2011-08-30 14:16:18

第198回_野田佳彦総理(松下幸之助の遺産)

テーマ:野田佳彦

「金を残して死ぬのは下だ。事業を残して死ぬのは中だ。人を残して死ぬのが上だ」後藤新平(大物政治家)




本日、野田佳彦衆議院議員が第95代内閣総理大臣に指名された。野田議員は松下電器(現パナソニック)の創業者、松下幸之助さんが晩年に、70億円ともいわれる私財を投げ打って開塾した松下政経塾の1期生である。政経塾は幸之助さんが「いくら商売で成果を上げても、政治がコケれば社会全体が悪くなる。」「一人でいいから本物の政治家を育てたい」こんな思いから設立した塾だといわれる。




私は野田議員が総理大臣に選ばれて思ったことは、幸之助さんの人の見る目の確かさである。これには敬服させられる。野田議員は幸之助さんに「僕の後継者は君しかいない」ととても可愛がられた塾生であった。



政経塾入塾試験の最終面接は幸之助さん自らが行ったが、採用基準は「愛嬌がある人」「運のある人」の2つであった。リーダーは人に助けてもらわなければいけない。だから愛嬌が必要だという。これは誰でも見れば分かるだろう。しかし「運がいい人」これはどうやって分かるのであろうか。幸之助さんに「運がいいかなんて分かるのですか?」と質問した記者がいた。それに対して幸之助さんは一言「わしには分かる」と答えたそうだ。




野田議員は政治家の家系ではない。物心ついた頃から政治に興味はあったようだが、学生時代はジャーナリスト志望で就職活動は新聞社を中心に受けていた。そんな時に父親がたまたま新聞に掲載されていた松下政経塾1期生募集の広告を見つけ、こんなのもあるぞと教えてくれたので何気なく政経塾を受けた。




幸之助さんに面接で聞かれたことは「親戚に政治家はいるか」「いや係類には誰もいません」「ええな」。「お金持ちか」「どちらかというと中の下です」と答える。すると「なお、ええな」。とくに難しい政策の話はなく、主に家庭環境のことを聞かれて面接は終わったという。




故・田中角栄元首相は国会議員になれたのであれば、大臣は努力すれば誰でもなれる。だが総理大臣は時の運がないとなれないと言った。野田議員も運があったから総理大臣になれたといえるだろう。




私は野田議員の話を何度となく聞く機会があった。今から123年前、野田議員が2期目の当選をした頃である。私は大学を出てからひょんなことから国会議員の秘書となり国会で働くことになった。その時の仕事の一つが、松下政経塾出身の国会議員だけが集まる会議がありその幹事役(事務局)であった。議題や日程や会議室を決めて各議員の事務所に案内を送る。そして会議の時は幹事役なので末席に座り議事録をとらなければいけなかった。




この会議は2週間に一度ぐらいのペースで行っていた。主な参加メンバーは野田佳彦(現総理大臣)、前原誠司(前外務大臣)、玄葉光一郎(前国家戦略担当大臣兼民主党政調会長)、原口一博(前総務大臣)、逢沢一郎(現自民党国対委員長)、中田宏(前横浜市長)、松沢茂文(前神奈川県知事)、樽床伸二(前国対委員長)らであるが、当時は皆、まだ駆け出しの政治家であった。



ここで、会議での議論の内容を明かすことは出来ないが、皆、純粋な気持ちで政治家になった人達ばかりだということだけは確かである。




私はこの会議で野田議員の議論を何度も聞いていたのだが、まさか総理大臣になるような人物だとは思いもしなかった。




しかし幸之助さんは、国会議員どころかまだ社会にも出ていない野田青年を面接して、それも何気なく受けにきた青年である。総理大臣になれると思ったかどうかは分からないが、そのくらいの資質、運を持っていることを見抜いていたのだろう。さすがは経営の神様である。




もちろん運良く総理大臣になれたがかえって日本が悪くなった。これでは困る。日本の国を良き方向に導いて初めて幸之助さんの意志が成就出来たといえる。もしこのことが実現出来たならば、幸之助さんの残した最大の功績は人を残したことと言えるであろう。




野田総理は、派手さはないが、誠実で堅実で人望がある。党内をまとめ野党とも信頼関係を築き、政治を前に進めてくれることを期待したい。



また私はこの松下政経塾出身者だけが集まる会議を通じて読書の素晴らしさを学ぶことが出来た。松下幸之助さんは好きだったので本は何冊も読んでいた。この会議で本では得られない幸之助さんの教えやエピソードを聞けることを毎回楽しみにしていたが、そこで知り得た幸之助さんに関することは、23それは知らなかったなという話はあったが、ほぼ本に書いてあることと同じであった。




ということは何も幸之助さんに直接会わなくても、本を読むことで教えやエピソードを知ることが十分できる。




つまり読書は時空を超えて何時でも古今東西のどんな偉人とも対話ができ、教えを乞うことができるのである。このことに気付けたことは大きかった。



このブログも偉人からの手紙だと思っている。私は偉人からの手紙を皆に渡す配達係に過ぎない。これからも手紙を送り続けたいと思う。




文責 田宮 卓



















































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2011-08-19 00:05:19

第197回_鹿野道彦農林水産大臣_情報が人を熱くする

テーマ:政治家

菅総理がようやく辞任を表明したことにより、今月の末には次の新しい総理が誰になるか分かりそうだ。


実質的に総理を決める民主党の代表選に出馬する候補者もほぼ出揃っている。そのうちの一人に鹿野道彦(かのみちひこ)農林水産大臣がいる。本人はまだ正式な表明こそしていないが、新聞やテレビなどの報道を見る限り、代表選出馬への意欲は十分である。


私は鹿野大臣のことは良く知らないが、テレビなどで見ると何時も思い浮かぶのが父親の故・鹿野彦吉(衆議院議員)のことである。父親の彦吉は、元々はサラリーマンで40歳の若さで関西ペイント(現在東証1部)の取締役までになっていたが、ある本との出会いにより政治家に転身することになった。


その本とはパール・バック女史の不朽の名作「大地」である。「大地は」19世紀後半から20世紀初頭にかけて古い中国から新しい国家へと生まれ変わろうとする激動の時代を背景とした物語であるが、この本を読みその中の一節に触れた時に、彦吉はとんでもない衝撃を受けることになった。「やはり多くの大衆を幸せに導けるのは政治である。政治が堕落すると民衆も不幸になる」


そして政治家に転身することを決意する。彦吉は若くして大きな会社の取締役にもなり実業家としても十分成功していた可能性があったと思うが、「大地」という本に出会うことにより活躍の舞台を政治の世界へと変えた。昭和24年に衆議院議員に初当選し5期務める。


そして鹿野大臣は学習院大学を卒業すると父親の秘書となりその後、衆議院議員に初当選し現在に至っている。


もし父親が政治家になっていなければ、鹿野大臣は今こうして総理候補になるどころか国会議員にすらなっていなかったかもしれない。


父親が「大地」という本に出会ったからこそ今の鹿野大臣がある。私が鹿野大臣を見て何時も思うことはこのことである。


私は古今東西にわたり多くの偉人を調べてきたが大抵、自分の人生に大きな影響を与える本と出会っている。あの時にあの本に出会っていなければ今の自分はなかったといえる本がだいたいあるものだ。


情報が人を熱くする。人はある本のたった一文に触れた時に、眠っていた使命感や志が目覚めることがあるようだ。


私も「大地」は読んだがそれほどの衝撃はなかった。山崎豊子の「大地の子」こっちの方が面白かったがこちらもそれほどの衝撃はなかった。もちろん同じ本を読んで皆が同じ衝撃を受けることなどありえない。人生に大きな影響を与える本は人それぞれ違うし、読む時期によっても違ってくるであろう。


恐らく多くの人がまだそういう本に出会っていないと思うが、それは出会ってないだけでこの世の中のどこかに存在するはずである。


ではどうすれば自分の人生に大きく影響する本に出会えるのか。それは私も分からない。分からないがいえることは、普段から多くの本を読んでいる人ほどそういう本に出会える確率が高いが、読まない人ほどそれだけ出会う確率が低いということだ。


実際にどの分野であれ大成した人をみると、ほとんどが読者家といわれる人達ばかりである。


読者離れが進んでいるといわれ、何年が経つであろうか。このことは大きく道を切り開くチャンスを逃しているようでもったいない。本を読まなくなったが、その分インターネットなどで情報収集しているという人もいるだろう。今後、本は減り電子書籍などに変わっていくことも時代の流れであると思う。こういったブログでもインプットは出来るし、必ずしも本でなければいけないということはないと思う。


活字が発明されることにより人類が営々と築いてきた英知を継承することが出来るようになった。この偉人ブログが書けるのもその恩恵の賜物であることはいうまでもない。


最近は忙しさにかまけて読書を怠っているのが何を隠そうこの私である。今一度、読書のペースを上げていこうと思う今日この頃である。


注意:鹿野道彦大臣を応援しているわけではありません。

文責 田宮 卓

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2011-08-06 00:00:21

第196回_後藤新平(帝都を復興させた政治家)第7 話(大災害から立ち上がった男達No27 )

テーマ:ブログ

7


新平が東京市長を辞任して5ヶ月後に関東大震災が起こるが、その直前、山本権兵衛首相は組閣に難航していた。新平を内務大臣として入閣させたいが、新平は入閣の意義は、日露の国交回復実現にあるので外務大臣でなければ入閣を拒否する構えだった。そんな時に関東大震災が起きた。


1923年(大正12年)91日午前1158分のことである。新平は麻布の自宅にいて大勢の関係者や新聞記者に囲まれていた。「これは大きいぞ」皆の足が浮足立った。時間が経つにつれ「大きいぞ」どころの話ではないことが徐々に分かってきた。東京や横浜に火の手が上がり夜を徹して燃え上がった。この惨状を目の当たりにし「外務大臣だろうが内務大臣であろうが入閣するほかない」と新平の考えは変わり「無条件で入閣する」と山本首相に告げ、内務大臣で入閣した。


内務大臣として入閣した新平は直ぐに帝都復興の指揮をとることになった。関東大震災による東京の焼失は当時、世界最大であった。有名なロンドン大火、サンフランシスコと比較しても最大の都市大火である。その復興を僅か6年半でやり遂げたのだが、阪神・淡路大震災の復興事業はこれより小さい面積であったのに10年かかかったことを考えると6年半がいかに早いかがお分かりいただけるだろう。これだけ早い復興は後藤新平がいなければ出来なかったといわれる。


新平は96日の閣議で早くも「帝都復興の議」を提出。帝都復興院総裁も兼務し、東京を、これを機会に欧米に負けない都市に復興させようと走り出す。


しかし新平は当初の復興予算を30億円と考えていたが、帝国議会でそんな予算はないと賛意が得られず、4億円代まで削減されてしまった。復興計画はかなり骨抜きにされたが、それでもかなりの成果があった。では東京は復興計画でどう変わったのか、具体的に大きく4つのことが変わったといえる。


1、交通網が発達

2、防災面が強化

3、環境衛生が向上

4、美観都市になった


まず復興事業の大きな成果は、道幅は狭められたが、幹線道路や補線道路を徹底的につくったことである。焼失地の人達に区画整理の必要性を説明、説得し理解を得られたことで、次々と道路がつくられた。昭和通り、日比谷通り、晴海通り、三ツ目通り、蔵前通り、浅草通り、国際通り、永代通りなどが復興事業で出来たものであるが、道路幅は予算をカットされたため大幅に縮小させられた。例えば昭和通りは当初の計画は72 mであったが実際は44mにつくられた。他の道路も道幅を縮小することを余議なくされた。これは今考えると、都心の幹線道路を用地買収して拡げるのは不可能なことであるので計画通りいかなかったことは残念である。


また表通りだけ整備しても意味はなく、幹線道路の裏の道路もつくり直した。当時の東京は水道も排水溝も満足にない劣悪な貸家や長屋が多かった。徹底的に裏道路と同時に上水道、下水道も整備したので環境衛生が悪い長屋は一つもなくなり、東京の衛生状態は飛躍的に改善された。これだけでも大きな成果である。


そして墨田公園、錦糸公園、浜松公園はじめ全部で52もの大公園、小公園をつくった。これらの公園もやはり予算カットにより縮小させられた。今の墨田公園も当初の計画の3分の1の大きさである。


道路や公園をつくったのは防災の役割も考えてのことであった。焼けたところと焼けなかったところの境をみると道路や公園が延焼を防いでいることがみてとれたからだ。公園は「平時においては行楽の地となり、非常の時には避難所とする」ことを目的とした。今もって東京に緑の公園が多いのはこのためである。


また、関東大震災当時は耐震橋梁が一つもなかった。木造の橋は全て焼け落ちて川べりで多くの人が亡くなった。その教訓から徹底的に耐震構造の橋を架けた。墨田川の相生、永代、清州、蔵前をはじめ全部で400以上の橋が架けられた。道路をつくり、橋を架けることで東京の交通網と防災機能は飛躍的に発達した。


復興事業が完成した時、東京は緑豊かな美しい都市に生まれ変わっていた。しかし戦後はこの道路や公園の緑地を潰し運河を埋めて高速道路を建設し景観を損ねてしまったのは残念なことである。今の昭和通りは都市の道路としてはとても醜い姿になっているが、完成当時は緑豊かな、きれいな並木道があった。


新平の帝都復興計画は縮小されたもののかなりの成果があったといえようが、そのまま計画が実効されていたらと嘆く人は少なくない。そのうちのお一人が昭和天皇である。昭和58年の記者会見で陛下は「後藤新平の計画通りなら戦災(東京大空襲)の被害も非常に軽かったと思うと残念でなりません」という趣旨のことを述べられた。


新平が帝都復興計画を迅速に立て進められたのは東京市長時代には実現出来なかった「8億円計画」という下地があったからに他ならない。


また、関東大震災時の東京市長が、新平が市長の時に腹心の助役であった永田秀治郎(ながたひでじろう)であったことも大きい。国と東京市がスムーズに連携がとれたのもこのためであった。内務省と東京市の復興事業の事務所も一緒にし、所長も同じ人にしている。各部署には新平の信頼のおける人物を置き復興事業を進めることができたが、これも新平が今まで優秀な部下との信頼関係を築いていたからである。


311日の東日本大震災で最も不幸であったのは天災と人災の両方が重なったことだと思う。原発以外にも人災がある。関東大震災の時のような斬新な復興計画が国からも地方からも出てこないことである。またそれを実行できるリーダーがいない。これは人災である。


二度とこのような人災を招かないために政府や政治家は未来に起こる天災に今から備えなければならない。また国民一人一人も備える必要があると思う。後藤新平が残した最大の遺産は東京の道路や公園よりもこの教訓ではないかと思う。


最後に、ビスマルクの名言をもう一度紹介して終わりたい。


「愚者は体験に学び、賢者は歴史に学ぶ」

ビスマルク(ドイツ帝国初代帝国宰相)


後藤新平全7話(完)


文責 田宮 卓

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