2014-09-04 21:43:46

第244回_飛鳥山の渋沢邸

テーマ:ブログ
本日、東京の王子の方面に用事があり、そのついでに飛鳥山の渋沢資料館に行ってきた。前々からどうしても見たかったものが二つあったからである。渋沢資料館は元々渋沢栄一(日本の資本主義の父と言われた実業家)の邸宅だったところで、30年以上ここに住み、国内外の要人の多くがここを訪れた


どうしても見たかったものの一つが庭園にある茶室「無心庵(むしんあん)」である。この茶室は今から100年程前に、渋沢が維新後まだ逆族扱いされていた旧主徳川慶喜公を大政奉還の名君として新政府に認めてもらうべく、伊藤博文公、大隈重信侯に慶喜公を引き合わせた場所である。


渋沢にとって旧主がいつまでも逆族扱いされるのが許せなかったのだろう。この茶席がきっかけとなり、明治35年(1902年)に慶喜公は公爵に叙せられた。渋沢の義理堅さが滲み出る話である。


ところが、資料館でもらった地図を頼りに無心庵(むしんあん)に行ったのだが、建物は焼失。戦争で焼かれて跡地があるだけであった。残念!

気を取り直して、もう一つ見たかった、晩香蘆(ばんこうろ)という西洋式木造茶席(重要文化財)を、庭園を歩き探した。この建物はあった。晩香蘆は清水建設の4代目当主の清水満之助が、渋沢の長年の清水建設への支援に対する お礼の気持ちから、渋沢喜寿の祝いを兼ねて寄贈したものである。


以前、清水建設の歴史を調べたことがあるのだが、清水は公共事業に頼らず、民間企業のビルを多く手掛けることで発展してきた。渋沢が「官庁工事をやるより、会社や、工場、一般家屋をやるのが良い」と忠告したことが、民間建築を柱とする方向性を決めたようだ。そして渋沢の支援があったからこそ、清水建設は信用を得ることができ、次々と受注することが出来た


それにしても渋沢資料館の受付でもらった案内書を良く見てみると、庭園には他に6、7ヶ所、建物がたっていたのだが、晩香蘆(ばんこうろ)以外は、東京大空襲で全て焼失となっていた。何故、晩香蘆だけは焼けずに残ったのだろう? 帰りに図書館で調べてみた。「祖父・渋沢栄一に学んだこと」という著書にその理由が書いてあった。


近所の人たちが「渋沢さんに日ごろからよくしていただいているから恩返しだ」とみんながバケツリレーをして水をかけて消したというのだ。


渋沢栄一は庶民にも好かれる、本当に立派な人物だったのだと改めて思った



関連サイト
渋沢栄一の家系図 http://bit.ly/1rhRo7h
渋沢栄一語録 http://bit.ly/xl7q0f
人物別名言集 http://bit.ly/1j4tg4M
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