2015-03-18 22:29:59

第246回_日本の商人道

テーマ:財閥
「人生はまさにブーメランだ。人に与えたものは手元に返ってくる」
カーネギー(鉄鋼王)



1590年、銅精錬の修行をした蘇我理右衛門(そが・りえもん)という男が、京都寺町五条に「泉屋」として独立した。若干19歳の頃である

当時の日本の銅精錬の技術は未熟で、粗銅に含まれる銀を抜き出すことが出来なかった。そのため輸出をすると、外国商人は大喜びである。日本から銅を買うと銀も含まれているのだから、喜ぶのは当然であった

そこで理右衛門は南蛮人(ヨーロッパ人)に銅と銀の吹き分けが出来る原理を聞いて回り、ついに銅と銀を分ける新技術を習得した。この技術は「南蛮吹き」と呼ばれた

この技術により泉屋は大いに栄え、銅業界での確固たる地位を築く

しかし、この男の凄いところは、この銅と銀とを分ける「南蛮吹き」の技術を同業者に惜しみなく教えたことである

長男の友以(とももち)も父・理右衛門の意志を継ぎ、大坂に進出。父・理右衛門と協力して同業者に「南蛮吹き」の技術を公開した

本来、企業秘密とすべき「南蛮吹き」を同業に公開したら、「泉屋」は商売が成り立たなくなるのではないかと思われるかもしれないが、そうはならなかった

公開することで泉屋は「南蛮吹きの宗家」として尊敬され、同時に大坂は日本の銅精錬業の中心となった

この蘇我理右衛門という人物が、世界最古の財閥、住友財閥の業祖と呼ばれる男で、家祖と呼ばれる義弟の住友政友とともに、住友財閥の創業者とされる

400年以上続く、住友財閥のルーツはここにたどり着く

さらに、住友家4代目の住友友芳(住友中興の祖)は、愛媛県の別子銅山を発見する。この別子銅山が江戸時代、住友家のドル箱となった。1973年に閉山するまでの約300年間、日本屈指の銅山として君臨した

私は、日本の商人道の核となる精神は「共存共栄」にあるのではないかと思う。自分のところだけ儲かればいいとは考えない。

現・アサヒビールの初代社長の山本為三郎は生粋の大阪町人であった。大阪人を知りたければ山本の家にいけば一番正統な大阪が残っていると言われるぐらいであった

そんな山本は生前
「大阪の道修町の街は端から端まで薬屋が並んでいるが食うか食われるかの激しい競争ではなく共存共栄の精神で徹してきたのだと思う。これが本当の大阪商人である」と語っていたという

また大阪商人の商人訓で「近所に同業ができたら誼みを厚くして相励め」というのがある。同業は競争者ではないという精神である。

近江商人の三方よし「売り手よし、買い手よし、世間よし」も共存共栄の精神から来ているのではなかろうか

商売を大きく繁盛させたいと思うならば、まずすることは「自分だけ儲かればいい」「自分だけ生き残ればいい」という考えを捨てることであろう


関連サイト
山本為三郎語録 http://bit.ly/zsrz80
人物別名言集 http://meigennooukoku.net/
テーマ別名言集 http://meigennokuni.blog.fc2.com/
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2011-12-15 14:47:03

第207回_三菱にみる商売の原点

テーマ:財閥

今年も残すところあと僅かになったが、本年は政治の停滞が叫ばれる中、一方で大企業の不祥事、問題が浮き彫りになった年ではないかと思う。東電に始まり、大王製紙前会長の子会社からの多額な借り入れ問題、オリンパスの損失隠し問題、読売新聞のお家騒動と次から次へと問題が噴出した。経営者はもとよりそこで働く人、一人一人が一層、襟を正していかなければいけないと思うが、人間が風邪をひくように大企業には必ず大企業病といわれる病気にかかる時期がある。これは一体何故であろうか?


私は大企業病の多くは商売の原点というべきものを忘れた時に起こるのではないかと思う。半官半民でスタートしたケースもあるが、今ある大企業のほとんどは創業者が命がけで多くの犠牲と苦労を重ねリスクを背負い土台を築いてきたものである。そのことに対する有り難さや、またどの企業にも創業期に商売の原点ともいうべき話がたいていあるものである。ところが、時が経つにつれ、世代が代わり、会社が大きくなるにつれていつの間にかその商売の原点というものが忘れさられていく。その時にたいてい大企業病という病気にかかると思う。逆に商売の原点というものをしっかり守っている企業は多少のことではビクともしないだろう。


では商売の原点とは何か、ここではイトーヨーカ堂と三菱の例で考えてみたいと思う。


イトーヨーカ堂の創業者、伊藤雅俊は戦後に母親と兄と3人で東京・北千住の中華ソバ屋「たぬき屋」の軒先から商売の再出発をした。お金もない、土地もない、信用もない、ないない尽くしのスタートである。しかし母親は「お客様は来ないもの」「取引をしたくとも取引先は簡単には応じてくれないもの」「銀行は簡単には貸してくれないもの」、そのような、ないないづくしから商いというものは出発するものと息子達に言い聞かせたという。この母親は明治から商売をしており、それまでに日露戦争と関東大震災で2度も店をを失うという経験をしている。いずれもそこから這い上がってきた気骨な母親であった。実に母親の教育が良かったといえるが、当時を振り返り伊藤は「全てが揃っていたり、揃う目処がついた時点から商売を始めた人はその感覚が乏しいのではないかと思う。全てがないことがあたりまえなんだ、あるようになることは本当に有難いことなんだという思いでスタートした人は、商売の形態、精神力、お客様との関係などを力強く推し進めていくことが出来ると思う」と語っている。


このイトーヨーカド堂のスタートに商売の原点というものを見出せる気がするが、会社が大きくなるほど忘れさられる感覚ではないかと思う。


そして日本を代表する財閥に三菱グループがあるが、三菱の創業期にも商売の原点ともいえる話がある。三菱は明治の動乱期に土佐の地下浪人の子であった岩崎弥太郎(いわさき・やたろう)が創設し財閥の基礎を築いた。明治10年の西南戦争の時には、船で政府軍の軍事輸送を全て請け負ったことから、莫大な利益を得たとされる。このことからも弥太郎は政商として成功し巨利を得た典型的な人物に思われるが、その見方は一方的である。商売に関しては実に厳しい面があったが、ここを見落としてはいけないと思う。


初期の三菱社員は土佐藩士が多数を占め、プライドが高く高飛車な連中が多かった。そこで弥太郎は、社員全員に和服・角帯と前垂れの着用を命じた。周知ように前たれは商人の格好そのものだ。これを全員に強用したのである。お客を神様のごとく丁重に対応するように周知徹底した。この姿勢が世間の人から好感を得て、三菱は信用を確実に築きあげていく。お客様第一を社員全員に徹底させたところに弥太郎の凄さがあると思う。


なかには重役の石川七財だけは、どうしても武士の気風が抜けきれず、顧客に頭を下げることが出来なかった。すると弥太郎は小判を描いた扇子を石川にプレゼントし、「得意先の番頭や小僧に頭を下げると思うから悔しくなるのだ。この扇子を開き小判に頭を下げると思え」とアドバイスした。以後、石川の態度も改まったという。


また、経費に関しても厳しかった。弟の弥之助が白紙に領収書を張り付けているのを見た弥太郎は激怒する。「貴様は立派な紙を使っているが、全国の支社が皆白紙を用いて貼ったならば、年間幾らの費用になると思うか。使い古しの反古紙を用いた場合と幾ら違うか、計算してみよ」と叱りつけた。そこで弥之助が計算してみると400円もの差が出たので驚いたという。


武士上がりの社員が多いなか、全社員に顧客第一主義を徹底できたところに三菱発展の秘訣があると思う、また無駄使いをしないという当たり前のことも徹底したところにも成功の要因があると思うが、いずれも会社が大きくなるにつれていつの間にか忘れさられることである。


イトーヨーカ堂と三菱を例にあげたが、私が調べた限りでは、たいていどの会社にも創業期に商売の原点となる話がある。それが家訓となっていたり、綱領となっていたり、社是となっていたり、企業理念として明文化されている。しかしその明文化されたものが絵に描いた餅になった時に大企業病にかかるといっていいだろう。


また。企業は財テクなど、時には本業と関係ないことに走ることがある。1980年代のバブル期に、特に大企業に財テクに走った企業が多く、バブルが弾けて会社の存続を揺るがすダメージを受けたところが少なからずあった。不正ではないがこういったことも、やはり商売の原点を忘れた時に起こるのではないかと思う。


サントリーの創業者、鳥井信治郎(とりい・しんじろう)が戦後、側近に焼け跡の買い占めを提案されたことがあったが、「そんな阿呆なことはやめなはれ。カネ儲けの方法はなんぼでもあるけど、そんなことで儲けたってしょうがない」と言い、土地買い上げの案を却下した。


やはり、叩き上げで一から商売をやってきた人である、商人道というか、商売に対する正しい感というものが働くのだろう。逆に商売の原点を忘れた時に、正しい判断が出来なくなる。良かれと思ってした決断が命取りになる。ということは常に謙虚に商売の原点を意識することが「転ばぬ先の杖」となるといえるだろう。


関連サイト

伊藤雅俊 http://p.tl/Cldx

岩崎弥太郎語録集(経営編) http://p.tl/i5QY

鳥井信治郎(サントリー創業者)語録 http://p.tl/vtOg

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2011-02-03 00:16:33

第163回_住友財閥_伊庭貞鋼_幹部社員育成の要諦

テーマ:財閥

どの経営者も頭を悩ませることの一つは次に会社を背負っていく人材をどう育成していくかということであろう。どうすれば人は育つのか、私はまず経営者が社員に信用されることではないかと思う。このことなくしてどんな社員教育も無意味であろう。



不祥事が起きると社長が「私は何も知らなかった」「社員が勝手にやったこと」とテレビの前で平気で語るシーンを見ることがあるが、こういう会社で人材は絶対に育たない。たとえ優秀な社員がいたとしても、とっとと見切りをつけて他の会社に移ってしまうだろう。



住友グループの礎を築いた第2代総理事の伊庭貞鋼(いばていごう)(天保8年~大正15年)は部下が持ってきた書類に目を通さずに判を押すことで有名であった。しかし判を押すが責任はとらないというのではない。ことごとく判を押すが一度押した書類については絶対に責任をとったといわれる。


この書類を見ないで判を押したことで何が起きたかといえば、住友グループの礎を築く人材が次々と育ったのである。部下は何を書いても判を押してもらえる。しかし、不備な書類のために問題が起きれば全て伊庭(いば)さんが責任をとらなければいけなくなる。これでは申し訳ないということから、どうせ判を押してもらえると分かっていても、部下たちは一生懸命調査や準備をし、絶対に間違いのないよう書類を書いた。そういうことから、おのれ自身が最高意思決定者のような立場で、仕事をする習慣ができ人材が育っていったのである。


愛媛県の別子銅山の運営だけを長年生業としていた住友であったが、伊庭が総理事に就任すると住友銀行(現三井住友銀行)を創設した他、現在の住友金属工業、住友軽金属工業、住友電気工業、住友林業の前身となる事業や住友倉庫を設立するなど、育てた人材とともに現在の住友グループの土台を築いた。



日本商工会議所の会頭、新日本製鐵会長を務めた財界の大御所、永野重雄(ながのしげお)(明治33年~昭和59年)の秘書を務めた武田豊(たけだゆたか)(大正3年~平成16年)は永野に富士製鉄時代(後に八幡製鉄と合併し新日本製鐵)、秘書課長に抜擢された時にこう言われたという。


「武田君、秘書という仕事はうまくいったって誰からも褒められない。失敗したって誰も助けてくれない。社員たちは妬みを込めていうだろう。「秘書の奴め・・・」。「重役の奴め!」とはいわないんだ。重役は最終目標のシンボルだから、その権威を傷つけようとは考えない。しかし、秘書は役員ではない。重役への反抗心が往々にして秘書に向けられやすい。だから、君は四面楚歌(しめんそか)に陥って袋叩きにされるかもしれない。だが、どんな場合でも、俺だけは君の味方であることを心に刻みつけておいてくれ」


武田は永野のこの言葉に感激したという。「兵を営んで死地へ飛び込ませるのは、名将の一つの資格だといわれるが、私はこの時、永野の馬前に討死する覚悟を決めた」と述懐する。武田はその後、永野の名秘書として使え死ぬまで二人の師弟関係は続いた。そして武田も新日本製鐵の社長となり会社を背負っていく立場となった。



文責 田宮 卓



参孝文献


小島直記 「伝記に学ぶ人間学」竹井出版

伊藤 肇 「社長の決断」 徳間文庫

日本経済新聞社 「20世紀 日本の経済人Ⅱ」日経ビジネス文庫
















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