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2011-03-31 06:35:53

第172回_三島海雲_災害時に利益を得る企業とは(大災害から立ち上がった男達③)

テーマ:食品

ユニクロを展開するファーストリテイリンググループは314日、東日本大震災の被災地へ同社の防寒衣料類7億円分を寄付すると発表した。また、日本赤十字社などを通じ、同社グループから3億円、全世界の同社グループ従業員から1億円の計4億円を寄付。柳井社長も個人として10億円を寄付すると発表した。国内では過去個人の寄付額で10億円は類がないという。



私はめったに現代の経営者を褒めることはないが、今回の柳井社長の心ある行動を立派だと賞賛したい。しかし多額の寄付をすると必ず出てくるやっかみがある。「売名行為」ではないか「節税対策」ではないかという穿った見方である。何とも心の貧しい見方であろうか。



私は今回の柳井社長の行動は将来きっとユニクロに利益として返ってくるのではないかと思っている。もちろん柳井社長はそのことを期待して寄付をしている訳ではないと思う。今多くの心ある人が被災地の人達に自分に何が出来るかを考え行動している。きっとこの人達にも何時か自分も助けられることがあるのではなかろうか。



かつても災害時にとった企業経営者の善意ある行動が、結果企業に利益をもたらした例が幾らでもある。 




1878年(明治11年)、大阪府豊能郡(とよのぐん)(現箕面市)で三島海雲(みしまかいうん)という男が貧乏なお寺の子として誕生した。海雲(かいうん)とはいかにもお坊さんらしい名前である。



しかし海雲は冒険心に溢れチャレンジ精神旺盛であったためお坊さんにはならなかった。仏教大学在籍中に当時青年にとっての憧れの国であった広大な中国へ青雲の志を持って渡った。中国語を学ぶ一方、中国人に日本語を教えたりしていたが、やがて奈良の山林王といわれた土倉家(つちくらけ)の土倉五郎と親しくなり商売に乗り出すことになる。雑貨屋、化粧品など様々な商品を仕入れて行商を行うが、その間、海雲は内蒙古(中国内モンゴル地区)で貴族の天幕にしばらく泊めてもらう機会があり、そこで何とも不思議な体験をすることになる。



彼らの住まいである包(ぱお)というテントの入口に乳(牛や羊など)を蓄えた大ガメが置いてある。彼らは棒で静かに大ガメの中の乳をかき混ぜながら飲用している。海雲も毎日それを飲むことになったが、そのせいか精気が蘇ったようになるから不思議である。海雲はその効果に驚きその時のことをこう述べている「長くつらい旅のために、すっかり弱っていた胃腸の調子が、目を見張るばかりに整い、そのうえ、日ごろ苦しんでいた不眠症が全く治ったのである。身体、頭、すべてがすっきりして、体重も増え、それはあたかも不老長寿(ふろうちょうじゅ)の霊薬にでも遭遇した印象さえ受けた」



蒙古民族の逞しい生活力の源はこの飲物にあるに違いないと確信するが、実はこの体験が海雲の後の運命を決定づけることになった。



海雲は蒙古の王族や貴族に気に入られ、牧羊事業を行うが、1912年(大正元年)、辛亥革命(しんがいかくめい)によって清朝政府が倒れ、牧羊事業が出来なくなりやむなく中国から帰国することになった。



日本に帰ってきた海雲は、何で再起を期そうか考えたが、直ぐに蒙古民族の乳飲料の素晴らしさを思い出し、それを参考に新しい乳製品の開発に着手することにした。何年も試行錯誤を続け研究、改良を重ねた結果、ついに海雲は国民的飲料となる乳酸菌飲料を生みだすことに成功した。これが「カルピス」である。カルピスは蒙古民族の不思議な乳飲料をヒントにつくられたのだ。




1923年(大正12年)91日、関東地方を襲った大地震は、家屋全壊13万戸、死者10万人の被害を出し、ことに東京の下町一帯は火災により一面、焼け野原と化した。その時、海雲は渋谷・恵比寿のカルピス本社でこの大地震を経験したが、運のいいことにこの一帯はほとんど被害を被むらなかった。だが、東京の大半は見るも無残な状態。水道が止まって飲み水もままならない。至るところに避難民が溢れた。飲料水の不足を放っておくと、地震、火事の不幸に続いてもっと恐ろしい疫病が蔓延しかねない。



幸いカルピス本社の山手方面では水道の損傷が少なく水が出た。そこで海雲は自分で出来ることは何かを考え水を配ることにした。それもせっかく水を配るのであれば、氷とカルピスを入れて美味しく配って上げようと思いつく。金庫のあり金2000円を全部使い、トラック4台を調達し、翌日の92日に東京中に配って回った。この行動の早さには脱帽であるがたちまち大反響となった。



ところがこの海雲の行動を一部の新聞は広告といえども感心であるといった内容の記事を書いた。しかし海雲はこの時の行動をこう述べている「私はカルピスを配ったら広告になるなどという気持ちは微塵もなかった。困った人達を助けたいという、全く純真な、人間としての衝動からだけである。しかしそれが新聞の言うように広告として効果を上げたとしたら、行動に対する天の報酬であったと言うべきであろう。われわれの真心から出た、言わば本能的な行動が、結果として企業にプラスに働いたのである」この震災でカルピスは広く知られることになったが、震災20年経ってから某省の高官が海雲にこう言ったという「私はカルピスのことなら、喜んでどんなことでも協力いたしましょう。それは震災の時に、上野でもらった一杯のカルピスのうまさが忘れられないからです」



カルピスといえば「初恋の味」のキャッチフレーズがあまりにも有名であるが、キャッチフレーズだけで国民に愛飲されるようになったわけではないことがお分かりいただけるであろう。



文責 田宮 卓 




参考文献


青野豊作 「名言物語 人生の極意、経営の勘どころ」講談社

日本経済新聞社 「20世紀 日本の経済人Ⅱ」 日経ビジネス文庫

山本健治 「名創業者列伝」 経林書房

島野盛郎 「食を創造した男たち」ダイヤモンド社



































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2011-03-26 12:08:16

第171回_大谷米太郎(_裸一貫から巨万の富を築いた傑物(大災害から立ち上がった男達②)

テーマ:鉄鋼

「私の人生は、よく他人に七転び八起きの人生のように言われるが、外見には波乱に富んだ人生のように見えても、私自身としては階段を一段一段上がっていったもので、私は未だかつて転んだことはない」大谷米太郎(おおたによねたろう)




大谷米太郎(おおたによねたろう)(明治14年~昭和43年)は1881年(明治14年)、富山県の現小矢部(おやべ)市で生まれた。父は小作農で、暮らしは貧しく米太郎は小学校を休んで他家へ農作業の手伝いにいかなければならず、冬場は造酒場で働いた。このため小学校の退学を余議なくされた。


米太郎は学問を身につけることは出来なかったが、体は人一倍大きく草相撲では横綱格であった。父が死去してからは小作農を続けながら一人で母、弟一人、妹5人の大家族を支えた。米太郎は丈夫な体を活かし懸命に働くが暮らしはさっぱり楽にならない。そこで「東京に行って金をためよう」と決意し、わずか20銭の所持金を持ち東京に出てきた。米太郎31歳の時である。既に結婚もして子供も二人いた。もちろん東京で知り合いなど誰もいない。働くところを探したが保証人がいないため日雇いの荷揚人夫(にあげにんぷ)をするしかなかった。体力だけは人一倍ある米太郎は懸命に働き、その後、米屋や酒屋などで寝る間も惜しんで働いた。そしてついに自分で酒屋を開業するまでになり、さらに鉄製品をつくる元となるロール工場を開設するまでになった。裸一貫、貧農の郷里から出て来て自力でここまできたのだから快挙といえるであろう。


ところが米太郎に一瞬のうちに災難が降りかかる。1923年(大正12年)91日に起きた関東大震災である。家屋の全壊13万戸、死者10万人の被害を出し、こと東京下町一帯は火災により一面、焼け野原と化した。米太郎のロール工場も焼け落ち、酒屋も全焼した。女房、子供を探したがいない。ひどい惨状を目の当たりにしまず生きていないだろうと諦めたという。


しかしこの絶望ともいえる状況で普通ならばショックで力が抜け落ちるであろうが、米太郎は違った「まあ、仕方がない」と思うだけで直ぐに頭を切り替え、なんと翌日から工場と店の再建に取り掛かった。焼けた店をシェベルで炭をかき出し3日目にはバラックを建てた。それから3ヶ月、店跡に残ったコンクリートの土間の上にゴザを敷きそこで寝起きをして働き続けた。すると死んだと思っていた女房、子供たちもひょっこり戻ってきた。聞くと上野の山から川口の知人宅に逃げていたという。それから夫婦で力を合わせて寝る間も惜しみ死にもの狂いで働いた。焼け跡で飲食店をはじめ、一杯50銭の「均一どんぶり」を売った。続いて雑貨屋も開く。やがて工場に放置してあった「焼けたロール」がそのまま売れるという幸運にも恵まれ工場の再建にも見通しがたつ。酒屋も飲食店も焼ける前の3倍ぐらいの大きさになっていた。



そしてこのロール工場の再建の成功がその後大きく発展することになった。関西や中国大陸にも工場をもち、1940年(昭和15年)には資本金1億1300万円。資本金の額では当時全国で9番目の会社になった。鉄鋼業の雄となり名前も大谷重工業とした。その後も精神し続けて大谷重工グループへと発展していく。




戦後は頼まれて購入していた千代田区紀尾井町の土地に東京都から「オリンピックのためのホテルをつくってもらえないか」と申し入れがあり、米太郎は「なんとかオリンピックのために役立てば」という思いで、まったく未知のホテル事業に乗り出す。1964年(昭和39年)91日、東京五輪開幕の40日前に地上17階、地下3階のホテルを開業した。これが現在のホテルニューオータニである。米太郎は既に83歳になっていた。その後1965年(昭和40年)には㈱上野ターミナルを、そして1967年(昭和42年)には、㈱東京卸売センターを設立して社長に就任。他方、郷里富山県に富山県立大谷技術短期大学を創設して寄付もしている。米太郎は87歳で生涯を終えたが亡くなる間際まで社長業を行っていたのだから驚きである。




米太郎は関東大震災の時のことを「私の履歴書」でこう振り返っている「今から考えてみると、この大震災が「ロール工場(後の大谷重工業)」の第一期の発展をもたらしたといえよう。(中略)人間、苦労しなければいけないのはここである。私だって、みなと同じく焼け出されているのだ。その中にあって土間で寝、真っ黒になって働いたのは、苦労の中から生まれた頑張りと、ものに動じない根性がそこにあったからだ」






311日の東日本大震災で家や仕事、生活基盤の全てを失った人は多いであろう。しかし体が無事であったのならば希望を捨てないで欲しい。90年ほど前に同じように震災で生活基盤の全てを失った大谷米太郎は学問もなく読み書きもあまり出来なかったと聞く、持っていたのは丈夫な体とへこたれない根性だけであった。政府の援助も人の助けも借りずに、この窮状から独力で抜け出し一代で巨万の富を築いた。鉄鋼業の雄となり日本を代表するホテルも残したのだ。




文責 田宮 卓






参考文献

日本経済新聞社 「私の履歴書 昭和の経営者群像5

青野豊作 「名言物語 人生の極意、経営の勘どころ」講談社

日本経済新聞社 「20世紀 日本の経済人Ⅱ」 日経ビジネス文庫

中江克己 「明日を創った企業家の言葉」太陽企画出版

船井幸雄 監修「ビジネスマンが読んでおくべき一流のあの選択、この決断」三笠書房









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2011-03-20 11:44:30

第170回_ スルガ銀行_朝の来ない夜はない(大災害から立ち上がった男達①)

テーマ:銀行

今、敗戦以来の国難である。311日の東日本大震災は多くの人命を奪い、押し寄せた津波は一瞬のうちに東北の海岸沿いの街を幾つも呑み込んだ。文明の心臓部分ともいえる福島の原子炉も打撃を受け電力の供給も止まった。まさに千年に一度ともいえる大災害であった。しかし阪神淡路大震災、関東大震災、それ他の大災害の時もそうであったが、大災害に遭遇し暗黒の底から這い上がって来た人達は過去、沢山いた。


ツイッターでとても頼もしい呟きがあった。避難所のお爺さんが「これからどうなるんだろう」と漏らした時、横にいた高校生ぐらいの男の子が「大丈夫、大人になったら僕らが絶対元にもどします」と背中をさすって言ったという。私はこの呟きを見た時、今回の大災害も必ずや人材が出てくると確信した。夜明け前が一番暗い。そして朝の来ない夜などないのである。

 



1884年(明治17年)915日、駿河地方を未曾有の暴風雨が襲った。鷹根村(現沼津市)は甚大な損害をうけ水田はまるで海水を被ったようになりたちまち枯れてしまった。収穫は皆無、折からの全国的な経済不況もあって、ただでさえ貧しい農村は飢饉地獄に追い込まれた。見渡す限り田畑にネズミ一匹いない惨状であった。いつ餓死してもおかしくない状況に村人達は絶望した。


しかしこの窮乏とした村を復興しようと一早く立ち上がった男がいた。それも若干20歳の青年であった。この青年の名は岡野喜太郎(おかのきたろう、元治元年~昭和40年)といい、後に現スルガ銀行(本社静岡県沼津市)を創業する男である。スルガ銀行の生い立ちは異色である。設立目的が「天災と民禍の克服」「貧しく荒んだ郷土の救済」であり郷土復興が目的であった。



被災当時師範学校に在籍していた岡野であったが村の惨状を目の当たりにし、学校を辞めて復興の先頭に立ち上がることを決意する。



その時の決意を岡野は「私の履歴書」でこう語っている「私はもう安閑として机にかじりついている気がしなかった。自ら乞うて学校を退き家事を手伝って、わが家の危機をのりこえるとともに、村の窮乏を救うために努力したいと決意した」



それから岡野は皆の先頭に立ち農業に励む、そして災害のときにも困らないためには勤労、節約、貯蓄を習慣づけることが大事だと思いたち、村人たちに働きかけ一人月掛10銭の貯蓄組合組織を作ったが、これがスルガ銀行の母体となる。つまりスルガ銀行は村人たちの貯蓄であり「助け合い」の精神が土台に創業されたのだ。



1895年(明治28年)10月、正式に株式会社根方銀行(ねかたぎんこう)(スルガ銀行の前身)を開業、岡野は31歳で頭取に就任した。銀行というと「晴れの日に傘を差出し、雨が降る日に傘を貸さない」といわれるが岡野は違った。若い実業家が失敗しスルガ銀行に救済を求めてくると「事業家は、一度や二度は失敗しないと大きくならない。あなたはまだ失敗が足りないかもしれぬ。失敗すると、世の中の本当のことが分かる。それで初めて立派な成功ができる。失敗は恥ずかしいことではない。失敗に意気が挫(くじ)けることが恥ずかしいことだ」と言って事業家の肩を叩き親身になって再起方法を考え資金的支援をした。窮乏の状態から這い上がってきた自身の体験がそうさせたのであろう。


そして岡野のこのどんな逆境でも挫けない精神は1923年(大正12年)91日に起きたあの関東大震災の際にも活きた。この震災でスルガ銀行は6店焼失、倒壊3店という大被害を受けた。それだけではない、岡野は妻と三女もこの震災で亡くした。公私両面で壊滅的な打撃で大きなショックを受けた。しかし岡野は毅然として頭取としての使命感からすぐに立ち上がり陣頭指揮をとる。震災直後、東京では全部の銀行が休業、政府は金融の混乱を避けるため被災地にモラトリアム(支払猶予令)を布いた。ところが「非常災害時にこそ、人々は最もお金が必要」と岡野は決断し、希望通り預金者の預金引き出しに全て応じた。するとスルガ銀行の信用が高まる結果となり、逆にこの災害時に現金を持っているのはかえって物騒だというので預けるものも出てきた。それだけではない、同時に打撃を受けた企業に対して復興融資を行い次々と救済していったのだ。東京の銀行が政府に保護されながら機能が停止していたのに、民の力だけで見事に銀行家の使命を果たしたのであるから驚きである。





岡野は93歳で長男に頭取の座を譲り渡して会長に退くまで銀行頭取在位62年間の大レコード記録をつくる。そして1965年(昭和40年)老衰のため101歳で静かに息を引き取った。 


つまり岡野は明治、大正、昭和に渡り駿河地方一帯の経済を支えたことになる。その間、関東大震災、戦争と何度も危機があったが見事に乗り越えた。



もし岡野が暴風雨による飢饉に遭遇していなければもしかしたらスルガ銀行は存在していなかったかもしれない。



そして最後に岡野の現代の私達に対する遺言ともいえる言葉を紹介しよう。この震災でお亡くなりになられた方はどうすることも出来ないが、今生きている人達は皆肝に銘じるべきだと思う。


「嵐は人々に災害をもたらすばかりとは限りません。時としては、その凄まじい猛威が逆に人々を目覚めさせ、暗い貧困の歴史から脱却する決意を促すこともある」





PS 敗戦以来の国難であるが敗戦の時と違うことが二つある。

それは「負けていない」「今回は世界が味方している」ことである。


世界からの感動のメッセージ→ http://www.youtube.com/watch?v=IxUsgXCaVtc




文責 田宮 卓(ペンネーム:七洋卓越(ななようたくえつ)) 






参考文献


村橋勝子 「カイシャ意外史」 日本経済新聞社

日本経済新聞社 「私の履歴書 経済人2」日本経済新聞社

谷沢永一 「危機を好機にかえた名経営者の言葉」 PHP

日本経済新聞社 「経済人の名言・上」 堺屋太一 監修





















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