なぜ私が?

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とある医者と患者のやりとり : 患者「先生なんでこんな病気になったのでしょうか」医者「ですから、何回も申してます通り、血液の細胞が腫瘍化してそれが全身に悪影響を及ぼしてしまっているわけで...」患者「いえ、そうじゃなくて、なんでこの私がそんな病気に罹ったのか教えて頂きたいんです」医者「誰か牧師を呼んでくれ!」 これはある本(名前は忘れました)にのっていた一節なんですが、作者の意図が何なのかは別として、私自身はこれを読みながら、「自我」について思いを馳せていました。この私の身体に私という意識・自我・魂が宿ったのは一体何故なんだろう?別に他の魂であっても良かったのだろうか?それとも、この身体にはこの私でなければいけない理由があったのだろうか?私は決して他の身体に生まれることはなかったのだろうか? 脳が意識を発生させているとして、私の脳と他人の脳は、大まかには似ているだろうけど(例えば、前頭葉、後頭葉、側頭葉などに分かれていることとか)、細かく見れば違う(脳表面のしわしわ具合とか、あるいはもっとミクロに見て細胞数とか細胞密度とか配列だとか)。そういう違いが私と他人との違いを生み出していて、私の脳からは私という意識が発生したのかもしれない。しかし、もしそうなら、全く同じ脳があったら、そこからは全く同じ意識が発生するのだろうか?もちろん、それを確かめられるような実験は実際には無理だろう(例えば、一卵性双生児やクローン人間は、指紋までも完全に一致しているわけじゃないように脳までも全く同じであるわけじゃないので)。もし、同じ意識が発生したとしても、その「同じ」とはどういう意味の「同じ」なのだろうか?例えば、ある物を見たときの反応が全く同じだとか、人見知りをするなどの性格が同じだとか、そういうレベルの「同じ」なら、ちょっと変だ。つまり、お互いに、何故、自分は相手の身体に生まれなかったのか、全く同じ脳のはずなのに、と思うであろう。それに対する答が存在しないことになる。私としては、もし、こういう風に脳の構造が全く同じであるような人間が2人誕生したら、2人の意識は初め1つのものとして統合されて存在し、成長とともに2人に別々の経験が身につくうちに、それぞれ別の意識を持つようになるような気がします。つまり、2つの身体に、1つの意識という時期が存在しても良いような気がするんです。 逆に、1つの身体に、2つ以上の意識が存在するという可能性もあるような気がします。多重人格がこれにあてはまるのかもしれませんが、多重人格については実際にどんな病気なのか知らないのであまり興味はないです。それよりも、私が1つの脳で2つの意識を感じることで連想することは、テレパシーです。といっても、単に、相手の考えが知ることができたらいいなあ、というわけではなく、デカルトが言ってた「我思う故に我あり」を「他思う故に他もあり」に発展できたらなあと思ったわけです(もちろん、他人の心がリアルに感じられたとしても、それで本当にその他人が存在するかどうかは証明できないですけど、何か取っ掛かりくらいにはなるような気がします)。とにかく、自我というものは難しいです。何故、1つの身体に1つの自我というふうに決まってるんでしょう・・・
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