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2010-09-29 07:29:44

第114回_安藤百福_苦境からの脱出

テーマ:食品

伊藤忠の経営危機の時に2代目伊藤忠兵衛のもとに井上準之助(当時、日銀総裁)から一通の手紙が届いた。手紙には次のように記されていた。「名を成すは常に窮苦の日にあり、事の敗るるは多くは得意の時による」進退きわまる窮苦の今こそ、名を成す時である。死力を尽くして戦え━という激励の書であった。忠兵衛は目頭が熱くなりここが生涯の勝負どころと奮い立ち会社再建に命をかけ見事に難局を切り抜けた。その後会社は発展していった。

経営史を紐解いた時に危機の時にうった施策が功をそうして発展した例は数限りないが、日清食品の安藤百福(あんどうももふく)ほど苦境から脱出して短期間であれだけの成功をおさめた人はいないであろう。苦境になったからこそ初めて発揮される滞在能力というものがあるようだ。



安藤百福が世界初のインスタントラーメン「チキンラーメン」の開発に成功したのは昭和33年(1958年)であった。安藤が48歳の時であるが開発にとりかかった時は無一文に近い状態であった。不慣れな信用組合の理事長を引受けたところ倒産してしまったからである。整理を終え心身ともに疲れはて大阪府の池田の愚居に引き籠ったが、しばらくするとさばさばした気分になり、「失ったのは財産だけではないか。その分だけ、経験が血や肉となって身についている」そう開きなおると勇気が湧いてきたという。


それまで安藤は22歳の時にメリヤス(靴下)の販売を皮切りに機械、製塩、炭焼きと幅広く事業を展開してきたが、ラーメンの製造の経験は皆無であった。即席ラーメンの発想は戦中、戦後に飢えを凌ぐために人々が食糧を求めて争う姿を目当りにしたことと、戦後大阪梅田駅の裏手でラーメンの屋台に長い行列が出来ているのを見たことに起因する。人は一杯のラーメンのためにこれだけ努力するのかと感動を覚えたという。池田の愚居のどん底で食が全ての原点であるという思いが深まっていく。食のありさまが乱れていたら国は衰退する。食品会社はきわめて社会貢献度の高い仕事である、食が文化、芸術、社会のすべての原点であるという考えに至り、今までぼやっと考えていた「いつでもどこでも食べられるメン」を大量生産して、家庭の味にしてみようと一度企画して捨てられたテーマが再び浮上して、やがて頭脳の全部を占領してしまう。

腹が決まると自宅の裏庭に小屋のような作業場をつくり、開発の目標を「美味しい、保存性、便利、安価、安全」と5つに定め、ラーメンの開発に集中する。もちろん社員などいない。手伝ってくれるのは妻と子供だけである。朝の5時夜が明けると研究室にこもり夜中の1時、2時まで研究は続く。一日の休みもなく研究を続けついに安藤は「チキンラーメン」を完成させた。チキンラーメンは爆発的に売れ、即席メンの生産は、昭和33年に13百万食、34年には7千万食、35年に15千万食、36年に55千万食、そして37年には10億食、38年には20億食と倍増していく。「チキンラーメン」を開発してわずか5年で東京と大阪の両取引所に上場を果たす。現在世界で最も流通している食品が安藤が開発した即席メンであるが、無一文からの出発で、短期間でここまでの成功をおさめた人はいないであろう。

安藤は「事業と財産を失い裸一貫、絶対の窮地からの出発であったからこそ、並ではない滞在能力が発揮出来たのではなかろうか。逆説的に言えば、私に事業失敗がなければこれほどの充実した瞬間は持てなかっただろうし、即席メンを生み出すエネルギーも生まれなかっただろう」と述懐する。
 

文責 田宮 卓



参考文献

安藤百福 「食欲礼賛」 PHP

安藤百福 「苦境からの脱出」 フーディアム・コミュニケーション

船井幸雄 監修「ビジネスマンが読んでおくべき一流のあの選択、この決断」三笠書房












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2010-09-26 20:45:01

第113回_ルーズヴェルト_人の心を開かせる達人

テーマ:外国人

朝まで生テレビでお馴染みのジャーナリストの田原聡一朗は数々の政治家、経営者にインタビューした経験から相手は自分の知っていること以上のことはしゃべらないといいます。インタビューで相手から何かを引き出そうとしたら相当調べないとだめで、「あいつ、あまり知らない」と思われたら相手にしてくれない。「あっ、なかなか知っているぞ」と思えばそこからどんどん深まっていく。

このことはインタビューに限らず、初対面の相手に心を開かせるのにもとても有効な方法ではなかろうか。初対面の人に会った時に出身地や出た学校など自分と共通項を見つけ出して相手との距離を縮める行為は誰でも無意識のうちにしていることであろう。この相手のことを事前に知るという準備を意識して普段から行っていたらどうであろうか、縁故の拡がるスピードは何倍も速くなるのではなかろうか。また遥かに目上の人が自分のことを知っていてくれたとしたら嬉しくない人はいないであろう。相手を知る準備をすることは自分のファンや協力者を作るスピードも上げていくことになるであろう。



アメリカの第26代大統領、セオドア・ルーズヴェルトを訪ねたものは、誰もが彼の博学ぶりに驚かされたといいます。何故ならルーズヴェルトは、相手がカウボーイであろうと義勇兵隊員であろうと、あるいは政治家、外交官、その他だれであろうと、その人に適した話題を豊富に持ち合わせていたからです。そのような芸当が出来た理由は簡単で、誰か訪ねてくる人が分かれば、その人の特に好きそうな問題について、前の晩に遅くまでかかっても研究していたといいます。他の指導者と同様、ルーズヴェルトも人の心を捉える近道は相手の最も関心のあることを話題にすることだと知っていたのである。



山之内製薬(現アステラス製薬)の創業者、山内(やまのうち)社長は、管理職だけでなく平社員の名前までも覚えていたといいます。機会あるごとに「君の誕生日は何月であったな」「君の子供は元気か」と声をかけたという、新入社員に対してもエレベータに乗ってくると「○○君、今日から出社かね」と声をかける。無論、声をかけられた社員は感激し期待にこたえようと大いに頑張る気になった。それだけでは終わらない、内社長は直筆の手紙で部下、社員に対して常に祝いの手紙、慰労の手紙を具体的なことを言及して送り続けたといいます。

 

田中角栄元首相は小学校卒の学歴であったが、39歳で郵政大臣(現総務大臣)、44歳という若さで大蔵大臣(現財務大臣)に就任したが東大卒のエリート官僚を見事に使いこなしたと言われます。何故か、一つには全省庁の課長補佐以上の役人について本人はもとより夫人、子供、親類縁者にまで及ぶ履歴をはじめ、仲のいい役人はだれか、近い政治家は誰か、誕生日、結婚記念日といったところまで事前調査をして頭の中に入れていたといわれます。「君、ところで来月は結婚十年だろ。よし、今度奥さんも連れてこい」こんな具合に声をかけていく。何故そんなことまで知っているのか不思議に思いながらも大臣に名前や結婚記念日まで覚えてもらっていて嬉しくない訳はない。役人は皆、田中角栄を慕っていった。

自民党の元竹下派の二階俊博衆議員議員のこんな話もある。「五八会」という自民党同期代議士の会があり昭和58年(1982年)の総選挙で当選した34人が先輩に名前と顔を知ってもらう目的の会を毎回、各派閥の領袖、幹部の方を招いて懇談をする。全員が名前の入ったバッジを胸につけているが、幹部は皆34人に「おめでとう」といい握手をするのが関の山だが、田中角栄だけは一味違っていたという。一人一人を回って34人全員と言葉を交わす。自分の派閥の人にはあんたは知っているなとサッと通り過ぎるが、その他の人にはバッチを見ながら、「あんたは○○さんの息子だな」「君の選挙区は大変だったな。よく頑張った」「○○君と同じ選挙区の出馬か」と事前の下調べが行き届いている。34人のほとんどが田中の吸引力のトリコになってしまったという。




文責 田宮 卓



参考文献

田原聡一朗 「僕はこうやってきた」 中経出版

田原聡一朗 「田原聡一郎の聞き出す力」 カナリア書房

D・カーネギー 「人を動かす」 創元社

山之内製薬㈱ 「万象皆師」 創業者山内健二言行録

小林吉弥 「人間田中角栄」 光文社文庫

小林吉弥 「田中角栄の3分間スピーチ」 光文社











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2010-09-25 21:36:23

第112回_川田小一郎_法皇として君臨できる理由

テーマ:銀行

昔は○○法皇、○○天皇などと呼ばれて業界に対して絶対的な力を持っていた人物が数多くいた。しかしただワンマンであった訳ではなく人一倍部下に対する面倒みがよく部下思いであるという面も持ち合わせていた。帝人に20数年社長として君臨した大屋晋三は大屋天皇といわれる程ワンマンであったが、人一倍部下に対する面倒見が良かったと聞く。日本銀行の第3代総裁の川田小一郎(かわだこいちろう)も法皇といわれる程のワンマンであったが人一倍部下思いであったようだ。



明治22年(1889年)後に第20第内閣総理大臣となる高橋是清(たかはしこれきよ)は、南米ペルーでの銀山開発で騙され負債を整理するため自宅の家屋敷をも売払い直ぐ裏の家賃6円の長屋に引っ越しをした。女房と二人の息子をかかえ生活はどん底まで落ちていた。


そんな時に日本銀行の法皇といわれた第3代総裁の川田小一郎(かわだこいちろう)が高橋の高潔な人物を認め長屋で浪人させておくのはもったいないと、ちょうど空席だった山陽鉄道の社長のポストを差し出す。当時の山陽鉄道の社長は今のJR西日本よりもはるかに大きい会社の社長といってもいいであろう。しかし高橋はこの話を断る。「ペルーの銀山で失敗し、ヤマ師とまで言われかねない経歴を持った人間を社長にして下さるお気持ちは大変うれしい。しかし、もし私が社長として失敗したら、天下の日銀総裁がその不明を恥じることにもなります。私は鉄道の社長など自信がありませんし、自信がないことは良心が許しません。私は自惚れを捨てたところから出発したいと思っています。どうか、丁稚小僧からやれる仕事を探していただきたい」川田はますます高橋が気に入り、「ではワシのところで玄関番をやってみるか」とたたみかけると高橋は「喜んでやらせていただきます」と答えた。そこで「日本銀行建築所主任」という端役ポストが用意された。しかし一つだけ問題があった。その建築事務所の所長は辰野金吾と言い、以前高橋が英語学校で英語を教えていた時の教え子である。川田は「教え子の下では、ちと、まずいかな」と問うたが、高橋は「そんなことはありません。喜んで辰野さんの下で働きます」と答えた。どこまでも無欲でポストや地位に頓着しない高橋は立派であるが、その後の川田の行動にも驚かされる。日銀で高橋に職を与えたのはいいが、大蔵省(現財務省)の田尻稲次郎が、「高橋のような山師を、信用を重んじる日銀に入れたのはけしからん」と陰口をたたいたのだ。


その陰口を知った川田はおおいに怒り、夜中の1時頃だというのに、二頭立ての馬車を仕立てさせて、田尻の家に乗りこんだのである。田尻は慌てて床から起き出して、川田を書斎に迎え、来意の目的を尋ねた。川田は口を開き「拙者は見るところがあって高橋を採用したのだ。監督官たる貴公が、これに異議があるとのことだが、それでは拙者は日銀総裁たる職責を全うすることができぬから、ただいまかぎり辞職する。」とぶちまけた。田尻はびっくり仰天、言下に失言を取り消して陳謝したが、川田はきかない。とうとう詫び証を一礼入れてようやく一件落着となった。


その後高橋は川田の期待に応え、日銀の総裁まで登り詰め、大蔵大臣(現財務大臣)7回と内閣総理大臣を務め日本の特筆すべき財政家として名前を歴史に残すこととなる。




文責 田宮 卓





参考文献

小林吉弥 「高橋是清と田中角栄 経済危機編」 光文社

小林吉弥 「高橋是清と田中角栄 不況脱出編」 光文社

小島直記 「スキな人キライな奴」 新潮文庫









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