田駅です。

この聖天川も昭和10年までには、埋め立てられ、
野田阪神(阪神野田駅)を経て北港通りに連なる道路になっております。

現在の「大フケ」を確認に歩きました。
西に阪神電鉄本社の入っているウィステのビル(福島区海老江1丁目)が見える
一角がかつての「大フケ」です。

写真図4 「大フケ」の現在

晴耕雨読 -田野 登-


前方(西)に三段ほどの石段があり、この一角が
現在でも低地であることがわかります。
まさに井路川に囲まれた狭隘な農地だったのです。

この場所から西に見えるウィステのビルのある辺り一帯は、
再開発される以前は、阪神電鉄の北大阪線、国道線の停車場、操車場が
あったところでした。


フケは低湿地で、水の漬く深田でした。
近代になって埋められましたが、
元の地勢が石段から読み取ることができます。

都会の一角に開発から免れてかろうじて残っているのです。

このような段差は福島区内には、まだまだみつかりそうです。

都会地にあって、近代以前の地形を小字名と照らして

読み取る作業のおもしろさは、

まだしばらく、ボクに福島区内を歩かせ続けることでしょう。


7月21日に福島区歴史研究会セミナー
「餓鬼島伝説」の中で、字名「フケ」、地名「福島」について
PowerPointを駆使して話そうと思います。
ご案内は、このブログの
2013-06-08 13:41:09 テーマ:■講演/講座情報 に
アップしております。

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鼠島が消えて久しく歳月が経っております。
中島陽二氏による「ある小さな島(鼠島)の生涯」が 『大阪春秋 第88号』が
発表されましたのは、1997年9月です。
それから16年を経ております。
人の人生に換算しますと、半世代を経たことになります。

1997年9月当時の、旧鼠島の写真が載せられています。
写真図1 中島陽二「ある小さな島(鼠島)の生涯」の閘門の入口付近
(『大阪春秋 第88号』1997年9月)より複写。筆者掲載許可


晴耕雨読 -田野 登-


「わずかに閘門の入口だけが往時の面影を留めている」の説明文が付けられています。
1997年9月当時の閘門の入口は、現在、埋め立てられておりますが、
地図を片手に注意して歩きますと、およその場所の見当が付きます。
2013-06-03にアップしました「鼠島・野田新家マチ歩き」の
《写真4 此花区との境界域》が、およその場所です。

写真図2 此花区との境界域
晴耕雨読 -田野 登-


「鼠島・野田新家マチ歩き」の説明を以下に引用します。
●写真は、南からの撮影ですので、
 左手は此花区側で此花厚生年金住宅第1棟で
 右手福島区側に見えるのが、大開厚生年金住宅です。
この説明文は、今回の写真図1の閘門の入口付近の対応する場所を求めて撮ったものです。

それにしても閘門の跡は、見当たらないものでしょうか?
せめて、護岸壁でも見当たらないものでしょうか?
マチを歩いていますと、ここかしこに地図が掲示されています。
そんな中で、防災地図があります。
写真図3  防災地図


晴耕雨読 -田野 登-


北港通りに面して嬉ヶ崎橋にさしかかる地点の防災地図です。

写真図4 防災地図に見える旧鼠島南岸の護岸壁


晴耕雨読 -田野 登-




地図上では、旧鼠島南岸の護岸壁とおぼしきものが曲線で描かれております。

凹みが見えます。

閘門でしょう。
はたして、護岸壁が今日、何らかの形で残されているのでしょうか?
見つけたのです!
事情があって、ブログアップできないのが残念です。

「鼠島・野田新家いまむかし」は、7月6日に
浦江塾では、ふんだんに写真をまじえて
PowerPointで発表します。参加費無料。
ご案内は、



テーマ: にアップしております。
ご覧下さい。

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