2010-03-28 22:18:36

第84回_武見太郎_名人への道は一つではない

テーマ:医師

昔、銀座4丁目の教文館ビルの一室の入り口に変わった張り紙がしてある診療所があった。次のような人は順番にかかわりなく、直ぐに診察しますという張り紙である。


一、特に苦しい人

一、現職の国務大臣

一、80歳以上の高齢の人

一、戦時職務にある軍人


戦時中に掲載されたものであるが戦後大分たってからも張ってあったようだ。近衛文麿元首相がこの診療所の患者の一人で首相の地位にある時は番外に診てもらっていたが、首相でなくなってからは、お行儀よく順番を守っていたという。この診療所は昭和13年、岩波文庫の創業者、岩波茂雄の世話で開かれたもので、岩波の紹介で幸田露伴、西田幾太郎、鈴木大拙等、国宝級的な人物が何かあるとこの診療所に足を運んだ。また幣原喜重郎元首相はじめ多くの大物政治家も足を運ぶようになり、この診療所の主である医師をかかりつけ医にすることが大物政治家である身分証明書の代わりになるとまで言われた。


この診療所の主は後に日本医師会会長に長年にわたり君臨する武見太郎である。武見はワンマンであり、日本全国の8万人の医師をひきいて、厚生省や、健保団体を相手に戦ったので武見天皇、ケンカ太郎の異名を取った。日本医師会の歴史で彼ほど存在感のあった会長はいないであろう。


住友銀行の堀田庄三頭取の秘書役であった樋口廣太郎(後に住友銀行副頭取、アサヒビール会長)は日本でも高名な2名の名医から医療に対する考え方を知ることができたという。一人が、日本医師会会長を長く務めた武見太郎先生、もう一人が東京大学の医学部の教授として、日本の神経内科学に大きな功績を残され、退官後は虎の門病院の院長を務められた沖中重雄先生である。2人とも名医に違いないが診察のやり方が180度違ったという。


武見先生は自らが堀田頭取の血を採たり、血圧を測るという作業をおこなう。いくらでも若い優秀な医師を雇い、彼らにやらせればいいものを、「ぼくがすれば痛くないよ」と声をかけながら診察を進める。軽いスキンシップをしながら、いつもニコニコしており「大丈夫、大丈夫」と声をかける。患者の質問には丁寧に答えるので常に患者はリラックスしていられる。医療保険制度をめぐって厚生省と大論争をしたことから「ケンカ太郎」と異名を取ったが、実際のイメージは全く違う優しい人であったという。


もう一人の堀田頭取の主治医の沖中先生は全く違うタイプで、自分で聴診器を当てたり、脈をとることをされなかったという。いろんな専門医に検査を頼み、集まったデータをじっと見てまた戻ってくる。専門医の判断を聞きに行かれているようだ。その場で簡単に決断を下すことはなく3日後とか1週間後にまた来て下さいという。非常に慎重であった。


沖中先生は「医師の専門分野は狭いしそれぞれの専門分野がある。たとえ若い医者でもしっかり勉強していれば、自分より良い診断が出来るはず。自分の専門以外は、この病院で最も適任だと思う先生に診てもらう」ただ「各専門家のデータを総合的に判断する点では、経験が長いぶんだけ私に1日の長があるかもしれない。だから総合的な判断は私が下している」という。


2人とも日本の名医であったことは事実であるが、診察の手法が全く違うところが面白い。他のどんな職業も同じで名人になるための手法は一つではないかもしれない。幾つかの道があるはずで、自分に向いていると思う手法で自分を磨いていけばよいのではなかろうか。 



文責 田宮 卓  











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2010-03-07 22:14:56

第81回_塚本幸一_戦争体験者から学ぶ必死に生きる逞しさ

テーマ:アパレル

城山三郎の小説予科練「一歩の距離」に「特攻を志願する者は一歩前へ」と言われて前へ出るのをためらう主人公の姿がある。一歩出るか出ないかは、「わずかな一歩」に過ぎない。しかし生と死を距てる、目もくらむほどの底深い谷を意味するのだ。

 

このシーンが象徴するように、戦中は特攻隊員でなくともどの道を一歩踏み出すのにも生と死の別れが常に存在していた。そして戦後は皆な生きるために必死であった。今自殺者が年々増えていることが問題となっている。失業率が上がると自殺者も増えるという報道があるが、必死に生きる逞しさが失われてしまったことに起因するのではなかろうか。


戦中、戦後と死を選んだ人もいるが今の自殺者とは当然理由が違う。必死に生き抜くことをした人達と併せて幾つか実際の体験談を紹介したい。

 

ドイツ文学者亀尾英四郎教授は闇米を食べずに餓死をした。教育者たるもの裏表があってはならい。法を守るべきか犯すべきか葛藤の上、国の命令を守り闇に手を出さずに死んだのだ。なんとも衝撃的な事件であった。


聖路加国際病院理事長の日野原重明は戦後すぐの頃、米国大使のところに往診にいったところ大使の奥さんが出してくれたコーヒーに添えて角砂糖が3個あった。奥さんがキッチンに立った隙にボケットにそっと角砂糖を忍ばせ、何食わぬ顔でコーヒーをいただいたという。我が家には甘いものを欲しがる小さい子供が5人もいたが砂糖がなかなか手に入らない時代であった。苦しかったけれど、わずかな物を分け合いながら人は一日一日を突破していたという。


塚本幸一はインパール戦で、小隊55名中生き残った3名の中の1人であった。バンコック港を出港し、一日一日と日本が近づく船中で大きく悩んだという。今自分は複員船に乗っており、再び帰ることがないと決意した日本に帰る帰途にある。特に最もお世話になった伊藤中隊長はエリパンの戦いで戦死され、その後は自らも死んでやろうと無茶苦茶と言われるような、命知らずといわれる行動をとったにも拘わらず遂に死ねなかった。何故神は私を生かしたのであろうか。3日程悩んでのこと神のお告げのようなものを感じた。それは生きているように見えて実は生かされているということだ。しかもそれは私のために与えられた生命ではなく、祖国の再建復興の一翼を担うという使命をもたらされて生かされたのだ。私は生命ある限りこの使命達成のために働き続けようという決意が湧いてきた。急に周辺が明るくなり「よしやってやろう」と勇気が湧いてきたという。塚本は日本に帰ると寝食を忘れ汗まみれになりながらアクセサリーの卸商を営む。そして現代のワコールを創業する。

 

今、不景気であり生活が苦しい人がいっぱいいますが、60数年前の戦中、戦後に比べれば恵まれているはずです。生き残る道は幾らでもあるはず。悩んでいるだけ贅沢かもしれません。戦後を復興してくれた人達のお陰で今があることを感謝し、その人達の苦労を思えば小さな悩みでしかないはずです。




文責 田宮 卓  






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