人の目を見る

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http://pmc.carenet.com/?pmid=28600558

Look me in the eyes: constraining gaze in the eye-region provokes abnormally high subcortical activation in autism.

Scientific reports. 2017 Jun 09;7(1);3163. doi: 10.1038/s41598-017-03378-5.

http://www.carenet.com/news/general/hdn/44267?utm_source=m1&utm_medium=email&utm_campaign=2017070800

 

 

 

 

自閉症の人は人と話しいても相手の目を見ない、という。

 


相手の目を見ないのは、僕も同じだ。

 


目を見ないということが、コミュニケーション上、そんなに大切なことなのだろうか?

 


もちろん、大事な真剣な話の時に、相手の心に響くように、切に訴えるために、相手の目を見るのはとても心のこもった誠実な行動だとは思う。

けれど、普段、会話のたびに相手の目を見つめていても、、、

 


相手の目を見ない理由ははっきりしてる。

 


こちらを見る相手の気持ちが何となくわかってしまうから。それから、もう一つ、こちらの視線、目つき、眼光が相手に不愉快な思いをさせてしまうかもしれないという理由だ。

ん?逆か?

自分の目つきが相手をビックリさせて怖そうな嫌そうな顔をされるのを、見たくないからといえる。

 


優しそうな目つき、楽しそうに笑っている目つき、こういう目を生まれつき持ってる人は、僕の言いたいことは理解できないであろう。

 

 

 

ところで、野生の動物たちは、目を合わせると、それは威嚇を意味し、喧嘩が始まる。

そして、喧嘩に負けた方は、こうべを垂れて、下を向き、買った方は相手をにらみつけ威圧する。

人でも、ある部族は、目を合わせるのは失礼なことだったりする。

 

 

 


普通の人は、相手の目を見るということは、嘘隠し立てがないということを意味するという。相手の目を見ない人を信用することはできないという。
それがこの世での一般的な常識だろう。

 

人の目を見れない人は自分に自信がない表れであろう。それは弱い人であり、そういう人にこそ、憐れみをかけたい・・・そのためにも、相手の目を見て観察しなければ・・・威圧感を与えずに、相手の目を見てあげる・・・自分の視線を感じて、怖くなって、目を背けることがあっても。

 

 

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大量殺人者と牧師

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僕が以前通っていた教会(今はもう引っ越して行けないけど)の牧師さんはとても良い人だ。だが、しばらく前に起きた大量通り魔殺人事件の青年が、事件を起こす一年前、その牧師さんのもとを訪れ衣食住を提供され、数ヶ月お世話になり、キリスト教の洗礼も受けたことを、僕は最近知ってビックリした。ビックリしたというか、呆れたその牧師さんがそのことを平然と話し、彼が

神様の御加護を受け救われていると話していたから。。。

牧師さんは世話好きで人間味溢れる元気で明るい人だ。だから、教会にも大勢の人が集まっていて、献金も多い(と思われる。僕は全然献金してなかったが)。

その教会が聖霊に満たされているからでもなく、神様から祝福されているからでもなく、その牧師さん個人のパワーで人気がある教会なのだと思う。そして、その表面的なポジティブオーラとは裏腹にその牧師さんは、意外とそっけない。まるで、好奇心旺盛であれこれ興味をもって遊ぶ子どもが、オモチャに飽きるとオモチャをぽいっと放り捨てるように…  だから、今回の通り魔殺人犯がその教会でお世話になった後、もといた自分の居住先に帰って新たな人生の再スタートを切っていた後のフォローもその牧師さんはしていなかったと思われる… 

その牧師さんが後悔や反省をしているふうはなく、充分フォローしてなくてその青年が見捨てられ感を感じて余計に落ち込んでしまったかもしれないとか、自分が変な妄想を植え込んでしまったかもしれないかとか、反省や自責の念にとらわれることなく、悠々と明るくいられる、ある意味、ポジティブで楽観的で羨ましいくらいマイペースな性格がその牧師さんの良い所なのかもしれない。

僕は呆れた後に、感心もした。この牧師さんくらい肝っ玉の据わった、器の大きい、心臓に毛の生えたくらいの精神力が、この理不尽な世の中でたくましく生きていくには必要なのかもしれないと。

何百、何千人もの信徒、家族の相談に乗っていたら、本当にいろんな問題に牧師は巻き込まれ大変であろう。ネガテイブな結果になっても、自分のせいではないと自分自身に言い聞かせ、なるべく気にしないようにするのが一番であろう。


前置きが長くなってしまった。


本題はこらからだ。

通り魔殺人に会って殺された人も、痛い思い、怖い思いもしたろうが、死んで後々良かったのかもしれない。テロ事件で殺された人も、事故や天災で亡くなった人も、それは神の御計画のうちで、意味ある死だったのかもしれないと思う。死刑で亡くなる場合も。人生万事塞翁が馬。落馬して大怪我を負って痛い思いをしても、結果的に幸せになったのだから。


ただし、自殺はどうなのか、わからない

ヨブは神に殺して下さいと頼んだが、自殺はしようとしなかったから、自殺は罪なのだろう。

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将来や未来への予想や空想や妄想は良くない・・・

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未来を知ることができたらどんなに良いだろう・・・しかし、人は未来を知ることができないようにできている・・・
むしろ、未来を知ることができたら生きる意義がなくなる・・・

だから、未来や将来にこうなってほしいと夢想するのはかえって悪いことが起きる。もしくは精神衛生上病んでいくであろう・・・

ただし、未来に悪いことが起きるかもしれないとネガティブシミュレーションすることは悪くない。あくまで最悪の事態を想定してそれに対する対策を講じておくことは非常に有益であるから。

 

 

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アーリーリタイア

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欧米では40歳台でアーリーリタイアして後は悠々自適に暮らすのが流行ってるらしい。

そりゃそうだろうなと思う。キリスト教圏では労働は神からの罰なのだから、たくさん働いて原罪を償ったと思えればもう働かなくてもいいと考えるのが普通だろ。もちろん、有人との関係や社会的な繋がりは継続するだろうが。


日本人は引きこもりやニートが多いけれども、働かずに家で自分が興味を持てることだけやって暮らしていけたら、どんなにいいだろう趣味をやるのに忙しく過ごして時間があっという間に過ぎ、思い煩うことなく暮らしていけたらどんなにいいだろう

愛は教えてもらわなければわからないものなのか?

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今日の説教では、


家族のなかに神さまの形を取り戻す


というような題名の本を紹介していた、


著者は、結婚し、子供も授かったが、奥さんとの仲がうまくいかなくて悩んでた時期があったようで、


家族を愛してるんだけど、どうやって愛したらいいかわからない。自分は子どものころに愛されてなかったから。


と悩んでたらしい。


ここで僕は大いなる疑問を持った。


愛されたことがない人は愛し方もわからないものなのか?

愛とは生まれつき生得的に持ってるものなのではないのか?


愛以外のどうでもいいことは、経験しないとわからないであろう。例えば、友達の作り方。友達になってもらってから、子どもは誰かの友達になってあげる方法を学ぶ。万一、誰からも友達になってもらえなかったら、その子は友達になってあげる方法をわからずに寂しい大人になっていくだろう


愛というのは、神さまから与えられた1番大切で人間として根源をなすものだ。それが、教えてもらわなければわからない、なんてあり得るのだろうか?





とりあえず、他に参考になったのは、


愛していても、相手の人格を支配してはなならない。


ということ


依存と自立

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人はたくさんの依存先をつくることで自立していく



と誰かが言ってた。

依存と自立。全く反対の対立する概念がうまく昇華している



人は何かに依存している。依存してない物が1つもない人なんてこの世にはいないだろう。



依存する物が少ないと、その依存先への想いが強くなり過ぎ、視野も狭くなる。

色々な物に依存していれば、浅く広く豊かに人生を送れる



ある人のブログを読んで。

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ある人のブログを読んでいて考えたことを備忘録代わりに今回の記事にしておく。


『何のために生きるか?生きるって何?』




生きることが楽しいことだと思う人はたくさんいる。もちろん、そう思う人も楽しいことだけじゃなく嫌なこと辛いことなども経験しながら日々暮らしている。例えば、日々の労働。食ってくために働き、働く以上嫌なこと思い通りにいかなくて落ち込むこともあるだろう。しかし、辛いのはそんな程度だ。作物の収穫までの農作業が大変なのと同じレベルだ。



生きることに疑問を持つ人もいる。しかし、それは、当然の労苦ではなく、やらなくてもいい苦労をしているかもしれない人だ。自分は良かれと思ってやっている労働、苦労、努力が水泡に帰す可能性があれば、空しい気持ちになってしまうだろう…  一種の怠慢の気持ちだ。




さらに、生きることに意義を見つけようとする人もいる。 これはハングリーな切迫した気持ちだ。

世界初の人間の頭部移植手術計画2

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世界初の人間の頭部移植手術計画の続報です



世界初の頭部移植を今年やるらしいと噂のSergio Canavero氏率いるチームが、ラットの脊髄保護にポリエチレングリコールを使った実験に成功という論文発表があった。



Ren S, etal. Polyethylene glycol-induced motor recovery after total spinal transection in rats. CNS Neurosci Ther. 2017 Jun 14. doi: 10.1111/cns.12713. [Epub ahead of print]  http://onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1111/cns.12713/full



まだまだ道のりは遠く険しそうだ

2015年に人の頭部移植手術を早ければ来年中(2016年中)にやるかもと言われていたが、やはり、先延ばしになり、さらには、結局


ニーバーの祈り

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ニーバーの祈りというのがある。


(『私たちに変えられないものを受け入れる心の平穏を与えて下さい。変えることのできるものを変える勇気を与えて下さい。そして、変えることのできるものとできないものを見分ける賢さを与えて下さい。われらの主、イエス・キリスト。アーメン。』というものだ。アメリカ神学ラインホルド・ニーバー1892–1971年)が作者であるとされる[1]、当初、無題だった祈りの言葉の通称。serenityの日本語の訳語から「平静の祈り」、「静穏の祈り」とも呼称される。

(Wikipediaより引用))



僕は個人的にはこれは間違っていると思っている。イエスは『明日のことを思いわずらうな』と言ってるのだから、長期的な心配・願望は人間のエゴだと思うから。

神中心で考え、とりあえず、今日、今、目の前にあることを一生懸命やればいいし、やるべきことはいっぱいあるはずだ、明日のことを思いわずらう前に。常に神のこと、今自分のやるべきことを考えるべきなのだ。


感謝はする必要はない

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結局、感謝というのは、すべきではない!と今のところは結論づけよう。もちろん、現実社会の中では周りの人たちに感謝を伝えることは続けていくが。神とか世界とかそういう漠然とした存在に感謝をする必要はないということだ。


幼い子供が親に感謝したら、どうだろう?

幼稚園児が親に毎日ありがとうなんて言葉を一々言っていたら、おかしいであろう。

親も我が子にありがとうなんて言われても、そんなことは親の愛情に影響はしない、感謝すれなくても無条件に親は子供を愛しているのだから。


放蕩息子が実家に戻ってきたら、親に謝罪しようとしまいと感謝しようとしまいと、親は息子が心を新たに良い道に戻って人生を歩み直してくれたらそれだけで嬉しいはずだ。