晴耕雨読 -田野 登-

大阪のマチを歩いてて、空を見上げる。モクモク沸き立つ雲。
そんなとき、空の片隅にみつけた高い空。透けた雲、そっと走る風。
ふとよぎる何かの予感。内なる小宇宙から外なる広い世界に向けて。


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 昨年、機会を得て、かつて墓守を職掌とした「三昧聖」を祀る墓石の実地調査をしました。三昧聖と云った日本の中世以降、近世にかけての「賤民」が成立するのは、いかなる心意に基づくのだろうかと考えていました。

 そこで、手元にある*『近代化と世間』の新書本を再読しました。

*『近代化と世間』:阿部謹也2006年『近代化と世間-私の見たヨーロッパと日本』朝日新書



観天望気 -田野 登--1
写真1 :新書本『近代化と世間』表紙 



観天望気 -田野 登--2
写真2 :新書本『近代化と世間』裏表紙

 劾書『近代化と世間』の構成は、《第1章 西欧社会の特性》《第2章 日本の「世間」》

《第3章 歴史意識の東西》《終章 ヨーロッパと日本》《結語》からなります。

 著者は2006年9月4日に急逝しますが、自署のある《結語》の日付が「2006年7月10日」です。まさに中世史研究の第一人者の「遺著」というべき著作でありましょう。本ブログでは、副題に掲げました「ヨーロッパ中世史に見える賤民」に焦点を合わせて劾書を紹介します。

 ①ヨーロッパにも被差別民はいたし、日本と同様に差別されていた。しかるに日本の  世界史講座やヨーロッパ史概説でこれまでヨーロッパの賤民にふれたものが全くなかっ たことは私たちのヨーロッパ像がいかに偏ったものであったを示している。(40頁)

 ヨーロッパにも被差別民はいたのです。いつの時代、どのような人たちでありましょうか。劾書は中世における道路清掃人を取り上げています。

 ②ところで中世における賤視のあり方を見てゆくとき、私たちはそれがはじめは畏怖  の感情から生じていることを見逃すわけにはいかない。賎業とみなされがちだった塵埃 処理や道路清掃すら、汚いという理由で賤視されたのではない。(58頁)

 時代は中世です。ここでは、賎業とみなされがちだった塵埃処理や道路清掃に対しての眼差しに畏怖の感情から生じたと述べています。この観点は、「汚いから賤視する」と云った認識に対して訂正を突きつけるものです。塵埃処理や道路清掃に対しての「汚い」以前の感性に畏怖の感情があったことを、劾書は聖者の尿が薬として用いられたことを証拠に論じております(58頁)。

 それでは、汚物や糞尿を処理する仕事と云った行為に対して、どうして、畏怖の念を抱くのでしょう。劾書は「大宇宙」との関わりにおいて論じます。

 ③汚物や糞尿は人間がかろうじて掌握している共同体の外へ出て行き、大宇宙のものと なるのである。それ故に汚物を処理し扱う道路清掃人などは大宇宙を相手に仕事をする 人間として特別な能力を備えたものと見なされ、畏怖の眼差しで見られたのである。(69 頁)

 畏怖の眼差しで見られた道路清掃人などは「大宇宙を相手に仕事をする人間として特別な能力を備えたもの」として述べられています。*「大宇宙」を「自然」と言い換えて考えてみますと、人間では、どうすることも出来ない自然の力を制御することを職業とする人々に対して畏怖の眼差しを投げかけていたのであります。

*「大宇宙」:〔macrocosm〕 人間の構造と,宇宙の構造との間に類比・照応を認め,人間を小宇宙とするのに対し,全体としての宇宙をいう。 (コトバンク「大宇宙」)

 観天望気 -田野 登--3

写真3 大宇宙の図 :『阿部謹也著作集』第2巻、1999年、筑摩書房

 この「大宇宙を相手に仕事をする人間」が、やがて賤視の対象となります。劾書はそれらの職業を具体的に挙げております。「大宇宙」が明らかになります。

 ④以上の観察によって、中世後期以降賤視されてゆくさまざまな職業はほとんどすべて 本来は二つの宇宙の狭間に成立したものであることが解るであろう。刑吏、獄吏、捕吏、 墓掘人、塔守、夜警などは死(特に非日常的な死)と関わる職業であり、皮剥、犬皮鞣し 工、豚を去勢する者等は動物との関係において、道路清掃人、煙突掃除人、煉瓦工、陶 工、(火と土を扱う)浴場主、粉ひき等は大地、水、火との関わりにおいて説明すること が出来るであろう。娼婦については、いうまでもなく、性との関わりが指摘されよう。(81頁)

 ここに示された賤視されてゆくさまざまな職業は、

《(1)死(特に非日常的な死)との関係、(2)動物との関係、(3)大地、水、火との関係、(4)性との関係》の4項目に分類されます。

 次に図示する皮鞣し職人は、《(2)動物との関係》に分類されます。






観天望気 -田野 登--4
写真4 皮なめし工 :阿部謹也1989年『社会史とは何か』筑摩書房

 では、いったい何故、これらの「大宇宙を相手に仕事をする人間」が、かつて賤しめられなかったのが、中世後期以降、賤視されるようになったのでしょう。そういった異能力者への眼差しが畏怖の感情から賤視に至るまでに何が作用したのでしょうか。

 ⑤また死体の運搬や墓掘りは本来共同体仲間やギルド、ツンフト仲間の仕事であり、死 体に触れたり、墓を掘ったりする仕事は決して卑しい仕事ではなかった。しかしながら 都市の成立以後、刑吏の出現とほぼ同時に墓掘人が職業として登場し、彼らは賤視され ていったのである。(58頁)

 死体の運搬や墓掘りは《(1)死(特に非日常的な死)との関係》がある職業に携わる人たちです。彼らが賤視されるようになったことの一つは、「都市の成立以後」の「職業として登場し」たことにあるのです。あと一つ大事なのは、キリスト教の教義にある一つの宇宙観の普及であります。

 ⑥決定的だったのは、13世紀には西欧のどこの村にも教会が出来たという事実である。 キリスト教会の出現は、人々の空間観念と時間観念に決定的な転換をもたらしたのであ る。そしてこの転換がもたらされえた最終的な契機として、キリスト教による死生観の 転換があったことはいうまでもない。村落共同体と都市共同体の成立によって、それま で家ごとに大宇宙と対峙していた人々は共同体単位で大宇宙と関わることになった。(83 頁)

 ヨーロッパ社会においても、キリスト教以前にあっては、その死生観にアニミズムが影を落としておりました。次の記述があります。

 ⑦人々は未だ森の霊や死者の軍勢を信じ、生き続ける死者の存在を信じ、さまざまな迷 信の世界に生きていた。しかしキリスト教はそれらを徐々に掘り崩しつつあったのであ る。キリスト教の教えた世界はひとつの宇宙であった。キリスト教に改宗した王や司祭 たちはかつてのように二つの宇宙の狭間に生きる人々ではなく、一つの宇宙によって、 成立しつつあった村落共同体の小宇宙を取り込もうとしていたのである。(84頁)

 キリスト教会の出現は、人々の空間観念と時間観念に決定的な転換をもたらしました。この転換により、人びとは村落共同体と都市共同体単位で大宇宙と関わることになります。それまで、大宇宙と小宇宙の狭間において、畏怖の眼差しを投げかけられていた「共同体内で全体を代表しての仕事」が共同体から距離を置いての「個人の職業」となり、賤視の対象となったのです。

 ここまで見る限り、日本の中世における被差別民の発生と通底する論理を見ることができます。ところが、その後の賤民史の展開は、ヨーロッパは日本と異なります。ヨーロッパ社会について、劾書は次のように述べます。

 ⑧同様に小宇宙としての共同体が解体し、感覚の次元でも二つの宇宙が希薄になってき たとき、そして全世界が均質的な時間と空間によって貫かれているという一元的な世界 像が普及したとき、賤民身分は消滅してゆく。このような事態は西欧においては18世 紀の啓蒙思想期に見られるが、地域と歴史的事情によって賤民身分の解体の時期には大 きなずれがあることはいうまでもない。現在西欧では職業差別はほとんど消え去り、新 たにトルコ人差別などが指摘されている。(86頁)

 著者は*1999年『阿部謹也著作集』第2巻には、次のようにも記しています。

 ●啓蒙思想の普及によって万人平等の思想が広まり、近代自然科学の発展とともに、二 つの宇宙の観念を支えていた神秘で不可思議な大宇宙のイメージは、大きく変貌させら れていった。このような大きな世界史的変革のなかで、ヨーロッパの被差別民の多くは 姿を消していったのである。

*1999年『阿部謹也著作集』第2巻:『阿部謹也著作集』第2巻、1999年、筑摩書房、「「営業の自由」原則の成立」420頁

 啓蒙思想、近代自然科学といった一連の「近代」のパラダイムの一項目として、「賤民解放」がなされたと読み取ることができます。それでは、今日、キリスト教以前の世界観は痕跡すら残していないのでしょうか。

 ⑨そのようないわば非合理的な面は近代にいたるまで地域の民俗世界の中に生き残って おり、今日でもヨーロッパの各地で催されるカーニバルにかつての怪異なる世界を垣間 見ることが出来る。11世紀以後のヨーロッパでは、合理的で理性的な部分が形成され てゆくのと並行してそれらの怪異なるもの、非合理的なものは暗部に閉じこめられ、公 的生活には登場しなくなった。(39頁)

 近代においても、カーニバルといった場における民俗世界の中には怪異なるもの、非合理的なものが生き残っているのです。それらの行事も、大抵はキリスト教以前に行われていた「諸々の霊魂への祈り」をフォークロリズム(なぞらえの民俗的行為)として伝承しているものなのです。

 ここまで阿部謹也による賤民身分をめぐる職業差別の変遷をヨーロッパ社会について駆け足で追ってみました。はたして、日本社会では、いかがなものでありましょう。冒頭に挙げました「三昧聖」は、人間の死に関わり火を御する人々であります。彼らに対しての眼差しもまた、ヨーロッパ中世史における賤民と通底する論理が認められます。いやしくも、今日の日本社会において、このような差別の眼差しを払拭できないでいるならば、日本社会は、未だ、近代化の途上というべきです。

柳田国男は、昭和初期にすでに、西洋諸国における、民間文芸、風俗慣習の消滅を「1000年以上の基督教の力と、大規模なる民族移動と、機械文明の侵略」とに起因すると述べています。(柳田國男、1928年『青年と学問』(『柳田國男全集』27、ちくま文庫、1990年、141頁)この指摘は、劾書の主張とほぼ一致します。日本における賤民史研究は、1980年代以降、着実に進んでおります。阿部謹也『近代化と世間』に隔靴掻痒の感を抱きつつ、学際的視点に立って、賤民史研究を展開する可能性を感じます。

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ボクの生まれ育ったマチは、近世の摂津国西成郡浦江村で、大坂北郊の農村でした。

観天望気 -田野 登--国宝地絵図
 「改正増補国寶大阪全図 文久3年(1863)」

ほぼ中央に浦江村がみえる。

かつては、杜若の花が池に映える「水郷」でありました。



観天望気 -田野 登--よしゆき浦江杜若
 「浪花百景 芳雪 うらえ杜若」


明治になってからも、了徳院、妙寿寺、料亭・富竹の辺りには池沼がめぐり、

杜若の他、蓮の花、萩の花をめでる四季遊覧地でありました。




観天望気 -田野 登--蓮花
奥沢信行編集『大阪繁昌雑記』明治10年


船場の子供達も遠足に連れて来られたその水辺のムラが

マチとなるのは、明治の末のことです。

浦江の北を蛇行した中津川が新淀川に付け替えられた時代、

染工場を始め、化学薬品工場などが大挙して進出し、

昭和の初めには、汚水・煤煙にまみれた工場街に変貌しています。


観天望気 -田野 登--鷺洲町全図
『鷺洲町史』大正14年


この時代の浦江を、ジャーナリストの北尾鐐之助は、次のように記述しております。

(北尾鐐之助、1932年『近代大阪』創元社(復刻版、1989年)、116頁)


●*1その頃、*2聖天堂には、老松が茂り合つて、杜をなしてゐたといふのだが、工場から吐き出される汚水や、煤煙のためにすつかり枯れ果てゝしまひ、杜若のゆかりの色もすつかり跡を絶つて、この辺一帯咲き乱れてゐた蓮の花の名残りが、今ではわづかに*3毘沙門堂付近に影をとどめ、蓮飯などを宣伝してゐる*4料亭が、昔の俤を語つてゐるが、それも全く問題にならない風景である。*1その頃:明治30年ごろ。*2聖天堂:了徳院。*3毘沙門堂:妙寿寺。*4料亭:富竹。



観天望気 -田野 登-
地図 「大日本職業別明細図 大阪市西淀川区」1935年、東京交通社


今回、浦江塾では、内藤眞治氏(福島区歴史研究会会員)が

「昭和16年頃の南浦江の町並」を、

自ら作成の心象地図(メンタルマップ)を用いて話します。

北尾鐐之助『近代大阪』が出版された時代の浦江は、どのような町であったのか

子どもの頃の暮らしの記憶を報告していただきます。

昭和25年に生まれたボクには見たこともない娯楽施設があります。

聖天劇場、シネマアサヒ、京楽館、昭和劇場などなど・・・。

浪曲・落語寄席、芝居小屋、映画館といった大衆娯楽施設が、この町にはありました。

実家の長屋を出た先にはカフエが2軒もあったと聞きます。

工場で働く職工・女工の住む町。家内で営むメリヤス屋さんもあった町。

「昭和16年頃の南浦江の町並」に乞うご期待!



第27回 浦江塾案内

日時:2013年2月2日午後7時~9時 

場所:妙寿寺 参加費無料。

ご自由にご参加ください。

心象地図(メンタルマップ)は当日配布します。


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非常勤の身には、年を越すのがえらい。ひどくしんどくなってきました。
「餅代」といった雀の涙ほどの賞与なども、もちろんない。
歳末のやりくりの大変は、今の世に始まったことではありません。

西鶴『世間胸算用』の世界も似たり寄ったりです。
年を越した頃には、軽くなった財布に、いかにして、残り半月を過ごすか、青息吐息の体となります。
それにつけても、年を越すのに躍起になるあまり、何か、大事なことを忘れ去っている気がしてなりません。
今回は、注連縄をめぐって阪俗研的思考を縦横にめぐらせようと思います。

東京では、*江戸の昔から注連縄も「小輪飾り」と云った飾り物を用いていたようです。
*喜田川守貞著・宇佐見英機校訂『近世風俗志』(四)(岩波文庫2001年)146頁

げんに今日、東京でみかける注連飾りには、稲穂に扇とか海老(レプリカ)が付いていたりして随分、華美です。

《写真1 東京池袋の民家の注連飾り》

観天望気 -田野 登-


《写真2 東京雑司ヶ谷鬼子母神の注連飾り》

観天望気 -田野 登-

それに比べれば大阪の注連縄は、粗末ですが、単なる「正月飾り」などと云うのが憚られる気がします。


《写真3 わが家の門口の注連縄(大根じめ)》

観天望気 -田野 登-


注連縄を張るのは、単なる正月向けのデコレーションなどではないでしょう。

わが家では、注連縄を、家中ほうぼうに張ります。
門口(かどぐち)、荒神を祀る神棚の他、便所、水道蛇口、洗面台といった水廻りにも張ります。

《写真4 わが家の荒神を祀る神棚の注連縄(牛蒡じめ)》
観天望気 -田野 登-


《写真5 わが家の便所の注連縄(輪飾り。「めがね」と云って売っている)》
観天望気 -田野 登-


《写真6 わが家の洗面台の注連縄(輪飾り。「めがね」と云って売っている)》
観天望気 -田野 登-

門口はもとより、水廻りもまた、邪悪なるモノの侵入する場所だから縄を張って
居住空間との間に境界線を引くのものです。
「しめなわ」に漢字3文字「注連縄」をあてて、いかにも目印になる縄のように見えますが、「しめ」には「占」、「示」「標」の漢字があてられます。
門口、便所、棚もと、竈(へっつい)、井戸は、不可思議な諸霊のいます外界(異界)との出入口です。
怪談などにしばしば語られる場所です。
家の中でも火を使い、水を使う場所は危険な場所です。

実家には便所にお札を貼ってありました。
竈の上には三宝荒神(清澄寺。兵庫県宝塚市)を祀っていました。
便所の神さん、台所の神さんは、家の守護神でもあります。
人間は、際限ない時空間を分節化します。
空間を仕切ります。
注連縄を張るのは、諸霊が邪悪なるモノとして侵入して来るのを塞ぐために占拠を標示する行為です。
だから、常日頃から清浄にし、祭事には神聖なる空間としつらえられるのです。

人間は、際限ない時間を分節化します。
時間を一年毎に仕切ります。
子どもの頃、大晦日、神棚を掃除し、提灯の煤を払い落とし、仏壇の燭台を磨き上げるのを手伝わされたりもしました。
すす払い、御身ぬぐいといった行事を、子どもの手を借りてでもしたものです。
一年に積もったほこりを落として、年を越したものです。
罪穢れを祓う意味があったのかもしれません。
年越しには、掃除をして、心身を清浄にして、家族みんながすがすがしい気分で
新年を迎えたものでした。

明日は小正月でです。左義長が行われます。
これについて『近代風俗志』では、次のように記しております。

●また京坂ともに(一月)十五日に、門松・注連縄を取り除くなり。江戸も、昔は今日なり。大坂は、門松・注連縄の類を諸川岸等に集め積みて、十六日の暁前にこれを焚きて、左義長の義を表す。これを焚くを坂俗は、とんどと云ふなり。
(前掲書、177頁)
門松・注連縄の類を諸川岸等に集め積んで焚く「とんど」は、喜田川守貞の云う「坂俗」です。
今では、大阪のどこでも、ウジガミさまの境内で、注連縄を焚き上げます。
廃棄物処理の問題があり、ビニール製の飾り付けなどをみな取り外して火にくべます。
阪俗研の謂われは、このような習俗を研究することにあります。

今回、注連縄の意味を阪俗研的に考えているうちに、「正月」といった文化装置の原点を忘れかけている自分に気づかせられました。
ところで、阪俗研の第一回セミナーは、19日(土)に迫りました。
90分でPowerPointの100コマをどのように説明しようかと、
これから作戦を立てようと思います。

前日18日まで受付しております。
お気軽にお申込み下さいませ。

■第一回阪俗研セミナー
http://ameblo.jp/tanonoboru/entry-11432231553.html


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第1回 阪俗研セミナー 
大阪のお地蔵さん-地域史研究篇-のお知らせ

町内のお地蔵さんを世話なさっておられる方やお地蔵さんを堅く信仰なさっておられる方、
学校で習ったり、テレビや本で知った「歴史」に疑問を感じられる方から、
社会学・人類学・民俗学を専攻する学生さんまで、
「大阪のお地蔵さん」というテーマのもと、民俗学的な地域史の探求をいっしょにやってみませんか?

お申込みはお電話もしくはメールにて!
tano@folklore-osaka.org 
携帯電話 080-1418-7913 まで



1 日時:2013年1月19日(土)pm6時30分~8時

2 場所:福島区民センター303号室
http://www.osakacommunity.jp/fukusima/images/tizu.jpg

観天望気 -田野 登-

3 セミナー「 大阪のお地蔵さん-地域史研究篇-」
  1 初秋の風物詩「地蔵盆」
  2 静かなブーム「街角のお地蔵さん」
  3 大阪のお地蔵さんの歴史
  4 地蔵信仰調査カード
  5 2010年7月「子安地蔵調査記録」
  6 地域史研究に向けて
  7 まとめ

4 会費:1千円。当日会場にて徴収します。

5 申し込み:1月18日(金)までに氏名と電話番号を明記の上、
阪俗研宛にメールでお申込み下さい。メール会員は電話番号明記不要です。
また電話でも受け付けております。
申し込み先メールアドレスは下記のとおりです。
大阪民俗学研究会 代表 田野 登 tano@folklore-osaka.org
なお、下記ブログからもお申込みいただけます。
ブログ 観天望気 田野 登 URL: http://ameblo.jp/tanonoboru

6 定員:5名~20名。
定員に達しない場合、閉講します。また、定員を超えた場合、追加日程の調整をします。その際はいづれも開催日前日中に電話でご連絡いたします。

お申込みは、tano@folklore-osaka.org 
携帯電話 080-1418-7913 まで


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歩きたくて歩きたくて、年始めに鼠島(下島)跡地を探訪してきました。

大開延命地蔵に参り、扁額由来にある下島水門での兄弟水死の悲劇

(昭和26(1951)年)を確かめてから、浪速通運の正門に向かいました。

そこに下島水門があったと記されています。

今回は、前回の*「ある小さな島(鼠島)の生涯」に基づき、

現地踏査と通行人との会話をふまえて末尾に記す地図9点を読図しました。

*中島陽二「ある小さな島(鼠島)の生涯」『大阪春秋 第88号』1997.9、72~79頁

以下、大開延命地蔵由来に記された兄弟水死の悲劇のあった昭和26(1951)年を起点に、

鼠島島域の歴史を4期に分けて「鼠島残影」として記します。
地図 1923(大正12)年
晴耕雨読 -田野 登-


第1期:鼠島の消滅(昭和26(1951)年~昭和33(1958)年)
第2期:鼠島住民の立ち退き(昭和33(1958)年~昭和48(1973)年)
第3期:共同住宅、公園の建設(昭和48(1973)年~平成9(1997)年)
第4期:高速道路の出入口工事(平成9(1997)年~平成13(2013)年)

地図 1951(昭和26)年


晴耕雨読 -田野 登--1951(昭和26)年

第1期:鼠島の消滅(昭和26(1951)年~昭和33(1958)年)
兄弟水死の悲劇2年後の昭和28(1953)年には、まだ、島内に第一閘門、第二閘門、
それに下島水門が残されていました。3年後の昭和29(1954)年には、下島水門がなくなり、
大開の工場街と島は陸続きになりました。

地図 1954(昭和29)年


晴耕雨読 -田野 登--1954(昭和29)年

島の南東隅には2本の桟橋が一時的に架っていました。

7年後の昭和33(1958)年には、中津川の左岸側(島の東方)が埋めたてられ、
川中島はでなくなりました。すでに2本の桟橋の表記は消えています。
中津川の水は旧島区域の西方を流れ、正蓮寺川に通じるようになりました。

第2期:鼠島住民の立ち退き(昭和33(1958)年~昭和48(1973)年)

地図 1960(昭和35)年


晴耕雨読 -田野 登--1960(昭和35)年


10年後の昭和36(1961)年には、川中島であった時代の対岸に当たる大開の三菱製紙に
鉄道線が敷かれました。この線路は、西成線と野田駅と西九条駅の間で合流しました。

14年後の昭和40(1965)年には、旧島区域には、285世帯、1193人の人口があり、
この時がピークでした。
20年後の昭和46(1971)年には、旧島区域の北部に不規則な街区が見られます。
いまだバラック住宅が建っていました。
旧島区域の南部には、「鼠島」の表記が見られます。
旧島南西端に六軒屋防汐水門が設けられています。
22年後の昭和48(1973)年には、旧島区域の西方を流れ、正蓮寺川に通じていた中津川
河川敷が埋め立てられ此花区、福島区と地続きになりました。
この年、旧島区域からの撤退が完了します。
立ち退きの際、旧島区域住民が延命地蔵尊を現在地に移しました。

地図 1976(昭和51)年


晴耕雨読 -田野 登--1976(昭和51)年




第3期:共同住宅、公園の建設(昭和48(1973)年~平成9(1997)年)



29年後の昭和55(1980)年には南部に旧島区域の此花厚生年金第二共同住宅2棟
(昭和54(1979)年建設)、3棟と、西部(此花区域)には、1棟(昭和48(1973)年建設)が建っています。
旧島域の西方を流れていた中津川は地図からは消えます。
40年後の平成3(1991)年には旧島域の北部に高見公園がみえます。
公園の北東から南西にかけてが福島区と此花区の境界線となっており、
公園の南東側が福島区域です。
この時代には、昭和36(1961)年にあった大開の三菱製紙への鉄道線がなくなっています。
45年後の平成8(1996)年には、旧島域の北西方向(此花区域)に高見小学校(昭和63(1988)年に
現在地に移転)、高見フローラルタウン(昭和62(1987)年竣工)が建っています。
46年後の平成9(1997)年には、旧島域南部の此花厚生年金第二共同住宅2棟、
3棟間に道路の表記がみえます。その延長線上に微かな入江がみえます。
この時代、正蓮寺川側に第一閘門入口、第二閘門入口の面影を残していました。

第4期:高速道路の出入口工事(平成9(1997)年~平成13(2013)年)
平成13(2013)年、1月現在、、旧島域南部は、阪神高速道路淀川左岸線の大開出入口の
工事区域と重なります。その北に大開厚生年金住宅が建っています。旧島域北部は、
高見新家公園(ふれあい公園)の南東部を中心とする半分です。
旧島北東端は同公園北東端あたりと推定します。もとあった鼠島の面積は、
5.8394ヘクタール(中島75~76頁)ですので、甲子園球場の敷地面積とほぼ同じ広さです。
ちなみに水死した十三才と九才の兄弟が存命であれば、
74歳と70歳の好々爺となっていたことでしょう。合掌。

付録として「大開延命地蔵尊」扁額の記事を全文載せておきます。

●おんかがびさまゑいそはか/この地蔵尊は、昭和二十六年八月に下島水門に建てられたものです。/昔、福山通運の裏は五十米幅の川で、荷物の運搬船が通っていました。/現在の浪速通運正門の所が下島水門でそれはそれは目まいがする程渦を巻いて流れる水門でした。毎年五月頃になりますと、この水門で釣糸を垂らせますとたくさんの稚鮎がとれました。/昭和二十六年五月の或る日突然「助けたるぜ」と言って一人の男が川に飛込んだではありませんか!!川の中央を見ると子供の頭が浮き沈みしながら流されて行く行く/二三十人の人々はアレヨアレヨと叫ぶだけでどうすることもできません。二人の頭はとうとう見えなくなりました。その子供は*十三才と九才の兄弟でその他に下島水門では数人の水死体があがっております。/それからは魔の水門と呼ばれるようになり幾千人の人々が祈願を込め延命地蔵尊と名付け、下島水門に建立されたものです。/合掌


観天望気 -田野 登-

観天望気 -田野 登-

観天望気 -田野 登-


読図地図
和楽路屋「福島区詳細図」昭和28(1953)年発行
和楽路屋「大阪市区分詳細図」昭和29(1954)年発行
和楽路屋「大阪市区分詳細図」昭和33(1958)年発行
和楽路屋「大阪市区分詳細図」昭和36(1961)年発行
日地出版「大阪市福島区詳細図」昭和46(1971)年発行
日地出版「大阪市福島区詳細図」昭和55(1980)年発行
昭文社「福島区」平成3(1991)年発行
日地出版「大阪市福島区詳細図」平成8(1996)年発行
昭文社「福島区」平成9(1997)年発行


2013年1月19日(土)「第1回 阪俗研セミナー 
大阪のお地蔵さん-地域史研究篇-」は、現在、受付中です。
http://ameblo.jp/tanonoboru/entry-11432231553.html



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