7月の末になると、思い出します。

時間の感覚というのはよく分かりません。
思い出す時の感じが、だいぶ楽になりましたが。

私が21歳のとき、2歳下の弟が遺書を書いて家出をしました。

5日間ぐらい行方不明で、警察から無事との連絡をもらうまでは、死んだものと思いました。

仲の良かった友達の所にいるんじゃないか?という親の発想で、8月に入ってすぐに特急で金沢市に向かい、日差しがギラギラと照りつけるなか自転車で市内を漕いで回りました。

片町という町にはお洒落なカフェなどがありました。

文化の香りのする素敵な街だと感じました。

別の地区には、小さな水路が流れる風情ある街並みがありました。

弟の手掛かりになるものは無く、訪ねた友達も不在でした。

梅の形をした味噌汁最中を、友人のO君とM君に買って帰りました。

ちょっと変わり者の彼らには、たくさん支えてもらいました。


結局、その翌々日ぐらいに東尋坊の警察から連絡が来て、今は廃止になった「急行きたぐに」に乗って迎えに行きました。

真夜中の小松駅(だったと思う)からタクシーに乗りました。

後部座席からのけぞって見上げた空には、降ってきそうな星々が瞬いていました。

いのちに関わる事が起こるときは、星や太陽や鳥など、自然のものから圧倒的な力を感じることが多いです。


弟は警察の事務室のソファで横になっていました。

夕陽の写真家さんが声を掛けてくれて、保護されたようです。

母と叔父が警察官と話をしていました。
私も聞いていたかも知れません。


朝になって、特急列車で帰りました。

弟は列車の中で「大学を辞めたい。たこ焼き屋さんになりたい。」と言った気がします。

10年間患った脳腫瘍がだいぶ進んで、学校に通うことが困難になりかけていた時期でした。

帰宅したら、祖父がいつも通り「よう!おかえり!」と言って弟を迎えました。

「なかなか出来ることじゃないね、さすが爺さんだ。」と母が私に言いました。

でも、大学を辞めるのは理由や気持ちを聞かずに駄目だと言いました。

父はいつも通りに仕事に行っていました。

数日後に「帰ってきてくれて良かったね」と父に話したら、「さあ…
いいかどうか分からないね…」と言いました。

死なずに帰ってきてくれて何が良くないのか分かりませんでしたが、質問や反論もしませんでした。


家出する数日前に、私は街で弟を見かけましたが、声を掛けませんでした。

病気で姿が変わっていたし、もともと不器用で鬱陶しいと感じていたので、家族だけど私は声を掛けませんでした。

家族の誰も、弟の気持ちに寄り添っていなかったと思います。

無事に帰ってきてくれてから1年2ヶ月後に、弟は最後まで生き抜いてあの世へ旅立ちました。

意地悪な姉でしたが、生き方をひっくり返す機会をもらいました。

自分が弟に対してとってきた態度は、深く反省してからの接し方で償えるとは思っていません。

でも、帰ってきてくれてから看取りまでの期間に、面倒を見させてもらえる機会をくれた弟には心から感謝しています。


父は、私と似たような年齢で、弟を自死で失っています。

現地の役場への届出は、父がやっていました(戸籍に記載)。

私の家で語られない事です。

自分の弟の死を聞いて、対面したのは遺骨。

なぜ、親ではなく兄(である父)が役場に届け出をしたのか。

経緯は分かりませんが、父はPTSDといえばPTSDなのだろうと思います。

当時、精神科とかカウンセリング、セラピーなんていう発想は無かったでしょう。

手当てされなかった痛みを、私が引き継ぎました。


これにまつわる事柄は他にもありますが、気が向いたら書くことにします。


おやすみなさい☆彡