2010-11-09 10:16:51

第132回_宮澤喜一元首相の意外な一面

テーマ:宮澤喜一

人は頭が良すぎると、本人に意識がなくともそれを鼻にかけていると思われたり、何処か親しみにくいという損な面がある。その典型が故・宮澤喜一元首相であったと思う。


各国と交渉する時も通訳が必要のないぐらい語学堪能だった故・宮澤喜一(みやざわきいち)元首相。それでいて中国の古典にも通暁していた。頭脳明晰で教養も深く、財政、経済、国際情勢に明るい政治家であったことは誰もが認めるところであろう。



宮澤は東大法学部を1941年(昭和16年)に卒業すると大蔵省(現財務省)に入省。エリートコースを歩む。終戦で東久爾内閣(ひがしくにないかく)が出来ると島寿一蔵相(現財相)の秘書官に抜擢される。その後、渋沢敬三、石橋湛山(後に首相)、池田勇人(後に首相)と4代の蔵相秘書を務めるが、補佐官としての名秘書ぶりは際立っていたといわれる。歴代蔵相が宮澤を秘書官として重用したのは、抜群の政策理解能力と語学力であった。池田勇人にいたっては蔵相、通産相(現経産相)、首相とのぼりつめていく過程で、片時も宮澤を手放さなかった。講和条約、池田・ロバートソン会談、吉田茂・アイゼンハワー会談、池田・ケネディ会談など、戦後日米間の重要会議ではつねに宮澤がいて、むしろ主役以上の活躍をしていたといわれる。こうした宮澤の能力に対して池田は米政府の要人から「君は小さいけれどもよく光るダイヤモンドを持っていて幸せだ」と羨ましがられたほどであった。戦後の日米関係は宮澤の才能が構築させたともいえるかもしれない。


しかしあまりにも頭脳明晰で頭がいいゆえ、人のために汗を流さない、人情の機微に疎い政治家という印象を国民は受ける。実際、新聞記者と会ってもつまらぬ質問をすると人を小バカにするような表情になる。新聞記者の夜打ち朝駆けも一切受け付けなかったという。


ところがそれでは総理には成れないと思ったか、自宅を改造し立派な応接間をつくり、そこを新聞記者や鈴木派議員や政財官界の懇談の場として提供するようになる「皆さんどうぞ」といいながらお酌までするようになったというから凄い変わりようである。


またこんな意外な一面もあった。田中角栄元首相が倒れて入院した時、宮澤はそのことを自宅のテレビニュースで知った。すると直ぐに着替え、一人でタクシーをつかまえ東京逓信病院に駆けつけた。警護のSPも間に合わないくらい素早く、自民党大物のなかでは一番のりという快挙だったというから凄い。


やれば出来るではないか(笑)




文責 田宮 卓




参考文献

小林吉弥 「田中角栄の人を動かす」極意 光文社








AD
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

AD

相互フォロー大歓迎!リフォロー率99% follow me Twitter
ツイッタータイムラインブログパーツ Taku Tamiya

バナーを作成

ブログをはじめる

たくさんの芸能人・有名人が
書いているAmebaブログを
無料で簡単にはじめることができます。

公式トップブロガーへ応募

多くの方にご紹介したいブログを
執筆する方を「公式トップブロガー」
として認定しております。

芸能人・有名人ブログを開設

Amebaブログでは、芸能人・有名人ブログを
ご希望される著名人の方/事務所様を
随時募集しております。