みんな、背中をまっすぐにして、胸を張って生きているかい?
僕は背中ちぢこませて、しかめっ面しているらしいよ。職場の女の子が言ってました。肩こりがひどくて背中が痛えや。
どうも仕事のキャパが小さいから、いけないね。いやさ、身の回りを整理し、計画をしっかり立てて行えばよいのだけれど。なにせ資料探しに少なからぬ時間をとられてるからね。
そんなわけで今年度の目標
・整理整頓と計画性
・貯金を増やす
・名古屋城検定に合格する
以上三点を、さっそく買ってきた手帳にメモしました。
- ドアラのひみつ手帳 2009/ドアラ
- ¥1,050
- Amazon.co.jp
「ドアラのひみつ手帳 2009 めのまえのしごとをコツコツと」
http://www.php.co.jp/bookstore/detail.php?isbn=978-4-569-70767-9
コツコツは大事だよね。
仕事の話はこれくらいにして、過去へと逃亡するよ。
先月21日に「さわやかウォーキング」に参加しました。
JR東海が春~夏、秋~冬に行っているもので、JR東海の駅からスタートし、数キロ~十数キロ歩いて駅(スタートと同じ場合も、違う場合もあります)をゴールとする、ハイキングです。
今回は地元の名古屋市内12キロ。
ルート途上に名古屋城。定められたルートでは外をぐるりと一周するだけで中に入らないんですが、
(お堀を泳ぐ鴨? とでっかい鯉。でっかいから近づいても食われません)
(お堀に面した「清洲櫓」)
ウォーキングのチラシ(マップが載っている)があれば入場料100円引き。桜の季節だし、ちょっと入ってみました。
正門を入ると西の丸。 迎えてくれたのは
ハチ丸君。。。じゃなくて義直君。徳川家康の九男で尾張徳川家初代。これは少年時代のイメージですね。現代風。ポケモンと並んでも違和感がない。
なんて具合に見たり考えたりしてると数時間ではおさまらず、ウォーキングを棄権してしまう羽目になっちゃうんで(午後三時までにゴールしないといけない)、今回は西の丸→本丸→御深井丸(おふけまる)限定にしました。
西南隅櫓(未申<ひつじさる>櫓)
↓
表二之門 (人がいっぱいで、どの写真にも顔が写っているのであっぷできませぬ)
↓
本丸(現在本丸御殿復興工事中。でも天守の中には入れます)
ここで一休み。天守前の売店でたこ焼きを買いました。
高い、まずい、冷たい
の観光地の食事三ポイントを見事に押さえたお品でありました。
続いて不明門
本丸北方にあり、普段は開いていない「開かずの門」。 殿様の脱出ルートの一つです。
そして不明門を抜けて御深井丸へ。 ここには「旧天守礎石」があります。
大小天守を鉄筋コンクリートで再建するときに、元の礎石群を移したものです。
その礎石のすぐ北にこんなものが。
一応説明書きがあります。
「石棺式石室。
島根県松江市山代町にあった団原古墳の石室で、
本来は床石があって、手前に羨道(石室への通路)を備えていた。
古墳時代後期のもので、出雲地方独特の横穴式石室である。」
なぜ出雲の古墳(の中身)が名古屋城に?
実は私がここに来たのは今回が初めてではなく、というより初めて来たのがいつかは覚えていないのですが、来るつどに「なぜ?」と思ってました。
長い間放ったらかしにしてた疑問ですが、ここ半年位はまじめに調べました。
けれども説明板以上のことはわからない。
古墳辞典、島根県史、考古学大辞典、名古屋城叢書、名古屋市史等々
いろいろ調べたけれど載っていない。
団原古墳というのは早い時代に失われていて、石棺式石室が埋もれていた。そこは私有地であり、今は跡形もなく畑にな
っている、位のことしかわからない。
どうしてもわからない。
ギブアップです。 名古屋城管理事務所に電話しました。
すると
「担当の学芸員さんは土曜日まで来ないので、またそのとき電話してください」
お預けです。
で、先週の土曜のこと。お昼ごろ私の携帯電話が鳴りました。
なんと件の学芸員さんがわざわざ電話してくださったのでした。恐縮です。
それにしても流石は学芸員さん。私の疑問にすらすらと答えてくれました。
それをかいつまんで書きますと
先述しましたように団原古墳があったところは私有地でしたので、石室も個人の所有だったそうです。それを名古屋の古美術商が買った。昭和11年のことです。当時と今では文化財に関する法律も異なりますから、今ではこんなことはできないでしょうね。
で、その古美術商さんは名古屋の郊外(現緑区)に茶席を作り、そこに石室を置いたそうです。
出雲から名古屋までは鉄道で、名古屋駅からは牛車で運んだそうです。
(そういえばゼロ戦こと零式艦上戦闘機もテスト機は名古屋の工場から牛車で岐阜の飛行場に運ばれたそうです。当時牛車はもっともゆれの少ない運搬手段だったのです)
ところが先の戦争で名古屋城が炎上。わずかな櫓、門を残すのみとなりました。
まことにさびしい限り。
そこで当時名古屋にあったいろいろな石材を名古屋城に寄付してほしいと動いた人がいました。石室もその一つで、先の古美術商さんは快く承諾したそうです。
そこで本丸の北、現在礎石群があるところに移されました。
市民の憩いの場を少しでもにぎやかにしようという思いです。
やがて天守が復興されると、旧礎石が御深井丸に移され、石室は更に北の、現在の位置に移されたのだそうです。
名古屋城は徳川家康の天下普請により江戸時代に作られました。
明治時代には陸軍の鎮台がおかれ、本丸はやがて宮内省の管轄に移り「名古屋離宮」となりました。
そして昭和5年に名古屋城に下賜され、翌年から一般公開。
戦争で焼失するも昭和34年に鉄筋コンクリートで外見復興。
時代時代で所有者が変わり、城内にさまざまな施設が作られました。
この石室や茶席にあるつくばいなどもその一つです。
さまざまな人の善意がこれらには宿っていたのでした。