2011-03-26 12:08:16

第171回_大谷米太郎(_裸一貫から巨万の富を築いた傑物(大災害から立ち上がった男達②)

テーマ:鉄鋼

「私の人生は、よく他人に七転び八起きの人生のように言われるが、外見には波乱に富んだ人生のように見えても、私自身としては階段を一段一段上がっていったもので、私は未だかつて転んだことはない」大谷米太郎(おおたによねたろう)




大谷米太郎(おおたによねたろう)(明治14年~昭和43年)は1881年(明治14年)、富山県の現小矢部(おやべ)市で生まれた。父は小作農で、暮らしは貧しく米太郎は小学校を休んで他家へ農作業の手伝いにいかなければならず、冬場は造酒場で働いた。このため小学校の退学を余議なくされた。


米太郎は学問を身につけることは出来なかったが、体は人一倍大きく草相撲では横綱格であった。父が死去してからは小作農を続けながら一人で母、弟一人、妹5人の大家族を支えた。米太郎は丈夫な体を活かし懸命に働くが暮らしはさっぱり楽にならない。そこで「東京に行って金をためよう」と決意し、わずか20銭の所持金を持ち東京に出てきた。米太郎31歳の時である。既に結婚もして子供も二人いた。もちろん東京で知り合いなど誰もいない。働くところを探したが保証人がいないため日雇いの荷揚人夫(にあげにんぷ)をするしかなかった。体力だけは人一倍ある米太郎は懸命に働き、その後、米屋や酒屋などで寝る間も惜しんで働いた。そしてついに自分で酒屋を開業するまでになり、さらに鉄製品をつくる元となるロール工場を開設するまでになった。裸一貫、貧農の郷里から出て来て自力でここまできたのだから快挙といえるであろう。


ところが米太郎に一瞬のうちに災難が降りかかる。1923年(大正12年)91日に起きた関東大震災である。家屋の全壊13万戸、死者10万人の被害を出し、こと東京下町一帯は火災により一面、焼け野原と化した。米太郎のロール工場も焼け落ち、酒屋も全焼した。女房、子供を探したがいない。ひどい惨状を目の当たりにしまず生きていないだろうと諦めたという。


しかしこの絶望ともいえる状況で普通ならばショックで力が抜け落ちるであろうが、米太郎は違った「まあ、仕方がない」と思うだけで直ぐに頭を切り替え、なんと翌日から工場と店の再建に取り掛かった。焼けた店をシェベルで炭をかき出し3日目にはバラックを建てた。それから3ヶ月、店跡に残ったコンクリートの土間の上にゴザを敷きそこで寝起きをして働き続けた。すると死んだと思っていた女房、子供たちもひょっこり戻ってきた。聞くと上野の山から川口の知人宅に逃げていたという。それから夫婦で力を合わせて寝る間も惜しみ死にもの狂いで働いた。焼け跡で飲食店をはじめ、一杯50銭の「均一どんぶり」を売った。続いて雑貨屋も開く。やがて工場に放置してあった「焼けたロール」がそのまま売れるという幸運にも恵まれ工場の再建にも見通しがたつ。酒屋も飲食店も焼ける前の3倍ぐらいの大きさになっていた。



そしてこのロール工場の再建の成功がその後大きく発展することになった。関西や中国大陸にも工場をもち、1940年(昭和15年)には資本金1億1300万円。資本金の額では当時全国で9番目の会社になった。鉄鋼業の雄となり名前も大谷重工業とした。その後も精神し続けて大谷重工グループへと発展していく。




戦後は頼まれて購入していた千代田区紀尾井町の土地に東京都から「オリンピックのためのホテルをつくってもらえないか」と申し入れがあり、米太郎は「なんとかオリンピックのために役立てば」という思いで、まったく未知のホテル事業に乗り出す。1964年(昭和39年)91日、東京五輪開幕の40日前に地上17階、地下3階のホテルを開業した。これが現在のホテルニューオータニである。米太郎は既に83歳になっていた。その後1965年(昭和40年)には㈱上野ターミナルを、そして1967年(昭和42年)には、㈱東京卸売センターを設立して社長に就任。他方、郷里富山県に富山県立大谷技術短期大学を創設して寄付もしている。米太郎は87歳で生涯を終えたが亡くなる間際まで社長業を行っていたのだから驚きである。




米太郎は関東大震災の時のことを「私の履歴書」でこう振り返っている「今から考えてみると、この大震災が「ロール工場(後の大谷重工業)」の第一期の発展をもたらしたといえよう。(中略)人間、苦労しなければいけないのはここである。私だって、みなと同じく焼け出されているのだ。その中にあって土間で寝、真っ黒になって働いたのは、苦労の中から生まれた頑張りと、ものに動じない根性がそこにあったからだ」






311日の東日本大震災で家や仕事、生活基盤の全てを失った人は多いであろう。しかし体が無事であったのならば希望を捨てないで欲しい。90年ほど前に同じように震災で生活基盤の全てを失った大谷米太郎は学問もなく読み書きもあまり出来なかったと聞く、持っていたのは丈夫な体とへこたれない根性だけであった。政府の援助も人の助けも借りずに、この窮状から独力で抜け出し一代で巨万の富を築いた。鉄鋼業の雄となり日本を代表するホテルも残したのだ。




文責 田宮 卓






参考文献

日本経済新聞社 「私の履歴書 昭和の経営者群像5

青野豊作 「名言物語 人生の極意、経営の勘どころ」講談社

日本経済新聞社 「20世紀 日本の経済人Ⅱ」 日経ビジネス文庫

中江克己 「明日を創った企業家の言葉」太陽企画出版

船井幸雄 監修「ビジネスマンが読んでおくべき一流のあの選択、この決断」三笠書房









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2011-01-06 07:54:42

第158回_田宮嘉右衛門_人徳経営のお手本_第2話

テーマ:鉄鋼

第157回第1話の続き



何故、田宮はまわりから推されて社長になり得たのか。それは人徳の塊のような人であったからだ。それ以外はどんなに調べても理由は見つからない。

金子は鈴木商店没落の全責任を一身に負い第一線を退くと、晩年は有馬の銀水荘に蟄居した。太平洋戦争が起きるといよいよ食糧事情が窮迫する。金子から受けた知遇を万に一つでも報いようと田宮は、オリエンタルホテルのドイツパンを分けてもらって毎日金子のもとに届けた。これには金子も涙を流して喜んだという。それだけではない、田宮は金子の息子の文蔵が札幌農大を出てドイツに留学する時も学費を出しており最後まで金子の恩に報いようとした。1944年(昭和19年)226日、春を待たずして金子は世を去った。田宮はその臨終の床にいたが、金子が最後の息を引き取った瞬間、むせび泣きしてしばらく顔を上げられなかったという。


金子亡き後、老境にさしかかっても毎年お盆には金子、鈴木の墓参りをし、新年にはわざわざ細ぼっていた鈴木家の鈴木未亡人を訪問し何かと慰めの言葉を提言するほど昔の恩義を忘れない情誼に厚い人であったという。しかし何も目上の人に対してだけそうであったのではなかった。


若い従業員が、日支事変が勃発し戦地へ旅立たねばならなくなった。出征の日まであと数日となると田宮社長は重役も集め一人の社員のために盛大に送別会を開催する。会社のお歴々に祝福され、祝辞を受けたこの社員は「わが生涯の最良の日」と思い感銘する。田宮は社員の右手をしっかり握り「元気で・・・」と力づける。この社員はこの日のことを生涯忘れなかったという。


それだけではない。遠い異国の地にいったこの社員のもとに一通の便りが届く。家族からの便りであったが手にして思わず泣いてしまう。その便りには、田宮社長自らが家を訪ねて「主人は元気に働いていますか、その後お便りはありますか」と家族に尋ね「元気です」と答えると笑顔を見せて家族を力づけてくれたと記してあった。

 

鈴木商店に入社し倒産後、日商(にっしょう)入りした西川政一(にしかわせいいち)はある事情で精神的に死にまさる苦しみを体験させられていた。これを伝え聞いた田宮は80歳近い老体を新幹線もまだ通っていない時のことである、わざわざ関西から東京の荻窪まで行き「西川さん、辛かったでしょう。同じ目にあった自分には十分お察しがつきます。本当に辛かったでしょう。これも人生の一齣です。強く生きましょう。元気を出してください」と励ます。西川はただ無言で感謝の涙にむせぶのみであったという。西川は後に日商岩井(現双日)の初代社長となる男である。

道端で田宮は未亡人に突然話しかけられたことがある。「神戸製鋼所の株を買ったら下がったので子供の学費が払えない」というのである。苦労人の田宮は胸が痛み株を額面金額で買い取ったという。

田宮はどこまでも人を大切にした。その結果人望が得られたのである、実に単純な論理であるが実行することはなかなか難しい。現代の経営者、政治家も学ぶべきことは多いのではなかろうか。



文責 田宮 卓



参孝文献



田宮記念事業会編・刊 「田宮嘉右衛門伝」

宇田川 勝 「日本の企業家群像」文眞堂

神鋼タイムス 「故・田宮相談役追悼号」 ㈱神戸製鋼所 教育課






















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2011-01-05 07:35:15

第157回_田宮嘉右衛門_人徳経営のお手本_第1話

テーマ:鉄鋼
昨今、能力もないのに地位やポジションを求める人が多く、地位につくことを目的にしてはいないであろうか。そういった人がトップに立って仕事が出来たためしがない。その組織も組織に関係する人皆が不幸である。昔は自ら地位を求めるのではなくまわりから推されて社長や大臣になる人が多くいた。こういう人がトップになると業績も上がり皆が幸福になった。


ではどのような人がまわりから推されるのであろうか。一言でいえば徳のある人であろう。権力闘争に勝ち抜いた人や人を蹴落として登り詰めた人とは全く別次元の人間である。

1905年(明治38年)、日本で初めて製鋼の企業化が試みられた頃であった。まだ6時前の早朝の工場内、静まりかえっている機械の間をくぐるようにして、一人の小柄な男がゆっくりとした足どりで歩いていた。カーキ色の作業服を着ている30歳そこそこの小男は、ふと足をとめ、腰をかがめ床の上に手をのばして、何か小さなものを拾いあげた。小男は釘を拾って屑箱に入れる。屑箱の表に「宝箱」と書いてある。あちらにもこちらにも同じ箱が置かれ、小男は落ちている釘やボルトを、工場内を廻り拾うのを日課にしていた。工場の整理整頓を自ら率先して行うことで皆もそれに習い無駄が省け合理化が図れるからだ。
この小男が後に神戸製鋼所の社長となる田宮嘉右衛門(たみや・かうえもん)(明治8年~昭和34年)である。田宮は神戸製鋼所の実質的な創業者である。

田宮はどこまでも義理堅く誠実以外に生き方を知らない男であったといわれる。

郷里の愛媛から田宮が大阪に働きに出てきたのは1892年(明治25年)、18歳の時であった。職を転々とした後、住友樟脳精製所で働く。その後、当時神戸で急成長中であった鈴木商店の大番頭、金子直吉(かねこなおきち)に誠実な人柄と樟脳の経験を買われ鈴木商店の樟脳工場で働かないかと誘われ入社する。

働きはじめて一年ほど経った1905年(明治38年)、金子直吉は設立して直ぐに経営が息詰まった小林製鋼所を買収することを決めた。そしてこの製鋼所の支配人に、金子はどこまでも義理堅く誠実な人柄に惚れ込んでいた田宮を大抜擢した。田宮31歳の時である。
同年9月に小林製鋼所を神戸製鋼所と改称して創立された。これが神戸製鋼所のスタートであった。しかしながらスタートは苦しかった。製鋼技術は幼稚で5回のうち4回は満足のいくものが出来ない有様であった。神戸製鋼所は、3年間は赤字続きであったが、田宮と作業員の努力のかいがあり4年目に軌道に乗り出した。日清、日露の二つの戦争がすんで、日本海軍はにわかに艦船、建造、兵器の製造を民間に発注する意向を示し、その部品を納入することに成功したのだ。その後も海軍から継続的に注文がくるようになった。そして1911年(明治44年)、神戸製鋼所は鈴木商店から独立して株式会社として発足する。

資本金140万円、株式は鈴木商店、鈴木一族およびその関係者の所有で社長には海軍造船少将・黒川勇熊を迎え、この時に田宮は取締役に就任する。


1915年(大正4年)頃には神戸製鋼所は鋳鍛鋼(ちゅうたんこう)メーカーとしての確固たる地位を固め、機械メーカーとしての地歩も固めていった。 

ところが鈴木商店が第一次大戦中に三井、三菱に並ぶほどまでの大商社に急成長したが、大戦終結に伴い大きな負債を抱えるようになる。その後業績は回復できず、1927年(昭和2年)の金融恐慌の影響もあり倒産してしまう。神戸製鋼所株式の大半は鈴木商店のメインバンクであった台湾銀行の手に渡り、神戸製鋼所の経営権は台湾銀行に移る。

このような情勢の中、田宮は辞意を決意する。鈴木家によって救われ、金子の薫陶によって今日あった田宮は、主家の敗退とともに、自分もまた行をともにしなければ人の道に反すると考えたからだ。しかし当時の大蔵大臣(現財務大臣)三土忠造(みつちちゅうぞう)は、田宮の誠実と堅実な経営手腕を高く評価し、神戸製鋼所になくてはならない存在と判断し、「神戸製鋼所の再興には田宮を残せ」とその留任を台湾銀行頭取島田茂吉に命じた。島田から田宮への留任は三再にわたった。しかし田宮は頑として辞意をまげなかった。金子に「神戸製鋼所は君が育てたものではないか。どんなことがあろうと、育ての親として君は神戸製鋼所と運命をともにすべきだ」と説得され、流石に金子に言われては返す言葉がなく辞意をようやく撤回した。

1928年(昭和3年)の臨時総会で田宮は専務に就任するが、経営の実権は台湾銀行が握ったままであった。しかし1933年(昭和8年)情勢は一変した。帝人事件が起こり、疑獄事件に発展して台湾銀行幹部は責任をとらざるを得なくなり、神戸製鋼所に派遣されていた台湾銀行系幹部は総退陣となったのだ。そして新社長を誰にするかが問題になったが、従業員の全員が田宮専務以外にはいないと支持する。この従業員の声を、新聞も世論としてとり上げた。陸海軍も、もはやこの世論を支持するのに躊躇はなかった。田宮は社内外の要望に推されて、1934年(昭和9年)8月神戸製鋼所5代目社長に就任した。ときに田宮60歳であった。以来11年社長を務めるが国内はいうにおよばず、満州、朝鮮、マレイにわたって直営の工場を建設し、第2次世界大戦中には実に20有余の工場と、7万余名の従業員をかかえるまでの大企業に成長させた。


第2話に続
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