◆自分を生きることへの遠慮

テーマ:
「遠慮は、よっしーの人生のテーマだよね」

不意にそう言われてドキッとした。

ドキッとしたので、
「何を遠慮してるんだろう?」と意識を向けてみた。

返ってきた言葉は、
「自分を生きることへの遠慮」だった。

それは、自分が自分自身として存在することへの遠慮。
ああ僕は自分が自分自身であることを否定していたのか、と気付いた。

すると一粒二粒と涙が溢れた。
その瞬間まで麻痺していた感情につながった。

つながりはしたけれど、
いろんな感情が入り混じってたので、
一つずつ意識を向けて解放していく。

そこにあったのは、
自分として生きる人生を奪われた怒り。
自分として人生を生きられない悲しみ。
自分自身とすらつながっていない寂しさ。
自分を生きることで大切なものを失う恐れ。
そして、自分が自分自身であることへの罪悪感だった。

一つずつ解放していった。

そうするうちに、
自分が自分自身であることを否定したのは、
守りたかったものがあったからだと気付いた。


自分が自分自身として存在することを曲げてまで
守りたいと思う大切なものがあったから、
その大切なものを守るために、
自分自身であることを否定したんだなと気付いた。

それは子どもだった僕の思い込み。
記憶にもないくらい幼い頃の話。

自分の大切なものを守るために、
幼い子どもの思いついた方法が、
自分自身であるのをやめることだった。

「そこまでして守りたい大切なものがあったんだね」

心のなかで声をかけると、
たくさんのひとの顔が思い浮かんで涙が溢れた。


「ずっと守ってくれてたんだね。ありがとう」
「ずっと気付かなくてごめんね」
「もう大丈夫だよ」
「自分自身でいることを否定しなくていいよ」
「自分自身でいていいよ」

ぼくが自分に言葉を伝えると、
言葉を伝えられた方の自分が涙を流した。

 
感情的に落ち着くのを待って、
「気付いたらいいことある?」と
自分に問いかけてみると、
「二つあるよ」と返事があった。


一つ目は、
「僕が自分自身である」ということ。

確かに。
僕が自分自身であることを遠慮したところで、
僕が自分自身であることには変わりない。


二つ目は、
「自分自身であることは素晴らしい」ということ。

うん。確かに素晴らしい気がする。

 


 
みたいな、感情的なプロセスが昨日ありまして。

「自分自身であってはいけない」という観念を、
「ぼくは自分自身であり、それは素晴らしいことだ」に書き換えられたようです。

めでたい(書き換えられてたらだけど)


でも「自分自身であること」と
「自分を生きること」は、
僕にとって同じじゃなくって、
後者のためには先に前者が必要だったぽいです。

今日からオンプロセスで、
ここからもう数日かかる感じです。
 
 
みたいなことを一人でよくやってるのですが、
ふと気が向いたので書いてみました。

たぶん遠慮が一つ外れたからだと思います。
そして、気が向いたのもプロセスのうちだと思います。

続きはまた気が向けば書きます。
気が向かなかったらごめんなさい。




伝えてくれた友人に感謝を込めて。



高岸新晴(たかぎしよしはる)でした。
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