2010-06-01 22:22:53

第91回_白洲次郎_先人に学ぶ良き夫婦

テーマ:創業者、経営者

1928(昭和3年)年、18歳の華族令嬢が昭和恐慌で父親の貿易会社が破綻してイギリスから帰国を余儀なくされた男と出会う、この男は父親が破産して家族を養うためにジャパン・アドヴァイザーという英字社に勤め、英文の記事を書いていた。恋愛となり翌年二人は結婚する。華族令嬢が破産した貿易会社の倅を結婚相手として選ぶのは失礼ながら相応しいとは思わない。ちなみにこの令嬢の姉は日本郵船の社長の令息と結婚した。しかしこの華族令嬢の見る目は間違っていなかった。この男は英文の記事を書くのでは食っていけないのでセール・フレイザー商会に転職するがセール・フレイザー商会では取締役になり日本食糧工業(現日本水産)の取締役を歴任する、戦後は日本国憲法の制定作業に加わり、初代貿易庁長官に就任、通商産業省(現経済産業省)を創設する。その後東北電力の会長に就任し実業界に復帰を果たし、吉田茂首相(当時)に請われサンフランシスコ講和条約に立会う。戦後の日本の復興の立役者の一人となったのだ。この男が白洲次郎であり、華族令嬢は作家として有名な正子夫人である。

正子夫人は夫婦喧嘩をした記憶は一度だけで、生涯仲が良く両者にとってこれ以上の結びつきはなかったという。お互いに人格を尊敬出来たことが夫婦円満の秘訣であったようだ。結婚した当初、正子夫人が何時までも忘れない夫の言葉があるという「ネクタイをしてなくて失礼」夕食の際、夫が妻にこう言ったのである。イギリスの留学経験で身に着いた西欧の作法であり自分はこういう男と結婚したのかと改めて思ったという。このエピソードが象徴するように正子夫人は生涯夫である次郎に合わせ尽くすが、夫も「自分がネクタイを締めるのだから、君もドレスで食卓に臨みなさい」とはしなかった。次郎も妻を尊重し自由奔放にさせし決して強要はしなかったという。

9年間で10回程引っ越しを重ねることがあっても正子夫人は愚痴一つこぼさない。戦争が始まり、東京郊外の鶴川村(現町田市鶴川)で百姓をすることになっても夫の次郎についていく。東京大空襲で家が焼けたため次郎の学友、河上徹太郎(文明評論家)夫婦が鶴川の同じ家に共に住むことになっても喜んでこれを受け入れる、2年間一緒に住んだという。このようにいつも合わせてくれる妻がいたお陰で次郎も国事に奔走できたのであろうが、正子夫人にとっても次郎は尽くしがいのある夫であったのであろう。

正子夫人が単に家柄や年収や職業で結婚相手を選んでいては恐らく次郎のような尽くしがいのある夫とは一緒になれなかったであろう。

文責 田宮 卓

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2010-01-01 09:32:31

第72回_生きる力

テーマ:創業者、経営者

慶応義塾の創始者、福沢諭吉は「独立自尊」を説いた。実際、慶応義塾で福沢の薫陶を受けた門下生があの時代、官吏や政治家にはならず次々と産業を興していったが、在野に生きたという意味ではその筆頭株は電力の鬼、松永安左エ門であろうか。他人や国には頼らない生き方というのは大阪商人の生き方にも通じるかもしれない。しかし今こういった自力で生きる力が失われているような気がします。一昔前までは逞しく生きた人達が多くいたはずです。景気の先行きが見えない今こそそういった先人達から学ぶものがあるのではないだろうか。ここでは戦争経験のある2人の先人から学んでみたいと思う。



母は病気で寝たきりになりがちで、しかも家計はどん底であった。9歳そこそこの子供は母親の食物だけは栄養の高いものを研究し、どこからか見つけ出してきて母親に食べさせていた。家事に関しては弟妹の指導を少しずつ強化して少しずつ手伝わせるようにした。「お母さんの食事や自分たちの食事はやります。ですから、どうぞ心配しないで静養して下さい」母親はこんな息子の様子を寝床の中から眺め、心の底からありがたく思い、頼りにした。この9歳そこそこの少年は、後に医薬品卸の最大手となる東邦薬品を創業する松谷義範である。



昭和20310日の東京大空襲で、店は灰燼(かいじん)と帰してしまった。兄と母が心血を注いでわが子を育てるように守ってきた店が一夜の戦火で跡形もなく消えてしまった。しかし当時53歳の母親はいの一番に立ち上がって歩き始めた。昭和2012月、東京・北千住の中華ソバ屋「たぬき屋」の軒先からの再出発。お金もない、土地もない、信用もない、ないない尽くしのスタートである。しかし母は「お客様は来ないもの」「取引をしたくとも取引先は簡単には応じてくれないもの」「銀行は簡単には貸してくれないもの」、そのような、ないないづくしから商というものは出発するものと息子達に言い聞かせた。この店が現代のイトーヨーカドーのスタートであった。



創業者の伊藤雅俊は当時を振り返り、全てが揃っていたり、揃う目処がついた時点から商売を始めた人はその感覚が乏しいのではないかと思うと言います。全てがないことがあたり前なんだ、あるようになることは本当に有難いことなんだという思いでスタートした人は、商売の形態、精神力、お客様との関係などを力強く推し進めていくことが出来ると思うと言います。



景気が悪い今こそ先人達の人に頼らない逞しい生き方を学んで生きたいものである。  





文責 田宮 卓













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2009-08-09 08:20:58

第52回_山内健二_真に社員を大切にする経営者

テーマ:創業者、経営者

山之内製薬の創業者、山内健二は社員のモチベーションを上げる天才であった。幾つか実際の社員の証言でそのことを記してみよう。

 

山之内製薬の福岡支店に勤務していた社員が1962年(昭和37年)8月の人事異動で、札幌支店の営業管理課長を命ぜられた。赴任の途中、本社への挨拶を終え、翌19日(日曜日)、社員とその家族4人が札幌行きの138分日本航空に乗るため羽田空港改札口の雑路に立っていると、突然、山内社長が現れたという。「大変だね」と社長に声をかけられた社員は、お客様のお見送りかお出迎えのために見えたものと思い、「社長のお客様は何時でございますか」と尋ねてみた。すると社長は「いや、今日は君の見送りに来たんだよ。」と言われたという。社員は感激してお礼を言って改礼を通り、大分歩いて曲がり角に来たので後ろを振り返ると、社長はまだ手を振っていたという。

若い新任の課長のために、会社の社長が日曜日にわざわざ羽田空港までお見送りに来てくれた感激は生涯忘れないという。この社員が大いにやる気になって札幌に向かったことは言うまでもない。 

ある部下は東京の経堂に下宿をしていた頃、役員会が長引いて遅くなったので新宿まで山内会長(当時の肩書)の車に同乗させてもらった。すると山内会長はついでに君の下宿まで送ろうと言って、わざわざ遠回をして送ってくれたという。その時会長に「万一、君が病気になった時、下宿先ぐらい知らないようでは困るから」と言われたという。この部下は会長の親心に似た優しさをこの時ほど胸にしみたことはないという。

また山内社長は、平社員の名前も覚えており機会あるごとに「君の誕生日は何月であったな」「君の子供は元気か」と声をかけたという、新入社員に対してもエレベータに乗ってくると「○○君、今日から出社かね」と声をかける。無論、声をかけられた社員は感激し期待にこたえようと大いに頑張る気になったという。

そして山内社長は直筆の手紙で部下、社員に対して常に祝いの手紙、慰労の手紙を具体的なことを言及して送り続けたという。

当時、山之内製薬では山内社長に一言声をかけられることで大いにやる気になり、生涯その言葉が励みになったという社員が沢山いたといいます。

明治、大正、昭和の経営者には山内社長のように社員を本当に大切にし、心を捉えることが出来る人物が多かったです。そういう経営者は社員から信頼されて慕われておりました。今の自分があるのはあの方のお陰、あの方の期待にこたえるために頑張ろうと思ってくれる社員に経営者は支えられておりました。

現在このようなタイプの経営者は少なくなっている気がしますが非常に残念です。



文責 田宮 卓

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