2011-11-11 18:05:30

第204回_大王製紙から学ぶ教訓

テーマ:パルプ・紙

総合製紙国内3位の大王製紙(東証1部)の創業家出身の前会長の井川意高(いかわもとたか)氏(47歳)が連結子会社から100億円を超える巨額の借り入れをしていたことが分かった。使途はいまでに不明であり上場企業の現職会長が使途不明金に絡んで辞任したのは極めて異例といえるだろう。


私が井川前会長のことを初めて知ったのは、4年ぐらい前の日経新聞の朝刊に42歳の若さで社長に就任という記事を見た時である。業界最大手の企業で随分、若い人が社長になったなあということで記憶しているが、それ以上の関心は特になかった。もちろん面識もない。それまで井川家の名前すら知らなかった。というのも、私は多くの創業家の事を調べてきたと思っているが、いまだに大王製紙の創業者について書かれている本を見たことがない。業界3位の大手企業なのに創業者のことや創業にまつわるエピソードなどの情報がここまでないのも実に珍しいといえる。


大王製紙は井川前会長の祖父、井川伊勢吉(いかわいせきち)が愛媛県で製紙原料から身を興し、地場産業の和紙工業を経て、洋紙生産を始めたことに始まるらしい。


それはさておき、一連のニュースを見ていて思い出される人物がいる。一代で日産コンツェルン(日産、日立グループの創業者)をきづき上げた鮎川義介(あゆかわよしすけ)である。


鮎川が日本青年会議所で講師として招かれ講演をした時に、ある名門企業の社長から質問されたのだが、それに対する答えが思い出される。


「われわれ先代からの余慶で、きわめて恵まれた環境にありますが、今後、この環境を土台にして、さらに飛躍発展するためには、どうしたらいいでしょうか」


鮎川は即座に答えた。「君たちが、今の立場を恵まれた環境だなと思い込んでいたら、それはとんでもない錯覚だ。ありていにいえば、恵まれた環境ではなくて、甘やかされた環境なのだ。そういうところからは経営の厳しさは生まれてこない。第一、親爺が遺した仕事にしがみついて、二代も三代も、その仕事から利益を絞りとろうという考え方自体間違っている」鮎川だからこそ言える言葉であろう。


鮎川は母親が維新の元勲井上馨(いのうえかおる、三井財閥顧問)侯の姪という恵まれた家系ではあったが、この男が凄いのはコネを使わず、自力で道を切り開くことである。大叔父の井上馨から「将来お前は技術畑に進み、エンジニアになれ」と勧められ東京帝国大学(現東京大学)の機械工学科に進学する。4番という優秀な成績で卒業して鮎川が就職先に選んだのは、現在の東芝の前身の芝浦製作所であるが、何と一介の見習い職工として雇われたのである。親戚のコネを使えば財閥系でもどんな企業にも入れたろうに。それも帝国大学工学科卒を隠しての職工としての入社であった。一職工になった理由を鮎川は「いずれは自分で経営をしたい。そのためには現場を知りたいので、一から出発したほうが良い」と考えたというのだ。


鮎川は職工をやりながら休日になると当時の技術水準、企業経営、工場管理のことを徹底的に研究するため東京周辺の工場を見学して歩いた。約2年間、工場の実態を見学し、調査を続けて得られた結論は「日本の機械技術は欧米からの輸入で、殆ど独自のものはない。だから日本で勉強しても、最新の機械技術に接することはできない」ということであった。そして彼は思うだけでなく実行に移しアメリカに渡る。実地に新しい技術を学ぶためである。


しかし鮎川はここでもコネは使わない。井上の顔を利用すれば政府出先機関や三井関係事業所もあり、容易に留学ができたはずなのだが、ここでも鋳物(いもの)工場で週休5ドルの見習工になった。そこで現地の大男に混じって鋳物の湯運びをするのである。大変な重労働である。火傷をすることも一度や二度ではなかったであろう。そこで約2年間職工生活をして当時の最新鋳物技術であった可鍛鋳鉄(かたんちゅうてつ)を習得して帰国する。そして日本初の可鍛鋳鉄会社、戸畑鋳物(とばたいもの)を設立する。この会社が現在の日立金属の前身となる会社であるが、この時は井上候に資金的な協力はしてもらっている。


井川前会長は東大を卒業して直ぐに大王製紙で働きはじめた。ここがいけなかったかもしれない。大王製紙の役員が「前会長は東大を出て直ぐに大王製紙に入った。他人の飯を食った経験がない。無菌状態で純粋培養できてしまったのがいけなかったのではないか」と述べていた。報道によれば小会社から借りたお金をカジノに注ぎ込んだともされるが、これを聞いて一番呆れたのは従業員ではなかろうか。恐らく井川前会長には従業員が現場で泥臭く営業していることも、その気持ちも分からないのであろう。


逆境、苦労、恵まれない境遇はその人の心がけ次第では、最大の教師となり自分を飛躍的に成長させることが出来るが、どんなに恵まれた環境もその人の心がけ次第では、甘やかされた環境となり自己の成長が止まる、人の気持ちも分からなくなる、物の善悪もつかなくなる。これは実に恐ろしいことだ。


人間どのような境遇であろうとも、その人の心がけ次第で教師ともなれば自分を潰す環境ともなりえる。井川前会長も47歳とまだ若い。反省すべきは反省し罪を償い、一から出直すことを期待したい。


関連サイト

偉人の名言格言ブログ

http://p.tl/6yLR

文責 田宮 卓




















































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2009-07-11 08:05:40

第47回_井上貞治郎_苦境でも志を失ってはいけない

テーマ:パルプ・紙

「寝れば一畳、起きれば半畳、五合とっても三合飯」の明るさと「今にえろなったるぞ」この気持をどんな苦境の時でも持ち続けた。


1909年(明治42年)、井上貞治郎が29歳の時、「紙にしようか、メリケン粉にしようか」迷っていた。朝鮮から満州、香港と流れ歩いた末やっと見つけた東京での2畳の部屋。そこへ大の字にひっくり返って、天井の雨漏りのしみをながめながら考えていた。


兵庫県姫城市郊外(播州平野)の農家で生まれた井上は15歳時、「商売を覚えてえろなったる」という大きな志を立て神戸の商家に丁稚奉公に出たが、井上の志はいつも空回り。洋支店、回漕店、活版屋、中華料理店、銭湯、酒場、パン屋、散髪屋、石炭屋・・・と転職は三十数回繰返した。その間、神戸から横浜、大阪、京都に住居を移し、さらに、韓国へ渡って満州にも足を伸ばして「新天地で一旗揚げよう」という夢を描いたものの、どの仕事も失敗に終わった。やがて大連から上海、さらに香港へと渡るが、夢は破れ、日本に戻るしかなかった。


日本に残していた妻は病気で亡なっており、裸一貫からのスタートだった。井上は今度は独立自営を目指そうと思いメリケン粉を練ってパン屋をやるか迷ったが、結局紙を選ぶことにして三盛社(さんせいしゃ)を興した。


シワを寄せた紙がガラス製品などを包む緩衝材として使われていることに目をつけた。その紙は「なまこ紙」と呼ばれていたがブリキ屋や焼芋屋が片手間につくっている程度で、それに比べてドイツ製の輸入品は高品質で高価であった。そこでこの「なまこ紙」のドイツ製に負けない国産品を作ろうと思いたったのだ。試行錯誤のうえ出来上がった「なまこ紙」に井上は「段ボール」と命名した。この三盛社が発展したのが現在のレンゴーである。井上は段ボールの生みの親でありレンゴーの歴史はわが国の段ボールの発展史といってもいいでしょう。


井上はどんな苦境の時でも上記に挙げた「今にえろなったるぞ」という気持ちを持ち続けたという。


今、不景気で仕事が見つからない、住むところがない等、苦境に立たされている人は多いと思います。しかし意欲や気持まで失ってしまっては苦境から抜出すことは出来ずそれまでです。井上貞治郎のように志しを持ち続けていればきっと明るい兆しが見えるはずです。


 

文責 田宮 卓








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