分離している自分は何か | 3年前のしこうの楽しみ

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高校時代の自分との分離が認識できたのを受けて、なぜそのようになっているのかを探ってみることにしました。
特に分離するような経験があったわけではなく、いつの間にかそうなってしまっていたのではないかと思います。
自分自身の内面の変化が、過去を分離したかのように置いてきてしまったのかもしれません。

それは自然なメカニズムと考えることもできそうです。
そうすることで過去の記憶が揺らぎのない安定したものになるような気もします。
分離させることで記憶が変化しにくくなるということです。

もし記憶が今と連動していたなら、現在の自分の状態に影響を受けて、過去に起きたことのとらえ方が勝手に変化してしまうでしょう。
これは体験への意味付けが変化することであり、記憶が質的に変容することを意味します。
それは混乱する可能性を招くため心理的に不都合なのかもしれません。

そのため本人が主体的に統合を試みようとするまでは、切り離された場所に保管されているのかもしれません。
そんなことを考えていると、分離の原因がとらえられてきました。
それは内面的変化の過程において自分の性質が変化していった結果、当時持っていた一部の性質が切り離されてしまったというものでした。

その結果、許容度を広げることができ人や社会への理解が深まったという経緯があります。
この切り離しは意図的でなく結果として気づかないうちに起こっていたようですが、感覚の繊細さを低減させる要因にもなったようでした。
もしかしたら生きやすさを優先して無意識にそれを選択したのかもしれません。

思い返せば、高校時代の自分は自分が正しいと思う答えしか見えず、それを人にも環境にも求めていました。
物事を一番妥当と感じる一面でしか判断できなかったわけです。
そんな狭い見識の中で生きていたわけですが、どうやらそこには今よりも本質に対する鋭敏な感性が内在していたようでした。

それを取り戻すことが、より自己同一感をもって自分の才能を発揮するポイントのようにも思えたのでした。

谷孝祐
2014.8.16 9:59