1 | 2 次ページ >> ▼ /
2011-07-26 13:58:17

第195回_後藤新平(帝都を復興させた政治家)第6 話 (大災害から立ち上がった男達No26 )

テーマ:政治家

6


東京市政は、相次いで汚職などが発覚し、行き詰まっていた。市会議員20数人が検事局に拘引され、すでに市長の田尻稲治郎と3人の助役、そして市会議長も辞職をした。こんな状態の東京市政を刷新できるのは腕力のある後藤新平しかいないと東京市会では一致していた。


しかし新平は、これからは本格的に国際的な経済戦争が始まる。日本がこれに打ち勝つためには欧米に対抗できるだけの近代的国家にしなければならない。そのためには国内、海外の調査を徹底的に行い科学的に政治、経済、技術、産業を調査研究して長期的な戦略を立て、そのうえで確固とした国策を樹立しなければならない。そのためには大調査機関を創設することが必要と考え、これを一生の事業にしようと思っていたので東京市長の就任を固辞していた。


3人の市議会議員がなんとか新平に市長就任を承諾してもらおうと説得に行き「東京都民と帝都の自治のため、ぜひ市長になってほしい」お願いする。「われわれは辞表を懐にしている。あなたが市長就任を承諾しないなら、議員を辞職する覚悟です」と迫るが、新平は大調査機関の創設の仕事は自分にしかできないという理由で就任を断る。


しかたがないので3人の市議は財界の大御所、渋沢栄一に新平の説得をお願いする。渋沢も東京市の窮状を打開するには新平に市長に就任してもらうほかないと思い説得にあたるが新平は頑なに固辞する。逃げ回る新平であったが、最後は原敬(はらたかし)首相に説得される。夜の10時頃から会談がはじまり明け方4時半頃になってようやく、大調査機関創設に協力することを条件に東京市長就任を承諾した。


1920年(大正9年)1219日午前11時、新平は東京市役所に初登庁した。満63歳の時である。


新平の初仕事は人事であった。助役はすべて市役所の外からつれて来た。永田秀治郎(ながたひでじろう)、池田宏、前田多門(まえだたもん)の3人である。永田は内務省警保局を経て貴族院議員、池田は内務省社会局長、前田は内務省都市計画局長であった。前田は戦後の初代文部大臣も務めるが、この前田の娘の結婚相手がソニーの創業者、井深大(いぶかまさる)である。


新平は、市政の実務はすべてこの3人に任せたといわれる。汚職紛れであった市政を刷新し直ぐに打ち出したのが東京改造の8億円計画であった。当時の東京はぬかるみ、土ぼこり、断水、下水の悪臭、学校不足と惨憺たる状態であった。新平はそれを欧米に負けない首都に改造しようと意見書をまとめた。当時の市予算が1億3千万円であったが、計画期間が10年~15年であるから無理難題な計画ではなかった。しかし帝国議会や大蔵省(現財務省)が8億円は過大だと強く反対し結局、新平が東京市長の時に実現しなかったが、この8億円計画は関東大震災の帝都復興事業で生きることになった。このことは最後に述べることにする。


市長就任前から構想していた大調査機関の創設の方は安田善治郎(安田財閥創業者、現みずほ銀行の創業者)の寄付により「東京市政調査会」として発足することが出来た。この時の経緯をみるといかに新平が財界人から信頼された政治家であったかが分かる。新平は東京市長就任直前に工業倶楽部で講演をした。「首府たる東京は帝国の縮図なり。したがって東京市の行き詰まりは、すなわち帝国の行き詰まりである。東京を救済することは帝国を救済することになる」この講演を聞いていた安田は趣旨に賛同し「私で協力できることがあれば協力する」と申し出てきた。そこで新平は大調査機関創設の必要性を安田に話すと「資金は私が提供しましょう」と約束してくれた。


まもなく8億円計画を打ち出すと安田は「8億円は金額が小さくないか」と新平に申し出る。さすがの新平も計画が大きすぎるから削れと言われることはあっても小さいと言われたのは初めてであったので度肝を抜かれた。「協力してくださるのですか」安田は「私は意義のある仕事なら家産を傾けることはいとわない」と言い協力を約束した。しかし間もなく安田は大磯の別邸で寄付を強要した暴漢の凶刀に倒れ亡くなる。8億円計画は実現しなかったが、大調査機関創設は安田が凶刀に倒れた後、遺族が安田の約束を引き継いで寄付を行い、大調査機関は東京市政調査会と形を変えて説立され、調査会の入る市政会館と合築して日比谷公会堂も建設された。これらは全額安田の寄付によるものである。


安田は一代で安田財閥(現みずほ銀行の創業者)を築きあげ金融王と言われたが、事業の成否を聞かれると「一にも人物、二にも人物、その首脳となる人物如何によって決まる。経営にあたる人物が満腔(マンコウ)の熱心さと誠実さとを捧げて、その事業と共に倒れる覚悟でかかれる人か、否かだ」と語ったとされるが、後藤新平という政治家を支援することにしたのもしっかりした計画とそれと共に倒れるだけの気概を感じたからであろう。


今も数十億円、100億円を寄付する太っ腹な経営者はいる。しかし貴方にお金を渡すからその政策を実現してくれといえるような政治家はなかなかいないのではなかろうか。


次回はいよいよ新平が関東大震災から帝都をいかに迅速に復興させたか書いてみたい。


7話(たぶん最後)に続く


文責 田宮 卓

AD
いいね!した人  |  コメント(18)  |  リブログ(0)
2011-07-16 00:17:32

第194回_後藤新平(帝都を復興させた政治家)第5 話 (大災害から立ち上がった男達No25 )

テーマ:政治家

5




新平の比類ないものが調査能力ともう一つあった。それはリクルーターの名人であったことである。藩閥、学閥、門閥にかかわらず能力のある人、優秀な人材をどんどんスカウトしていった。結局のところどんなに立派な計画があっても実行できる人材がいなければ絵に描いた餅である。台湾統治の成功も官界、学界、医学界から優秀な人材を結集できたことにあった。




土木では長尾半平(ながおはんぺい)、鉄道では長谷川謹介(はせがわきんすけ)、医学では高木友枝(たかぎともえ)、調査では京都帝国大学教授で民法学者の草分けであった岡松参太郎(おかまつさんたろう)を口説き招き入れた。そして農業と経済の両方が分かる逸材ということで新渡戸稲造(にとべいなぞう)を口説き落としたのも新平であった。




何故、新平は天下有為の人材を口説き落とし台湾に結集できたのか、理由は色々あるであろうが新平のこのプロジェクトにかける情熱と今まで入念な調査に基づき計画を進めてきたことに対する信頼ではないかと思う。




私は政治家の資質の第一条件は歴史家であることだと思う。ドイツ帝国初代帝国宰相のビスマルクは「愚者は体験に学び、賢者は歴史に学ぶ」と言ったが、政治家が国の方向性を決める事案を決断するのに、自分の体験からだけで判断されたのではたまらない。




政治家は日本や世界の歴史をよく学び、深い歴史観や哲学に裏打ちされた洞察力を持ち、大局的観点から判断すべきである。そうでなければ国民に対する説得力がない。いくら思いつきでないと声高く叫んだところで軽く見られるのが落ちである。昨今は、いわば目先の、臨床的な措置しか語らない政治家が多いように思える。




その点、新平は歴史や哲学ではないかもしれないが、米国の都市学の権威、ビーアド博士が「後藤は世界に例なき科学的政治家である」と言い切ったほど、入念な科学的な調査に基づいた計画を持っていた。このことが迫力、真実味があり優秀な人材に台湾のプロジェクトに参加してみようと思わせたのではないかと思う。







後藤新平というと官僚、学者、医者などの有為な人材を登用し育てたことが強調されるが、専門家は誰も指摘しないが新平の偉かったことがもう一つある。それは起業家を育てたことである。今も昔も大企業を優遇して見返りに政治資金を貰う政治家はいくらでもいるが、新平ほどベンチャー企業を育てた政治家はいないであろう。





新平が支援した起業家をあげればきりがない。軽井沢の沓掛(くつかけ)地区の開発を「今は経営者にしても気宇広大な奴がおらん。この軽井沢あたりも君のような若い者が50年ぐらいの計画で開発したらいい」と、30歳に満たない若者に勧めた。この若者が西武グループの創業者、堤康次郎(つつみやすじろう)である。西武王国を築くルーツとなる軽井沢地区の開発を入知恵したのは新平であった。




読売新聞の再建を頼まれた正力松太郎(しょうりきまつたろう)を支援したのも新平であった。正力に「10万円(今なら数億円)貸してほしい」とお願いされた新平は「新聞経営は難しいと聞いている。失敗しても未練を残すなよ。金は返す必要はない」と言い10万円をポンと貸したという。当時、正力は政治家のことだから、どこかから都合したのだろうと思った。しかし、新平の死後、実は新平が自宅を抵当に入れ、無理して借金をした金であることを遺族から聞かされて知ることになり、正力は号泣したという。後藤新平とはこういう政治家である。私腹を肥やそうと思えばいくらでも出来たであろうが亡くなった後、私有財産は一切残っていなかったという。




そして新平は医師でもあることから医薬産業に携わる起業家も育てた。星一(はじめ)が星製薬株式会社を設立するのを支援し、漢方薬の津村順天堂(現ツムラ)の創業者、津村重舎(つむらじゅうしゃ)を可愛がった。




また神戸のベンチャー企業、鈴木商店の番頭、金子直吉(かねこなおきち)の支援もした。新平が台湾総督府民政長官の時、台湾の樟脳油65%の販売権を与え、鈴木商店大飛躍のきっかけをつくった。鈴木商店は三井、三菱と肩を並べるほどの大商社に発展する。 




しかし鈴木商店は昭和2年の金融恐慌の煽りを受けて倒産してしまう。だが鈴木商店が関係した会社は今も健在しているものが多く、神戸製鋼所、帝人、日商岩井(現双日)、豊年製油(現J-オイルミルズ)、石川島播磨(現IHI)、クロード式窒素工業(現三井化学)、帝国麦酒(現サッポロビール)等、全て金子が種を蒔いた事業である。




新平が直接、間接に支援して今も残っている企業をあげると、西武グループ、読売グループ、ツムラ、神戸製鋼所、帝人、双日、J-オイルミルズ、IHI、三井化学、サッポロビール等だが、今もって日本の経済、雇用に貢献している大企業がこれだけあるのは驚きである。




新平は台湾の民政長官を務めた後、児玉の要請で南満州鉄道株式会社の総裁に就任し、ここでは調査部を創設する。そして逓信大臣、内務大臣、外務大臣を歴任し、汚職事件で疲弊しきった東京市に大物市長として乗り込むのだが、市長に就任する経緯が興味深い。




かつて日本興業銀行(現みずほフィナンシャルグループ)の名頭取で財界鞍馬天狗(くらまてんぐ)と異名をとった中山素平(なかやまそへい)は「トップとして望ましいのは、なりたい人よりも逃げまわる人」と言ったが、中山は後任の頭取に副頭取の正宗猪早夫(まさむねいさお)に譲ろうとするが「私は頭取の器ではないので嫌です」と頑なに断られる。結局、逃げ回る正宗を数年がかりで口説き頭取になってもらったのだが、中山も中山で頭取を辞めようとしても「貴方にはまだやってもらわなければ困る」と周りがなかなか辞めさせてくれない。会長職にとどまるという約束でようやく頭取を辞めることができ、後任の正宗に引き継ぐことができた。こういう人達がトップにいる時は会社もうまくいく。政治のトップも同じことがいえるのではなかろうか。




新平が東京市長になる時がまさに逃げ回るのを周囲から説得されてなるのだが、この説得のされ方が凄かった。




6話に続く




文責 田宮 卓


































































AD
いいね!した人  |  コメント(26)  |  リブログ(0)
2011-07-11 01:34:46

第193回_後藤新平(帝都を復興させた政治家)第4 話 (大災害から立ち上がった男達No24)

テーマ:政治家

4



熱海での岩倉具視との面会を終えて東京に帰った新平の初仕事は、日本の各地方における衛生行政の把握であった。新平はこれを、事前に綿密な調査項目を用意して行うがそのやり方は徹底していた。


その地方に住む人の飲食物、嗜好、衣服、夜具、家屋、清潔、運動、身体の大小、気力、体力の強弱、長寿家の増減、老後の強弱、結婚の遅早、子供の生育の良否、伝染病の増減、緒病の増減、草木菌類の有毒状況、売薬需要など必要と思われる項目はすべてあげて入念に調べた。


しかし役所内で異を唱えるものもいた「多大の経費と時間をかけてそのような詳細な調査項目を行わないとわが国の衛生制度は確立できないのか。海外諸国にはすでに各種の優れた衛生制度があるのだから、これらを応用してわが国に導入するほうが効率的ではないか」というのだ。それに対して新平は「各地方では、衛生という形できちんと制度化されていなくとも、人々の本能として必ず衛生の慣習が存在している。その現実を無視して画一的に欧米の制度を各地方に押し付けても失敗する。まず地方ごとの事情と事実を調査し、これを理想に照らして分析し、それから現実に合った衛生制度を全国に普及することが成功の道だ」と主張した。


欧米列強に伍して近代国家としての体裁を実際に備えようと躍起になっていた政府はこの調査を高く評価し、その報告書を官報に記載したほどであった。


その後も新平は調査を武器に衛生試験所の創設と拡張、医師開業試験における西洋医と漢方医の調整、全国の上下水道の改修など、次々に面倒な仕事を処理していく。次第に長与衛生局長の懐刀(ふところがたな)となっていった


1890年(明治32年)、新平が満32歳の時にドイツに留学するが、新平の調査の精度がいかに高いかを示す話がある。ドイツで国勢調査が行われた時、新平はその調査、集計、作業などの実態について詳細に研究し様式なども日本に持ち帰るが、その後ドイツ統計局長を訪問した日本人に対して「わが局を訪問した日本人は多数いるが、真の統計の理解者は後藤新平一人だ」と語ったとされる。


また、当時すでに政権から追われていたビスマルク(統一ドイツの初代帝国宰相兼プロイセン首相)と面会することも出来た。日本語版ではあるが自分の著者「衛生制度論」を贈呈ししばらく観談した。するとビスマルクは「お見受けしたところ、あなたは医者というより、政治に携わるべき人物だ。日本に帰ったら医学上はもちろん、政治上でも十分活躍してください」といわれた。欧米列強の狭間で国家を統一したビスマルクの強力なリーダーシップに以前から感銘を受け尊敬していた新平は、この言葉に大いに励まされたようだ。留学期間は22ヶ月であった。帰国すると新平は長与の後任として衛生局長に就任する。満36歳の時であった。それから数年後、今度は台湾に行くことになる。


児玉源太郎(こだまげんたろう)が第4代台湾総督に就任が決まった。すると児玉は新平を台湾へ真っ先に連れていくことを決める。新平の行政手腕を買ってのことである。台湾総督は初代、樺山資紀(かばやまのりすけ)、二代、桂太郎、三代、乃木希典(のぎまれすけ)と代わったが原住民の反発があり統治はうまくいっていなかった。


児玉が台湾統治について新平に意見をもとめると「生物学の原理を無視してはいけません。ヒラメの目が頭の一方に付いているのには理由があります。鯛のように両側に付け変えるわけにはいきません。現地の慣習を重んじることです」と進言する。新平は前総督の乃木希典らが原住民に反発され、阿片とゲリラに手を焼いていたのは、一方的に禁止と征伐で押したからだということを見抜いていた。


現地の慣習を重んじることは新平が岩倉具視にもとめられ日本各地の衛生状況を調べて以来、日本で政策を推し進めるうえでずっと行ってきた手法であるが、この方法が台湾統治を成功させる。


児玉は新平を民政局長から民政長官にし、台湾の経営を全面的に任せ後ろ盾となった。新平は実態調査を徹底的に行い、現地の慣習を重んじる。綿密な調査に基づき大胆な計画を立てて実行していったが新平が残したものは大きい。今に残る台北市内の広い道路や上下水道は、当時の東京よりも進んでいたといわれる。縦貫鉄道の敷設、製糖産業の振興、港湾、病院の建設などまさに国造りそのものであった。日露戦争のころには台湾は財政的に独立できるまでになっていた。今でも台湾人は「後藤がインフラを残し、台湾の発展の礎をつくった」と感謝している人が少なくない。


そして新平の比類ないものが調査能力ともう一つあった。それはリクルーターの名人であったことである。藩閥、学閥、門閥にかかわらず能力のある人、優秀な人材をどんどんスカウトしていった。結局のところどんなに立派な計画があっても実行できる人材がいなければ絵に描いた餅である。台湾統治の成功も優秀な人材を結集できたことにあった。また新平は人材育成の名人でもあった。実はこのことで専門家がまだ誰もふれていないことがあるが次回に書いてみたい。このこと抜きにして後藤新平を語るのは片手落ちであるからだ。


5話に続く



文責 田宮 卓

AD
いいね!した人  |  コメント(8)  |  リブログ(0)
1 | 2 次ページ >> ▼ /

AD

相互フォロー大歓迎!リフォロー率99% follow me Twitter
ツイッタータイムラインブログパーツ Taku Tamiya

バナーを作成

Ameba人気のブログ

Amebaトピックス

      ランキング

      • 総合
      • 新登場
      • 急上昇
      • トレンド

      ブログをはじめる

      たくさんの芸能人・有名人が
      書いているAmebaブログを
      無料で簡単にはじめることができます。

      公式トップブロガーへ応募

      多くの方にご紹介したいブログを
      執筆する方を「公式トップブロガー」
      として認定しております。

      芸能人・有名人ブログを開設

      Amebaブログでは、芸能人・有名人ブログを
      ご希望される著名人の方/事務所様を
      随時募集しております。