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2010-08-27 18:59:47

第102回_市村清_経営者の器量

テーマ:市村清

会社は経営者の器で決まる。経営者の器以上にはならないとよく言われるが、では経営者の器、器量とは何であろうか。経営コンサルという仕事柄、何千人の経営者と膝を突き合わせて本音で語りあってきた船井総研の創業者、船井幸雄は経営の成果はトップ一人で99%以上が決まるように思えるが、ここでいうトップとはトップの人間性、どれだけ世の中に受入れられるか、認められ、慕われるかということでもあるといいます。

確かに過去の例を見てみると人間性を第一に社長にすえて成功した例が結構あることが分かる。経営者を目指す、あるいは現に会社の経営をしていてさらに会社を大きくしていこうと思えば自身の人間性を磨いていくことが一番近道かもしれない。



リコーの創業者、市村清は専務であった実弟の市村茂人を後継者にはせず、アカの他人の館林三喜男を選んだ。館林は市村とは佐賀中学の同窓というだけの縁で血縁関係は全くなかった。館林は、東京大学を出て、戦前の内務省に入り、戦後は佐賀県の副知事を得て代議士となった。6回選挙をやり、3回当選し、3回落選している。その時も落選中で、金を出しやすいようにと三愛石油の副社長にしていた。信濃町の慶応病院に入院中でガンで余命いくばくもないことを知っていた市村は、この落第政治家の館林を後継者に指名したのだ。館林は数字の分からない、経営はズブの素人であった。


市村の側近が「あの館林さんで経営が出来るんですか。だって彼は経営には全くの素人ですよ。」と言うとベットから立上がった市村は「心配ない。彼は人間が確かだから」。人間が確かだから館林で十分、経営が出来ると市村は言い放ったという。誰もが後継者と思っていた実弟の茂人は三愛不動産の社長に出した。市村亡き後、リコーの社長に館林がなったが業績をみるみる伸ばしていったのだから、市村の眼に狂いはなかった。



昭和28年、松下幸之助は日本ビクターの経営を引受けることになった。日本ビクターは優れた技術を持ちながらも戦後の再建には遅れをとっていた。松下は再建にはかねてから清廉さと人物のスケールに強く敬意を抱いていた野村吉三郎に社長になることをお願いした。野村は海軍大将を務め、その後外務大臣、そして昭和15年には駐米大使を務めている。松下は野村の徳望の高い人格者に社長として中心に座ってもらい、精神的支柱となってもらえれば、再建は必ず成功すると考えたのだ。


ある重役会の席で、野村は「さっきから君たちはひばり、ひばりと、何の話をしているのだ」と聞いたという。なんと当時既に多くのファンを持っていた美空ひばりを知らなかったのだ。その話が外部に伝わり、批判もされた。しかし実際には、日本ビクターは急速に立直り、立派な業績を上げるようになった。それのみならず、野村の薫陶を受け、優れた人材が多く育っていったのである。



文責 田宮 卓















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2010-08-26 18:55:06

第101回_市村清_諦めない人が道を開く

テーマ:市村清

「成功の要諦は成功するまで続けることにある」成功したければ成功するまで続けるコッチャ。これはパナソニック(旧松下電器)の創業者、故・松下幸之助が生前成功の秘訣を聞かれた時に良く言っていた言葉であるが、あとちょっと頑張れば成功していたのに、もう少し辛抱していたら道が開けていたかもしれないのに、直前で諦めて努力を辞めてしまうことが多いのではなかろうか。成功するまでの最後の1%を諦めるか諦めずに頑張るかの紙一重で人生大きく変わるようだ。




19701月号の「小学1年生」などで連載が開始された。最後の最後まで投げ出さずに、考え続け、辛抱して生まれたアイデアが故・藤子・F・不二雄の代表作、「ドラえもん」である。閃いたのがなんと締切りの朝だったという。ギリギリの時間で無我夢中でペンを走らせたアイデアが後に世界中に広まるとは夢にも思わなかったことだろう。


 

9月半ば、ようやく無罪釈放となって上海を引き上げて来たが無一文からの出発であった。おいそれと職はない。仕方がないから富国生命の外交員をやる肚を固める。「乞食と保険屋は入るべからず」という貼り紙の流行していた熊本で、経験もコネもない男が、保険の外交員が務まるはずがなかった。給料は一銭もなく、出来高払いの具合性であった。市内の学校の先生、医者、弁護士・・・とインテリ層ばかり狙って歩きまくるがみな断られた。12月になり師走も押し迫った23日、家には一銭もなくついに「おい夜逃げをしよう」と妻にうなだれた。すると妻はけなげに「どうせ夜逃げをする気なら、恥も外聞もないでしょう? 大晦日までがんばったらどうかしら」と夫を激励した。



妻の言葉に奮起して逆に度胸が据わり、7度訪ねて断られた高等女学校の校長先生のことが頭に浮かび、「もう一度断られに行くか!」と玄関のベルを押すと「あら、外交員さん、旦那様がお待ちですよ」と愛相よく女中さんが言い直ぐに校長は会ってくれた。「あなたの根気に驚いた」となんと契約をしてくれた。そればかりか知人の五校教授にも紹介状を書いてくれたのだ。これを機に夜逃げどころか大晦日まで面白いように契約が決まっていった。最初のお客さんになってくれたこの校長は「僕は保険は嫌いだけど、でもあなたから頂いた7枚のハガキを見て、この人は何か理由があって外交員となってやっていると思った」と言って契約してくれたのだった。この男は断られても皆にハガキを送り続けていたのである。 



この男が後にリコーの創業者となる市村清である。翌年は全国一の表彰を受け、その後理研感光紙(リコー)を扱い、三愛商事、三愛石油、日本リースを設立して行き道が開けていった。

市村は「わしがもし富国生命の外交員を諦めて夜逃げをしていたら、理研とのコネもつかなかっただろうし、あの理研の大河内正敏所長に目をかけられることもなかった。もちろんあの三愛だって誕生していない。」と述懐する。 



最後の最後で諦めるかやり通すかで大きく運命が開けるかどうかの鍵になるようだ。




文責 田宮 卓











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2010-08-15 00:00:00

第100回_小林一三_一芸に秀でよ

テーマ:鉄道

「下足番を命じられたら、日本一の下足番になってみろ。そうしたら、誰も君を下足番にしておかぬ」これは阪急グループの創業者、小林一三の言葉である。私はこの言葉を生きるうえでも仕事をするうえでも指針としており最も好きなフレーズである。




明治、大正、昭和の創業者、経営者、政治家に学ぶをテーマにコラムを書き今回が第100回になる。日本、世界のあらゆる創業者、経営者、政治家、歴史上の人物の生涯や生き方、仕事の取り組み方を調べてきたが、仕事をするうえで大切なことは何かと問われれば小林一三のこの言葉にいきあたります。




元東京電力、経団連の会長の平岩外四は「その道の第一人者になれと」言いました。日産自動車の元社長の石原俊は「技術屋なら製造技術とか設計技術とか、事務屋なら人事でも経理でも。その職種なら社内はもちろん、業界全体でも「これならあの人」と評価されるくらい一つの職種を極めるべきだ。」と言いました。世阿弥は「一芸は万芸に通づる」と説いた。表現は違えども言っていることは同じである。




100回を書き上げたことを機に今一度原点に立返り自分にしか出来ないものを磨き上げていきたいと思う。




文責 田宮 卓



小林一三の名言→  http://bit.ly/nLLc3k











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