晴耕雨読 -田野 登-

大阪のマチを歩いてて、空を見上げる。モクモク沸き立つ雲。
そんなとき、空の片隅にみつけた高い空。透けた雲、そっと走る風。
ふとよぎる何かの予感。内なる小宇宙から外なる広い世界に向けて。


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4月27日(土)、セミナー「ビリケン像人気の謎を解く布袋さん研究」を
大阪府立江之子島文化芸術創造センターにおいて実施しました。

晴耕雨読 -田野 登-

 写真図1 大阪府立江之子島文化芸術創造センター(撮影者:森田道仁会員) 

ファサードは、曲線美のすばらしいモダニズム建築の
落ち着いた雰囲気をかもしています。
ボクはすっかり気に入りました。
参加者は7名でしたので、講義室は、ちょうど、よい広さで熱っぽく話してきました。

晴耕雨読 -田野 登-
 写真図2 講演風景(撮影者:森田道仁会員)  

今回のセミナーは、ビリケン人気の謎を解くということで、
以前、「高齢化社会の願掛け治病-四天王寺布袋堂いまむかし-」
(*『大阪春秋』129号、2008年1月号)として発表しましたところの
四天王寺安置の「なで布袋」をはさみこむ格好でお話ししました。
*『大阪春秋』http://www.shimpu.co.jp/osakashunju/
今回、ブログアップしますのは、その前半部分です。

 PowerPoint3 もくじ 
1 通天閣のビリケンさん人気
2 四天王寺なで布袋さん 
3 近世『神仏霊験記図会』の世界
4 四天王寺にみる願掛け作法
5 布袋堂の現代
6 ビリケンさんを遡る
7 ビリケンさんの民俗
8 まとめ 


通天閣のビリケンさん人気は、今や観光ガイドブックに特集されるなど、
大いに新世界の賑わいに貢献しております。
街を歩けば、あちこちの串カツ屋の店頭にビリケン像がお出迎えしているは、
「ビリケン神社」があるはと
あたかも通天閣展望台のビリケン像を中心にマチが回っているかの感がします。
そのビリケンさんといえば、足の裏を撫でて、恋愛成就や受験合格を
お願いすると叶ってもらえるとかで、若者や子どもたちに人気で、
春休み期間に探訪したときなど、ビリケン堂前は列をなしていました。

撫でて、お願いするとなれば、四天王寺のなで布袋さんも同じです。
四天王寺は、今も昔も大阪庶民の民俗宗教の見本市のような所です。
文化7(1810)年出板の絵付きの社寺詣でガイドブック『神仏霊験記図会』にも
四天王寺は、多く取り上げられています。
乳授けの布袋さんもその一つで、なで布袋さんは、その布袋堂の前に
平成14(2002)年に安置されました。
その愛嬌ある笑顔に、まさに布袋腹。ついつい撫でてしまいます。

晴耕雨読 -田野 登-
 写真図4 PowerPoint27 なで布袋さん 


「高齢化社会の願掛け治病-四天王寺布袋堂いまむかし-」執筆のとき、
四天王寺で、参拝者のしぐさを調査しました。
「撫でる」以外にも、突く、持ち上げる、流す、回す、掛ける、叩く、結ぶ、踏む・・・
などなど、これらの身体行動は、何を意味するのでしょうか?
撫で布袋さん同様、「撫でる」のは、六時堂前のビンズル尊者です。
ビンズルさんもまた、撫でられておられますが、
願掛け作法がちょっと違うようです。
参拝者、自らの身体部位もまた摩っております。
撫でることの意味は、はたして、どのように違うのでしょうか?

ビリケンさんへの願掛けはいかがなものでしょうか?
そこで、ボクのいつもの方法で、探ることにします。
まず、現在、行われていることが、いつから、そうなっているのか?
それを*遡ることです。
*遡ること:http://ameblo.jp/tanonoboru/entry-11492868859.html
そうしないと、今ある像の由来を語る「物語」に、
載せられ、合理化してしまうおそれがあるからです。
たいがいの読者は、執筆者に従順な弱者で、
自分の頭で考えずに、確かめる手がかりを得ずに納得させられてしまうものです。
そんなふうに、疑い深いボクのことですので、
現在あるビリケンから初代と称す大正2(1913)年頃にルナパークにあったビリケンまで、
遡ることにします。

今日のビリケンさんは、3代目と称しておりますが、
ビリケン堂と称する庇のある設えにおさまるのは、
平成11(1999)年5月12日のことです。
その除幕式の模様が当時の読売新聞に報道されております。
お堂におさめられたのは、その当時ビリケンさん人気で
通天閣に客が戻ってきたからです。
今のように足をくすぐる、撫でるといったしぐさが
ビリケンさんへの願掛けとなって以降のことです。
この「足をくすぐる言い伝え」を観光ガイドブックでとりあげましたのは、
平成7(1995)年7月発行の『マップルガイド31大阪』(昭文社)です。
 

晴耕雨読 -田野 登-

写真図5 PowerPoint56 
「足をくすぐる言い伝え」1995年7月発行『マップルガイド31大阪』(昭文社)

橋爪紳也『大阪モダン-通天閣と新世界-』NTT出版(株)が出版されたのも、この頃で、
平成8(1996)年7月23日のことです。
この本には、アメリカの女性アーティスト、ホースマン女史の夢枕に
「われを喜ばせるには、一日に一回、わが足の裏を掻けよ
われそれによりて満足するであろう」と語ったと記されております。
この夢枕の話は1908(明治41)年のことです。
残念なことに、『大阪モダン-通天閣と新世界-』には、
ビリケン像草案にいたる経緯に「足の裏を掻く」が夢枕で語られたとする、
それまでにない言説の
根拠となる文献が挙げられておりません。
だから、そのまま信じる訳にはゆきません。
そもそも、通天閣のビリケンさんが観光ガイドブックでとりあげられ出したのは、
そんなに昔のことではありません。
通天閣に客足が戻ってきましたのには、阪本順治監督の映画『ビリケン』が
通天閣を舞台に撮影され、公開されて以降のことです。
平成8(1996)年8月3日のことです。
その10日前に『大阪モダン-通天閣と新世界-』も出版されているのです。
もちろん、それまでにも通天閣の展望台にビリケンさんは据えられておりました。

『'89~90 JTBのるるぶ情報版 THE大阪』には
「おまじないよりビリケンさん」といった見出しで紹介されておりますが、
足の裏をくすぐるといった「願掛け」など書かれておりません。
案外、1980年代(昭和55~平成元年)、通天閣の展望台に
ビリケンさんが据えられていること自体、
そんなに話題にならなかったのではないでしょうか。
通天閣に2代目と称するビリケンさんが据えられたのは、
昭和55(1980)年3月30日のことですが、
当初は、願掛けの仕方がわからなかったようです。

●ビリケンさんの前で、あれこれそんな風なことを考えながら、
 ポンポンとかしわ手を打って、ハッと気がついた。
 あれ、かしわ手で良かったのかな?西洋の神様、その拝し方が判らないが兎に角、
 チョコンと頭を下げておく。
 (和多田勝「ビリケンさん、あんじょう頼みます」『月刊せんば』1980年3月号)

こんなありさまでして、ビリケン像設置当初はあまり客足にも影響がなかったようで、
ビリケン祭祀3年後の1983(昭和58)年、その年発行の交通公社『ポケットガイド』には、
通天閣自体、観光スポットとしてわずか10行にも満たない扱われ方でした。
昭和50(1975~1985)年代、通天閣入場者は、
*年間、30万人にも満たない状況だったのです。
ちなみに通天閣50年を迎える前年の平成7(2005)年は、
*年間70万人を超えるところまで、客足が戻っております。
*年間通天閣入場者:『通天閣-50年の歩み-』(2006年、通天閣観光)の
〈資料〉入場者数の推移による。

今からみれば、現在の通天閣および新世界地区の賑わいの回復は、
平成8(1996)年夏の映画『ビリケン』公開と
それと相前後する足裏願掛けの流行が効を奏したとよむべきです。
入場者の低迷にあえいでいた展望台・通天閣を救ったのは、
福の神ビリケンの足裏願掛けの創出なのです。
では、足裏願掛けの創出は、根も葉もない話なのか?
そんなことは、ありません。
次回に、ビリケンをめぐる「民俗」を
明治の末に遡って記すことにします。

なお阪俗研セミナーは、5月はお休みにして、6月末、第2ステップに進みます。
第2ステップからでも、興味のある方はご参加ください。
しばらく、ツーリズムをはじめ人類学や社会学やらの方面の充電をした、
「民俗学」で望むことにします。

したがいまして、次回の予定は

標題:地蔵信仰聞き取り調査の方法
日時:6月22日pm7時~9時
場所:大阪府立江之子島文化芸術創造センター
    (明治の大阪府庁の場所)大阪市西区江之子島2丁目1番34号
 http://www.enokojima-art.jp/index.php
アクセス:地下鉄千日前線・中央線「阿波座駅」下車、8番出口から西へ約150m。
会費:各回1000円。
参加表明は、電話(田野携帯:080-1418-7913)
もしくは、tano@folklore-osaka.org までご一報ください。



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先日、NHKの天気予報の時、
野田藤発祥の地・春日社(大阪市福島区玉川)が報じられていました。
「野田藤」は福島区の花として、マチおこしに活用されている地元では有名な花です。
4月21日(日)、実家のある鷺洲(浦江)から春日社が鎮座する玉川まで、
野田藤を訪ね歩きました。
そのとき、ふと「のだふじ浦江街道」を空想してみました。

今回の「晴耕雨読」は、南浦江(福島区鷺洲)妙寿寺から、
福島聖天(福島区鷺洲)を経て野田藤発祥の地とされる春日神社(福島区玉川)までの
野田藤の植わっている場所を点で結んで
「のだふじ浦江街道」と称して案内することにします。

最初に取り上げるのは妙寿寺の藤です。墓地に張り出した藤棚の写真です。


晴耕雨読 -田野 登-
 写真図1 妙寿寺の藤 006 
妙寿寺は、阪神高速道路福島出口の南付近にある寺院です。
幕末の国学者・萩原広道の墓のある寺として、*近代の文献に記載されております。
*磯野秋渚、1890年3月「萩原廣道の墓」
 (『文学評論しがらみ草紙』6号、脇田茂一郎発行11頁)
萩原広道は、古注釈の最後に位置づけられる『源氏物語評釈』(1861年)を書き残した
国学者です。
『源氏物語』といえば、主人公・光源氏の永遠の恋人の敬称は、
庭に藤が植えられていた局(つぼね)「藤壺」でしたね。

この国学者の葬られている妙寿寺は、
幕末から明治の半ばまでの地誌や遊覧記には、
境内の林泉に蓮・萩・杜若の植わった寺として記されております。
しかし、残念ながら藤の記事は見えません。
今日、須弥壇(本堂)に至る階段には、
鉢植えの藤の花が一対、みごとに花開いております。
しかし、そんなに昔からのことではありません。
*「のだふじの会」によるフジの育て方の指導などがあって、30年ほど前からのことです。
*「のだふじの会」:公式HP http://www.nodafuji.com/

妙寿寺の墓地を出て南に行くと、福島聖天が経営する聖天保育所和光園があります。


晴耕雨読 -田野 登-
 写真図2 福島聖天の藤 003 
福島聖天(了徳院)の藤は、蜀山人こと大田南畝。この江戸の戯作者は、
五百羅漢(福島区福島。現在は東大阪市額田に移転)から北西に向けて了徳院に至ります。

 ●それより麦畑をつたいて左のかたにゆく。小流の橋を渡り了徳院にいたる。
 池に杜若さかりなり。紫の藤棚あり、白き藤も有り。白きはふさみちかし。
 花大なりめつらしき藤なり*
*『葦の若葉』(1970年『蜀山人全集一』吉川弘文館、56頁)
蜀山人の来訪は享和元(1801)年のことですが、了徳院は、当時、杜若の名所でした。
そればかりか、「紫の藤棚」も見られました。
すでに天明5(1785)年版『大阪市中買物手引草』には、浦江了徳院は「かきつばた」の記事とともに「藤」も見えます。*
*陰山白縁齋、天明5(1785)年『大阪市中買物手引草』(大阪府立中之島図書館所蔵)43丁裏、44丁裏。
今日、花の時期が過ぎれば剪定をすぐに済ませて、
来期に期すといった具合に入念に手入れすると聞きます。
付設の聖天保育所和光園の園庭にも野田藤が見られます。

福島聖天山門を出てかつての井路川沿いに南に春日社に向かうことにします。
聖天通商店街を経て、鷺洲中公園に立ち寄ります。
ここは、ボクの子供時代の遊び場所です。
現在も藤棚があります。
手入れがむつかしいのでしょうか?
この日、訪れた時には、残念ながら花が全く見られませんでした。

福島区を歩いてみますと、町名表示のプレートの色が紫であることに気づきます。
それは、「野田藤」の藤色をあしらったものです。
それに随所に鉢植えの野田藤が見られます。
そんなとき、「のだふじ浦江街道」を空想してみました。
区内の公園各所にある藤棚、民家軒下の鉢植えの藤・・・。
何年かかけて、これらをつないで春日神社に至る道を
「のだふじ街道」としてみてはいかがでしょう?
藤の季節には、藤棚を御旅所にして、休憩をとり、
家々の鉢植えの藤を愛でながら
春日社までを参道に見立てて、
春うらら、地元の人たちと言葉を交わしながら、
散歩するのも一興かと思います。

浦江から春日社に至るには、阪神本線のガードをくぐり、
国道2号線を渡ります。
さらに昔の亀甲町を南へ厚生年金病院の裏手に出ます。
そこで、みごとな藤の花に出会えました。


晴耕雨読 -田野 登-
 写真図3 ユニライフ福島の公園の藤棚 030 
集合住宅の公園にも野田藤は育っているのです。
どなたが手入れなさっているのでしょうか?

春日社までは、右に(西に)折れて、すぐです。
途中、参拝客から道を尋ねられたりもします。
藤色の幟「藤之宮」が立っています。
野田藤ブランドの食品を販売する店舗もあります。
いよいよ春日社です。

晴耕雨読 -田野 登-

 写真図4 春日神社と藤 三郎氏 023 
みごとに咲いていました。幸いなことにご当主・藤 三郎氏にお目にかかれました。
「野田藤」にまつわる物語につきましては、
ご当主が『なにわのみやび 野田のふじ』(東方出版2006年)に、詳しく書かれております。
http://www.tohoshuppan.co.jp/2006ho/s06-005-0.html

そこで、ボクなりに一連の物語について考えてみました。
『芦分船』は近世大阪の名所案内書の先駆けとなる書物です。
この書は、延宝3(1675)年、一無軒道治の筆になるもので、
取り上げられた72項目中、「福島区域」では唯一、野田藤だけが記されています。

 ●春日社あり。三月廿一日より廿七日迄神楽を奏すといふ。碑有り、其文に曰く「貞治 三年四月藤波盛の 比、足利将軍義詮公住吉詣の時、此地へ立よらせ給ひ、池の姿を小 川となそらへ、和歌を詠し給ふ、住吉詣の記に見へたり。いにしゑのゆかりを今も紫の 藤浪かゝる野田の玉川*
*『葦の若葉』(1970年『蜀山人全集一』吉川弘文館、55頁)
この記述で注目すべきは、足利将軍義詮来臨の「碑の存在」です。
野田の藤は、名所として顕彰されていることです。
当時の人にありましては石碑の碑文を以て足利将軍義詮来臨を想像していたでしょう。
詳しくは、『なにわ福島ものがたり』(福島区歴史研究会、2012年)所載の
「芦分紀行」をご覧下さい。
http://o-fukushima.com/rekishi/text/tirasi.pdf
この日は、寒の戻りを思わせる寒さを感じましたが、
好天に恵まれ参拝客や物見の人たちで賑わっていました。

晴耕雨読 -田野 登-

 写真図5 春日神社の賑わい 027 

ボクの云う「のだふじ浦江街道」は、まだ空想の域を出ません。
ただ、確かなことは「野田藤」に寄せる心意には、
この地域のアイデンティティを求める何かが潜んでいるということです。
その何かとは、都会にあって、花木といった自然によせる思い、
帰去来情緒といった心意であります。
「花街道」は、気の長い話ですが、
地域の歴史を探究するよすがとして、
郷土の花木を取り上げるのは格好の教材となることでしょう。

ところで、阪俗研セミナー「ビリケン像人気の謎を解く布袋さん研究」が
近づいてまいりました。
なぜ通天閣では、ビリケンさんの足を掻くのか?

晴耕雨読 -田野 登-

 写真図6 妙寿寺仏足石 012 
100コマほどのPowerPointをパワフルに活用して、一緒に楽しく遊びましょう。
開始時刻は7時からにします。

そろそろPowerPointを仕上げて、配付資料の準備にかかろうと思います。
参加表明をお早めにお願いします。
日時:2013年4月27日(土):テーマ「ビリケン像人気の謎を解く布袋さん研究」
   pm6:30準備受付~8:30
会場:大阪府立江之子島文化芸術創造センター
    (明治の大阪府庁の場所)大阪市西区江之子島2丁目1番34号
アクセス:地下鉄千日前線・中央線「阿波座駅」下車、8番出口から西へ約150m。
会費:各回1000円。
参加表明は、電話(田野携帯:080-1418-7913)
もしくは、tano@folklore-osaka.org までご一報ください。

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「大阪あそ歩」の市岡コースは、4月20日(土)実施です。
事務局に尋ねましたところ、定員に若干のゆとりがあると聞きました。
今回は、近世大阪湾沿岸最大規模とされる市岡新田をめぐるといった
壮大なコースを紹介します。
2月7日の「晴耕雨読」では、「昭和遺跡」を取り上げましたが、
今回は近世後期に描かれた市岡新田を図像の絵解きに沿ってご案内しましょう。

 
晴耕雨読 -田野 登-
写真図 1 『摂津名所図会』「安治川口諸船入津」

これは、寛政年間(1790年代)の図です。
順風満帆の廻船が安治川口をめざしています。
右上のゴツゴツした山に見えるのは、二上山の雄岳、雌岳です。
二上山は近世大阪のランドマークでして、南東を示します。
そこから北(図像では左頁)に目を転じますと
五重塔が小さく見えます。もちろん、四天王寺です。
背景の山並みのくびれは、暗峠で左は生駒山です。
その手前下(図像では下)に見えるのは、大阪の町です。
甍は両本願寺でその左は大坂城です。
天守が焼失して存在しなかった時代でも、それらしく描かれています。
手前(図像では下)には帆柱が立っています。
さらに手前(図像では右)には三角屋根の建造物が描かれています。
高燈籠です。今でいう灯台のようなものです。
寛政年間の図ですので、天保山ではありません。瑞賢山とも称された波除山です。
これが「波除山」である訳は次に示す錦絵に照らしてみると明らかです。



晴耕雨読 -田野 登-
 写真図 2 芳雪「浪花百景」の内「瑞見山」

手前は廻船の帆。水の向こうに芦原が見えます。
その先(図像では上)に、柵か桁のようなものが描かれ、小高い丘を表現しています。
てっぺんに、真っ直ぐな木立の中に三角屋根の建造物が描かれています。
これが波除山なのです。
川浚えで出来た山ということであれば、河村瑞賢による波除山は、
天保期に築造された天保山よりも先輩格になります。
はたして、今日の波除山や如何?
「波除」の地名に惑わされないように探訪しましょう。
当日は、途中、「昭和遺跡」などに立ち寄ったりしながら、
安治川と尻無川にはさまれた市岡新田を横断することになります。

晴耕雨読 -田野 登-
 写真図 3 『五畿内名産図会』  

市岡新田の名産は、「新田西瓜」です。
左頁にどっかり据えられています。
まるで土手カボチャのようで、ぶさいくな格好をしています。
しかし、十分な存在感を感じさせます。
「新田西瓜」は井路川を伝って、
南御堂(東本願寺)の穴門で、売りに出されるほどの名産品でした。
「新田西瓜タネまで真っ赤」とは、真っ赤な嘘とはいえません。
誇大広告かも知れませんが、当時出回ったキャッチコピーです。
左上には「難波のさつき」、下には「九条蜆」。
大阪湾沿岸の新田は、川に挟まれていました。
九条村は、市岡新田の北に位置する半農半漁の村でした。
難波村は、尻無川、町家を隔てて、市岡新田の南東に位置します。
右頁には、「木津にんじん」、「こつま木綿」とともに「市岡茄子」が描かれています。
今日、大阪では「天王寺蕪」、「田辺大根」などなど、
なにわ郷土野菜が注目されております。
「新田西瓜」「市岡茄子」など、「再生」してみては、いかがなものでしょうか?


晴耕雨読 -田野 登-
写真図 4 「浪花百景」の内「しりなし漆づゝみ 甚兵衛の小家」 

手前(図像右)に漆の紅葉。
その下を釣り竿、魚籠を肩にした初老と見える男が一人、
土手道をとぼとぼ家路に就くところです。
尻無川右岸土手は、
櫨(「はぜ」はウルシ科ウルシ属の落葉小高木)の植わった堤として名所でありました。
我が母校市岡の校歌の旧の三番には
「秋尻無の櫨紅葉 紅もゆる心もて」とあります。
櫨は蝋燭を拵える材料でもあります。
「はぜ」と云えば、沙魚(「はぜ」)が尻無川で釣れました。
『摂津名所図会』には、樋の口に「はぜの宮」が記されています。
「沙魚釣るや/水村山郭/酒旗の風」といった狂句も挙げられています。
のどかな情景です。
図に示しました「甚兵衛の小家」は、
堤の先(図像では左下)に見える屋形がそれです。
蛤汁などを提供していたことが
初代長谷川貞信「*木津川口甚兵衛の小家」の画賛に記されております。*木津川口:「尻無川口」の間違いか?
甚兵衛の小家の遙か先には海が見えます。船の帆が見えます。
その先に微かに島影が見えます。淡路島です。岩屋方面です。
南から北(図像では左から右に)に目を走らせます。
島影がくびれます。そこは明石海峡です。
さらに北に目をやりますと、小島のごとき陸地が海上に描かれています。
明石、須磨、和田岬が微かに見えます。兵庫津です。
今日では、いかがでしょうか?
運輸流通施設のならぶ地域を突き進みますと、その名も高き甚兵衛渡船場があります。
港区市岡から大正区泉尾にかけて、大阪市営の渡船が市民の足になっております。
「大阪観光」も、ここまで来れば、もうほんまもんです。
知られざる「大阪」に遭遇できるでしょう。
今回も、「大阪あそ歩」の市岡コースは、堤防に沿って、市岡浜まで歩き、
帰りには、「韋駄天」を祀る南市岡繁栄商店街に立ち寄ります。
商店街では、毎回、温かいおもてなしを受けて、感謝のうちにゴールインしています。
定員まで残りわずかです。
ご参加希望のみなさんは、下記の事務局までお申し込みを!

以下、申込先「大阪あそ歩」HP http://www.osaka-asobo.jp/course154.html

コースの行程
JR弁天町駅~市岡新田会所跡~波除山跡~弁天埠頭~三社神社~磯路三丁目桜通~夕凪~市岡パラダイス跡~JR臨港貨物線跡~甚兵衛渡~尻無川浜納屋~市岡高校~JR、地下鉄・弁天町駅

実施概要

実施日時4月20日(土)13:00 参加予約参加費用1000円(小学生以上)※当日お釣のないようにお持ちください。 定員15名 集合場所JR環状線弁天町駅南口改札前 所要時間 2~3時間

参加予約お申し込み
ご予約は上記実施概要の「参加予約」ボタンをクリックまたは、大阪あそ歩事務局までお電話ください。

なお、ボクの研究会・阪俗研(ハンゾクケン)のセミナー
「ビリケン像人気の謎を解く布袋さん研究」は、
来週に迫ってきました。
昨日は船場の商社、一昨日は通天閣事務所へとインタビューにでかけました。
会場の都合もありますので、参加表明をお早めにお願いします。

日時:2013年4月27日(土)」pm7:00~8:30
テーマ「ビリケン像人気の謎を解く布袋さん研究
会場:大阪府立江之子島文化芸術創造センター (明治の大阪府庁の場所)
 大阪市西区江之子島2丁目1番34号
アクセス:大阪市営地下鉄千日前線・中央線「阿波座駅」下車、8番出口から西へ約150m。
会費:各回1000円。
参加表明は、電話(田野携帯:080-1418-7913)
もしくは、tano@folklore-osaka.org までご一報ください。


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蕎麦のソムリエ講座での私の話が好評だったようです。

以下、その際のことについてブログにアッタプされていたので、
許可をいただき貼り付けました。

http://sobaweb.com/topics/20130309211540.html

以下引用させていただきます。


京都で「蕎麦のソムリエ講座」開催しました

3月24日、京都で行った「蕎麦のソムリエ講座」は、おかげさまでご好評をいただきました。
会場は、創業540年の歴史を持つ京都の老舗蕎麦店「本家 尾張屋」さん。ここで『大坂「砂場」の蕎麦の味を考える』という講座を開催しました。


大阪の「砂場」は、皆さん、ご存知ですよね。
一説によると、大阪城築城の際、その資材置き場にできたとされる蕎麦屋さんが「砂場」です。
砂場にある蕎麦屋なので、通称「砂場」と呼ばれたと言われています。
この砂場の蕎麦の技術を持った職人が、やがて江戸へ出て、江戸に砂場の暖簾を広めたと考えられています。
はるか遠い時間の彼方にある、大阪の「砂場」の蕎麦の味。これは、どのようなものであったのかを考えてみようというのが、今回の「蕎麦のソムリエ講座」のテーマでした。

遠方からもたくさんの方にご参加いただき、「本家 尾張屋」さんの大広間は、熱気と笑い声に満たされました。
ご参加くださった皆さん、講師の先生方、ありがとうございました。

次回は5月に、信州の蕎麦処、戸隠でお会いしましょう。

片山虎之介


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【受講された皆さんから頂戴した、ご感想のコメントの一部をご紹介します】


『大坂「砂場」の蕎麦の味を考える』講座、大変興味深く、おもしろい講座でした。
特に興味深かったのが、「料理物語」版味噌をベースにしたつゆと、当時に近いであろう醤油と日本酒でつくった「料理塩梅集」版の2種類のそばつゆでした。
味噌は現物を見せてもらいましたが、イメージしていた物とは全く違う物でしたが、このつゆは現代人にも受け入れられる味のように思いました。
一方、「料理塩梅集」版は日本酒の味・香りがきついつゆでした。日本酒も今のイメージする日本酒とは違うようで、日本酒と味醂の中間みたいに思いました。
その他、「料理物語」版蒸し蕎麦と「料理塩梅集」版二八蕎麦の2種類をいただき、貴重な体験をさせていただきました。蕎麦も奈川在来の最高級のソバをいただけてうれしかったですね!

講義も盛りだくさんで、特に田野登先生のキャラは強烈でしたね!(笑)

いやぁ~、ホントに楽しい興味深い講座でした。とても3時間ではおさまりませんでしたね。
店を休みにして行った甲斐がありました。

また出来るだけ講座に参加させていただきます。
その時はよろしくお願いします!

(T・Sさん)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
楽しい講座でした。
ありがとうございました。

思ったとおりです。
講座のテーマに引き付けられ、遠路にもめげず、参加を決意したことに間違いはなかっ
たです。
一つは、蕎麦と汁の再現。
ひとりでは中々出来ないことが体験でき、味もすばらしい出来栄えと思いました。
汁を造られた方、蕎麦を打たれた方の苦労が察しられました。
二つ目は、田野先生の砂場についての話でした。
異業種から視ての、違う角度から切り込んだ分析は、大変興味を引かれる内容でした。
蕎麦を趣味とする者にとって、大変有意義な内容であったと思います。
また、講座内容と開催場所が相まって良い雰囲気を醸し出していましたね。

次回の講座が楽しみです。

(T・Tさん)

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 このたび、ユニークな企画に参加させていただき、どうもありがとうございました。本を読んで漠然と「砂場」の蕎麦を想像するだけでしたが、今回、リアルな体験ができてとてもよかったです。蒸した蕎麦、味噌を使ったそばつゆを初めて味わうことができました。めったに体験できない機会を準備していただき感謝しています。

 地図から見た「砂場」の位置関係、そばの打ち方からの推定など前段の講義は初めて見聞きすることばかりでした。今回、初参加だったため『蕎麦屋の常識・非常識』を読んで臨みましたが、時間がなくて片山様の講義を聞けなかったのは大変残念でした・・・今後に期待しています。

(T・Oさん)

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大変貴重なテーマでの開催有難うございました。
素人のそば打ちを趣味としている私にとっての研究テーマは、そば切り東西論争の種となっている「砂場」の歴史を探ること、大阪からそば屋が忽然と消え江戸に移ったといわれるがそんな疑問を消化したい。大阪に住む私にはこの2点に興味があり今回のセミナーに参加いたしました。
「すなば」の文字は、大阪に住む私にとって魔法のような不思議な言葉です。そば切り発祥の地といわれる砂場に関する資料をいくつか調べたことがありますが、文献がないということで解らないというのが多くの見解でした。

今回、本家尾張屋稲岡様、勢見恭造様、田野登様のお話しを聞くことができ大変楽しい時間を頂きました。感謝申し上げます。
私は、仕事で京都地域を21年間担当し、それなりに京都という街の歴史を分かったつもりでいましたが、本家尾張屋のご主人稲岡様に饅頭作りから始まったというそば切りの歴史を懇切丁寧にお話しいただけたお陰で少し理解が少し深まりました。京都のそばは、粋と水。この言葉も印象的でした。それと禅宗がそばの文化に大きく関わっていったことも印象的でした。
いつもながら上方のそば研究をされている第一人者の勢見恭造様の研究努力には頭が下がります。私も勢見様のHPから多くのことを学んでいます。
事前に、和泉屋の発祥と言われる泉南群熊取町の中家資料館を訪ね資料をもらってきましたが、田野先生の浪花の津沿岸地図を中心とした時代考証は、目からウロコでした。古文書が読めればもっと楽しいのにと思った次第です。有難うございました。
(K・Kさん)

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貴重な講座へ参加させていただき
本当にありがとうございました。

過去の文献を積み重ねていく新砂場説、すごく興味深く拝聴しました。
自分の知識があればもっと楽しめたはずと思うと少し残念でしたが、
これをきっかけにもっと歴史について、そして蕎麦について学びたいという気持ちを強くしました。

江戸時代の蕎麦もとても美味しかったです。
のどごしはないですが、甘みの強い蒸し蕎麦はとても美味しく
煮抜き汁も今まで食べたことのある中で一番美味しかったです。

(K・Hさん)

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砂場の講座お世話になりました。
私にとっては遠方の京都でしたが、おりしも桜の咲き始めということで旅行気分で、初めて参加させていただきました。参加の皆様そばに対する造詣が深く勉強になることばかりでした。
尾張屋本店稲岡店主の京都でのそばの歴史のお話し、勢見先生と田野先生の大阪砂場のそばの話、最後の片山先生の話も是非お聞きしたかったのですが時間の関係で大変残念でした。
信州では味噌ベースの汁に辛み大根のしぼり汁を加えた「辛汁のそば」が有名ですが、 私はいまだこれはという辛汁に出会っていません。今回の講座の日本蕎麦保存会の味噌ベースの汁の味は私にとって発見でした。
要は元になる味噌が決め手だと思いました。(今はこのような味噌がない!)
欲を言えば、4時間余りの座りの受講は疲れました。
新参者ですが今後ともよろしくお願いいたします。

(K・Yさん)

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■ 関係するサイトへのリンクは、こちらです

会場となった、京都「本家 尾張屋」さん
http://www.honke-owariya.co.jp/

勢見 恭造先生のサイト「大阪・上方の蕎麦」
http://www10.ocn.ne.jp/~sobakiri/

田野 登先生のブログ
http://ameblo.jp/tanonoboru/

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「観光都市大阪」? もちろん大阪は観光都市でもあります。

街を歩いていて、「観光都市」に気づかせられるのは、旗を掲げてゆく団体を見かけたりする時です。
道頓堀戎橋の上、グリコの電飾の前で、ガイドの説明に聴き入っている団体の観光客がいます。
彼らが手にしている案内書に書かれてある文字がハングルであったりもします。
今日、国境を越えてアジアからたくさんの観光客が大阪にやって来ています。

大阪観光の定番メニューに新世界が挙げられます。
観光ガイドブックには、「新世界」が相変わらず、派手に宣伝されています。
人気スポットは、通天閣展望台に鎮座するビリケンさんです。


晴耕雨読 -田野 登--まっぷる
 写真図1 『まっぷる'13大阪』の新世界 

「足裏をなでて、幸せをつかもう!」と書かれています。
ほんま(本当)かいなと思われる方もいらっしゃるでしょうが・・・。

私は、先週水曜日4月3日、通天閣展望台ビリケンさんをめざして、
新世界界隈を歩きました。


晴耕雨読 -田野 登--111
 写真図2 通天閣写真 111 

平日の午後とはいえ、春休み期間中のせいか、エレベーターの待ち時間は45分の末、
ギューギューのすし詰めでした。

ようやく、展望台に着きました。

太閤秀吉の黄金の茶室をまねた、金ピカに塗られた巡回路は、
ビリケンさんづくめと思いきや、布袋さんもいらっしゃるじゃありませんか。

セミナー「ビリケン像人気の謎を解く布袋さん研究」懸案の布袋さんまで駆っての歓待です。
当所では、「七福神」にビリケンさんを加えて、「八福神」を謳っているのです。
展望台では1時間ほど、観光客や賑やかし役の若者の行動をじっくりと観察してきました。

ビリケン像は、巡回路の最後のスポットです。
どうやら、一巡を終えた観光客一行。
今から金ピカのビリケンさんの前での記念撮影が始まるようです。

そこに・・・。

「お写真撮りますか?」

「(ビリケンさんの)足の裏をさわってください。」

賑やかしが勧誘します。

賑やかしは、観光客のカメラを預かり、
よろしければ、私どものカメラでもいかがか(これは有料の写真)と
いった具合に親しげに話しかけています。
たいがいの観光客は、その親切そうな声かけに応じます。

賑やかしの若者は、ひっきりなしにすっ頓狂な叫び声を張りあげます。
テレビから漏れ聞こえてくる、あの若手お笑い芸人を思わせる、
意味不明で、なれなれしい口調でです。
抑揚はもちろん大阪弁です。

「ビビット。アーップ!」(賑やかしがカメラのシャッターを切る)
「ビリケン!確認しまーす!」
「これ、めっちゃ(滅茶苦茶の略か)。

ええやん!」(賑やかしがカメラの画像を覗き込む。)
        (観光客をおだてあげているのだろう。)

「ウワォー!」(賑やかし一同3名、一斉に意味不明の奇声を発する。)

「お賽銭ジャーラジャラ!」(賑やかし一同、声を合わせて一層大声で。)
(観察している限り、賽銭箱にジャーラジャラは見かけなかったが・・・。)

観光客は、ビリケン像の足の裏を決まり切って触ってゆきます。
合掌したり、かしわ手を打ったりなど誰もしません。


晴耕雨読 -田野 登--057
 写真図3 通天閣展望台のビリケン像の足を触る写真 057 

それでも傍らには、たくさんの紙製の「絵馬」が架けられています。
その「絵馬」には、「出会商売/恋愛勝負/合格奇跡/健康発見」とプリントされています。

店番のいないコーナーでは、一枚300円で販売しているようです。

「八福神」の「御朱印帳」も一冊300円で販売しています。

観光客の中には、順番に8体の神さんの前にあるゴムスタンプを捺している人もいます。
まるでお寺か神社に来ているような設定になっています。

しかし、違います。
寺院特有の抹香臭さが一向にないせいか、観光客に屈託は見受けられません。
子供連れなど実に楽しげで、縁日感覚の乗り具合と見受けました。

私は、ビリケンさんへの観光客の行動を観察し終えまして、1階下(4階)まで階段を下りました。
そこには、360度の展望が開けていました。

西は大阪湾をはさんで神戸・須磨・明石、北は北摂の丘陵、東は生駒山、
南は泉州の山並みが一望に見渡せます。

階上とは全く違った空気を感じます。観光客の表情が違います。

子供連れも今や、珍しくもなくなった眺望を結構、熱心に眺めています。
かく申す私も北東に大阪城を見つけた時は、何度も確かめました。
今日、大阪城が小さくて、なかなか見つからないのです。
それほど、大阪という都会は無秩序に高層ビルが林立するマチと化しているのです。

ところで、懸案のビリケンさんの足の裏をくすぐる件ですが、
いつ頃から、そんな行為をするようになったのでしょうか?
明くる日に、図書館に行って調べてみました。

そもそも、通天閣にビリケンさんを祀ったのはいつのことでしょう?

その起源は、内国博覧会跡地に建ったルナパークにビリケンさんを祀っていたことに求められます。


晴耕雨読 -田野 登--びいけんどう
 写真図4 ルナパークのビリケン堂 

写真は、『大阪新名所新世界通天閣写真帖 復刻版』(創元社)にあるビリケン堂です。
原本は、大正2(1913)年に発刊されています。
この写真では中央に安置されているはずのビリケン像が、はっきりとは見えません。
このしつらえからすれば、到底、ビリケン像の足をくすぐったとは考えられません。

また文献にも、そういった記事が見当たりません。

ちなみに、このビリケン像は、大正12(1923)年のルナパークの閉鎖とともに行方不明になったと、
言い伝えられております。

しかし、ビリケンさんは、明治末から大正初期にかけて、
一時的に花柳界などで流行った神であったらしく、
ルナパーク閉鎖より早い時期に捨てられていたかもしれません*。

 *「都新聞」明治45年3月31日に「ビリケン征伐」の記事。

現在のビリケン像につながる話は、2代目通天閣が昭和31(1956)年に復活して、
以降のことです。

それも、「行方不明」となったビリケン像に気づき、新世界の町おこしのために、
ビリケンさんを復元しようといった機運が起きるまで、
人々の記憶の底にビリケンさんは沈められたままでした。

ビリケンさんを借り出してまで、新世界の町おこしをしようとの話が持ち上がったのは、
昭和54(1979)年の暮れのことです。

さっそく、翌春、昭和55(1980)年、3月30日、ビリケン像を復元し、
ビリケン祭が3階の「通天閣ふれあい広場」で行われました。


晴耕雨読 -田野 登--通天閣
 写真図5 第1回ビリケン祭 

この写真は、『通天閣―50年の歩み―』(2007年、通天閣観光)からの引用です。
ご覧のとおりで、ビリケンさんの足をくすぐるといった不思議な願かけ作法が
見られるのは、もっとずっと先のようです。

管見による、この不思議な願かけ作法の初見は、この先、15年後のことです。

この15年の間に、ビリケンさんの周辺に何が起きたのか?
不思議な願掛けが発生した背景には、どのような習俗が控えているのか?
これらの疑問について、私は、目下、調べている最中です。
近いうちに、船場の商社に祀られているビリケン像を訪ねる予定です。
セミナーまでには、決着が着く目処が立っています。
当日は、貴重な画像を交えながら、PowerPointを駆使してパワフルに説明します。

セミナー「ビリケン像人気の謎を解く布袋さん研究」が近づいてきました。
会場の都合もありますので、参加表明をお早めにお願いします。

日 時:2013年4月27日(土)

テーマ:「ビリケン像人気の謎を解く布袋さん研究」pm7:00~8:30

会 場:大阪府立江之子島文化芸術創造センター
    (明治の大阪府庁の場所)大阪市西区江之子島2丁目1番34号

アクセス:大阪市営地下鉄千日前線・中央線「阿波座駅」下車、8番出口から西へ約150m。

会費:各回1000円。

参加表明は、電話(田野携帯:080-1418-7913)
もしくは、tano@folklore-osaka.org までご一報ください。


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