アメリカ東海岸情報

瀧波雅彦(たきなみ まさひこ)と申します。これはボストンから発信するアメリカの東海岸の情報ページです。アメリカ発祥の地ここボストンはアメリカ最古の大学ハーバード大学はじめ80以上の大学がある学生の多い街です。レッドソックスもあり野球熱も高い町です。


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ペルーにささげた青春 



大森雅人





青年海外協力隊との出会い

「お前らこんな厚い牛肉のステーキ食ったことあるか?」「コスタリカは、世界の3Cと言って美人ばかりだぞ!!(コスタリカ、コロンビア、チリはいずれもミス・ユニバースを世界に送り出している)」。協力隊帰りの先輩のこの言葉は、21歳の若者には、あまりにも刺激的かつ魅力的な響きを残してその後の私の頭から消えることはなかった。これが協力隊参加への動機ではあまりにも不純ですが、実はこの日のもう一つの先輩の言葉が、忘れられなかったのです。「向こうの子は貧しいけど、みんな目がキラキラしていて純粋だぞ」「お前らの指導をきっとどこかで待っているぞ」世界のどこか、地球のどこかにこの自分の野球指導を待っている子供がいる?説明の出来ぬ衝撃が走り心の中でこだまする。

“世界”“地球”“俺を待っている”。ステーキと美女にも勝る夢とロマンを感じさせる感動的な言葉でした。昭和58年3次隊、野球指導員、要請国、南米ペルー共和国。国はどこでもよく、大学卒業時にもう迷いはなかったが、3Cの国、コスタリカには少々の未練があった。煩悩と邪心を振り切って臨んだ2次試験のあの日を感謝と感動の気持ちで今も忘れることが出来ない。運命のいたずらか、2次試験にはあの青島健太氏(ヤクルトスワローズ→TVキャスター)も来る予定でしたが結局来ず、チャンスは私に転がりこみ、1984年1月15日、私は牛肉と美女?とキラキラの瞳が待つ、真夏のペルーに、夢と希望、感激に包まれて立つことが出来た。



二人のGRAN・MAESTRO(偉大な先生)との出会い

この二人との出会いがなかったら私は、現在まで、ペルーにこうしてお世話になることもなかったのではと時々思います。その人が亡くなった翌日の新聞の一面には“ペルーが泣いている”とありました。そして当時の大統領さえ「私の名前は、忘れられても、彼の名前を忘れるペルー国民はいないだろう」と言わしめた日本人バレーボールコーチ“アキラ・カトウ”(加藤明氏)、そして大学時代より尊敬し、私の座右の書“甲子園の心を求めて”の著者、佐藤道輔先生、この二人との出会いです。スポーツコーチである以上、試合に勝つことを目的として選手を鍛え努力を強いる指導はある程度必要なことだと思います。

私自身も3年6ヶ月の協力隊時代、国際試合に参加する度、子供達を勝たせたかったし、結果も残したいと思っていました。そんな時必ずMAESTROアキラは、「結果を残すより人を残しなさい!」と天国から語りかけ、佐藤道輔先生は、「子供たちに野球をもっと好きになってもらいなさい!」と無言の指導をいつも私にしてくださいました。ペルー着任時、アキラ・カトウ氏はすでに故人であり(1982年3月20日没)、佐藤道輔先生ともまだこの時はお会いしていない本の中での師でありました。しかしこのGRAN MAESTROのおかげで私の3年6ヶ月の活動は、選手たちに教え教えられ反省と感謝のすばらしい充実した日々であったと思います。奇しくも協力隊時代の最後の世界少年野球大会4位(16カ国参加)は、アキラ・カトウ氏がペルー女子バレーチームを初めてメキシコオリンピックに導き勝ち取った成績と同じであったし、私の交替隊員“櫻井国弘”が東大和高校野球部OBで佐藤道輔先生の愛弟子であったことは、単なる偶然ではなく、二人から私への無言のプレゼントであったと今も信じています。その後、佐藤先生とは、ほんとうの出会いが実現し、その先生自身がワンコンテナー一杯の野球道具(東大和高校野球部を中心に日本全国から野球道具が集められた)と共に1990年ペルーに来ていただいたことは、私とペルー少年野球選手たちの忘れられぬ素晴らしい思い出です。(詳しくは、“新甲子園の心を求めて”-愛と友情が海を渡った-をお読みください。)



もう一つの出会い

「お前が選んだ娘なら大丈夫でしょ」と一言、両親はそう言ってくれた。決して国際結婚に賛成ではなかったと思います。協力隊参加、そして少年軟式野球国際交流協会にお世話になりペルーでの生活もすでに7年が経っていた。彼女とは、それぞれが野球とソフトボールを練習するグランドの中で出会いました。その国や地域を好きになる時、それは結局、その環境よりそこに住む人々を好きになっているのだと思います。彼女自身、ペルーセレクションチームの投手として活躍していたり、大学でも幼児教育を勉強しながら子供達にソフトボールを指導するなどお互いの目標や夢に共通点が多く、結婚も自然に考えられるようになったのだと思います。しかし、将来自分が妻と一緒に幼稚園を経営することになるとは夢にも思いませんでした。参加者500人、費用440USドル、参列者80人、費用250万円、ペルーと日本で挙げた結婚式・披露宴での人数とその支出です。あえてこのような数字を書いたのは、これがある面ではペルーの良いところ、そして私が気に入っているところだからです。友人達みんなが近くに住み、めでたい時はみんなが手ぶらで駆けつけて祝ってくれる、そしてそれが反対の悲しい時でも同じように・・・祝ってあげたくても時間とお金がかかる、お別れに駆けつけたくても仕事が休めない。これらのことは、ペルーに長く住み良い仲間と家族とゆっくりとした時間を過ごす私には少々淋しく感じます。心から“おめでとう”“さようなら”“ありがとう”が素直に、ペルーのように言えたら、日本はもっと世界から信頼され、理解してもらえると思います。



家族そして新たなスタート

美しいアジアのように、そして世界の人々と友だち(スペイン語でアミーゴ)になれますようにと長女には「亜美(アミ)」と名付けました。そしてこの時、ずっと決めかねていた思いにやっと決断が着いたような気がしました。「ペルーで一生頑張ってみよう!」と。すばらし仲間、すばらしい師、すばらしい選手たちと過ごした10年間に一つの区切りをつけ、私の新たな人生がスタートしました。幼稚園“MUNDO AMIGO”(世界は友だち)の経営です。貧しい国の宿命は、教育や医療、安全が共有の機関ではないことです。特にペルー国営の学校は、先生のスト(給料アップ要求)続きで機能せず、授業も1日3部制(朝、午後、夜)の為、貧しい子供たちは、朝学校に行けば、午後はアルバイト(路上物売り、車の見張り、車の洗車等)、同じく先生も一日に二つ以上の仕事を持っているのが一般的です。それは、ペルーの学校の先生と警察官の給料が最低ランクであり、生活が出来ない事が理由である。また、日本では花形職業である医者、弁護士もリマで石を投げればこのいずれかの職業に当たると言われる程、多く安定した収入は得られない。

この様な社会状況と学校事情により、リマに住む中流クラスの親たちは、教育に大変熱心です。その為リマの限られた私立小学校に入学するには、受験勉強が3,4歳から始まり、多くの私たちの様な私立幼稚園は、いかに多くの子供を有名校に入学させるかを競うことになるわけです。(ペルーの学校システムは、小学6年、中学5年、大学5年)幼稚園を始めた時、このような教育事情に疑問と改善を感じ、かつまた他の歴史ある有名幼稚園に対抗していく為に、妻と考えたことは、情操教育に重点をおく幼稚園でした。水泳(温水プールで一年中授業に取り入れる)、空手、エアロビクスダンス、音楽、陶芸、英会話など、子供たちの喜ぶ顔を想像しながら授業の中に取り入れたカリキュラムです。一見私にとって畑違いの幼稚園経営でしたが、子供の技術や発育の向上、そして何より子供たちを喜ばすことを常に考えてきた野球指導には共通点が多く、毎日が楽しく充実しています。

いつか幼稚園の中にチームワークと体をバランスよく鍛え向上できる野球を取り入れたいと夢は広がるばかりです。

高校の体育教師になる前に世界を見て、色々な経験をしてみたいと参加した青年海外協力隊であったが、こんなユニークな不思議な運命がペルーに待っていたとは、人生とは面白く、不思議である。そして、こんな自分を最大限に活かし、自分らしく情熱を持って日々生活させてもらえるペルーに感謝したい。

自分だけの一つしかない生き方をこのアンデスの大地が教えてくれた。



•国際結婚

新婚の頃である。一時帰国中の実家で、妻が夕食の後片付けをしていた。

「パティー、私が洗うからいいよ」と母が言うと、妻は明るい声で、

「ハーイ」と言って二階へ上がっていった。

間髪を入れずに、母は私に「あら、ほんとうに行っちゃったよ」と言う。

日本では、自然なやりとりとなる「いいえ、私がやりますので、お母さんはお休みください」という嫁の言葉を母は期待していたわけだが、妻は見事にその言葉に素直に応えたのである。

日本語の「すみません」という言葉に代表されるように、あいまいさを好む日本人には、このような便利な言葉が多々存在する。

「すみません」は、「申し訳ない」という気持ちを表すと同時に「ありがとう」というまったく反対の感謝のも示してしまう。スペイン語には、こんなあいまいな不思議な言葉は存在しない。また、多種民族が共に暮らし、なんでも裁判にもなってゆく南米では、へたに“すみません”などと言えば財産のすべてを無くすことさえある。だから、、ペルーの人々は、“すみません”のかわりに「グラシアス」(ありがとう)を多用する。

次の日、洗い物をする妻に母は「パティー、ありがとう」と言った。妻は、ニコニコと洗い物を続けた。私も、ペルーに行った頃、自分の物差しで“日本では考えられない”“日本では許されない”と不満ばかりだった。時が過ぎ、ペルーを理解するにつれ、解決策が見つかった。相手に変な期待をせず、素直に言うべき事をはっきりと言うこと。簡単な事だった。

国際結婚や国際化時代に生きる日本人にとって、何より大切な事は、この伝えようとする”気持ち“をはずかしがらず、めんどうがらず、とりくむことだと感じる。

しかし、個人としては、いつの日か、妻と「以心伝心」で、多くを語り合わなくても理解しあえる夫婦を目指して、ゆきたいと思う。



甲子園の心を求めて - ある老人との出会い -

昔、甲子園の心とは、結局なんなんだとよく考えた。そしてそれをペルーは、教えてくれた。「このグローブは、私が作りました」ナバーロ爺さんに初めて会った日を私は、今も忘れられない。ペルーに野球を普及させる為には、自国で野球道具を作らなければと着任時より、リマ市のスポーツ店の職人にお願いし、グローブ作りを試みていました。しかし、出来上がってくる物は、どれもこれも指や手が入らず、使い物になりませんでした。

しかし、この素人老人のグローブは、見た目も使いやすさも完璧だったのです。

「一人でやっているので、月に二個作るのがやっとです」

警察官だった彼は、若い頃から日系人たちと(現ペルー野球連盟会長・ヘラルド丸井氏等)、野球を楽しみ、定年退職後に少年野球の指導を始めたそうです。

しかし、彼の住むトルヒーヨ市(リマ市より北に600km)は、貧しい地域が多く、野球を知る子など一人もいなかったそうです。なにより、グローブひとつの値段が、ペルーの最低給料US$70~80と同額では、少年たちに野球が楽しめる理由もなく彼は、思案のあげく自分でグローブを作り始めたそうです。

「周りからはずいぶん変人のように見られているけど、ベースボールは素晴らしいスポーツだよ」当時、工業用ミシンを持っていなかった彼は、グローブひとつに必要な“3,000”もの穴を一針一針手で開けていた。

「一つ一つの穴を開けるとき、子どもたちの喜ぶ顔を思い浮かべるんだよ」と彼は、笑顔でそのグローブ作りの秘密を私に教えてくれた。そして、リマの職人の作るグローブに手がはいらなかった謎を彼がすんなりと解いてくれた。

「工業用ミシンがあれば月に15個は作れるのだが・・・・」そのとぶやきと彼のグローブが会長ヘラルド丸井氏に届くのに時間はかからなかった。

ナバーロ爺さんのグローブ作りが始まり、そしてグローブの数だけ少年の数は増えていった。トルヒーヨ市に初めて少年野球チームが誕生したその年折りよく日本から遠征に来ていた少年野球チームをナバー路爺さんは、トルヒーヨに迎えた。

「俺のチームが日本選抜チームと試合が出来るなんて・・・・」変人ナバーロ爺さんは、一躍“時の人”となり、トルヒーヨの有名人になっていた。そして、翌年には、ペルー選抜チームのコーチとして来日した。世界大会が終わった日、佐藤道輔先生はじめ日本の仲間が集まり、ナバーロ爺さんを囲んだ。奇しくも彼の70歳の誕生日であった。

佐藤先生からプレゼントされたウィンドブレーカーを手に「野球は本当に素晴らしいな」

と何度もつぶやいていた。トルヒーヨに野球の灯をともしたナバーロ爺さんは、1999年9月14日、78歳の生涯を閉じた。

佐藤先生二度目の来秘となるペルー野球を支援する会メンバーがリマに到着した翌日であった。



甲子園の心を求めて - 大海の中の一滴-

1991年7月、3人のJICA専門家の尊い命がテロリストの犠牲となりました。ペルー中を驚愕させたこの事件と共に、青年海外協力隊がペルーを去り11年の月日が流れました。

「ペルーの野球に今何が必要なのかな?」

「お金でも道具でもありません。人です(日本人野球コーチ)」

ペルー野球を支援し、コーチを派遣する会(民間協力隊)の発足は、佐藤道輔先生とペルー協力隊OBとの、私のこのような何気ない会話が発端でした。

「出川雄一朗です。よろしくお願いします」その会話の7ヵ月後の94年4月。

民間野球協力隊第1号がペルーの土を踏んでいた。

人は一生のうちにどれだけの出会いをするのだろう。そして、その中には必ず何度か運命的な出会いがあり、その後の航路やライフスタイルまでをも変えてしまう出会いが存在する。第2号コーチ“中野俊一”、第3号コーチ“川崎基司”、第4号コーチ“栗原浩”、そして第5号コーチ“加藤秀一”にとってペルーは、どんな存在になってゆくのだろう。

1994年4月より2001年7月まで共に彼らと過ごした7年間、私はどれだけ彼らの活動に励まされ、勇気をもらったろう。そして、どれくらいの時間、彼らと“夢”を語り合い、ペルーの子供たちの将来について考えたろう。そして彼らは、どれだけの子供たちに夢と希望と勇気と笑顔を与えてくれたろう。私たちは、一つの同じ志(心)の元に出会い、ささやかな活動を始めた。これは、大海の中の一滴かもしれない。しかし継続してゆくところに何かが生まれ、変化してゆくと佐藤先生がいつもおっしゃるように、お互いの国や人が私利私欲なく他の人を心から思い、共に生きる喜びを求めていく時、大海の中への一滴は、すでにただの一滴ではなく無限のエネルギーを持って、人の心に波紋していくことを私は、強い意志と温かで優しい彼らのその活動を通して実感することができました。そして、国際化が叫ばれている現代の社会にあって、私たちひとりひとりが、もう少しの愛を持って視野を広げ優しい心で世界を観察すれば国を頼らなくても心のこもったすばらしい国際協力が、国や人種、宗教をも超えてできることを私たちは、体験しました。そしてこれからの活動こそ、他の多くの貧しい国の人々が求め望んでいることではないかと感じます。自分の好きな得意な分野で同じ気持ちを持つ人々が集まり国を越えて活動していく時、世界はもっとやさしく、明るく住みやすくなってゆくのだと思います。ささやかで、小さなことでも好きなことを継続し努力してゆく時、そこには、必ずすばらしい出会いと豊かな人生があることを彼らとの活動で、私は体験する事が出来ました。

そしてこれこそが、甲子園の心なのだと実感しております。



甲子園の心を求めて - 歓びのリレー -

ブラジルの22万人収容の記録を持つ、世界最大級のマラカナン・サッカー場が示すように、南米はどの国も“サッカー狂国”である。ブラジル、アルゼンチン、ウルグアイが三強で、いずれもW杯優勝の経験があり、その後に、コロンビア、チリ、パラグアイ、ペルー、エクアドル、ボリビア、ベネズエラと順を成す。ペルーも数度、W杯出場を果たしており、少年達は未来を夢見て、公園や路地裏とリマ市内のあらゆる場所でサッカーを楽しんでいる。人気の秘訣は、ボール一つでだれもが楽しめ、ルールも簡単で見ていておもしろいということだろう。また、リマ市内には、貧乏国とは思えないようなすばらしいサッカー場がいくつも存在する。それでは、野球場は?となるとペルー全国に正式な球場は、わずか三つしか存在しない。(リマ市に2球場、しかしその一つは会員制の為、一般人は使用不可。

もう一つがカヤオ市にあるが、大変治安が悪い)このような野球環境の為、リマ市唯一のビデーナ球場は、いつも5~6チームが共用し、ダイヤモンドを使用することは、選抜チームですらままならない。野球を愛するペルーの指導者の共通の夢は、少年たちにノビノビと練習をさせてやりたいということだろう。“ルイス・バリエントス”もそんな夢を持つ指導者の一人で、多くの少年達に“ルーチョ”という愛称で慕われていた。

彼は新リーグの会長としても日々悪戦苦闘していた。そんな時に彼は、出川雄一朗に出会い私たちのささやかなこの活動を知った。「日本のコーチは、キューバのコーチと違って、不平不満を言わないし、いつも楽しそうだね」と彼は、日本の若者の元気と明るさに好意を寄せていた。(青年海外協力隊が91年に去った後、ペルー野球連盟は、野球大国キューバよりコーチを迎えいれていた。)ルーチョは日本の若者コーチを知れば知る程好きになり

いつしかこれらの若者を自宅に下宿させた。

彼らの城は、三畳一間のメイド部屋であったが、川崎基司、栗原浩、加藤秀一は、ルーチョ夫妻をペルーの“パパ”と“ママ”と呼び、任期中この城から離れることはなかった。

そして、出川雄一朗から始まったこの活動は、歓びのたすきリレーとなり、引き継がれる度に、大きく深くペルーの人々に受け入れられていった。それと同じようにルーチョの小さな夢も膨らみ形に変化していった。2001年7月、ビデーナ球場の後ろの空き地に、少年とルーチョの夢が、花開いた。「日本の息子達が本気で私の夢を受け止めてくれたから、このグランドはできたんだよ」と彼らを誇らしげに語り、グランド完成を喜んだ。

野球を愛し、少年達を常に励まし、夢と希望を与えその成長を生きがいとしていた“ルーチョ”は、2002年4月12日、白血病により、この世を去った。48歳であった。

「いつかこのグランドから“イチロー”みたいな選手がでたらいいね」と彼は、笑顔で言っていた。「日本は、小さな国と思っていたけど、どこに行っても野球場があるじゃないか。日本の子供達は、幸せだな」とナバーロ爺さんは、しみじみと言っていた。日本では、あたり前の事が、他国の人にとっては、夢みたいな恵まれた環境である事を、どれだけの日本人が理解し幸せと感じているのだろうか。そして、日本は便利さを追求するあまり、物欲や金銭欲に走りすぎ、その見返りとして、他者を思いやる心や共に助け合いながら生きる歓びを忘れてきているような気がする。私は、ペルーに住み始めてより18年淋しい思いをした事がない。それは、ペルーの人々がいつも、アミーゴ(仲間)、エルマーノ(兄弟)と私を受け入れてくれたからである。こうしたペルーでの生活と出会いは、私自身のライフスタイルを根本的に考え直していく事の大切さを教えてくれた。ペルーの日常は、貧富の差、政治的対立、麻薬とゲリラ、問題は山ほどある。にもかかわらず、ペルーを訪れる多くの若者や友人が私同様この国を好きになるのは、その日本人が忘れかけている“共にいきること”、“共に喜びや悲しみを分かち合う”大切さを思い出させてくれるからだろう。

そして、ペルーの人々が、常に異国の人々をあたたかく受け入れてきてくれたからに違いない。“他を理解し、受け入れる”“受け入れるから分かち合える”“分かり合えるから喜びは大きく、悲しみは小さくできる”ペルーと甲子園の心が私たちに教えてくれたシンプルで楽しい地球人の法則である。毎年ペルーに届く佐藤先生からの年賀状には、同じ言葉がつづられている。“今年もペルーの少年たちにもっと野球を好きになってもらって下さい”

これが“ペルー野球を支援する会”のささやかな小さな使命である事を私たちは、確信している。



   

執筆者紹介

大森雅人 1960年埼玉県生まれ リマ郊外ミラフローレンス在住。

幼稚園時代は内向的で家にこもりがちであったが小学生から高校生は野球部で

常にエース兼4番打者として活躍する。大学時代は主に外野手として仙台6大学リーグでホームラン王と打点王のタイトルを獲得。大学卒業後、青年海外協力隊としてペルーに渡り任期終了後もペルーに残り子供達に野球を指導する。

現在、稚園と民宿を経営。座右の銘 完全燃焼

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