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2009-11-29 09:21:48

第68回_三津原博_正しい理念が産業の発展に貢献する

テーマ:流通

東京生まれの東京育ちの三津原(ミツハラ)博が北海道札幌市で医薬分業を旗印に保険調剤薬局チェーン、日本調剤を設立したのは1980年(昭和55年)、31歳の時であった。


起業のきっかけは当時社会問題になっていた薬害訴訟である。薬科大学を卒業後、三津原は大手薬品メーカーのMRとして活躍していたが、医師から処方された薬を飲み、副作用に倒れる患者の姿を見て、大きなショックを隠せなかったという。インフォームド・コンセント(説明と同意)―この概念が日本に浸透してきたのは最近で、本来もっとも守られなくてはならない患者へは情報は少ないまま、医師の治療が行われていた時代があまりにも長かったのである。


薬害被害者たちが処方の内容を問いただそうとしても、病院側は調剤部門を内部に抱え、処方箋を一切公開しようとしなかった。一方、薬品メーカーも沈黙を押しとおす。「自分が飲ませておいてあまりにも無責任ではないか」と怒りが込み上がる「薬剤師が医師の処方をチェックできていたら」だが、当時薬剤師は本来の役割をまったく発揮出来ていなかった。三津原は自らも薬剤師の資格を持つだけに、医師中心の日本の医療制度そのものに憤がりを覚える。


「薬の専門家であるはずの薬剤師が、医師の処方をチェックできないのはおかしい。薬害問題の根底には、そうした一方的な医療にあるはずだ。」このような思いが徐々に三津原の起業への決意へとつながっていく。


医療とは本来、患者を中心に医師と薬剤師が両側から支え合うべきで、どちらが偉いとか、地位が上だとかいう問題ではない。薬剤師は決して医師の家来や僕であってはならない。そのためには薬剤師の地位をもっと引き上げなくてはならない。医師と薬剤師の医薬分業。三津原はこれを実現出来る可能性があるのは、ただ一つ調剤薬局を株式会社にするという選択で上場して資金調達をすることも想定した。しかし医薬分業は既成勢力との戦いでもある。


医薬分業は欧米では古くから社会に定着している制度でその起源は13世紀のイタリアまでさかのぼり、時の権力者が毒殺を恐れ、処方を書く人と投薬する人を分けることで命を守ったことに由来するという。いうなれば医師と薬剤師が、それぞれの専門家が明確な役割分担と強固なチームワークをもって患者に対処しようというものである。しかし日本では医薬分業は医師の既得権益を侵すものであり、医師団の反対でなかなか浸透してこなかった。これに真っ向から戦いを挑んだのが三津原である。患者本位の医薬分業の理念を旗印に設立した日本調剤は社会で支持をえて東証1部上場を果たし保険調剤薬局チェーンの最大手となり医薬分業に少なからぬ貢献をし、今も邁進している。


故・パナソニックの創業者松下幸之助は、企業理念は必要だが、それが正しくないといけないといいます。社会道徳に反しないか、業界のためになるか、消費者のためになるかを考えてその道に沿って数字をあげるべきで、業界がどうなろうが、社会がどうなろうがただ数字だけあげるのであれば何もやらない方がいいといいます。


三津原の患者本位の医薬分業の理念は、日本調剤の発展をみればまさに正しい理念であることを証明しているであろう。


メディカル産業は規制産業であり一部の人間の既得権益を守り患者は不利益を受けがちである。三津原のように正しい理念を持って既得権益を打破していく人材がメディカル産業にどんどん出てくることを期待したい。



文責 田宮 卓











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2009-11-27 09:19:31

第67回_北里柴三郎_石碑から学ぶ美しい人間関係

テーマ:研究者

日比谷通りの御成門交差点にある東京パナソニックビル1号館に接する形で「傳染(デンソ)病研究所発祥の地」という石碑が立っているのを知っているであろうか。この研究所は細菌学者、北里柴三郎によるペスト菌の発見、破傷風菌の純粋培養、ジフテリアの血清開発や、野口英世の輩出など伝染病撲滅に多大な貢献し世界的にも多くの学術的功績を残した研究所である。

東京パナソニックビルの脇に何故このような石碑があるのか不思議に思い調べてみた。この石碑には明治の近代化に貢献した人達の無償の支援と恩義に満ちたストーリーが詰まっていることが分かった。

明治になっても 公衆衛生水準は上がらず, 国外からは コレラなどの伝染病がたびたび持ち込まれ国内に大流行を引き起こしていた。ドイツ留学から帰国した 北里柴三郎はこの事態を憂い伝染病の研究所をつくりたいと思ったが、歯に衣を着せぬ物言いで東京帝大から冷遇されていたため研究所の設立は頓挫してしまう。


北里が内務省の当時の衛生局長の後藤新平等にはたらきかけることにより伝染病研究所をつくる案がまとまったが、これに文部省がまったをかけた。文部省は東京帝大にこそ伝染病研究所を新設すべきだと主張し、そこに北里の名前はない。あくまでも北里憎しとする東京帝大の動きが、内務省と文部省の対立を背景に、猛然と起こってきたのである。そして北里は研究の場をなくしてしまった。



そんな時、福沢諭吉を紹介された北里は福沢の自邸で自分の思いをぶつけてみた「伝染病をいかに予防し、撲滅するか。そこにこの国の将来がかかっているといっても過言ではありません。伝染病との戦いはこれからだと思います」と力説する。その卓見に福沢は感心しつつ「学問は国の礎だ。それには自由でなければならない。」と持論を展開する。それに北里は「学問の自由が阻害されては学問の進歩と発展は望めません」と応じた。39歳の北里の若々しい情熱に感じ入った福沢は「ついては出来るだけのことはしよう。学者を助けるのが私の道楽だ。」と言い、そして、御成門近くの土地千坪の借地を提供しようと申し出たのである。そこに研究所を立てればいい。建物や器材はどうするか。福沢は親しかった実業家、森村市左衛門にお願いする。


森村はこれに心地よく応じた。突貫工事で建設が進められ、研究所が開設された。森村は現ノリタケの創業者でありその後も研究所の支援を惜しまなかった。


北里は帰国して僅か半年で日本初の伝染病研究所を、福沢と森村の援助で設立されスタートした。そしてこの年から9年にわたる福沢と北里の師弟の厚誼が始まった。福沢57歳、北里40歳のときである。つまり福沢が亡くなるまで厚誼が続いたことになるが、福沢亡き後も、北里は慶応義塾に医学部が設立されると初代医学部長に就任するが福沢への恩義からずっと無給のボランティアで勤めたという。


北里を支援した福沢も森村も無欲であれば、その恩義を生涯忘れずにお返しをしようとする北里も立派である。この伝染病研究所は幾度かの変遷を経て現在に至っており石碑は創立100周年を記念して平成4年につくられたものである。


見返りを期待して支援をすることや、受けた恩を一時だけで忘れてしまうのが昨今あたりまえになっている気がするが、そうではない美しい人間関係があることをこの石碑は教えてくれる。 

                 文責 田宮 卓

参考文献

土屋雅春 「医者のみた福沢諭吉」 中公新書

佐高 信 「福沢諭吉伝説」 角川学芸出版

宇田川 勝 「日本の企業家史」 文眞堂

郷 仙太郎 「小説 後藤新平」 人物文庫 学陽書房


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2009-11-21 09:16:40

第66回_松谷義範_歴史、古典、哲学に通暁したリーダー

テーマ:卸売

松谷義範が東邦薬品(現東邦ホールディングス)を創業したのは1948年(昭和23年)若干37歳の時であった。資本金30万円、従業員7名、資金もない、経験もない、何も知らない。ただ松谷個人を信じて集まった人達でスタートした。


薬品卸業で後発の東邦薬品が優良企業まで発展したのは松谷社長の手腕に他ならないが、他の経営者と何処か違うか点あげるとすれば、創業以来、毎朝朝礼で行われた松谷社長の訓話であろう。


学者か宗教指導者を目指したこともある松谷社長は、幼小の頃から、歴史書、哲学書、宗教書を読み漁っていた。マルチン・ルターやジョン・カルビンの原書を読み、またカール・バルトを学ぶためラテン語、ギリシャ語の勉強をし、東京大学文学部西洋哲学科を卒業した後に、自ら「神学的人間の思考」、「三位一体論序説」等の哲学書を出版したほどである。


松谷社長の毎朝の社長訓話は聖書、仏教、孔子、偉人の言葉等、多岐に渡るが人の生き方に迫る心を動かすものであった。メーカのセールスマンが打ち合わせに東邦薬品にやってくるが、彼らの中で朝礼に混じって訓話を聞くものもいた。感動したセールスマンが自分の会社に帰って報告し、その会社の中でも話題になった。夏場になると、クーラーのない事務所は朝から窓を開けられていた。初めは隣家の人が自宅の窓を閉めて苦情を言ってきた。ところがいつの間にか自宅の窓は開かれて聴講する隣人が現れる。近所同士の挨拶代わりに松谷社長の訓話が話題になる。


東邦薬品の社員が、俺は東邦薬品の近くに住でる者だが、この間の社長の訓話はとても感激したと声をかけてくる。何人もの社員がこのような声を耳にするようになり、こうした信頼できる社長の下で働けることに誇りを感じたという。


故・城山三郎の名著「男子の本懐」は第1次世界大戦以降の不況から脱出するために、多くの反対を受けながらも果敢に金解禁を実行した浜口雄幸首相と井上準之助大蔵大臣の話だが、この中で城山は井上元大蔵大臣の言葉として次のような文句を引用している。


「常識を養うに読書の必要はいらぬかもしれぬ。そしてまた日常の事務を処理して行くのにも読書の必要はない。しかし、人をリードしていくにはどうしても読書をしなければならぬ。明日起こってくる問題を知るには、どうしても読書をしなくてはならぬ」人を引っ張っていくには万巻の読書が不可欠と言っている。またオックスフォード大学やケンブリッジ大学で教えるのは、ラテン語、ギリシャ語、歴史、古典である。人の上に立ち、社会を率いていく人間には歴史、古典に精通することが必須といいます。


松谷社長は歴史、古典、哲学に通暁したリーダーであり東邦薬品の特徴である東邦システム、班長制度も確固たる哲学にもとづいた手法であった。


週に一度位は朝の長礼等で訓話をする経営者はいるだろうが、松谷社長のように毎日人の心を打つ訓話をやれる人はそうはいないでしょう。それも30代後半の若い頃から毎朝語りかけていたというのだから驚きである。 



文責 田宮 卓










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