takam16の本の棚
です。バーチャルですが......

「2005年 読んだ本ベスト10」バトン
というものがちまたで出回っているようだ。
順位を付けるのは個人的に実は好きではない。
ましてや本という主観の極みで構成された創作物を公平に判断することは
不可能だ。
しかし、自分の印象度を比較として考えるのであればベスト10は可能だろう。


設問があるらしい。設問はアドリブであるべきであると考えている自分にとっては
正直息苦しいが、だからといって新たな設問を生み出せるのかと言われれば、
現状では黙秘権を行使する以外に方法はなさそうだ。
よって言うとおりにする。

【Q1】 2005年に読了した本の中で印象に残ったものを教えてください。
   本の刊行年度は問いません。
【Q2】 これらの作品について簡単に解説してください。


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第1位
「香田証生さんはなぜ殺されたのか」 下川 裕治  新潮社

民主主義とは多勢に無勢の世界だ。少数意見は結局は捻りつぶされてしまうのだ。
世間とはそういうものだ。
香田証生氏は危険なイラクに行った。そしてイラク聖戦アルカイダ機構により
日本の自衛隊撤退要求のカードの1つとされた。そして殺された。
世間は彼に対して大変酷かった。そして、WEBの世界ではこれでもかと言わんばかり
の「恥知らず」「迷惑」「アホ」「死ね」....
自分は実を言うと少数意見の側だ。
事件当時はブログを始めていたので彼について書こうと思ったがためらった。
WEBの多勢に自分は無勢だからだ。自分のサイトも攻撃されると思ったからだ。
彼の行動の賛否の決定打はイラク行きの「目的」にあった。
目的がイラクのためならよし、イラクのためでなければダメ、
目的が第一で、命は二の次にされた。そんなの聞いたことがない。
これぞまさしく日本の現状だ。そしてそれをアオったのはほぼすべてのマスコミだ。
著者は世界中をバックパッカーとして歩く男だ。
この事件を著者は日本で知った。一方、同年4月の人質事件は海外で知ったという。
この自国の彼に対する風当たりを著者はどう感じたのだろう....

香田証生氏をバックパッカーと位置づけて、ニュージーランド、イスラエル、ヨルダン
と彼の足跡をたどった。そこで見えてきた著者のバックパッカーからの視点、
旅人としての香田証生。
自分は元は旅行社勤めの経験を持つ。しかし主に扱った仕事はツアー旅行だった。
つまりは安全・安心だ。一方のバックパッカーには危険・独りだ。
香田証生氏へのバッシングへの疑問に加え、バックパッカーとしての香田証生氏の心のうちを
思う著書に元旅行社員が興味を抱くのは自然の流れである。
注意してほしいのは、香田証生氏の殺された原因を科学的、論理的に記述した書ではない
ということである。あくまでもバックパッカーの気持ちに照らし合わせた
「旅」というものへの著者の考えを述べたものである。
下川 裕治
香田証生さんはなぜ殺されたのか
第2位 「アルジャジーラ 報道の戦争」 ヒュー・マイルズ 光文社 アラブのイスラム社会は一般の日本人にとっては非常に馴染みの薄い存在だ。 しかし彼らの住む地域、つまり中東からは日本人の生活になくてはならない石油を輸入している。 また、日本はアメリカの51州ではと皮肉られるほど、その影響を受けている。 そのアメリカが近年中東と対立関係にある。 表の顔は笑っている。しかし裏の顔は怒っている。 アメリカ路線に進む日本は情報においてもアメリカを 信じやすい。そこに突如あらわれた衛星TV局アルジャジーラ。 自由な報道や主張の許されないイスラム社会において、カタール国の首長の資金援助のもと、 サウジアラビアに疎まれ、パレスチナ自治府と対立し、アメリカ、CNNと反目しながらも 中立な報道を貫こうとするアルジャジーラの成り立ちから現在までの力強い姿を描いた本書に つい日本の報道姿勢を照らし合わせてしまう。 本当のアラブを知ることができるかもしれないと改めて感じた1冊と同時に アルジャジーラの陰部も感じとれた。権力争いを生きたカタール国のトップが開設したのだ。 いつかは権力の交代があるだろう。今の首長がいるから存在するアルジャジーラは 将来の首長のお気に召すかどうかという疑問も感じざるをえない。 その意味ではアルジャジーラは自由ではない。 しかし、彼らは報道の自由を貫くべく日々ニュースを届け続けるのだ。
ヒュー・マイルズ, 河野 純治
アルジャジーラ 報道の戦争すべてを敵に回したテレビ局の果てしなき闘い
第3位 「死亡推定時刻」  朔立木  光文社 冤罪がいかにしてできあがるのかを事件、犯人逮捕、起訴、そして裁判まで克明に 記した物語。本書のおかげで一連の事件から法廷までにいたる過程、手続き等の日数、 専門用語、そしてなんといっても罪を犯していない者が頭から容疑者という先入観で迫る 取調室という空間で精神的に追い込まれ、または警察が精神的に追い込んでいくかを 理解できる。そして、執拗な刑事の攻めに屈してついやっていない罪を認めてしまったら 取り返しのつかない結果を生むかを赤裸々に述べている。 物語という中でそのカラクリを解説を交えながら読み手に納得させる1冊。 勉強にもなり、メモをたっぷり取りました。
朔 立木
死亡推定時刻
第4位 「ぼんくら」  宮部みゆき  講談社 上下巻ある長篇時代小説ながら、主人公のなんともいえないぼんくらぶりに読み手までぼんくらに なってしまう1冊。人物描写をおもしろおかしく読ませようとする著者のこのシリーズ第1作。 江戸時代の庶民を滑稽に描いた笑いを含んだミステリーはそのしかけに違和感を感じる部分も あるが、それでもつい寝る時間を惜しんで読んでしまった。 現代小説の重さと比して、圧倒的な軽さを感じる宮部版時代小説、とくに「ぼんくら」シリーズ。 宮部みゆき氏には今にも増して時代小説に力を入れてもらいたい。 なお、長篇小説は気持ちが上向きの時に読むとよい。さもなくば疲れるだけだ。
宮部 みゆき
ぼんくら〈上〉
宮部 みゆき
ぼんくら〈下〉
第5位 「信仰が人を殺すとき」 ジョン・クラカワー 河出書房新社 個人的に宗教は必要なものだと思っている。それは日本には自殺者があまりにも多すぎるからだ。 3万人の自殺者が信じるなにかを持っていれば救われたかもしれないからだ。 しかし宗教は人をあらぬ方向に導くこともある。多々ある。 それは原理主義。 本書はモルモン教をテーマにし、その中でも固執な原理主義者が引き起こしたある殺人事件を ピックアップし、事件の真相をモルモン教の起源にまで遡り、原理主義ゆえのの問題点を浮き彫り にする。注釈と本文との往復の連続にてこずったが、モルモン教は名前こそ知りつつも 未知の領域でもあったため、勉強になった1冊。
ジョン・クラカワー, 佐宗 鈴夫
信仰が人を殺すとき - 過激な宗教は何を生み出してきたのか
第6位 「ハルカ・エイティ」  姫野カオルコ  文藝春秋 ある1人のおばあさんの自伝的小説だが、今現在を、それも明るく前向きに楽観的に生きる ことの大切さを感じさせてくれた1冊。 さまざまな分野の小説に挑戦しようとする著者の姿勢にも感服。 ストーリー性や娯楽性とは違った伝えたいなにかを本書は持っている。
姫野 カオルコ
ハルカ・エイティ
第7位 「死神の精度」  伊坂幸太郎  文藝春秋 主人公の職業は「死神」。この変化球がまず面白かった。 そのくせ姿形といった外見は人間そのもの。 死を宣告する対象にあわせて年齢や風貌を変えて相手に接触。死に値するかどうかを 判断の上、7日以内にしかるべき部署に報告するというヘンテコな仕事だが、 なぜかぐっと読ませるのは、主人公の死神の内面までは人間になりきれないという点。 「恋愛」「旅」といったものがイマいちピンと来ず、ご飯を食べても味がわからない、 お腹がすいた、いっぱいになったということもわからない、けれど「音楽」は最高。 当然交わされる死の対象となる人間との会話はこの内面のズレが見事に描かれ、 わかりやすい。一見飽きさせそうな死神の物語は短篇であるゆえに回避されている。
伊坂 幸太郎
死神の精度
第8位 「死体を買う男」 歌野晶午   光文社 文章で人を騙すのが得意な著者にまんまとハメられた1冊。 物語を物語で包み、さらにそれを物語で割れないように頑丈に包装したものをおまけに物語 という配送業者にお願いし、しかも送り先は物語というような作品!! というとわかりにくいだろうか....... 説明に困るのだが、しまった!騙された!!と思えば彼の作品を堪能した証拠となる。 そんな作品。あれ?内容は?
歌野 晶午
死体を買う男
第9位 「沼地のある森を抜けて」  梨木香歩  新潮社 人間という生き物は確かに生物界を支配しているかもしれないが、元をたどれば 結局はちっぽけなものなのかと感じさせてくれる1冊。 人間も他の動物も植物も、細胞までもが最初はある1つのものから始まったのだという 壮大なテーマを終着駅とするも、前半部分の奇想天外な出来事の数々、例えば ぬか床から発生した卵が孵ってしまうという非常識な始まりからは想像もできない展開。 また超現実的な人物を主人公にすると一連の奇抜な出来事がよりいっそう楽しめることも 改めて確認。人の生死や平和・戦争を考えるきっかけを与えてくれるという のは著者の得意技のひとつだが、ぬか床をきっかけにそれらを考えさせてくれるのは まさに必殺技だ。
梨木 香歩
沼地のある森を抜けて
第10位 「未来をつくる図書館」  菅谷晃子  岩波新書 他国の図書館の状況を知るには限度がある。我々利用者は自分の街の図書館にのみ関心があるし、 それが普通だ。だからこそ外国の図書館、しかもある特定の図書館の事情を知るのは なかなか難しい。そんな時に地元の図書館棚で思わず手に取った1冊。 図書館の役割が貸し借りにとどまらず、市民生活や情報の発信源となっているのは 日本ではほとんどお目にかかれない。ビジネス指南や履歴書作成指南をする司書。 生涯学習の窓口的な役割、学校教育における教師へのサポート、そして9・11テロ時に 図書館が果した役割......しかもこの図書館は市民の寄付で成り立っている。 寄付で成り立つゆえに不景気時に味わう苦労も伴うが、 市民による市民のための真の図書館が日本にもたくさんできることを願う。
菅谷 明子
未来をつくる図書館―ニューヨークからの報告―
番外 「昭和史」 半藤一利 平凡社 いいかげん本が黄ばむほどボロボロになっている大切な自宅所蔵本の1つ。 本来であれば順位は上位だが、1年でも何回か読んでおり、やむなくこの位置にした。 いかにして日本が戦争への道を選んだのか、選ばざるを得なかったかという昭和史講演 をとある中規模ホールで聞いているような本書だが、そこから現在にも受け継がれている 日本人の欠点までをも見出だしており、しかも的を得ている。 歴史認識において著者は左派であるとの前提の上に読み進めても、決して押し付けがましくなく、 戦争を知らない世代の入門書として、中学・高校生が読んでも悪書だとは思わない。 今後長く書店に陳列しても売上に貢献できそうな1冊。 そろそろ新たな半藤「昭和史」を買わねば原型をとどめなくなってしまいそうだ。
半藤 一利
昭和史 1926-1945
---------------------------------------------------------------  【Q3】 2006年一発目に読みたいものは?(読んでいる、読んだものでも可)      1発目なのか、2発、3発はダメなのか? おならのように..... 一発目... 紀行  「見ることの塩」  四方田犬彦     二発目... エンタメ「ララピポ」    奥田英朗     三発目... メディア「ご臨終メディア」 森達也、森巣博     四発目... 中国小説「漆黒泉」     森福都
四方田 犬彦
見ることの塩 パレスチナ・セルビア紀行
     【Q4】 このバトンを回したい人を2人まであげてください。      牛でも馬でも持ってけ、泥棒!!  いや、バトン。 <追記> 本記事は みだれ撃ちどの よりバトンを 強奪したものです。 また、このバトンの起源は辻斬りどの であります。 なお、設問の構成はとらどの を参考にしました。 みなさま、どうもありがとうございました。
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です。バーチャルですが......

生きている人間に必ずあるもの、

過去、現在、未来。

その中で過去と未来は人の生きた年齢に関係する。
歳を重ねるにつれ、人は過去の量が増加し、未来の量が減少する。
過去という量は年齢という数に比例する。
一方で、未来という量は年齢という数に反比例する。


本来であればこれがスジなのであろうが、日本に関して言えば、
この定説がずっと以前から崩れているようだ。
例えば若者の自殺者が非常に多い。
それは未来に希望が持てないことが理由の1つと言われている。
若いのに未来が小さいという矛盾である。
しかし、希望が持てないことがすぐに「死」につながってしまうという
発想はやはり訝しげに見てしまうが、それは彼らの問題というよりは、
周囲の問題、社会の問題と考える方がよさそうだ。
自殺をするという行為ではなく、自殺をしたいという思考の背景を探らな
ければ、この流れは止めようがない。そして自殺をしたいという発想が
浮かんだ時点で彼らの心はすでに八方ふさがりの状態だ。
誰かの手助けがなければ実行にうつすのはきわめて早い。
自殺をした人間を、自殺をした本人に問題があるという論調を耳にするが、
それはまさにいまハヤリの「自己責任」という言葉の負の部分であるだろう。

戦争を経験した国ゆえにしばしば比較される平和という言葉。
しかし平和であるからこそもっと考えたい「命の大切さ」が大変希薄であるのが
今の日本という国なのか。

だからこそ大切にしたいもうひとつ、
年齢にかかわらず、常に数量が変わらないもの、
それが現在である。

しかしながら現在は過去や未来に非常に左右されやすい微妙な位置づけである。
現在は過去や未来を十分に背負って存在する。言い換えれば、過去や未来なしに現在は
成立しない。そしてそれらのバランスの良し悪しが現在を決定するのである。
今そのバランスが崩れている。
人は多いもの、つまりは多数決が正しい、安心と解釈しがちなため、
例えば崩れたバランスを持つ者が多ければ多いほど伝播しやすいのだ。
オレもオレも、ワタシもワタシも。
幼女の誘拐や母親による子供の虐待などは同じことをする人間が多いとつい
安心してしまい、みんなもやっているから自分もという流れをつくりやすい。



人間にモレなくつく過去、現在、未来。
特に過去を陰部と位置づけるとちょっとしたミステリーができるというわけで
そういう作品はただいま垂れ流しのように乱発している。
だからであろうか、それらを明るく描いた物語に希少価値があると思い、
出会いを望んでいたのであるが、最近そういう本を読む機会に恵まれた。

姫野 カオルコ
ハルカ・エイティ
粋なナイルグリーンのスーツを着て、"パリコレ"の会場を歩くモデルのように背筋を まっすぐにして歩く、褐色の髪をボブカットにした大正9年生まれの女性。 大正9年生まれだと今は85だ。世間の80代のバアさんを想像してもらいたい。 親戚、知人にいるならぜひ思い浮かべてもらいたい。 その姿、風貌は見る側にとって彼女の現在の姿である。 腰は曲がっているだろうか、白髪はひときわ目立つだろうか。 先述の定説に照らしあわせるなら、彼女は過去をたくさん持っており、残念ながら 未来は少ない。 ところが、 粋なナイルグリーンのスーツを着て、"パリコレ"の会場を歩くモデルのように背筋を まっすぐにして歩く、褐色の髪をボブカットにした大正9年生まれの女性。 なのだ。このような女性の生き様、つまりは過去を紐解いてみたいとは 思わないだろうか。 年齢と過去や未来の関連性を疑ってみたいとは思わないだろうか。 実は本書は 「実在の人間の、戦場での体験をはじめ、事実をもとにした小説」。 つまり、著者である姫野カオルコ氏の伯母をモデルにした自伝的小説だ。 名はハルカ、歳は本書では81になる。  第1章 ハルカ 80  第2章 少女  第3章 女学生  第4章 花嫁  第5章 姑  第6章 若奥様  第7章 母  第8章 女教師  第9章 人妻 第10章 娘 第11章 娘・その二 第12章 恋人 第1章では小学館発売のマンガ雑誌ヤングサンデーのグラビア取材ということで 取材者側が80の老婆という先入観を持ってハルカと対面する時の様を描いている。 それよりも、なぜ男性読者に支えられるこの雑誌に老婆が必要かという問題の方に 興味が沸く。まあそんなことはいいじゃないか。 てっきり老婆が待っていると思った取材者側、しかしそこに待っていたのが 粋なナイルグリーンのスーツを着て、"パリコレ"の会場を歩くモデルのように背筋を まっすぐにして歩く、褐色の髪をボブカットにした大正9年生まれの女性。 ハルカの生まれた時代に話がうつる。これより物語のはじまりである。 以上の章ごとのタイトルを点とし、点と点を結び、線で捉えることでハルカの 成長物語ができあがっている。実にストレートな路線だ。 2章から12章のタイトルを見ると 「おや?」と思われる方も多いだろう。 現在の女性の人生経験過程といえば 少女 → 学生 → 恋愛(女) → 仕事 → 花嫁 → 若奥様 → 姑 → 母 → .... 仕事は恋愛(女)の前かもしれないし、花嫁になっても仕事は続けるかもしれない。 ところが主人公のハルカはどうだ。 ①少女 → ②女学生 → ③花嫁 → ④姑 → ⑤若奥様 → ⑥母 → ⑦女教師              → ⑧人妻 → ⑨娘 → ⑩恋人 女学生のあと、いきなり花嫁と来ている。つまりは見合いだ。 この時代に生まれた者には恋愛の自由は限られていた。女性ならばなおさらの ことである。女性の社会進出は限りなくゼロに近い時代なのだ。 (女性の社会進出といえばは教師ぐらいなもので、実際ハルカは花嫁になるまでの 1年間教師の職に就いている) 次に注意したいのが、花嫁になったあと、事実上の若奥様となるのにしばしの空白があることだ。 ここでは間に姑が入っているのだが、この答えは簡単だ。 大正生まれの女性が花嫁になる時期がまさにポイントであり、ハルカの場合は彼女が20歳の時 だった。それは1940年、日本が戦争を始める1年前の出来事だ。 大正生まれの女性の結婚時期は必ず日本の戦争の時期と前後するのだ。 形だけの結婚を終えれば、男は次々に戦場に駆り出される。 そして、多くの女性はこの戦争で夫を失ってしまうのだ。 よって、ハルカの生きた時代を過去や未来をもとに考えると、彼女が成長するに連れて戦争という 出来事で未来が閉ざされてしまう時代だったのだ。 また、戦争という行為は人が必ずあるはずの未来や過去まで奪ってしまう。 よって、過去と未来のバランスや、それに支えられた現在などお話にもならない。 戦争を生きる時代、それは当時の日本においては今を生きるしかない時代だった。 ハルカの場合、夫は戦時中のケガで日本に戻ってきたことがかえって夫婦生活をスタートさせる という幸運だったのだが、女学生、見合い、結婚、そして出産という 順序を歩んだハルカに欠如していた人生経験、それは恋愛、つまり「女」の経験であった。 これも当時の日本と戦争が生んだ産物だ。 そこで、家庭の事情から女教師として働き始めたことがきっかけで別の男との恋仲を経験する ことになる。これが9章の人妻だ。そしてきっかけは第8章の女教師。 浮気や不倫がよいか悪いかの問題はひとまず棚に上げ、ハルカ、遅ればせながらの恋愛である。 しかし、恋というものは自らの若さを周囲にアピールする絶好の方法であろう。 ただし、決して浮気や不倫で夫婦関係に終止符が打たれることがなかった点にも注目したい。 実はハルカの夫の浮気が先である。しかもいろいろな女性と愛を育んでいる。 おまけに相手の女性がウチに乗り込んできたこともあった。 しかし、ハルカは決して感情をあらわにしない。夫にもなにもいわない。 なにもなかったかのように振舞う、あるいは振舞うフリをするのである。 そのうえで自分も別の男に恋をしてしまう。 そして自身の色恋経験により夫の気持ちもなんだかわかるということを前向きに学んでいるのが 面白い。その後も母としてのハルカやさらに歳を重ねていくハルカの話と続くのだが、 最終章の恋人。これまたすばらしい。人生の晩年に恋人だ。いいじゃないか。 このように紆余曲折の人生経験をインクに映し出し、しかも明るく軽やかに仕上げたのが 本書というわけだ。そして、各章のタイトルだけである程度の想像がつくというのもよい。 この物語が決してミステリーや犯人探しをテーマにしていないことが容易に想像でき、 その上で読んでみたいと思わせる。 「ハルカ・エイティ」は当時の人生経験の主なシーンをピックアップする形で描かれ、 それを 少女、女学生、花嫁....などと大きな枠として章立てる形をとる。 しかし、当時のハルカの人生を描くだけでは、それはその時代を生きた読者にしか伝わらない。 そこで姫野氏は次の点に注意したという。 ・若い人が読んで、この時代の話は今と違う別の世界のできごとだと思わないように工夫した ・読んだ人が嫌な気分にならないように工夫した その上で、本を読むのが大好きという人よりは読書はいくつかある趣味のうちのひとつです というような人をイメージして書いたつもりだ 文中にはハルカの生きた時代に同時に当時の社会情勢を織り交ぜながら描かれている。 戦争描写においては女、子供、年寄りはいうならば留守番だった。 彼女達は本土でアメリカの空から恐怖を肌で感じるハメになった。 B29、空襲、警報などの言葉が戦時中の時代描写に連発する。 これは戦った者の言葉ではなく、ただ下から見上げるしかなかった者が体験するのに使う言葉だ。 時代が進むと美空ひばりが塩酸をかけられた事件や佐藤栄作などの首相の話も出てくる。 時代を知る人々に向けられた配慮の1つである。 また、内田恭子(フジテレビアナウンサー)、根本はるみ(グラビアアイドル)などの固有名詞を出す ことで若者にも向けられている。特に若者に当時を伝える意味で恋愛や結婚、妊娠にまつわる 色恋ネタの比較描写は頻繁だ。おまけに女性の気持ちと男性の気持ちの比較描写もちゃっかり 文中に含まれており、老若男女の世代間、男女間という埋めようのないギャップの埋め合わせへの 挑戦も伺える。 ならば、戦争を決して知らないはずの姫野カオルコ氏がなぜ経験のない戦争にからむ話を書く 必要があったのかに興味が及ぶ。 その回答は文藝春秋社のPR雑誌「本の話 11月号」に載っている。 著者は両親が晩婚だった。 同級生の両親は若いぶん戦争中に子供だった人が多い一方、両親は戦時中は父が軍人だった。 だから、我が家にだけ戦争の影が暗く立ち込めている。 でも、その影をみつめてはいけないといったようなものも立ち込めている。 それがすごく苦しい。 だから戦争の落とした影を書こうと思った、 それが 「ハルカ・エイティ」であると。 そして 「読んだ人が嫌な気分にならないように工夫した」 というのはまさに、本書のモデルである主人公、それは同時に姫野カオルコ氏の伯母の生き方であり、 ハルカの最も魅力的な生き方は、 今現在を大切に生きること に尽きる。選択の余地のない結婚をした。戦争という重苦しさを経験した。夫の浮気もあったし、 自分も別の男に恋をした。歳を重ねる後半部分では確かに過去にあんなことが、こんなことがあった といろいろ回顧してしまう箇所もある。 しかし、なによりも今現在を大切に生きる女性ハルカ。その証が 粋なナイルグリーンのスーツを着て、"パリコレ"の会場を歩くモデルのように背筋を まっすぐにして歩く、褐色の髪をボブカットにした大正9年生まれの女性。 である。なるほど、男性漫画雑誌ヤングサンデーのグラビアを飾っても悪くはなかろう。 また戦争の話も浮気の話もまったく重さを感じさせない。 それは主人公の使う関西弁のおかげだろうか.... いや、年齢に左右されない過去や未来に支配されないハルカの現在の描き方が そうさせるのではないのだろうか。 過去は背負いすぎてはならない。 だからといって未来を追いすぎてもよくない。 そのぶん今を大切に生きればよいのだ。それがちょうどいい。 戦争の落とした影を書こうと思ったという本来なら暗くなりがちのテーマを 「読んだ人が嫌な気分にならないように工夫した」著者の新作を たっぷり堪能していただきたい。 さて、本書の主人公ハルカ、つまりは著者の伯母について、 公式ホームページに記述があった。 実在のハルカさんにも声援をおくってくださった読者の方へ 文章からは著者の伯母への想い、本書への想いが伝わってくるのだが、 ぜひクリックして読んでいただきたい。 最近、近所の公園でひなたぼっこをしているおじいさん、おばあさんの生き様を 興味本位ながらもちょっぴり真剣に覘きたくなる理由はまさにこの 「ハルカ・エイティ」を読んだからだと思う2006年の takam16でありました。
姫野 カオルコ
ハルカ・エイティ
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ええじゃないか!!

テーマ:
 

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です。バーチャルですが......

 
 時代小説というものは近年なかなか支持されないなしい。
というのも、現代小説であればその時勢と照らし合わせながらいくらでも
書き方がありそうなものだが、
昔の話となると書くべき内容が限定されてしまう。
古い時代を舞台に奇想天外な物語とくっつけるいうパターンはしばしば見受けられるが、
話が時代小説ということになると、やはり真っ向勝負の物語を描くことが本筋に通って
いる傾向が強いようだ。。

例えば歴史的人物を主人公にした物語はまさに真っ向勝負であろう。
いや、この場合は時代小説というよりは歴史小説というのが正解か。
司馬遼太郎氏あたりが真っ先に思い浮かぶ。
また、岡っ引きや盗人、あるいは街の役人を主人公にしたシリーズものも人気がある。
すぐに池波正太郎氏を思い出したが、最近では宮部みゆき氏の描く時代モノが記憶に新しい。

しかし、彼らは皆ベテランだ。時代小説を書ききるためには、物語よりも以前に
膨大な時間をかけて時代考証を行わねばならず、それは2、3年で習得できるシロモノでは
ないという。
仮に時代考証の間違った小説ができあがってしまうとやはりわかるものには
わかるようだ。さらにもしも間違った時代解釈のもとにその本が売れた結果、
その作家が売れっ子になったとしよう。文学とはいえ、カネの絡む世界だ。徹底的なあら探しが
いっせいに開始される。特に同じジャンルを描く作家の嫉妬というものはこれまたすさまじい
ものがある。時々文芸誌においてある有名作家のコラムを読むとちらほらとその嫉妬心が
伺える。

時代小説・歴史小説作家に新鋭が生まれにくい環境が起きるのは、確かにこのジャンルの小説
の読者層の高齢化が原因であり、知識の深さは歳の数に比例するという考えは古めかしい一方で
読書の世界にはその古めかしい考えは十分通用する。
しかしそれ以上に同じ時代小説・歴史小説作家の評価の厳しさが敷居を高いものにしていること
も事実であろう。
また先述の司馬遼太郎氏や池波正太郎氏、平岩弓枝氏、津本陽氏などの存在は、それがあまり
にも重鎮でありすぎるがゆえに、いっそう閉鎖的な感が否めないのだ。


以上のような理由から時代小説の新人作家を探そうとしてもけっこうなベテランの
お歳であることがしばしばある。

今回手にした城野隆(じょうの・たかし)氏。まあ誰も知らないだろう。
彼も時代小説としてのキャリアは50歳を過ぎてからだ。

城野 隆
一枚摺屋
歴史小説や時代小説において最も読者の関心が強い時代は政治的混乱期である場合が多い。 その最先端が「戦国時代」であろう。織田信長、豊臣秀吉そして徳川家康がからんだ 物語はこれからもトップの座を譲らないであろう。 その「戦国時代」と僅差で人気を誇るのが「幕末」である。 坂本龍馬、西郷隆盛、高杉晋作といった歴史人物が活躍した時代であり、もちろん 政治的混乱期である。 このような混乱期を一庶民の視点で描いた作品が本書、「一枚摺屋(いちまいずりや)」 である。 一枚摺とは簡単に言えば、今でいう"新聞"というイメージを持って下さればよい。 ただし、日本でお馴染みの朝、目覚めたらポストに投函されていたというようなものではない。 また、当時は政治面、経済面、スポーツ面、テレビ番組などの区分けがあるはずもなく、 今でいう"号外"のような感じであった。ただし、おカネはきっちりとった。 本書は幕末の政治的混乱期を一枚摺を通じて庶民に伝える有様を描いた作品だ。 新聞の役割のひとつはなんだ? それは権力に抗い、間違ったことはダメだと苦言を呈し、庶民にその事実を伝えることだ。 幕末の混乱期、もちろん日本をダメにしている元凶は250年間も続く徳川幕府であった。 当時はそういう幕府批判を庶民に知らせようとすれば、町の奉行所がすっとんできたものだ。 その記事はやめろ、さもないと.... といった具合にだ。しかも当時は外国が日本に開国をせまり、それに抗うグループが存在した。 外国の言いなりになどなるものかと、開国を認めてしまった幕府を批判した。 また、この頃はは地震・天候不良などの天災により庶民は大打撃を被った。生活面に関しては おコメの収穫量に問題があり、幕府が残り少ないコメを買い占めて 庶民が生活苦になる事態が起きた。 そこからさまざまな不満が積み重なって、徳川幕府による独占的な体制はいかがなものか、 もうそんなことはやめて政治権力を天皇・朝廷に返したらどうか という風潮が有識者の間で巻き起こる。これを 尊皇攘夷運動という。 ちなみに昨年の大河ドラマでは香取慎吾主演の「新撰組」が放送されたが、新撰組はそういう 尊皇攘夷運動を良しとしない、京都(当時は京)の取締、はっきり言えば幕府に反対する者を排除し、 殺す集団であった。徳川幕府の右翼という言い方がわかりやすいか。 しかし、インターネットのような便利な情報収集手段を当時はもちろん知らない。そうなると、 それを知らせることでカネ儲けをしようと考える者がいて当然だ。それが一枚摺屋だった。 主人公は一枚摺を作る仕事だ。しかし、その仕事をするきっかけとなったのは父親の死が 原因なのだ。 実は主人公、草子屋を営む父親とケンカをして勘当されてしまった。話は勘当されて4年が 経ったある日、その草子屋の奉公人とバッタリ出くわしたことから始まる。久しぶりの再開に 酒を飲みかわしながら勘当された家のことをいろいろ聞くと、父がめっきり老け込んだらしい。 父親は草子屋の傍らで一枚摺の仕事をしていた。父は草子屋は妻や奉公人に任せ、好きな一枚摺 を作っていたのだが、老け込みのせいで一枚摺が満足に書けなくなった。 そこで主人公が 「オレが記事を書こう」 ということで一枚摺を出したところ、町の奉行所から待ったがかかり、父親は連行されてしまい、 あろうことか、死んでしまったのだ。自分が書いた記事で父親が死んだことに耐えられず、 その死の真相と究明すること、そして父の意思を受け継ぐことを決意する。 潜りの一枚摺屋、「茜屋」の誕生だ。 当時の世の動きを世間に知らしめるということは、当然権力の批判だ。 一枚摺は道端で行き交う人々に大声でセールストークをぶちまけて売りさばくのだが、 そんな批判を奉行所が許すはずもない。よって売る場所や時間を考えねば捕まってしまう。 その駆け引きがなかなか面白く、本書の読ませどころの1つである。 同時に進行する父親の死の真相とセットで楽しめる。 幕末の政治的混乱とその状況を一枚摺を通じることで信じる庶民達。 現代にも似たような部分はあるのだが、 確か坂本龍馬が... 高杉晋作が死んだらしい.... 徳川慶喜が政権を返した.... という我々には聞き知る名前も当時の庶民はその程度のものなのだ。 その距離感になんだかわかるわかると頷いてしまうのだが、 所詮、庶民はそういう「あっち」で勝手にやっている政事に振り回される立場でしか ないのだ。徳川幕府は確かにダメだ。けれど新たな世の中となったとすれば自分達の 生活はどうかわるのか、その期待や不安が交錯し、押さえのきかない感情を吐き出す手段。 それが 「ええじゃないか踊り」である。 これも誰かが独自にあみ出したというわけではない。その真相は世の不安に耐えられない ある庶民が神社にお参りしたところ、神符降臨があったことが発端らしいが、はっきりしない。 とにもかくにも、不安解消法として、皆で踊り狂うというわけだ。それが ええじゃないか、ええじゃないか、ええじゃないか ♪ である。 このええじゃないか踊りが時代小説にしばしば見られがちな塞ぎがちになってしまう 読み手の心を開かせる。本書でももちろんええじゃないか踊りは描かれる。 これが西郷隆盛や坂本龍馬を主題にした物語なら、遠い位置づけにならざるをえない だろう。しかしここは庶民を描く小説。忘れてはならない。 新人作家の庶民の視点で描いた一枚摺が発端で聞き知った幕末物語。 読める者が読めば時代小説のことだ。あーだこーだと難癖が付くだろう。でも、 ええじゃないか!! 本書の感想であるが、重厚、濃密といった読み手を疲れさせ、そして暗くさせるような 物語では決してない。だからといって笑い止め薬を常に要する物語でもない。 ボリューム満点、カロリーたっぷり、さあ召し上がれというわけではないが、3時のおやつ にサクサクっといただく印象もない。 しいて言うなら、昼前までぐっすり寝てしまったために朝昼兼用となったご飯を食べた という感覚か.... え、意味がよくわからんですって? そんなこと別にええじゃないか!! 時代物や歴史物にはなぜか"死"がモレなく付いてまわる。物語を良くするも悪くするも "死"次第の感は否めない。"死"が物語の起点、終着点として利用されすぎやしないかと 最近特に思うのだが、 そんな話もええじゃないか!! ええじゃないか、ええじゃないか、ええじゃないか ♪ ヅラがバレてもええじゃないか。 Yahooニュースで知ったのだが、あるボクシングの試合中にボクサーの 一方の頭のヅラがとれてしまったようだ。ちなみにそのボクサーはTKO勝ち をおさめたという。記事の一文が滑稽だった。紹介する。 「カツラを外し、邪念も消えた小口(←本人の名前)は怒とうの猛ラッシュし、   力強い連打で柴田を追い込み、見事7回TKO勝ちを飾った。」 ええじゃないか! ええじゃないか、ええじゃないか、ええじゃないか ♪ スッピン見せてもええじゃないか。 週に2度生ゴミを出すのだが、早朝にゴミ出しをすると必ず、 他のマンション住民の女性に出くわす。みな素顔を見られぬようごみ出しには細心の 注意を払っていることが伺える。しゃれにならないぐらいの早足でまるでなにか 悪さをしたかの様子でゴミ置き場へやってくる。両手がゴミ袋で隠せるはずも ないものを..... 見せてもええじゃないか! ダメか? ええじゃないか、ええじゃないか、ええじゃないか ♪ 早く来んでもええじゃないか。 朝8時30分。ピンポ~ン♪。宅急便です!! 早すぎるねん。休みの日ぐらい遅く来い。 そんなに早うなくてもええじゃないか!! ええじゃないか、ええじゃないか、ええじゃないか ♪ 正月休んでええじゃないか。 「takam16君。1月1日は仕事ね。」 えー!! 上司は 「ええじゃないか、ええじゃないか、ええじゃないか ♪」 と踊りながら迫ってくるので 「ダメじゃないか、ダメじゃないか、ダメじゃないか ♪」 とこちらも踊りながら逃げ隠れしたのだが、万事休す。 すっかりご機嫌ななめのtakam16。 もーえーわ!!
城野 隆
一枚摺屋
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魚になってみる??

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takam16の本の棚
です。バーチャルですが......


 最近よく夢を見る。おかげで目覚めがすこぶる悪い。
いい夢ならいい夢で願いが叶う寸前に目が覚めるので
それはそれで不愉快なのだが、
悪い夢の方が多いから午前中はずっと機嫌がよろしくない。

例えば
この前見た夢はナイフを持った女に追いかけられた。
オレが何をしたというんだ?
その前は万引き犯と間違えられて取り押さえられた夢だった。
オレは万引きをする勇気がないのだ。するわけないだろ。
とまあ、こんな感じの夢というわけだ。
しかもおせっかいなことに正夢なんてことも考慮に入れねば
ならないのかなぁと、用心に用心を重ねているのだが、

最近見たこれまたどうしようもない一番新しい夢は「魚」だった。
「魚」といっても、魚を焼いた、食ったというありふれた日常生活などではない。
takam16がなんと「魚」になって泳いでいるのである。

背びれやら尾びれやらは漏れなく付いているから泳ぎはもちろん達者であるし、
なによりも初めての「エラ呼吸」を体験した。最初はちょっと戸惑ったのだが、
習得は人間以上だ。

「これがエラ呼吸なのだな。」

とニヤニヤしている自分がアホらしい。
しかし、2つほど大変やっかいなことがあった。まずひとつはウロコ臭いことだ。
魚の放つ独特のあの異臭だ。
そしてもうひとつは目が横に付いていることだ。
確かに斜め後ろも見えるし真横が見えるのは新鮮だった。が、正面となると勝手が
違う。目の玉を両方寄り目にしようと試みたのだが、ダメだった。
シマウマの気持ちがわかった瞬間だった。
しかし、水中で目を開けていても痛くないのは好都合だ。

また、水の中はなにかと危険が付き物だ。
とはいえ、サメやマグロやカジキがいるわけではない。
かといって、タラやワカメやカツオがいるわけでもない。

「おい!中島ぁ!!」

などと声をかけてもくれない。
というか、この場は海ではないのだ。そして川でもない。

汚染により濁りの激しい沼だ。水草が泳ぎの邪魔をするのはいいが、
空き缶やらタバコの吸殻やらがプカプカ浮いて、せっかく魚になった
というのに、とんだ扱いだ!! 人間のクズ野郎が! ゴミを捨てるな!!



と「魚takam16」が汚らしい沼の水深2mのあたりでぼやいていたところ、
水面近くでプカプカ角ばったものが浮いてやがる。それは白い色をしていた。
どうやら食べ物の類か? といいかげん腹がぐぅぐぅ鳴ってしゃれにならないので
ぜひいただきたいと思い、水面に上昇するのだが、そういえば、魚には手がない。
だからどうやって食にありつくかということをあれこれ思案したのだが、
その最中でもその白い奴はこちらにフェロモンを出し続けるのだ。
また、他の魚達に先を越されて奪われた時にゃ~、数時間後の飢え死には確約された
ものだ。

ここはなんとしてもGETしなければと、一目散にその白い奴に近づいた。
より近くでみてようやくわかったのは、
「絆」とか「一体」とか「命」とか、そんなニオいを感じたということだった。
そうだ。この沼地、いつまでも泳いでるわけにはいかないのだ。

ヤモリやらカエルやらザリガニやら危険だらけだ。
自分の命は大切に守りたいし、知り合いの魚が残念ながらこの沼には
いないようなので
新たな友を見つけ、絆も深めたい、孤独も嫌だから一体感もまたいい。
というよりもこれらを全部
あわせて平和な環境に行きたい!!

というわけで、食べ物じゃないことがわかったのだが、とにかくそれらを望んでいた
「魚takam16」は不慣れな横についた目ながらも自分の口がその白い奴の
正面に来るように体を向け、パクリとかぶりついた。ところがである。


その「絆」とか「一体」とか「命」とか、そんなニオいを感じる白い奴は
物凄い力で自分を水面から引っ張り出そうとしたのだ。必死にもがくtakam16。
しかし不慣れなヒレを使った泳ぎとエラ呼吸、それに横の目が抵抗を中途半端にさせる。
しかも口になにか針のようなものが食い込んでいる。

「し、しまった!!」

人間とはこうも残酷な輩。そして魚とはこうも単純な生き物。

「絆」とか「一体」とか「命」とか、そんなニオいを感じる白い奴の物凄い
「引き」のパワーに気絶寸前のtakam16。
口から泡がブクブク.....



「お客様、カバーをおかけしましょうか?」

「え?」

気持ちがあさってに向いていた自分に誰かが声をかけた。

ハッと現実に引き戻された。どうやら考え事をしていたらしい。
自分が魚になったらどうなのかという考え事だ。

声をかけたのは本屋の姉ちゃんだった。彼女はつくりえくぼで微笑んだ。
思わずお返しの笑みで応対するtakam16。残念ながらえくぼは出ない。

やられた。こんなしぐさでイチコロだとは... こちらは人間takam16。


というわけで、
「絆」とか「一体」とか「命」とか、そんなニオいを感じる白い奴......
まあニオいといってもそれはインクのニオい。
「絆」「一体」「命」....、それらは平和につながるもの。そのようなテーマを
常に物語で存分に語りつくす作家、梨木香歩氏が「白い奴」、
つまり白い表紙の新刊を出したのだから、一目散にパクついたというわけだ。

そして著者の訴えかけるパワーに引かれたというわけだ。 とにかくこの梨木香歩氏。図書館での貸し出し予約数は常にいっぱいだ。 古い作品でも回転率はすこぶるいいとは図書館員の話。 ちゃっかり図書館員に聞いているとはなんて準備のいいことだろう。 とにかく平和の願いを作品に込める著者。 ひとつの個から始まる著者の物語は別の個達とぶつかりあいながらも、 最後はわかりあえる、わかりあえるはずだ、 というのが一連の作品に見られる展開だ。これがすこぶる評判がよろしい。 そして、今作品においては、非常に壮大なスケールの物語をぶら下げてきたのだ。 パクリとかぶりつく「魚」の気持ちもわかるだろうか。 主人公の私こと久美。非常に現実的な女性である。その彼女はある日なんだか わからないが、親戚のおばさんから頼まれて先祖代々から存在する家宝を 受け継いだのだが、それが 「ぬか床」 というではないか。そんな家宝いらねー。 当然これがまあ面倒くさい。毎日「ぬか床」を掻き回さねばならないのだ。 変な家宝を背負ってしまったものだ、しかも友人にも言えないくらい恥ずかしいぞと 思っていたところ、その「ぬか床」からなんと卵が発見された。 おいおい、物語があさっての方向へ進みだしたぞ。もう少し読み進めよう。 するとどうだ。その卵がかえってしまったからさあ大変。 しかもかえったその生き物、ちゃんと話をする。 手もある。足もある。けど人間のようで人間でない。なんだコイツは?? 卵が1つならまだ許そう。ところが それが2つ、3つと発見されてまたまた大変。どんどんかえったらどうしよう..... ここで主人公はこのわけのわからない先祖代々の意味不明な「ぬか床」を どうにかせねばと考える。 実はこの「ぬか床」は元所有者から受け継いだ。その所有者が死んでしまったのだ。 もちろん先祖代々なのだから、元所有者は親戚だ。その親戚は独身なために子供がなく、 「ぬか床」を受け継ぐ者がいない。そこでその親戚の元所有者の姉妹であるオバさんが 主人公に受け継ぐようにお願いしたのだ。 また、数年前に主人公の両親が2人とも事故で死んでしまったのだが、 その理由に「ぬか床」がからんでいることをひょんなことから聞きつけたのだ。 さあ、この先祖代々の恥部、そして不運を招くであろう「ぬか床」の謎に 迫りたくなるのも無理はあるまい。 なんだか妙に非現実的なストーリーだが、この謎解きにtakam16も ワクワクドキドキ。 ここで、「ぬか床」にまつわる死の真相を知るべく、また「ぬか床」の相談を 死んだおばさんからされたことがあるというわけで登場するのが 風野さん、男性だ。 偶然にも主人公と同じ会社なのだが持ち場が違い、こちらは微生物の研究所に勤める人物。 またこれが生物談義がやたらと好きな男なのである。 酵母菌がどうとか、微生物はこうとか、遺伝子がああだとか本業ゆえに仕方がないの だろうが、とにかく生物にまつわる話にうるさくしかも細かい。 そんな奴、友人にいたら文系のtakam16は嫌だ! だが、この物語の核心にせまるには必要不可欠な人物とそして 生物談義だ。マークしておけ!! とりあえず、ここからの展開は本書にその回答を譲る。 著者には「平和」とテーマが常に物語に横たわっていることは先に述べた。 これは裏を返せば、平和でない場所が世の中がいたるところで日々起きていることを意味する。 著者が嫌う言葉は 「宗教」「民族」「人種」「男女」などによって必ずもたらされる 「区別」というものである。 「区別」の発生の先には強者と弱者ができたり、支配や差別という行為が行われたりする。 そして精神面ではついつい欲が出てしまう。欲はやっかいなもので心に留めておくことが 非常に困難なものだ。これが表に出てくるといろいろやっかいなことが起こる。 そしてその先に見えるものが、「殺し合い」そして「戦争」である。 梨木氏が本書において、壮大なテーマをぶらさげたそれは人間だけで世の中が成り立って いるのではない。動物も、植物も、そして細菌類もすべてをひとまとめにした 「生物」という壮大なテーマである。 人間も、犬も、猫も、カエルも、カマキリも、ヒマワリも、アサガオも、その起源をたどって いけば、その源はあるひとつのなにかに行き当たる。 しゃれにならないぐらい昔にあるひとつのなにかが生まれ、それは「分裂」と いう行為により増殖していった。それが次々に行われた結果、 例えば動物であったり、植物であったり、 そしてそこからさらにいろいろな種類の生物が枝分かれしていった。 やがて「分裂」という行為が、いつの日かなにかの理由で、 「結合」という革新的な方法により子孫を残すやり方が誕生した。 また、例えば同じ種類の動物同士でも進化の速度の違いや能力の違い、子孫を 残す方法の違いなどさまざまな理由により、さらに枝分かれしていき、 現在最も進化したのが人間といわれている。 しかし元はみんな同じところから出発しているのだ。 人間なんてちっぽけなものだ。進化はしたといえ、生物のほんの片隅だ。 なのに同じ人間同士、争ってどうなるの? 肌の色が違う?思想が違う?生まれた場所が違う?言葉が違う? でも同じ人間でしょ。だったらうまくやっていける方法があるはずだ。 それを考えるだけの能力を最も進化した人間が兼ね備えているのだ。 なのになぜ争い、戦い、殺しあう。 そんなことのために進化したのか、我々は? 梨木氏は以上のような信念を持って執筆活動をずっと続けてきた。 その最先端をいくのが本作品というわけだ。 このスケールのでっかさ、堪能するのはいつでもいいが、いつまでも待っている わけにはいかないのだ。なぜなら彼女のことだ。 さらに最先端をゆく壮大な作品を次々に生み出しうる潜在能力があるのだ。 梨木氏は、生物の進化について 「とめようのない流れ」 と本書において、否定的ではある。進化の結果、人間が得たがゆえに 起きていることのひとつに「争い」があるからだ。しかも同じ人間同士で。 しかし、氏の作品の進化については個人的には極めて肯定的でありたい。 著者の作品の進化を読者が味わうことができるのであれば、それは作家冥利に尽きる であろう。 さて、これをブログに置き換える。強引に置き換えてみる。 ここはアメブロなので、アメブロを例に挙げて考えた。 我々はアメブロに会員登録することで、アメブロという1つの生き物から分裂という 方法で命を授かった。それが個々のブログである。当然最初はブログの数は少なかった。 それはなんらかの方法により増殖していった。実際は宣伝や口コミという説明のつく 理由なのだがとにかく増殖し、今では何十万という数にまで膨れ上がった。 生物と違うのは、元の1つの生き物からスタートしている点である。 その中で話のあうもの同士が集まり、さまざまなつながりが自然にできあがった。 すると、最近アメブロはスクラップブックという新手の方法を生み出した。 他ブログ様にご説明するとスクラップブックというのは、ある特定のテーマを誰かが作り、 それに共感した、同感した人々が私も入ります、と言ってメンバーに加わる、言ってみれば クラブ、組合、PTA、そんなイメージと考えてくれればよい。 これを梨木氏に沿って考えると、「結合」ということになる。 ただし、クラブ、組合、PTAにたとえたスクラップブックというものは、 ひとつの壁をつくることにもなる。その壁の決め手は、そのことについて興味があるかどうか、 共感できるかどうかといった思想の部分だ。 ということは、そのグループにどうしても入れない者が生まれる。 それは自然に生まれるのではなく、積極的に生まれるのだ。 ありがたいことにアメブロの1ブログにおいてスクラップブックがあまり目立たないような 表示であることにはまだ救いがある。 ある生物の進化の過程には「分裂」による増殖から「結合」により新たななにかを生み出す という方向転換があった。 スクラップブックは極端に言えば一種の「結合」に似たものだ。 ブログはどんどん進化する。 アメブロにおいては、「結合」という新たな方法を誕生させた。 他ブログも含めてそうなのだが、 ブログの進化とその行く末がなぜだか梨木氏の本書で語る生物にまつわる 壮大なストーリーにどこか似ていると感じたのは、 ブログという命を持つ一(いち)ブロガーであればこその視点なのだろうか..... 例えばブログでよくあるテーマによる棲み分け。 それが「区別」に思えたのは本書を読んでからだ。 便利であることに異論はないが、それが強制されているような気を感じた。 みんなみんな~生きているんだ友達なんだ~♪ けどミミズやカエルやアメンボはねぇ~ と、躊躇するtakam16。 しかし魚の気持ちはちょいとばかし頭の中で実感できた。 「魚takam16」も捨てたもんじゃ~ありませんぞ。 そうだ。卵の産み方はどうするのかなぁ.....
 

takam16の本の棚
です。バーチャルですが......


不具合解消のため、ぼちぼち書いていきます。
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う~む。

どうも職場というところは"信者"が多いなぁと便座に腰を掛けながら腕組みを
している自分がいる。

ここはオフィスのトイレの中だ。しかし
偶然この文をご覧になった方々、そしてお食事中の方々も心配はいらない。
ブログは臭いを出すほど進化はしない。安心してお読みくだされ。

それにしてもである。
"信者"にもいろいろあり、物言いに語弊があってはならないのでちゃんと
説明するのだが、

どうも職場には、特に我が職場には
「織田信長"信者"」
が増殖しているように思えてならない。

急に怒鳴り出す輩がいるかと思ったら
今度はあのバイト野郎をすぐクビにしろと
わめき出す輩がいる。

仕事の後は皆を強制的に飲みに誘う上司は
「がははははは!」
と宴のさなかに大笑いし、周囲の部下はしゃれにならないぐらい
縮こまっている。

感情の起伏は極めて激しく、泣きはせずとも怒りと笑いは天下一品。
そんな男は大の相撲好き。仕事のさなかに相撲をやれと言われるのでは
ないかとみながビクビクしている。

(注) 織田信長は大の相撲好きであった


職場とは、まさに信長率いる戦国時代の世の中か? 
と錯覚を起こす近頃のtakam16。
穏やかな物言いが特徴(と勝手に思っている)の自分に対し、

「そんなことでは生き残れぬぞ!!」

と威圧的な上司。いつ刃物が出てくるのか気が気でない。

だから便座で腕を組んでいるのである。
ちなみに紙はしっかりと設置されていることは確認済みだ。

(注)以前、紙がなくて往生した経験がある

この職場の連中を魅了する織田信長。
魅了の理由が経済政策、例えば楽市楽座などの商業自由化や
家臣をいかにうまく働かせるかといった人心掌握面、あるいは
即決・即断力であるならまだわかる。

気に入らないからあやつをやめさせろとか、
わしを誰だと思っているのじゃ
とどこの時代劇を真似たかはわからないような口調で部下を
混乱させるのはやめていただきたいし、だいたい尾張国(今の愛知県)
の生まれの信長を真似るなら名古屋弁でしゃべるのがよろしかろうに、
関西弁でどやすから滑稽かつ末恐ろしくなる。

職場の信長"信者"はどこかを勘違いしている。これでは"患者"だ。
政策よりも性格を真似てははなはだ迷惑だ。
しっかりしてもらいたい。


しかし、今の信長"信者""信者"になる過程には
織田信長という人物についての物語や言い伝えを読み、学ぶ必要がある。
そして信長をテーマにした一連の物語もあらゆる過去の織田信長にまつわる
資料や史料を精読せねばならないのだ。
そして、必ず小説の書き手達が織田信長という400年以上も前の人物を
知るために避けて通れない史料というものがあるのだ。

「信長公記」。

織田信長という戦国武将のそばに仕えた人物が記した一級史料である。
それが、江戸、明治、大正、昭和、そして平成と受け継がれ、
残されてきたのだ。

その作者を太田牛一(おおたぎゅういち)という。
ある1人の一生涯を書き綴るためには、心底からその人物に惚れこまねば
書けるはずがない。それは未来永劫のものだろう。

太田牛一もその1人である。その物書き太田を主人公にした歴史ミステリー
が今、ちまたで人気を誇っている。

「信長の棺」。 ちょっと前のことだが、小泉純一郎が本書の愛読者だと紹介 されたことをきっかけに今年5月に発売されたにもかかわらず、 まもなく年も締めくくりにさしかかるこの時期にまで人気が及んでいる。 問題は小泉なのか、信長なのか、あるいは純粋に本書の中身なのか。 補足しておくが、この段階まで便座で腕組みをしているわけではないことを ご理解いただきたい。さもなくば、とんだ長居となってしまい、 我慢しきれない連中がにっちもさっちもいかないことになる。 トイレからはもう離れてくれ。 話を戻そう。 本書は始まりから慌てふためいている。 本能寺の変(1582年6月2日)を耳にした信長の側近達がバタバタするところ からが物語のスタートだ。 居城の安土城(場所は今の滋賀県琵琶湖東南の辺。事件後、すぐに焼き尽くされ今はない) の下で信長の死の知らせにジタバタする家臣達。 もしもシブガキ隊がこの時代に存在すれば 「ジタバタするなよ!~♪」 と絶妙のアドバイスに一息つくこともあるのだが、そのようなフレーズの ない時代に気休めは無用だ。信長を襲った明智光秀の軍勢が今にも攻めて こようとするのだ。さらに頂点に立ちうる人物を突然失ったことへの不安。 主人公の太田もその時安土にいた。 彼は当時、信長の側に仕え、安土城で主に信長が家臣に送る文書を管理し、 そして家臣から信長に届けられる書類を管理していた。 公文書、密書の両方である。 本能寺へ旅立つ前、信長は太田に重要な任務を命じていた。 「指令があればすぐに届けろ!」 それは信長から預かった5つの木箱。それは太田のみが知る木箱。 安土城でその指令待ちをしていた太田。 そこに信長が死んだとの知らせ。 関連文書は隠さねばならないし、第一に5つの木箱をどうにかせねば ならない。秘密事だからだ。 この逼迫した書き出しでつかみはOKである。 読者はその後の太田の生き方、それを通じておまけに5つの木箱の 謎にも迫れる楽しみがある。 太田の生き方は本能寺の変の前と後とで大きく変わる。 太田は自身、日記を付けていた。 信長の死後、 その日記を基に信長様の事績を伝記風に纏(まと)めてみよう!! と思い立つ。 お側に仕えて幾十年。最初は足軽衆として「弓」で武功をたてた。 その後、信長の「真の」お側で働くことになった太田は信長という 人物を間近で確認でき、そして冷徹な面がありながらも、それらを 一掃してしまう彼のカリスマ性に心底惚れ込んだゆえに信長伝を書こう と決意したのだ。織田信長という人物への敬愛。これこそが のちの世に伝えられることになった「信長公記」執筆の原点 が本書を通じて味わえる。 文中に度々出てくる 「信長さま」がまさにそうだ。 そしてもうひとつ。敬愛する「信長さま」の偉大さを後世に伝える ことで、太田牛一の名が末代まで残るという考え方。作家なら誰もが 持ちたい理想。現実に太田の名は末代まで残っている。 太田牛一、してやったり!! しかしながら、惚れた人物を書くとどうしても良いことばかりを書き連ねる ことになる。太田本人はそれで大満足なのだが、それを許さぬ者がいた。 のちの権力者、豊臣秀吉である。本書にももちろん秀吉は登場する。 しかし信長に対して死んでからも「信長さま」と語る一方で、 豊臣秀吉は物語中においては現存するにもかかわらず、心の中で 「この男」 「秀吉」 「太閤め」 実際、太田は信長亡きあと、秀吉のもとに仕えるのだが、 その「秀吉」が太田が執筆する信長伝に横槍を入れるのだ。 そして、訂正、改変をさせようとするのだ。 その太田と秀吉のやりとりも面白い。 またそういう気に入らぬ権力者のパワーハラスメントに対抗した 太田のしかけ。それはこの世に現存する「信長公記」につながっている。 歴史事典の「信長公記」を索引から探しぜひ読んでみてほしい。 歴史をミステリー仕立てにした場合、日本史において最も盛んなのは 近年、織田信長にまつわる話題である。 なかでも2つの出来事には謎が多い。   ① 信長が今川義元を桶狭間(今の愛知県は中京競馬場のあるあたり)で   奇襲攻撃した1560年の戦 ② 本能寺の変にいたる経緯とその前後    ・明智光秀の計画    ・信長の死体    ・豊臣秀吉の本能寺の変とのかかわり 物語において、太田牛一の「信長公記」に秀吉の横槍があったと述べたが、 その横槍を織田信長にまつわる上記の謎にからめている点は注目だ。 最もホットでミステリアスなネタが本書「信長の棺」にしっかり収まっている。 それはまるで棺の中に一連の物語が収められていると言い換えてもよさそうだ。 この物語がイコール信長の謎がテーマだからだ。 そしてすべてをひっくるめてタイトルが「信長の棺」となっている。 本自体が棺というわけだろうか。 ならば実に面白いではないか。 作家で直木賞選考委員の津本陽氏も織田信長にほれ込む1人である。 週間ブックレビューにおいてゲストで出演した氏は、信長について 「400年以上も前の人物とは思えない。」 と語った。信長があと10年生きていたならば、ヨーロッパよりはやく 産業革命を行っていたかもしれない彼の先を見る目。 そういう果たせなかった彼の理想を描いた作品が
である。人並み外れた猜疑心と攻撃性が特徴の信長の夢は海外進出で あることを最終目的に書かれた本書。 こちらはキリスト教布教のために日本を訪れた宣教師 ルイス・フロイスによる「日本史」 からヒントを得ているか。 1500年代後半から1600年代はポルトガル、そしてスペインの 勢いが絶大であった。当時、キリスト教の布教許可を与えた信長は ルイス・フロイス、ヴァリニャーノ、オルガンティーノといった布教のため に訪れた人物を通じて世界の情勢を把握しようとしていた。 その結果導き出した海外進出構想とは ・中国大陸(当時は明)は征服せずに交易で利益を得る ・ルソン島(当時はスペインが島を牛耳る)を制圧し、    アカプルコ(現メキシコ下、当時スペイン領)を攻める ・ルソン島制圧後、さらに南の現インドネシアの島々から西を目指す (注)フロイス日本史では中国大陸は征服構想となっている というもの。しかし、その道のりを目指したくても目指せない理由があった。 ・自身に歯向かう戦国武将の存在 ・信仰により結束力を強めた石山本願寺と一向宗徒 ・信長の性格とは正反対の保守的な天皇・朝廷の存在 これらの苦悩ぶりを本書で主に描くことで、理想や夢というものをよりいっそう 膨らませる。こちらはミステリーではなく、また文中には時代考証も多く、 会話文もおそらく当時に近いものを再現しようとするために、「信長の棺」 とはその趣は異なる。 よって「覇王の夢」においては、明智光秀の謀反話についてはたったの一行で 済ませている。信長が本能寺において 「茶会を開くため、馬廻り衆を少なくした。」と。それが「命取り」と。 この点、「信長の棺」は本能寺の変は物語のクライマックスだ。たっぷり 書かれている。 また、「馬廻り衆を少なくした」原因を異なった視点 で描いている。 生きた信長の理想を描いた「覇王の夢」と 死んだ信長の真相を描いた「信長の棺」とでは 同じ人物を描こうにもこうも違った話ができあがる。 さて、「信長の棺」の著者である加藤廣(かとう・ひろし)氏は、今年75歳であるが 本作が実はデビュー作である。元来は経営に携わる仕事で名を世間に知らしめている。 デビュー作に信長話を持ってきたということは、彼も信長の"信者"かと思いきや、 実際はこれがそうでもないのである。 著者には常々1つの疑問があったようだ。 歴史街道12月号での著者の話によると 「小説家として信長を褒めすぎることはかえって信長の実像を見誤ることになりは  しないかと危惧している」 という考えが根底にある。 つまりあまりにも世間に美化されすぎた信長像にちょっと待ったぁぁぁ!! と歯止めをかけようとした。 だからこそ信長への敬愛に満ち満ちた太田牛一を主人公にした。 そして愛する信長をどうしても美化して書こうとする太田の執筆に いろいろと難癖をつける輩を登場させている。 それが秀吉であったり○○であったり...... 本書を読み進めるにあたり、著者の姿勢はぜひ頭に置いていただきたい。 織田信長の偉大さは、 時代をまたにかけて、同じ史料を通じているにもかかわらず、 あらゆる光の照らし方を各作家がしながらも、織田信長をうまく引き出すことが 可能である点だ。 よって両書の併読をお薦めする。 先に"生きた信長"「覇王の夢」で彼の苦悩と理想をたっぷり堪能しよう。 その後、"死んだ信長"「信長の棺」で歴史ミステリーの醍醐味を味わおう。 また、信長が好きな津本陽氏と、信長に懐疑的な加藤廣氏という 意味でも面白い。 するとどうだ。信長まがいの上司がアホらしく見える。 芝居じみた構想しか持たぬくせに、信長の仮面をかぶった上司が腐って見える。 ときはいま あめがしたしる さつきかな この連歌は明智光秀が織田信長を討つ直前の決意の一句という説の一方で、 もう少し前に謀反に迷っている明智の悩みの一句という説もある。 先日、上司に業務の報告をした。すると上司が一言、 「あいわかった! 下がってよいぞ!」 家に帰ってじっくり考えた。便座に座りながらである。 あくる朝、 ときはいま あめがしたしる しわすかな 解釈は、前者の決意の一句としてほしい。 出勤じゃあ~、出勤じゃあぁぁぁぁぁぁ!! しかし待て。師走まであと2日。しかも雨が降らねば反旗をひるがえせない。 従って、大人しく出勤した。 ボーナスGETのためだ。 されど信長、たかが信長である。 だらしのない明智ことtakam16なことで.....。 最後になるが、本書が出版後半年経っても人気の秘密。 それは小泉純一郎の愛読も理由のひとつかもしれない。 彼の名を出すことで本書の知名度が高くなったことは事実である。 しかしながら、小泉氏を抜きにしても、 この75歳の新人作家、並々ならぬ努力家だ。莫大な史料を読みあさり、 歴史の謎に迫ろうとした著者。しかもそれをミステリー仕立てにして 読者の心をかゆくさせる。 我々だって信長の入った棺 をちょっと覗いて見たくなる。 くすぐりどころがまさにピンポイントである点は狙いも仕掛けも抜群だ。 信長とはいかなる男か。 信長はどんな死に方をしたのか。 信長とはいったいなんなのか。 さあ、「棺」を開けに本屋へ行こう。 ときはいま ふゆにおりたつ てんしかな [解釈] 書店は今の季節同様冬の時代である。そんな中、75歳の新人作家が 放った本書は読者の心を温め、同時に書店の売上を伸ばす天使のような 存在なのかもしれない。たとえそれがその場しのぎであったとしても。 皆の者、今こそ書店へ足を運ぶ時が来た。入店じゃぁ、入店じゃぁ~!! (注1)書店様はくれぐれもこの記事を読んで買いに来られるお客様に対し、   品切れなどなさらぬようご注意下さいませ。さもなくば、お客様は   確実にあなたがたの書店に足を運ばなくなる恐れがあります。 (注2)読者様はくれぐれもこの記事を読んで書店に足を運び、品切れだったと   しても、その書店を見捨てないで下さいませ。こんな記事が発信された   からといって書店が本の入荷をするわけでもありませぬので。 (注3)読者様はたとえ本書を購入し、読書をした結果、つまらないものであった    としても、takam16を叱らないで下さいませ。さもなくば、気が    小さいtakam16のこと。発信する字が今までの半分の大きさになって    しまいます。気の小ささをそのまま字の小ささでごまかしてしまいかねませ    ぬので、どうか広い心でお願いいたします。 (注4)歴史音痴を自称する方は本作品は決して触れてはなりません。    さもなくば、手がかぶれます。(乾笑) 

仕事は........○神?

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です。バーチャルですが......


  前回の記事では、

「家族・友人・知人にブログのことは言えません。」

でのお話で皆様の鼻をムズムズさせたようで、多くのコメントを
いただき嬉しい限りなのですが、すっかり秋も深まった10月後半、
最近の朝晩の冷え込みにもかかわらず、
窓を開けっぱなしにして「ガ~スカ」寝たものだから
本当に鼻がムズムズしてしまい、大変不覚なtakam16です。

は~っくしょん。


さて、ブログよもやま話で皆様を賑わしても所詮は
「本と本屋と図書館に魅せられて」。

長い休暇の後に元の生活に戻るのが困難なように、当ブログもまたタイトル
に沿って話を元に戻さねばなりませぬ。襟を正して真面目にいきましょう。


は~っくしょん。



あなたの仕事は何ですか?

と尋ねられれば、私の仕事はなんと答えるであろう。

私の仕事は本屋さんです。
私の仕事は図書館司書です。
私の仕事は新聞記者です。
私の仕事はパイロットです。
私の仕事は○○会社の社長です。
私の仕事は専業主婦です。
私の仕事は学生です。


人によっては、なかには魅力的な答えもあるかもしれず、それは
特殊な仕事か高給が期待できる類のものだろうが、
まあありきたりだ。妙味がやや欠けている。
だったらこういうのはどうだろう。

あなたの仕事は何ですか?

私の仕事は「死神」です。


「!!!」


生きた人間の魂を死後の世界へ連れて行くのが死神の仕事だ。
そんな死神を主人公にした作品が文芸誌での数回の掲載を経て
単行本となって世に生まれた。

心配するな。この本自身に死神はついていない。ネタが死神なだけだ。 胸を張って堂々と読もうではないか。 本書の主人公は当然、「死神」である。 しかし、先述のように 私の仕事は 死神 です。 などと教えるわけがない。もしも死神であることをバラしたら、 それでこの物語にはケリがついてしまう。そんな設定を 作家、伊坂幸太郎が望むわけがない。 この主人公の死神は、どうやら情報部というところが部署らしい。 ならばこれは株式会社「死神」か、というとそういった部分はこの 物語には不要のようだ。 主人公の名前は千葉という。そして千葉は情報部に所属する。 では情報部とは何をするところなのか、 あらかじめ別の部署が近々死が必要ではと選んだ特定の1人の人間を 情報部が調査に行って、その人物が「死」を実行するのに適しているか どうかを判断し、その報告をするのが仕事である。 調査期間は7日間。その間に必要だと判断すれば「可」の報告をし、 8日目にその人物は死ぬことになるのだ。担当した情報部の死神は 8日目にその「死」を見届ける。それで仕事が完了する。 「死」を扱うテーマといえば本来、重くてずしりと肩にのりかかった、 読後感もこってりしたものが多い中、この「死神の精度」における爽快感は いったいなんなのだというのが第一声である。 主人公の死神こと千葉は、与えられた「死」を判断する仕事のために、 対象の人物にあわせて、年齢や風貌を変えている。例えば、 ・20代前半のOLには、イケメンの20代の男。 ・やくざには、40代の中年男。 ・服屋の若手社員には姿勢のよい好青年。 ・殺人を犯した者には、30代の会社員。 のようにである。 また、いろいろと含み笑いを連発してしまう妙な主人公である。 本来は7日間で死を判断せずとも、すぐに判断して「可」にしてしまえば 仕事は終わりだ。なのに主人公は7日間ギリギリまで判断を遅らせる。 理由は仕事に真面目だからではなく、仕事が早く終わってしまうと自分も 人間の世界からいなくなってしまい、それではCDショップで音楽の視聴 をする楽しみがなくなるからなのだ。 この死神、人間の作ったもので最もすばらしいものを「ミュージック」といい、 最も忌み嫌うものを「渋滞」というのだ。 気持ちはわかるがこれでは普通の人間と同じじゃないか。 ところが、対象の人間に変な質問を浴びせかける。 「恋愛とはなんだ。」 とか 「旅行とは、どういう行動のことを指すんだ?」 これらを訝しげながらも説明する人間もまた面白い。 さらに主人公は死神であるゆえに、妙な特性がいくつかある。 人間に素手で触ると、触られた人間の寿命が1年減ったり、 食べ物の味がわからなかったり、 おなかが減る・いっぱいになることがなかったり 殴られても痛みを感じなかったりと.....。 人間でもない、妖怪でもない、そして妖怪人間でもないこの死神。 妖怪人間は 「早く人間になりたい~!」 などと主題歌で叫んでいたが、結局その夢を果たせなかった。しかし この死神は人間なんて滅相もないことが文中ににじみ出ている点にも注目だ。 なのに人間の姿・形で普通に対象者に接触し、会話をし、時には衣食住を 共にする。もちろん指は5本ある。そして決して見た目は怪しくない。 6つの短篇を単行本にしたのが本書であり、どれも工夫をこらした一級品だが 中でもお気に入りだったのは、ある館に招待状により集められた数名が次々に 死んでいく事件が題材の物語だ。普通に考えれば、よくある古屋敷で次々に起こる 連続殺人として読み手をとりこにするはずが、この話は死神の物語。 死んだ発端はもちろん情報部各々の業務のひとつというわけだ。 死神は千葉だけではない。他にも多くの死神が働いている。 一人一人に死神が付いて、忠実に仕事をしたというわけだ。 これほど客観的に屋敷の連続殺人を楽しんだことはなかった。 図書館に行っても伊坂幸太郎の作品はそう易々と借りられるものではない。 新刊の予約の件数は常に2桁。大きなところでは3桁だ。死神こと千葉の 嫌う「渋滞」言い換えれば「行列」が図書館ではおきている。 一方、すばらしいと死神が褒め称える「ミュージック」。 これは伊坂幸太郎が実際に好むジャンルの1つだ。 著者が繰り返し聞く3枚のCDが週刊文春で紹介されていた。 昨年の8月12日号である。 ・THE ROOTSTERS ・斉藤和義の全アルバム ・ソニー・ロリンズ 「ソニー・ロリンズ vol.2」 本書におけるミュージックが上記の音楽であるということではないの だが、他書において音楽の話を盛り込んだ作品、一文を見つけたなら、 伊坂幸太郎と音楽との関わりについていろいろ思案するのもありなのでは ないだろうか。 さてこの死神。あろうことか大阪に居を構える管理人ことtakam16 が愛してやまない阪神タイガースにもどうも付きやがったらしい。 4連敗だ。死神の仕業に違いない。 死神は7日間で「死」の判断を行い、調査の結果「可」としたならば、 8日目にそれを実行する。 つまりは昨日(10月25日)、「可」の判断をし、今日(10月26日)に 実行の運びとなったわけだ。調査が始まったのは10月19日か。 そして死神はその「死」をちゃんと見届けることでその業務を終える。 阪神は今日4敗目を喫し、「死」を迎えた。そして、それを見届けたのは 誰だった? 「死神の精度」の主人公は誰だった? 千葉だ。 大変遺憾である。 は~っくしょん。

趣味は読書。

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です。バーチャルですが......

 アルバイトの面接において、話に行き詰まったりすることが多々ある。
自分が相手にうまく話させる技術も足りないのだろうが、相手もこんな場面じゃあ
仕方がない。
いささか大げさではあるが、面接というものは生きるか死ぬかの勝負事
というものだ。緊張というものが会話の邪魔をする。

働きたいにもいろいろわけがあろう。
小遣い稼ぎが目的の者もいれば、生活のために食べていかなくちゃあならない
ために働く者もいる。また、どうしてもこの業種で働きたいんですという
嬉しい悩みもある。

例えば本屋さんだ。自給は市町村で定められた最低賃金の法に抵触するか否か
のケチん坊ぶりだ。苦しい台所事情が伝わる業界の1つだ。
しかしながら、そんな激安バイトでも書店で本に囲まれて働きたい人にとっては
現実などどこ吹く風、理想をとことん追求する。大好きな本に囲まれたいと。

しかし冒頭にも述べたとおり、相手は緊張で会話のキャッチボールがぎこちない。
ワンバウンドはおろか、キャッチャーミットにすら届かない。
そこで面接する側は考える。そうだ、履歴書の趣味から話を膨らませようじゃないか。

ところが、この趣味ときたらなんだ。

「音楽鑑賞」
「ショッピング」
「スポーツ観戦」 

そして

「読書」。

このいかにも本屋で働きたいがために自らをアピールする意味の「趣味は読書。」
そこで話は寸断である。ハイおしまい、次の面接の人、である。

しかしながら、履歴書に「趣味は読書。」と書かれてビクともしなかったのに、
本のタイトルに

「趣味は読書。」

と持ってこられちゃあ、ハイおしまいでは済まないのが、趣味が読書である当管理人
である。

  何もかも、タイトルがきっかけの第一歩であることを信じて疑わない当管理人。 さっそく引っ掛かってしまった。歯に衣を着せぬ文章は私に任せなさいということを 読者にいつも訴え続けている(ように感じる)斉藤美奈子さん。 タイトルのきっかけづくりは大成功である。 本の色もいい。黄色だ。目立ちたがり屋の王道を進んでいる。 さて、中身をちょろりと開いてみれば、さっそく出ました。斉藤節。 「さあ、もうおわかりだろう。『趣味は読書。』なんていう酔狂な本を手にしたあなたは...」 ひぇぇぇぇぇ、罠にはまったよ。 美奈子の世界へよ・う・こ・そ。色恋モノかよ。 さて、上は前書きの一部分なのであるが、同じ前書きに次のような区別が登場する。 なお区別の説明箇所は短く変えて記す。 「偏食型の読者」.... 特定のジャンルしか読まないタイプ。 「読書原理主義者」... 本であればなんでもいいし、本なら何でも読めと強要までするタイプ。 「過食型の読者」... 読んだ本についてあれやこれやと論評し、頼まれもしないのにネットで           読書日記を公開するタイプ。 「善良な読者」... 本の質や内容までは問わず、「感動しろ」といわれれば感動するし、「泣け」          といわれれば泣き、「笑え」といわれれば笑うのが欠点で、趣味の欄にも          「読書」と書き、「本を読むのが唯一の楽しみで」と臆せず自己紹介するタイプ。 さあ、皆さんはどれに当てはまる? とここで自分を4つのタイプの中のどれだろうと考えてしまった人は、それこそ美奈子の 世界にどっぷりつかっている。いや、再び罠だ、罠にはまってしまった。 自分も悔しいことにこの罠の餌食になった。 つまり「趣味は読書。」で十分魅せつけておいて、さらに前書きにおいて、読書人の4つの タイプを読み手に差し出した。これぞ我々日本人の多くがいつまでたっても愛してやまない 血液型某やら、水星某・土星某のズバリものやら、動物型某やら星座某といった型に はめ込むやり方であり、これこそが斉藤美奈子氏の思うツボである。うまく利用したものだ。 そしてこれらの著者の物言いを訝しげに感じた方がいるなら、それこそますます 思うツボである。 それが、先述の 「さあ、もうおわかりだろう。『趣味は読書。』なんていう酔狂な本を手にしたあなたは...」 である。 実は本書の中身は平凡社のPR雑誌「月刊百科」の「百万人の読者」という連載の集合体 で、過去のベストセラーについて読者をハラハラドキドキさせながらも痛快に斬りまくる 著者のコラムである。「海辺のカフカ」「大河の一滴」「ハリーポッター」などなど本屋の売上に 貢献してくれた、書店員が努力しなくても売「れる」本を読んでいなくても、私がその内容を 教えて差し上げよう、それで読んだ気にもなるだろう。ただし言いたいことは言わせてもらうと いった類のコラムが40冊分以上集められたシロモノである。 こちらが本書のメインなのであるが、 元来書評や感想などというものは、もしも読書経験のある本であるならまだ付け入るスキは あるものの、 それがわからない者、読んだことのないものにとっては何も心に残りはしない。 よって、残念ながら紹介された約40冊を血眼になって読むような箇所は ほぼ皆無であった。 ブログの書評も同じことだ。少しでも読んでみてはと気配りでも見られない限り、 自分の制空権にかすりもしない本の紹介に何を感じ取ればよいのかがさっぱりわからない。 よって著者の紹介する一連のベストセラー本としてのコラムに触発されたり、感極まるなど という場面に出くわすことは残念ながらなかったのであるが、 実はこのコラムを1冊の本として刊行した時に、訴えかけるポイントを斉藤美奈子氏は 考えた。 最初から1冊の本にすることを念頭に、それも小説ではなくコラムを書くというのは普通は 考えない。 そこでモノを見る角度を変えることを試みた。 読書人分析だ。読書人を4つのタイプにしたのであるが、 さらにその読書の枠をはみ出して考えたのである。 それを著者は「民族」「部族」に例えたのだ。 同じ読書をする民族が、さらに 「偏食型の読者」、「読書原理主義者」、「過食型の読者」、「善良な読者」の4つの部族に分け られるのだ。ある人はベストセラーなんてと蔑み、ある人は本を読めなどと強いる。 一方で本にどっぷりつかるのなんてたくさんだという人だっている。そして読書人という 狭い領域で共感を覚えた者同士で小さな世界を作り出す。 書籍の市場は、数字の上では1兆円。他のレジャー産業の躍進を考えると毎年衰退傾向だ。 そんな年々小さくなってゆく民族の中でさらに部族を作って派閥を作っていったいどうなのさと いうわけだ。 この民族・部族の例えは言ってしまえば著者の最大限の皮肉ではなかろうか。 そして、この読書人の区別も精一杯の我々への皮肉ではなかろうか。 まず、趣味で読書人を分類されることに当管理人はこの国に生まれたことへの安心を感じる。 趣味の区分けであーだこーだ議論が出ること自体が幸せなことである。 他国では趣味といった内面どころか、肌の白黒といった外見のみの判断や、真の意味での 民族、宗教の違いで実際にいがみ合い、憎しみあい、争い、人が死んでいくのだ。 「趣味は読書。」もよくよく考えたら日本に生まれたことにもっと感謝してもいい。 アフリカはどうだ。15歳以上のアフリカの識字率は60%、その最低は13%のブルキナファソだ。 おまけに貧困で彼らは苦しみ、寿命といえば、シエラレオネなどは40俊代が平均だ。 老後はゆっくり読書など、悠長なことは言ってられない。 趣味は読書 ? そんな場合じゃあない。生き抜くことに精一杯なのだ。 本書を知る前に梨木香歩の「村田エフェンディ滞土録」を読んだ。人種も民族も宗教も文化も違う 者同士が集う街、イスタンブールを舞台にした物語。彼らは互いをわかりあおうとし、 実際にわかりあえた。 読書だってベストセラーを読んでもいいし、ジャンルの偏った本を読んでもいい。 そんな国で育ったのだ。誰が何を読もうと別にそれでなんの問題もない。 難解な本を読んで偉くもなければ易しい本を読んでバカでもない。 人それぞれの置かれた状況で読書タイプやスタイルは変わるのだ。 何度も言うようだが区分けされた4タイプは、あえて著者がしくんだ提言に思えて仕方がない。 いや、著者以上に平和や他文化の共有で物事を広く捉える目を養ってもらおういう出版物の 特徴を持つ平凡社がしくんだ提言に思えて仕方がない。 その上で改めてじっくり著者の斬れ斬れコラムを読むと、少し視点が変わるのかもしれない。 なお、本書「趣味は読書。」は望めば誰の力も借りずに本屋あるいは図書館でタイトルに魅 かれて手に取りたい書であった。 他ブログ様の紹介がこの本を手にするきっかけになったことは それはそれでありがたいことなのだが、自分で発見できなかった悔しさもある。 従って、もしこの記事を読んだ方々がこれをきっかけに本屋・図書館に足を運ぶことを 自分は好まない。 「邂逅」という思わぬ出会いで「趣味は読書。」を手にした方がうらやましい。 だから、読者様の中で初めてこの本を知った方がいるなら、一度頭をリセットされることを 期待する。 さらに個人的には面接で「趣味は読書。」でハイおしまいはもうやめた。 これからは、「趣味は読書。」をきっかけにもっと前向きな質問をを投げかけることを 試みたいと思う。 というより、本屋はもうやめたのだ。新たな職場(もう数年経つ)でこの前向きな質問、 いったいいつになったらできるのだろう。まだそのような地位にはない。 本書との出会いを提供してくれたブログ管理者、つな  (敬省略)
斎藤 美奈子
趣味は読書。
 
takam16の本の棚
です。バーチャルですが......
 本の話でウダウダ言ってきた当管理人であるが、
こう見えても、旅の仕事をしていた過去を持つ。
特に土日・祝日・大型連休にはツアーコンダクターという任務も
あったわけで、一般的に人気のある名所にはご縁があった。
残念なことは海外添乗の機会が研修のみであった点で、悔いは残っている。

大型連休といえば、ゴールデンウィーク、お盆休み、そして年末年始がある
のだが、今回思い出したのはゴールデンウィークの方だ。

西日本では以前より本州と四国を結ぶ瀬戸大橋が有名であったが、新たな
連絡橋ということで、兵庫県の明石と淡路島を結ぶ明石海峡大橋が完成した。
1998年のことである。すると、旅行会社としては当然この2つの橋を
利用したツアーを組むことに躍起になる。

ゴールデンウィークの5月3日、そして5月5日は香川県の琴平にある金毘羅宮
でそれぞれ憲法記念祭、子供祭などと呼ばれる催しが行われる。
これを利用して

「明石海峡を渡って金毘羅、土佐、鳴門の渦潮を巡る旅」

という1泊2日のツアーを2回連続で行かされる...いや、行くことになった。
行程はこうだ。


1日目。
朝7時30分。大阪をバスで出発し、高速道路で一気に岡山県。瀬戸大橋を渡って
四国の玄関口、坂出のインターチェンジを降りて門前町の琴平で讃岐うどんで腹ごしらえ。
お昼ごはんである。
食後は専門ガイド付きで金毘羅宮へ登る。登るというのは、その場へ辿り着くには
1368段ものかつ、中途半端な幅の石段を登って参拝するというわけだ。
この時点で参加者もtakam16も皆が全体力を使い果たす。
参拝後、今度は南へ下って土佐の高知市内で宿泊だ。高知県は病院の数の多さで有名だ。
気休めに出た夜の食事にかつおのたたきも今日はもういい。お疲れだ。早く寝る。
しかしながら夜中中救急車のけたたましい
サイレンで落ち着かない。

2日目。
朝7時40分にホテルを出る。とにかく出発が早過ぎる。向かう先は桂浜。坂本竜馬の銅像が
そびえ立つものの、お客は早過ぎる像とのご対面に心に記憶がうまく焼く付かないらしい。
そのあと、午後の目的である徳島は鳴門の渦潮を見るのだが、その道の途中、祖谷(いや)渓
という観光地がある。祖谷のかずら橋というけっこう揺れを感じる女子供にはスリルが期待できる
シロモノだ。そして鳴門の渦潮を見学後、いざ明石海峡大橋である。横浜などにも夜にふさわしい
橋があるが、明石海峡大橋の夜のライトアップも悪くない(完成当時)。
そこから大阪までは道が混んでいなければ1時間15分で帰着である。到着は夜8時50分。

というのがこのツアー内容。ところがこれをGWに行ったとなるといったいどのようなことに
なるかは想像していただければわかるはずだ。


お客は皆、金毘羅宮で繁栄や仕事運、健康や平安をお祈りしたのだろうが、takam16の祈りは
ただひとつ。早くホテルに着きますように、そして早く帰れますようにである。
なのにどこへ行った、神とやらは!! 結果は散々であった。
GWにバス旅行などもってのほかだ。ホテル着が9時を過ぎ、大阪への帰りは夜中の2時だ。
お客はそんな真夜中に大阪に着かれても困る。もう電車は走ってないのだ。
そして連続で同じツアーの仕事なわけだ。家に帰るのは夜中の3時。すぐに次のための準備を
して再び家を出るのは朝の5時。
顔色の悪い、目の下にクマをたっぷり仕込んだ添乗員にお客が好意など抱くわけがない。
ああ、お疲れだ。


金毘羅の話をしようと思ったのが、ついつい強行ツアーの不愉快な思い出をタラタラと語ってしまい、

「あいすみません」

なのだが、つまりは何のお話をするかというと、
宮部みゆきの「孤宿の人」を読む機会があったから紹介と感想を書きたかっただけなのだ。

この物語、讃岐国(今の香川県)の丸亀藩がモデルなのだ。 そして、「あいすみません」は宮部時代ミステリーに頻繁に登場する会話のひとつ。 出版社の新人物往来社のHP をご覧いただければ わかるのだが、 悲しいお話なのですが 悲しいだけではない作品に したいと思い書きあげました とはご本人のメッセージである。 簡単に言えば、主人公で10歳になる「ほう」がある事件にからむ重要なことを目撃してしまった ことから話が始まる「殺し」がからむ「ほう」の成長物語である。 成長物語のみで勝負をしてしまえばそれで事無きを得るのだろうが、そうは「みゆき」がおろさない のが著者である。そして読者もそれでは困るのである。だからこその上下巻である。 江戸時代の庶民の暮らしぶりを摩訶不思議な事件や出来事とうまくからませながら話を進める のは著者の得意とするところである。 文中でしばしば見かける人間の性の講釈を大事に説明する点も健在である。 しかしながら先述の宮部氏の言葉にもあるように、 笑うには多少難儀する場所、例えば電車の中や待合室といった向かいや隣に他人がいるような ところで 「ぷぅ~。」 とふきだしそうになるシーンというのは滅法少ない。 それはシリーズ物である「ぼんくら」「日暮らし」との比較がそうさせるのかもしれない。 あちらの主人公はなんだかぐうたらなイメージがつきまとう主人公だった。 しかし、こちらの主人公「ほう」は子供であるゆえ世間の良し悪しがまだわからない年頃だ。 よって、人間臭さが醸しだされる方が読み手としては面白い。 だから、なにも知らずにただ笑いを期待するととんだうっちゃりをかまされる。 だから出版社のHPを案内した。 しかし、成長物語とは言っても、子供にずうっと視点をあててばかりいると飽きる読者もいる はずだ。そこで、宮部氏得意の江戸時代のお役人や庶民などキャラの強い人物達をしばしば 登場させ、人間相関図による楽しみを提供し、また彼らの視点で話を進めることも惜しんでいない。 時代考察としても江戸の下町と違い、ここは讃岐だ。役所の役割の江戸との違いの説明もふ~ん と思わせる。 摩訶不思議な事件の数々と脇役である大人たち、その中で特別強烈な個性を持たない「ほう」 が成長してゆくのである。 ドラマなどでよくある右も左もよくわからない新人俳優・女優を多士済々の名優達とストーリーが さりげなく助けることで徐々に花開き、 クライマックスに近づくにつれ、視聴率がぐんと伸びるような時代モノ、 それが本書のような印象だ。 また、初出に注目してみるのも面白い。 「ぼんくら」「日暮らし」は講談社の小説現代の連載が単行本になったものだ。 小説現代のモットーは、 「愉楽の追求」 である。 一方の「孤宿の人」は歴史読本での連載が単行本になっている。 あくまでも主役は歴史であり、その中で特定のテーマを抽出した読みごたえ抜群 かつ、歴史の考察もしっかりと追求するディープな雑誌である。 「愉楽」は特別織り込まれてはいない。 出版社側の目指すところの違いがなんだかわかるような一連の宮部みゆき時代ミステリー、 今回は「孤宿の人」でありました。 あいすみません。 「ぼんくら」の感想→こちら 「日暮らし」の感想→こちら
 

原爆を落としたのは私です

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takam16の本の棚
です。バーチャルですが......

自分の本棚を整理すると、どうしてもジャンルわけというものをしたくなってしまう。
コミックは自分の所蔵にはまったくなく、松本清張や司馬遼太郎作品は文庫ばかりだが、
量は多い。特に司馬作品には「竜馬がゆく」といった巻数モノや「関ヶ原」のような
上中下モノのおかげでそれだけで部屋の隅にコーナーを設けることも可能な状態である。

ジャンルに関していうと一番多いのは「戦争モノ」である。この「戦争モノ」とは
主に太平洋戦争前後を扱ったものや、戦争に関わった人物の話であり、
その入門書として、半藤一利氏の「昭和史」は何度も読みたい
1冊として、本棚の表紙をこちらに向けて目立つように陳列させてある。
保阪正康氏の一連の書や先述の松本清張氏による「昭和史発掘」 なども本棚にちゃっかり収められている。これらは一応背表紙置きだ。
本棚を眺めてつくづく感じることは、本棚からは自分の趣味や興味、悩みや過去がわかるもので、 同時に人を家に招くときにあまり見られたくない部分はトイレの汚れよりも冷蔵庫の中身よりも 本棚だということだ。 さてその「戦争モノ」が多めの本棚。ある子供に言わせると、軍事評論家は戦争が好きだから 評論をしているという直球勝負の意見に、「それはちと違う。」とバツの悪そうな顔で応える 評論家と同じく、takam16も戦争が好きだからそんな種類の本があるのでしょ? と尋ねられると、 「それもちと違う」 と堂々と応えられるかというとそうでもない。いつのまにやら「戦争モノ」が増えて今日に至る のだ。平和のために.... などと一般向けなコメントはよそう。 正直、「戦争モノ」の蔵書が多い方になぜとお聞きしたいぐらいである。 そんな蔵書であるが、よくよくチェックすると、日本人の考察による戦争話がほとんどである ことに今さらながらに驚くと同時に、視野が狭いのかなと疑念に感じる自分がここにいる。 たった1冊を除いてだ。
チャールズ・W. スウィーニー, Charles W. Sweeney, 黒田 剛
私はヒロシマ、ナガサキに原爆を投下した
元アメリカ空軍出身者で、太平洋戦争にも加わったチャールズ・W・スウィーニー氏による 自伝であるのだが、そのタイトルが 「私はヒロシマ、ナガサキに原爆を投下した」 なのだから曲がった背筋がピンと伸びるのも無理はない。 この元軍人は、昭和20年8月6日にヒロシマの原爆投下の瞬間と爆発を目にし、 3日後の8月9日にはナガサキの原爆投下機の長としての職務を全うした男である。 本書はチャールズ・W・スウィーニー氏が原爆を投下するまでに歩んできた軍人としての 人生を語った伏線的意味合いの部分、そして原爆投下任務時とその前後も 含めた核心部分に分けて読んだ、というのも、読み始める前から興味の中心が原爆投下の自伝 にあったからである。それが前者の「伏線的意味合い」と強く感じざるを得ないのであるが、 のちに配属となる部隊発足のそもそものきっかけは、 アインシュタインのルーズベルト大統領に宛てた次の一文 ドイツが想像を絶する破壊力を持つ爆弾を開発する能力と資源を持っており、 そのような兵器を保有する国が世界を支配するであろう である。 つまりは原子爆弾を先に造った国の勝ちというわけだ。 その爆弾を搭載し、投下する訓練の苦悩を赤裸々に語っているのだが、当初は 原子爆弾は極秘に開発されており、また原爆投下作戦も同じく極秘であり、それが いつ、どのような形で使用されるのかも机上の世界であったために、 著者は配属されたユタ州での輸送機の指揮の任務や爆撃機の任務の意味合い がさっぱりわからない空想の世界として日々の訓練を行うことになる。 これらの計画は「マンハッタン計画」そして「アルバータ計画」と呼ばれたのだが、 その原爆開発&投下計画を知らされた著者が将来ヒロシマ、ナガサキに落とす原爆機 が出発するテニアン島に移動してからが自分にとっての読みどころである。 原爆投下の候補地は4つあったようだ。 広島...アメリカ軍上陸に対する防衛組織がある 小倉...強大な軍備を持つ地 長崎...兵器工場&魚雷工場がある 新潟...軍事施設の存在 実は京都も当初はターゲットの1つになるらしかったが、 「文化的・宗教的建造物の数々は日本の大切な財産である」 という上層部の見解ですぐに候補から外されたそうだ。 4つのうちまず新潟が消去されたのは、地理的要因に尽きる。飛行距離が他より 長くなってしまうということだ。 結果、優先順位は ①広島 ②小倉 ③長崎。 *8月9日は小倉投下が目標も視界悪く、投下直前で長崎に変更 また、 原爆を載せたB-29戦闘機を9000mの上空から投下後、43秒で爆発する ので、その間に放射能を浴びないために最低13キロ離れる必要がある。 という原則のもといざ決行となるのだが、著者はヒロシマにおいては帯同する機 から原爆投下を目に焼付け、 ナガサキにおいて任務の長として実行にあたる。 実はこのナガサキ投下に関しては、特に投下後の裏話は知る人ぞ知るのであろうが、 自分にははじめて知った話だったので、最も時間を割いて読んだ。 軽く触れると、投下後の燃料切れにまつわるエピソードである。 その他にもさまざまな著者とその周囲にまつわる裏話や原爆投下の 経緯について、316ページにわたり語られるのだが、 著者がこの本を出版するきっかけの最たるもの、それは 「歴史認識」 にほかならない。アメリカの歴史学者から原爆投下への疑問が投げかけられ、 多勢を占めつつあることに憤りを感じたまさに当事者である氏による 渾身の作品というわけである。 原爆を使用した理由。原爆でなければならない必要性。 その正当性は理論的というよりは感情的にも感じるが、70代にもなって、 自身の行為を否定されたこと、それは自身の存在を否定されたことともなる のであろうか。 ただし、この本は 「アメリカの未来の世代に捧げた」本と著者は記している。 さすがに日本人に捧げるのはあまりにも酷な話であろう。 決して日本人が読後感良好などとはなれないのが正直な気持ちである。 あくまでも1人の軍人の回顧録として捉えるべきなのだろうが、 内容はやはり重い。 歴史というものは、勝者のためにあるものだと客観的に考えてきたが、 いざ自国の相手国の話を読むと、なかなか奇麗事では済まされない複雑な1冊 でありました。
 
takam16の本の棚
です。バーチャルですが......

これまたせっかちなことで....

この前、JR大阪駅で数分後にやってくる快速電車を待つべくホームの
指定の停止位置より50センチ横にずれるような形でかつ、体の向きが
斜めになった状態で電車を待っていた。
すると、明らかに関東地方より出張帰りかと思わせるポマード1本使っちゃ
いました風の「すかん中年男」がそのポマードの悪臭を漂わせながら

「あなたはこれはどういうふうに並んでいるわけ?」

と尋ねた。ちなみになぜ明らかに出張帰りかと言えば、JR大阪駅の次は新大阪駅
である。新幹線の乗り継ぎのためにこの1区間を利用することは頻繁なのだ。

話を戻す。つまりはだ、その斜め並びは俺達関東の文化にゃ~ねえんだ、ちゃんと
正しく縦並びしろとのポマード様からのご忠告というわけだ。こちらから言わせれば
俺達関西にはポマードの文化なんかないわ!と忠告したいぐらいだ。

そこで当管理人であるtakam16は

「大阪ではいつ誰がどう並ぼうが、関係ないんですよ。」
   (ちゃんとしている人もいます。)

と知恵をつけて差し上げた。そしてポマードの話はやめておいた。揉めるからである。
例えばエスカレーターが右やれ左やれそんなきちんとしたルールなど無用である。
一応関西は右側、関東は左側なのだろうが、正味どちらでもよい。
そして電車待ちの並び方など議論の余地もない。

電車がやってくる。扉が開く。まずは降りる輩が先なのはそれがルールだからではない。
先に降ろした方が効率がいいだけの話である。この乗客が降りている間、我々は虎視眈々と
どのスキに電車に乗り込み、座席を確保するかを打算的な眼差しを向けている。
ちょっとでも相手が油断をしようものならそこは徹底的に付けこむ。
結果、やはりポマード男は車中での数分間、合点のいかないポジションにいた。
手すりの持てない極めてやっかいな位置だ。所詮ポマードでしか存在感をアピールできぬ男
なのである。しかし臭いで存在感をアピールした点においては合格である。ほほほ。


この一連の姿勢も「せっかち」のジャンルに含まれる。
前回の記事にて「次期直木賞をもう予想する」などとせっかちぶりを語っておきながら、
また別のところでせっかちである。まあおせっかいよりおせっかちの方が迷惑は
かからないだろう。

今度はなにがせっかちなのだと読者は訝しがる。
2週間ほど前、平成19年度の大河ドラマが決定した知らせを聞いた。
以下はその記事である。

NHKドラマホームページ


「風林火山」である。
「疾きこと風の如く、徐かなること林の如く、侵し掠めること火の如く、
  動かざること山の如し」。
なんとか言えた。忘れるからメモっておこう。
つまりは武田信玄が生きた時代の物語をドラマ化するということだ。

その原作者は井上靖(故人)である。
芥川賞、野間文芸賞、読売文学賞、菊池寛賞、文化勲章など
まあ文学の世界において今後も歴史に名を残す人物である.....かどうかは数十年後の
未来の方々の力に託されるわけだが、とにもかくにもNHKの大河ドラマの原作者というと、
凡人には近寄り堅い面子のそろい組みというわけだ。

タッキー主演の現ドラマ「義経」の原作者は宮尾登美子さん。
昨年度の新撰組は脚本家の三谷幸喜さん 。こちらはいささかとっつきやすそうだが
やはりすごい人物だろう。
来年度は「功名が辻」。こちらは司馬遼太郎(故人)の原作である。
2003年の「武蔵-MUSASHI-」は吉川英治(故人)の原作。
「利家とまつ」は脚本家の竹山洋氏。著名な作品を手がけている。

よって、NHK大河ドラマの原作や脚本に携わるということは、彼らの世界ではある種の
「名誉」にも値する。


さて、「風林火山」である。2年も先の放送の出所を今読むというこの
せっかちぶり。
主人公は武田信玄ではなく、軍師で武田家家臣の山本勘助である。
ところがこの人物、詳細がはっきりせず、ある書状に主人公の名があったというだけの記録しかない
そうだ。実在しない人物なのでは?とも言われている。ここが物語をどのようにでもできる、
よい意味で読み手を、視聴者を人工的に魅了できる部分である。

まあ時代モノを書くにあたっては、司馬遼太郎曰く、「史実3割、フィクション7割」だ。
井上靖による山本勘助像は、

城取り合戦は拙者に任せぃ、ただし女はちと勘弁してくれぃ

である。
山本勘助は生涯妻子を持たないというのが本書の設定だ。女は勘弁なのだ。
ところが興味深いことは、身分がはるかに上である信玄の側室になぜか恋心を抱き、
その子勝頼を大事に思うというさかさま現象である。当時は男社会だ。女は黙って
俺について来いなのだ。
よって、身分の関係が勘助の会話を妙にする。なんだかそこがツボなのだ。
まあ、恋とはいっても側室は武田信玄の側室だ。要は勘助の一方通行というわけだ。

今ひとつ興味深いことがある。それは本書においては敵の存在が鮮明に現れないのだ。
上杉謙信、村上義清、信玄の父信虎(彼は信玄により甲斐から追放される)など、
敵対関係や反感を持つ武将とのやりとりはいっさいなく、すべて武田家の中で
時代は進むのだ。

しかし、山本勘助の先見の明がある才能ぶりは本書においていかんなく発揮されている。
名立たる武田家家臣の前で平気で異なる意見を言う。そしてそれが見事に的を得ている
のは読んでいて気持ちがいい。
逆を言うなら他の武将はなんなのかということだ。
武田信玄の生涯の前半期において、いかに山本勘助の頭脳が役に立ったかという箇所が
随所に目することができる。それが史実かフィクションかは別にしてもである。


それにしてもこれを大河ドラマとして映像化した場合、敵武将の存在、それにともなう戦は
視聴者の一番のお気に入りだ。この世界がごっそり抜けた井上靖版「風林火山」を
作り手がどう料理するのか。
あるいはそのままどんとぶつけるのか、敵将を作り上げるのか、
原作本と映像の照らし合わせの魅力の大部分はここだ。

さらには懸念もある。まだドラマの出演者が決まっていない。

唐沢寿明&松嶋奈々子
市川新之助&米倉涼子
香取慎吾
タッキー
仲間由紀江&上川隆也

という過去の主演・助演の顔ぶれだ。
山本勘助は原作と照らしあわせるに、50代~60代が活躍の全盛となっている。
誰だ、誰を使うのだ、視聴率をとれる50代~60代は誰なんだ、
それとも若手に年寄りの役をやらせるのか......ううむ。


誰にも尋ねられてもいないのに、勝手に配役の心配までしてしまう、
やっぱり「おせっかち」ではなく「おせっかい」なtakam16。
これを迷惑とさっき言ったはずだった。無念じゃ。
井上 靖
風林火山
  
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