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2013-11-20 21:46:03

第237回_食品偽装表示で思うこと

テーマ:食品

ここのところ、立て続けに大手ホテルや百貨店のレストランで『誤表示』があったと社長が釈明会見を行なっている。偽装ではなく『誤表示』と説明するが彼らは本当に責任を感じているのだろうか。ずっと会社がやってきたこと、たまたま自分が社長の時に発覚してしまって、運が悪かったぐらいにしか思っていないのではなかろうか。


今回の偽装の発覚で最も危惧することは世界から日本の商売道徳について疑いの眼で見られることである。


嘘をつかないというのは、信用を得るための万国共通の商売道徳であると思う。嘘をついて繁栄し続ける企業などあるはずがない。


日本のお菓子業界のパイオニアである森永製菓の創業者、森永太一郎の言葉に『商売は正直でなければ栄えません』というのがある。


太一郎がアメリカで12年間修業して洋菓子造りの技術を身につけ、帰国して東京の赤坂溜池で僅か2坪の作業場兼店舗を開き、「森永西洋菓子製造所」の看板を揚げたのは明治328月、太一郎35歳の時であった。ちなみに最初に製造したのがマシュマロである。


太一郎の正直さが分かるこんなエピソードがある。ようやく、商売が軌道に乗りかけた頃である。ボール箱入りの折詰をアメリカ式に「揚げ底」をなくした時に、問屋や小売店から「これでは見かけが小さくて売りにくいから揚け底にしてくれ」と要求されることがあった。しかし太一郎はこれらの要求をすべて拒否する。「揚げ底にすると、余分な材料が要るばかりか運賃もかさみます。それに受け取った人は容れ物の大きさに比べて中身が少ないため、馬鹿にされたような気分にさせます」「そんなこと言っても、揚げ底は昔からの習慣だよ」「こういう習慣は百害あって一利もないので私は断じてやりません」といい問屋や小売店に妥協をしなかった。


またアメリカでは経験しなかった日本の高温多湿の風土に製品が傷み、返品の山を築き泣く泣く捨てる日が続いたことがあった。大変な損失であったが、返品のあった得意先へは直ぐに新品を無償で届けて信用回復に努めていくことをした。


太一郎のこうした商道徳は、彼の信用を高め「森永は商人道を心得た男だ」と評判が立ち太一郎と取引を望む小売店が続出していったという。


こういう太一郎の誠実さは消費者にも伝わるのだろう。いつの間にか駐日アメリカ公使のバック公使夫人が太一郎の店のキャンデーやチョコレートを買いに来るようになり、バック夫人はよほど気に入ったのか、森永西洋菓子製造所の存在を友達や知人にも宣伝してくれた。そのお陰で青木周蔵外務大臣夫人始め、各国の公使夫人が顧客になり口コミにより「森永の洋菓子」は上流社会にも受け入れられるようになっていったという。


また、他にも正直をモットーに商いをし、外国人から信用を得た実業家がいる。世界の時計王、服部金太郎(セイコー創業者)である。最後にこの服部金太郎の言葉を紹介して終わりたい。


『正直は最善の商道である。外国商館が私の小さな店を信用し、何ぞざん新なものとか、何ぞ珍しい時計でも入荷すると、他の店よりまず私の店に売ってくれた。私の店に来れば、時計は豊富で、おのずから客足が多くなり、ここに店運発展の機運を形成するに至った』


関連サイト

森永太一郎語録 http://bit.ly/RwY7Dg

服部金太郎語録 http://bit.ly/ODurEb

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2012-05-27 22:42:54

第218回_生活保護に頼るな

テーマ:食品

「死んでないやつには、まだチャンスがある」

レバノン共和国の格言



レバノン共和国、通称レバノンは西アジア・中東に位置する共和制国家であるが、行ったこともなければ知り合いもいないので、私はこの国のことは良く知らない。どういう国か分からないが、日本の方が遥かに経済的にも物質的にも豊で医療制度も、社会保障制度も充実していることだけは確かであろう。それだけに日本より過酷な環境を生き抜いてきたレバノン人のこの各言には生きる逞しさを感じる。


私はピンチに陥る度に思い出す言葉がある。このブログの第214回で取り上げたアシックスの創業者、鬼塚喜八郎の「命まで取られへん、だめならやり直せばいい」とこのレバノンの格言である。


今、あるお笑いタレントの母親が生活保護を不正に受給していたのではないかという疑惑が明るみになり問題になっている。結局、不正受給なのかどうか事実関係は私もテレビや新聞などで報じられている以上のことは分からない。


このニュースを知って思うことは、我々国民は行政や政治家の無駄使いを厳しくチェックすることは必要だと思うが、その反面、不正に生活保護を受給していたり、必要もないのに保護を受けている人がいるという事実である。生活保護は、本当に困窮している人にはしっかり届くように手当をすべきだと思うが、行政の調査範囲が限られているため、どうしてもこういう不正事件はおきてくる。国民の側も必要もないのに「貰えるものは貰っておけ」こんな感覚でいたならば社会保障の財源はいくらあっても足りなくなるだろう。


さらに分析を加えてみると、頑張れば生活保護を受けなくても済むのに、保護を受けられるからそれに甘えて頑張らない。こういう人も結構いるのではなかろうか。このことは自身の飛躍のチャンスを自ら放棄しているようで非常にもったいないことに思えてならない。


昔から「火事場の馬鹿力」という言葉があるが、人間窮地に追い込まれると自分でも考えられない力を発揮することが良くある。古今東西の偉人となった人をみても禍をチャンスに変えて飛躍したケースは実に多い。


日清食品の創業者、安藤百福(ももふく)が世界初のインスタントラーメン「チキンラーメン」の開発に成功したのは昭和33年、安藤48歳の時であったが、開発にとりかかった時は無一文に近い状態であった。人に頼まれ不慣れな信用組合の理事長を安請け合いで引き受けたところ、倒産してしまい無一文となってしまったのだ。整理を終え心身ともに疲れはて大阪府の池田の愚居に引き籠った安藤であったが、「失ったのは財産だけではないか。その分だけ、経験が血や肉となって身についている」そう開きなおり自らを奮い立たせた。


そして手掛けたのが即席ラーメンの開発であった。それまで安藤は靴下の販売や機械、製塩、炭焼きと幅広く事業を展開してきたが、ラーメンの製造の経験は皆無であった。即席ラーメンの発想は戦中、戦後に飢えを凌ぐために人々が食糧を求めて争う姿を目当りにしたことに起因する。戦後大阪梅田駅の裏手でラーメンの屋台に長い行列が出来ているのを見た時に、人は一杯のラーメンのためにこれだけ努力するのかと感動を覚えたという。池田の愚居のどん底で。「食のありさまが乱れていたら国は衰退する。食品会社はきわめて社会貢献度の高い仕事である、食が文化、芸術、社会のすべての原点である」という考えに至り、今まで何度となくぼやっと考えては消えていたアイディア「いつでもどこでも食べられるメンを大量生産する」で再起をはかることを決意する。


腹が決まると自宅の裏庭に小屋のような作業場をつくり、開発の目標を「美味しい、保存性、便利、安価、安全」と5つに定め、ラーメンの開発に集中する。もちろん社員などいない。手伝ってくれるのは妻と子供だけである。朝の5時夜が明けると研究室にこもり夜中の1時、2時まで研究は続く。一日の休みもなく研究を続けついに安藤は「チキンラーメン」を完成させた。チキンラーメンは爆発的に売れ、即席メンの生産は、昭和33年に13百万食、35年に15千万食、そして37年には10億食、38年には20億食と倍増していく。「チキンラーメン」を開発してわずか5年で東京と大阪の両取引所に上場を果たす。現在世界で最も流通している食品が、安藤が開発した即席メンである。窮貧からの出発にもかかわらず、短期間でここまでの成功をおさめた経営者はほかにはいないだろう。


安藤は後に「事業と財産を失い裸一貫、絶対の窮地からの出発であったからこそ、並ではない滞在能力が発揮出来たのではなかろうか。逆説的に言えば、私に事業失敗がなければこれほどの充実した瞬間は持てなかっただろうし、即席メンを生み出すエネルギーも生まれなかっただろう」と述懐している。


また安藤は

「人間その気になれば、一日で一ヶ月分の仕事ができる」

「発明や発見には立派な設備や資金はいらない」

ともいう。

 

人間、命さえあれば、まして五体満足であるならば国の保護など必要ないはずだ。人は死にもろ狂いで頑張ればやってやれないことはない。


関連サイト

レバノン語録 http://bit.ly/Kv4bvB

安藤百福(日清食品創業者)語録 http://bit.ly/y7esyk

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2011-06-27 14:05:23

第189回_森永太一郎_東洋の製菓王_第6話(大災害から立ち上がった男達⑳)

テーマ:食品

6


太一郎と北浜銀行の岩下頭取は握手をして和解した。無事に希望通りの額で融資をしてもらえることになった。そして岩下頭取が切り出した「ところで、森永さん、そろそろ森永商店を株式組織にすべきですな」「はい、そのことでも是非とも、相談に乗っていただきたいと思います」株式組織にすることは、松崎を支配人に迎えるにあたっての条件の一つで太一郎に異存はなかった。


 

そして明治43223日に、岩下清周議長の下に創立総会が開かれ株式会社森永商店が誕生する。松崎を支配人に迎えた頃は20人若だった従業員は150人を超えていた。太一郎は白い作業着姿で、粉まみれになって働くことには変わりなかったが、これを機に「人物本位」の大卒者の採用も積極的に行っていく。1921年大正元年11月には株式会社森永商店を森永製菓株式会社に改称する。大量生産によるコストダウンが可能となり既に菓子業界では初めての輸出は行っていたが、さらに太一郎は外国販売部を新設して、輸出に本腰を入れる。自ら朝鮮(韓国)、満州(中国北東部)、中国へ行き丹念に市場調査を行った。京城では露店商人らに伍して戸板の上に森永の菓子を並べて売りさばき、若い社員にお手本を示し下地を作っていく。太一郎はアジアへの輸出も軌道に乗せ、森永製菓は世界に羽ばたいていく。


1915年(大正4年)に太一郎はアメリカに視察旅行に出かけた。そこで開催中の全米菓子業者大会に出席することになった。かつてはこの国の家庭や工場で「ジャップ」と侮辱され続けた太一郎であったが、今や「東洋の製菓王」と紹介され挨拶する機会を与えられるまでになっていた。設立してからわずか16年目のことであった。1920年(大正9年)には従業員も1300人を超える。1921年(大正10年)には本社を田町の工場内から「東洋一のオフィスビル」と銘打たれ、完成したばかりの丸ノ内ビルヂンングへ移転させ本社機構を移した。


 

長々と書いてきたが、本社を丸の内に移して2年後の1923年(大正12年)91日正午前に関東大震災に遭遇する。この時の森永、松崎のクリスチャンコンビの活躍が凄かった。太一郎は丸ビルで重役会を終え、雑談をしているときであった。壁時計が正午を指そうとした時に突然、床が大きく揺れた。「地震だ」向かいの郵船ビルが波打つように揺れるのが見える。天井の電灯がぶつかり合い、砕けたガラスが降ってくる。一同はみなデスクの下に潜り込んだ。しばらくして揺れが収まると太一郎は社長室を出た「これはただごとではない」。そのまま車を芝田町の工場へ走らせた。工場には女子社員が多いが彼女らの安否が気になった。幸いなことに、工場長の報告によると、建物と機械に軽い損傷の被害はあるが従業員は無事だという。そして従業員は直ぐに帰るように指示を出した。まもなく松崎も芝工場にかけつけて来て二人で無事を喜びあった。「松崎さん、ご苦労ですが、あなたは大崎工場とお得意さんの様子を見てください」「分かりました」そしてその次に出た太一郎の言葉が「この地震の被害は甚大になるはずです。私たちは全力を挙げて、被災者を救わねばなりません。」「おっしゃる通りです」。私は企業理念が本物であるかどうかは緊急事態時でとるときの行動で分かると第一話の書き出しで述べたが、森永製菓は「事業と公益との融合を以って一大指標とす」を企業理念に設立されたが、二人にはこの震災被害にこれからどう行動すべきかなど確認する必要などなかった。キリスト教的精神からも普段から実践している企業理念からもきているのだろう。この二人に頭の中には「被災者を救う」ことで一致しておりそれ以外のことは考えていなかった。


森永製菓は本社、工場とも無傷に近かった。森永、松崎のクリスチャンコンビはそのことを神に感謝した。そしてその夜は工場に泊まり込みで被災者救済の方法を検討する。まずは、ビスケットとコンデンスミルクを寄付することを決めた。 翌日、招集された女子社員は流れ作業で、ビスケットをキャンデーの袋に詰めて6万袋を作り、ミルクキャラメル10万箱をトラック8台に積んで、芝公園と日比谷公園へ運び、そこで避難してきたに人達に配った。 深川の清澄公園では、ドーナッツを配った。また、工場の前に竹の矢来を作って、一人ずつ通れるようにして、井戸水でコンデンスミルクを溶かし通行人に一杯ずつ配った。これは一日で5万人分にもなった。そして太一郎は、被災者の母親たちにドライミルクを配る陣頭指揮をとる。ある社員が配るミルクの量を減らしたのを見て「どうして減らすんだ」と詰問する。その社員は長蛇の列を指して「これだけ大勢の人を定量通りに差し上げると、足りないと判断したからです」と答えた。その瞬間、太一郎の雷が落ちた「何を言うか。発表した定量を減らしたら、皆さんは、森永は嘘をついたと思われる。なによりもがっかりさせるだろう。足りなくなったら、私に報告するんだ。どんなことをしても都合するから、小賢しいソロバンを弾かずに、どんどん差し上げるんだ」


 

3日には、太一郎と松崎は後藤新平内務大臣を訪れ、「5万円を寄付しますので、その分だけ政府の米を出してください。私達の方で被災者に配りますので」と申し出ると即座に快諾を得た。社員を街頭に派遣し5合マスで計らせて被災者に配らせた。8日まで続けられその量は768斗にもなった。これだけでは終わらない。7日の東京日日新聞と報知新聞には広告も出した。内容は「乳呑子(ちのみご)または病人でお困りのお方へ 森永ミルクを差し上げますから、ご遠慮なくおいでください」である。また、三島の煉乳工場では、徒歩で関西方面へ向かう被災者にミルクを無償で配った。その間、太一郎と松崎は玄米の握り飯に梅干し、たくあんという粗末な食事で陣頭指揮をとり続けた。森永製菓では神奈川、千葉、埼玉、静岡、山梨の5県に計2万円寄付している。太一郎、松崎コンビの関東大震災時の行動にはあっぱれである


太一郎は昭和10年に社長を松崎に譲り昭和12924日、73歳で波乱万丈な人生に幕を閉じた。幼い頃に父親と死に分かれ、母親とは生き別れとなり少年期は親戚の家を転々とさせられてろくに学校も通えなかった太一郎であったが、日本の菓子業界では初の輸出を成功させ、菓子業の近代化のパイオニアとしてその名を歴史に残した立志伝中の人物である。太一郎が死ぬ間際に息子を病室の枕元に呼んで語った最後の言葉が「困っている人がいたら助けてあげなさい」であった。何か彼の人生、生きざまを象徴するような言葉である。



完 



今回長かったですが最後までお読みいただきまして有難うございました。偉人ブログはまだまだ続きます。引き続きご愛顧いただけますと幸いです。



文責 田宮 卓



修正:第一話の書き出し「共存共栄、営利と公益の一致」は「事業と公益との融合を以って一大指標とす」に修正しました。

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