2009-02-22 22:09:00

第27回_大屋晋三_安定だけで会社を選んでいいのか?

テーマ:繊維

明治(1894年)に群馬県の田舎で生まれ、正月でも餅どころか米すら一粒もなく、麦を炊いて味噌を舐めて飢えを凌ぐような少年時代を過ごし、辛い目に遭うたびに「今にみていろ」とこぶしを握りしめながらひたすら勉学に励み、やがて東京での働き口を探し、東京での公証役場で働きながらそこでも苦学をして見事に東京商大(現・一橋大学)に合格した男がいました。

大学卒業後、彼が就職先に選んだのは、財閥系でも名門企業でもなく、若くても大きな仕事を任せてくれる当時の神戸の新興企業、鈴木商店でした。鈴木商店は若い会社だけに新入社員にも大きな仕事が任せられました。その環境をふるに活かし、樟脳と薄荷(はっか)の取引に彼の能力はいかんなく発揮されます。

そして彼はそこでの働きぶりが評価され、鈴木商店がおこした会社である帝人が岩国に工場を建設する際の岩国工場建設事務所長に抜擢され、メキメキと頭角を現します。


彼が後に帝人の社長を20数年勤め、吉田内閣の商工大臣、運輸大臣を勤めた大屋晋三です。


今不景気ということがあり学生が就職先として選ぶのが安定している大企業や公務員が多いようです。しかし、つい1年前まで安定していると言われていた大手のメーカーを中心に今大幅な人員削減を行っております。安定をしていると思って入社した会社が5年後、10年後も存続している保証はどこにもありません。


それであれば若くても権限を与えられて真に実力をつけられる環境のある、大企業以外の会社に就職する選択肢もあるのではないか。真に実力がつけば仮にその会社が無くなったとしても他の会社から必ず声がかかるはずです。大手企業に入社したがために何時までたっても実力がつかない環境で仕事をしなければならいことも考えられます。その会社が定年まで存続すればいいかもしれませんが、途中で働くことが出来なくなった時に実力が伴っていなければ再就職はとても厳しいでしょう。




文責 田宮 卓



















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2009-01-17 15:56:54

第22回_前田勝之助_気概のある若者の出現を望む

テーマ:繊維

2007年、2008年と団塊の世代の多くが定年退職されることによって、戦前の世界に誇る日本の「良き精神」が風化してしまったことに危惧の念を抱かずにはおりません。



団塊の世代とは1947年~1949年若しくは1951年までの間に生まれた世代のことをいいますが、この世代の特徴といえば「戦争を知らない最初の世代」ということになります。



物心をついた頃には深刻な食糧難や、物不足は解消しており、1960年末から1970年初めに社会人になりますが、この頃は日本の経済は既に復興を遂げております。



しかし団塊の世代は、直接戦争の体験をしておりませんが、諸先輩方から戦争の生々しい体験や、戦後アメリカから導入された民主主義と引換えに失った日本の戦前の「良き精神」も持った人達に接したり教えをこうたりする機会はありましたので、戦争や戦前の日本の「良き精神」の足音ははっきりと聞こえていたはずです。 



2007年、2008年と労働市場から団塊の世代の方々がいなくなることにより、戦争や日本の戦前の「良き精神」の足音は一気に遠くなりました。



最近の新卒者は3年以内に3割の人が会社を辞めてしまいます。せっかく就職した会社なのに何故であろうか? 理由を聞くと、「やりたい仕事ではない」「上司と合わない」「仕事がきつい」等様々だが、昔の人達からみると考えられないことで、今の若者は物余り時代に育ったせいか辞めるのは唯単に「根性がない」「我儘」「考えが甘い」からとしか思わないだろう。



私は終戦時、瓦礫のなかで何もモノのない中、ある中学生が日記に記した一筋を思い出します。「姿なき鎧を着て、わが信ずる道をすすもうではないか」いわば、世の中がどう変化しようが「何かを為さなければ」という強い意志を表現しております。このある中学生は後に旧制五校に進学し「この国を復興するには、どうすればいいのか、国のために私が力を尽くせる道は何か?」を必死に考え、思索した結果「モノ作りで復興に少しでも役に立ちたいと」と決意し、現在の東レに入社します。



この人が後に円高不況で地番沈下寸前の東レの社長に就任し見事に再建をはたした前田勝之助という人で東レの中興の祖と言われる人です。前田勝之助は昭和6年生まれで、中学生時代に終戦を迎えますが、この世代が戦前、戦後を知っている最後の世代と言えます。

私は時空を超えて前田勝之助のように日本の戦前の「良き精神」、気概を持った若者が出てくることを願います。




文責 田宮 卓




















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2007-06-26 22:24:26

第2回_大原聰一郎_経営者の倫理観を問う

テーマ:繊維

昨今企業の不祥事が後を絶えませんが、違法で利益が上げるのは論外としてもグレイゾーンであれば何をやっても構わない、あるいは経営者が何も知らなかった、部下が勝手にやったことと言って責任逃れをするような発言が見受けれるが本当に経営者はこれでよいのだろうか。


今こそ我々は先人の経営者達がどのような倫理観を持ち企業経営を行なってきたのかを知り歪んだ倫理観を正すべきではないかと思います。

例えば戦後の経営者はどうであったか、兵庫県芦屋市に六麓荘(ロクロクソウ)という、戦前関西の財界人が東洋一の住宅街を作るというコンセプトで山を切開いて作った住宅街があります。住宅といっても千坪程の規模のお城のような豪邸ばかりの家です。しかしこの豪邸に住んでいた財界人も、戦中、戦後は食料がなく食べるのに困ったそうです。


それでも彼らは闇には一切手を出さず庭でジャガイモを作り飢えを凌いでいたと聞きます。「国の決めたことには従わなければいけない」、このような気持ちを皆持っていたといいます。(ただし、当時の日本は闇市がなければ経済がもたなかったとのも事実ですので、闇市自体は必要なことではあったと思います。)


また、岡山県倉敷市で倉敷絹織として誕生した現クラレという会社があり当時、大原聰一郎(オオハラソウイチロウ)という人が社長をしておりました。

戦後GHQによる公職追放が経済界にも広げられていた時、公職追放には7段階あり、その一番下のG項というのが、「戦争協力者、軍国主義者及び極端な国家主義者」と規定されていました。大原は戦時中、軍需産業に携わる社長であったが、このG項に該当するとは誰も思っていませんでした。しかし、大原は「GHQによる戦争協力者の公職追放は、日本という国が誤謬を犯したことに対する裁きだと考える。私は日本の国家の要請に従って戦争に協力した。国家が誤謬を犯し裁かれようとする時、これに協力した個人として、その裁きから逃れようとは思わない」と自ら裁きを受けようとしたというエピソードがあります。結局この話は、当時の労働組合長が「では社長である貴方がいなくなったら貴方の指揮をまっている一万人の従業員はどうなるんですか」と説得され渋々止めたといいます。


この後、大原は世界初の新繊維「ビニロン」の開発に成功し日本繊維工業史の残る輝かしい業績を遺しますが、このビニロンの工業化には15億円の設備投資が必要でした。最初は額が大きすぎるためどこの銀行も融資をしてくれませんでした。しかし大原は当時日銀の総裁である一万田尚登(イチマンダヒサト)に掛け合い融資額を示し「一企業の利益のためにやるのではありません。日本の繊維業界のための大切な布石として始めるのです。そればかりでなく、戦争に負けて自信を失っている日本人の心を奮いたたせるためにも、純国産の合成繊維の工業化は何としても成功させなければならない。」このように一万田総裁に迫り、一万田総裁も断われば腹を切るに違いないと思える程の熱意に負けて、日本興行銀行をはじめ15の銀行の協調融資の音頭を取り、14億1千万円の融資を成立させました。翌年には一環工業でビニロンの創業式が盛大に挙行され、「ビニロン」の工業化が成功しました。


昔は大原のような一廉の人物と言われる経営者が大勢いました。責任は自分が取るし、私利私欲のために経営もしておりません。このことを現在の私たちは学ぶべきではないでしょうか。






文責 田宮 卓










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