2011-02-18 19:45:21

第166回_出光佐三_部下が命をかけてくれるリーダーとは

テーマ:石油

「大事(だいじ)をなすには必ず人を以(もっ)て本(もと)となす。今、人、吾(われ)に帰するに、吾何(われなん)ぞ棄て去るに忍びんや」三国志



蜀(しょく)に向かう劉備玄徳(りゅうびげんとく)を慕って多くの人が付き従ってきたが、曹操(そうそう)の追撃が厳しい。無事に蜀まで逃れるため、足手まといになる人々を置き去りにするように、諸葛孔明(しょかつこうめい)は玄徳に進言したが、そのときの玄徳の返答が上の言葉であった。


「大きな仕事を成し遂げるには、なによりも人間が大切である。今これだけの人々が私を慕ってついてきてくれたのだ。それをむざむざと見捨てて行けるか」という意味で、孔明は玄徳の器の大きさに改めて感じ入り、己の不明を恥じたとされる。




明治維新の立役者で国民的人気がある西郷隆盛は島流しにあい、その後、釈放の使いが来たとき。西郷はそばの島に流されている後輩の村田新八(しんぱち)を、藩命を無視して助けた。村田のところには釈放の使いが来ていなかった。そこで西郷は自分を連れに来た釈放船を村田のいる島に強引につけさせ、村田を救出したのである。無論これは越権行為であった。


しかし西郷には「同じことをしたのに村田を置いたまま自分だけ助かるわけにはいかない」と思った。村田は感動し「これからは、西郷さんのために俺は命を棄てる」と決意したという。


西郷はこういう温かい大きな心を持っているからこそ、命をかけてくれる部下がおり国民的人気があるのであろう。




日本の経営者にも昔は劉備玄徳や西郷のように心の大きな人がいたが最近はめっきり少なくなったかもしれない。こういう経営者の代表ともいえるのが、出光興産の創業者、出光佐三(いでみつさぞう、明治18年~昭和56年)であろう。

 


空襲で完全に焦土化した東京のど真ん中、銀座近くにあった出光興産の5階建て社屋は1階が焼けただけで奇跡的に残った。終戦からちょうど1ヶ月目、その2階に店主出光佐三と、東京在住の重役たちが集まった。今後の会社のことを話し合うためである。



明治44(1911)に出光佐三(いでみつさぞう)が創業した出光石油は、戦時中は、朝鮮、満州から華北、華中、華南、南方地方地域まで、手広く営業活動を行っていたが、敗戦でその拠点の全てを失った。投じた資金も無に帰した。残ったのは250万円ほどの借金だけである。


一方、内地にあった営業施設は、政府の統制機関に接収されたままで、出光の自由にはならなかった。つまり、この時の出光は、仕事の口を全て奪われた、いわば開店休業の状態であったのである。


敗戦とともに海外基盤が全て吹き飛びそこから800人もの社員が引き揚げてくる。殆ど仕事のない状態では、その人たちに給与を払っていくことは出来るわけがない。「大量解雇はやもえない」という意見が幹部の中で飛び交ったのは当然であった。



しかし黙って重役たちの話を聞いていた出光佐三は目を開き言葉を発する。


「私は、君らの意見に賛成できない。馘首(かくしゅ)してはならないと思う。特に海外から引き揚げてくる者を整理しようとする考えには、反対だ」視線が、佐三に集まり、釘付けになった。


「彼らがどんな気持ちで、危険な外地へ出て行ったのかを、今一度思い起してほしい。会社を信用すればこそだろう。万が一の時には、会社が骨を拾ってくれるという気持ちがあったから、危険を顧みなかったのだ。文句を言わず、よく行ってくれたと私は今でも、彼らに感謝している。そういう人達を首になど、私にはできん」しかし「首を切らなければ、共倒れですよ」となお粘る幹部もいたが、佐三は一歩も引かない。


「社員はみんな家族のようなものだ。きみらは、食い物が足らんからと、家族の誰かを追い出したり、飯をやらないようにしようと言うのか。そんな薄情なことができるのか。事業は飛び借金は残ったが、会社を支えるのは人だ。これが唯一の資本であり今後の事業を作る。仕事がないなら探せばいい。仕事をつくればいい。それをせずに、安易に仲間の数を減らして、残った者だけで生き延びようとするのは卑怯者の選ぶ道だ。もしその努力をみんなで精一杯やって、それでも食っていけなくなったら、その時は、みんな一緒に乞食にならおうじゃないか」


佐三の思いはただ一つ。内地と併せて1000人になる社員とその家族を、荒波の中に放り出すことが出来ないということであった。どんなことをしてでも、石にかじりついてでも、みんなを食べさせていかねばならぬ、この一念に凝り固まっていたのであった。

 


翌日から佐三自らが仕事探しに奔走した。電気の修繕、農業、漁業、印刷、醤油や食酢の製造。ラジオの修理、販売、業種や仕事内容には拘らない。石油統制が解除になるまで社員一丸となって歯をくいしばって頑張った。極めつけきが旧海軍のタンク底に残る石油回収であった。戦後放置してあったタンクは雨と泥をかぶり、ガス爆発の危険を伴う汚れ仕事。担い手のない作業だが「誰かがやらねばならない仕事」と引き受けた。全国8ヶ所での作業は一年数ヶ月を要したが、難作業の完遂は社員に自信を与え、自助の精神を植え付けた。以後、困難に直面した時「タンク底に帰れ」が出光社員の合言葉になる。



安易に整理解雇がされる昨今とは対極的だが出光興産は出光佐三のもと社員全員が結束して命がけで危機を乗り越えていった。



以上


文責 田宮 卓


参考文献


辻本嘉明 「馘首はならぬ仕事をつくれ」叢文社

日本経済新聞社 「20世紀 日本の経済人」 日経ビジネス文庫

船井幸雄 監修「ビジネスマンが読んでおくべき一流のあの選択、この決断」三笠書房










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