神旅 仏旅 むすび旅

人の心は常に脚光を浴びるものに傾く。その中で本来のものを忘却していく事は歴史の中で繰り返えされてきました。日本の歴史財産である神社仏閣もそうです。巡礼をつづけると歴史の忘却したものに出会うことがある。その忘却した記憶を拾い集めています。


テーマ:
八幡神は宇佐遷宮以前は豊前田川で産銅の神として尊崇されていたという。豊前田川の神といえば香春神社であり、元は旧採銅所村の古宮八幡宮の地にあった。この採銅所で宇佐八幡宮の御神体(銅鏡)を奉納していた。また、新羅国の神であり、その地は秦王国とみる見解がある。





宇佐神宮


【主祭神三座】
一之御殿:八幡大神 誉田別尊(応神天皇)
二之御殿:比売大神 宗像三女神
三之御殿:神功皇后 別名として息長足姫命
*八幡大神の関係神社は、主祭神三座を八幡大神(応神天皇)と神功皇后は変わらず、比売大神の変わりに仲哀天皇か玉依姫(神武天皇の母神)、宗像三女神のいずれかがあてられる。


ブログ☞八幡神の謎
八幡神を祀る神社は八幡宮(八幡神社・八幡社・八幡さま・若宮神社)と呼ばれ、稲荷社につい で多く,その数は全国に二万ともいわれる。岡田荘司らによれば、祭神で全国の神社を分類すれば、八幡信仰に分類される神社は、全国1位(7817社)であるという。
その起源は大分県宇佐市の宇佐神宮にある

▶豪族宇佐氏の磐座信仰が当初の形態であろうともいわれている。そこに、辛嶋氏が比売大神信仰を持ち込んだと考えられている。
和銅5年(712年)には官幣社となり、辛嶋勝乙目が祝(はふり)、意布売(おふめ)が禰宜(ねぎ)となって栄えた。
宇佐八幡宮の神宮寺の弥勒寺は、虚空蔵寺を改名した寺で、虚空蔵寺は秦氏系の辛島氏が居住する辛島郷山本にあった。

▶748年(天平20)9月1日、八幡神は出自に関して
「古へ吾れは震旦国(中国)の霊神なりしが、今は日域(日本国)鎮守の大神なり」(『宇佐託宣集』巻二、巻六)と託宣している。
しかし、「逸文」『豊前国風土記』に、「昔、新羅国の神、自ら度り到来して、此の河原〔香春〕に住むり」とある。

▶金達寿氏や宝賀寿男氏によると
宇佐八幡宮の最初からの祭神である比売大神は、新羅・加耶系渡来人集団の象徴である天日槍、その天日槍(祭具)をもって太陽神や祖神を祀るシャーマン(巫女)であった。それが後に祀られるものとなって、天日槍集団からでた秦氏族の守護神となった。宇佐八幡宮はヤハタ(多くの秦・弥秦)族の総氏神であると述べる。

▶八幡信仰史の研究で知られる中野幡能氏は、
宇佐八幡宮の「古宮」「元宮」は香春神社である事を各所で述べている。香春岳は、銅を主に産出するが、他に鉄・金・水銀(丹生)を出す山だった。


豊前国「秦王国」香春神社



【昔、新羅国の神が渡ってきて、この河原に住む。名づけて鹿春の神と申す】
『豊前国風土記』

香春岳の山名の由来で、香春は住古には清河原と呼称していたが、平安の頃には賀春に改められ、十七世紀頃から今の香春に転訛したという。



☞「新羅国の神」でひっかかったのですが、実際は渡来当時(二世紀中葉とみられる)では、まだ新羅国は成立しておらず、「辰韓や弁韓の国の神」である



ブログ☞八幡神の謎②〜もとは「香春岳」に渡来してきた神?〜

香春岳で産出される銅の採掘のため4世紀末から7世紀にかけて、香春郷には高度な鉱石採掘、製錬技術をもつ渡来人が、朝鮮半島の新羅(356〜935年)から多く移住してきました。そして、新羅の国の神もやってきました。これが「辛国息長大姫大目命(からくにおきながおおひめのみこと)」の神。
香春岳の銅は、奈良東大寺の大仏鋳造にも提供された。


▶豊前国「秦王国」
豊国を豊前と豊後に分割する以前の支配していたのは秦氏だった。
702年豊前国の戸籍によると、氏の総人口に対する某勝 秦部姓の比率は全体平均で人口の93%以上を占めてきた。日本へ渡ると初め豊前国に入り拠点とし、その後は中央政権へ進出していった。
ブログ☞秦氏

八幡神の最も原初的な祭祀が行われていた場所が「香春岳」


▶『豊前国風土記逸文』によると
「香春の神は、新羅から渡ってきた神で、香春二岳には銅がある」と説明している。

香春一ノ岳の南麓には香春三峰の神を祀る香春神社が鎮座し、その第一殿には「辛国息長大姫大目命(からくにおきながおおひめのみこと)」が祀られている。

「辛国」は「韓国」に通じる神で、その南には新羅系の瓦が発掘された上伊田廃寺跡があり、香春岳を中心に新羅系渡来人集団が居住していた。



▶香春神社
豊前国の神社は六座だが、その半分にあたる三座が香春神社にある。(残りの三座はすべて宇佐神宮内
平安時代初期における香春神社の社格は非常に高く、現在豊前国の一宮は、一般的に宇佐神宮とされているが、古い資料の中には香春神社を一宮と記しているものもある。


香春神社の祭神は、辛国息長大姫大目命、忍骨命、豊比売命
三座は、辛国息長大姫大目神社、忍骨神社、豊比咩神社で、もともと香春三山(一ノ岳・二ノ岳・三ノ岳)の山頂にあった。
和銅2年(709年)に山頂の三社を現在地に移設したのが、現在の香春神社
古来より宇佐神宮と共に豊前国を代表する大神社だった。

1ノ岳「辛国息長大姫大目命」「辛国」は「加羅国」、「息長大姫」は「神功皇后」、また「息長」は息長氏、「大目」は「巫女のオトメやオフメ」で朝鮮と日本の和合名。

2ノ岳「忍骨命(オシホネノミコト」「シホ」は神の降臨する聖地を意味する。新羅の「御子神」である。英彦山の主神と同じで、忍骨命の和魂が英彦山に鎮まったとされる。忍骨命の別名を天忍穂耳尊と称し天照大神(太陽の神)の子神と言う事から英彦山は「日子山」と呼ばれていた。つまり「太陽の神の子の霊山」である。
その後、第52代嵯峨天皇は、勅旨を下して「彦山」と改めさせた。さらに、江戸時代になって第112代霊元天皇は、崇敬する彦山に対して勅額で「英」の尊号を送り、以来「英彦山」と呼称する。


3ノ岳「豊比売命」地名の「豊」をつけただけで、この女神こそが秦氏の主神の一つ。秦氏の八幡信仰は母子神信仰だという。そしてその「御子神」は「太子」と呼ばれる。八幡信仰には、聖徳太子から最澄や空海までもが繋がっているという。




香春社の神官は、赤染氏と鶴賀氏でどちらも秦一族
ブログ☞八幡神の謎㉗~香春社の神官の赤染氏

「鶴賀」と「敦賀」「ツルガ」、「敦賀」は秦氏が多く移住した地。越前国一の宮 氣比神宮(けひじんじゃ)がある。

東大寺の開祖である良弁も秦氏であり、若狭の「お水送り」と奈良の「お水取り」には、手向八幡神には深い関わりがある。

ブログ☞秦氏〜若狭の「お水送り」奈良の「お水取り」




image

【消えた八幡宮の元宮「新羅の香春の神」聖地をおとずれる】
この春、九州を訪れた。一日延長し、この八幡宮の元宮「香春岳」麓を歩いた。
小倉駅から日田彦線で採銅所で下車し「古宮八幡宮」から「香春神社」にかけて
どうにか、バスを利用できないかと考えたがバスの本数が少ないし、待ち時間がもったいないので結局歩いて参拝することにした。
歩いてみれば、その風景が見えてくる。行き交う大型トラックの風圧に危険を感じた。それは、有明海に繋がる道でもあり、多くは香春岳へ行き交うものだった。
昔も今も「香春岳の恵み」で生活している人々がいる。それは、車や機械といった現代において、古代の「神の恵み、神への祈り」などとは程度遠くなってしまったのではないだろうか?
それは、ある意味私には相当なショックを受けた。
全国に二万ともいわれる八幡神原型の神は、本当にここだったのだろうか?
2014年に書いた「八幡宮」から恋いこがれて訪れた「香春岳の聖地」は無惨な姿に変貌していた。
聖地は、航空写真からみると、ゴルフ場に変わっている事も多い。これも、時代の変容かと思っていたが、「香春岳の聖地」は、ゴルフ場の娯楽と金儲けのものではなく、古代から民の生活のためのものだった。それが現地にくるとよくわかる。
「香春岳の恵み」の産物は、古代鏡の信仰から、現代の信仰心のないものへと変わっていった。
実は、午後からは帰路へ向かう予定だったが、どうしても奴国を訪れたくなり、この採銅所近くに「現人神社」があるが、そちらではなく筑紫郡那珂川町にある住吉大社の元宮といわれる「現人神社」を訪れた。








宇佐八幡宮の御神体(銅鏡)を奉納していた「古宮八幡宮」



ブログ☞八幡神の⑳〜香春神社の元宮「古宮八幡宮」〜
▶古宮八幡宮の祭神は、三ノ岳の神「豊比売命」で、銅を産出する山で、この地でつくられた銅鏡は「八幡神の御正躰」といわれ、「豊比売神の形代」ともいわれている。

▶豊比売神社のあるところは、“採銅所”と地名が残り、日田彦線の山間を通る「採銅所駅」がある。豊比売神社は「元宮(古宮)八幡宮」ともいわれている。弥生・古墳時代の遺跡が多く発見されている。
その理由は、「元宮(古宮)八幡宮」から宇佐八幡宮の近くの和間浜に運ぶのが、宇佐八幡宮の最大の祭事の「放生会」であったからで、「元宮(古宮)八幡宮」といわれるのは、香春神社に対するものではなく、宇佐神宮に対する「元宮(古宮)八幡宮」という意味だった。

▶平安時代には、日本の銅の半分近くを供給するところで、859年には、宇佐八幡より神功皇后・応神天皇の二柱が勧請され「古宮八幡神社」と称されるようになった。

▶「古宮」にたいして、香春神社を「新宮」といわれていた。
『香春神社縁起(成立年代不明)』

「元明天皇・和銅2年(709)第一岳麓に社殿建立。三社の神(現祭神と同じ)を併せ祀り奉り『新宮』という」
 なお、「息長大姫尊は神代に唐国(韓国・新羅)経営に渡らせ給い、崇神天皇の御宇、本郷に帰り給い第一岳に鎮まり給う。忍骨命は天津日大御神(アマテラス)の御子で、荒魂(アラタマ)は南山に和魂(ニギタマ)は第二岳に鎮まり給う。豊比咩命は第三岳に鎮まり給う。三神3峰に鎮座し“香春三所大明神”と崇め奉る」(大意)との注記あり。

古く3峰に別れて祀られていた息長比咩以下の三柱の神を、和銅2年に創建した『新宮』に合祀した”というもので、新たに創祀された新宮が今の香春神社に当たる。
現香春神社の創建時期を示すものだが、当縁起の成立時期は、注記に“三所大明神”とあることからみて神仏混淆が進んだ時期。 





▶香春神社の第三殿は空殿だと伝わる
『香春神社古縁起』(太宰管内志所載、成立年代不明)

「第一殿は大目命、第二殿は忍骨命、第三殿は空殿なり
第三殿空殿の理由として、「第三殿は豊比咩命の御殿だが、豊比咩命は祭の時のみ新宮に留まり、祭が終わると採銅所に帰られるから“空殿”という」との注記ある。

香春神社には、「神幸祭り」というのがある。
奈良時代より、 宇佐八幡宮に銅鏡を奉納していた古宮八幡神社の神幸祭は、「古宮八幡宮」の祭神豊比売命は、「香春神社」へ下向し、例祭が終わると再び「古宮八幡宮」に戻るという祭り。

初日の午前中、唐櫃を持って長光家を経て神事を行い、秘密の「おまがり様」を唐櫃に納めて古宮に持ち帰る。
午後から杉神輿を担いで天矢大神宮まで行き神事を行い、御旅所に一泊する。
2 日目の午後、清祀殿と宮原で神事を行い、古宮八幡神社へ戻り、行事が終了する。

神幸祭りには、必ず長光家でつくったおまがり様を迎えにいく。
江戸時代、香春宮への行幸の時も「おまがり様」という龍頭の餅を献じていたと『古宮八幡宮御鎮座伝記』に記されている。

☞「古宮八幡宮」では 長光家が宮柱を代々世襲し古宮の宮柱で「宇佐八幡宮の御神体(銅鏡)」を鋳造する。

また、神幸祭は特有の神幸祭で、素朴な白木の神輿の屋根は、杉の葉で葺かれ全国的にも唯一の杉の葉神輿である。これは、香春神社の神幸祭に参加するので「仮神輿」と評されている記録があるため種々の飾りをつけなかったという。


1755(宝暦 5)年にかかれた『古宮八幡神社縁起』によると、現在とほぼ同様の行事が行なわれていたと推察されるという。

三ノ岳には、銅の採掘跡、鋳造した際の祭祀遺跡があり、麓に鎮座する清祀殿では今も祭祀が続けられている。


宇佐八幡宮に奉納する神鏡鋳造所の跡地「清祀殿」
5分ほど山手に向かって進んだ所に,神鏡鋳造の祭祀をおこなった場所とされる神間歩(かみまぶ)がある。




▶「古宮八幡神社」は平安時代にできた「延喜式」の「神名」に挙げられている豐比咩命神社の本社でありその最初の鎮座地は香春三ノ岳の麓、阿曾隈という所である。

▶香春神社解文(弘安10年1287成立)
 「日置絢子が採銅所内にある阿曽隈を崇拝し奉る。降って元明天皇御宇・和銅2年、『新宮』に勧請し奉る。是香春也。本新両社と号す」
新宮(香春神社)の合祀以前の神々は3峰別々に祀られていたのではなく、三の峰の採銅所内に祀られる“阿曽隈”一社のみともとれ、この阿曽隈社が、今の『古宮八幡宮』の前身と思われる。
中野幡能氏は『八幡信仰史の研究』で、香春岳の三峯に分けて祭祀する祀り方は、天台の三山配祀の権現信仰の影響を受けているので、その原初的形態としては、
豊比咩の一神のみの祭祀であった
と考えられると述べている。



豐比咩命神社の最初の鎮座地「阿曽隈社跡」
阿曽隈社は三の岳中腹、阿曽隈の森の中にある。ここで銅の採掘をしていた渡来人集団が最初に信仰をしていた場所だとされる






新羅の神の後嗣は、古宮八幡宮に常座する豊比咩であって香春神社の主神・息長比咩はその分身とも解される。
このことは、宇佐八幡宮の重要行事のひとつ「放生会」に際して、八幡神のご正躰として奉納される銅鏡が、香春神社ではなく、古宮八幡宮で鋳造されることに表れている(放生会に香春神社は無関係という)。


という事は
香春神社の元宮古宮八幡宮
宇佐八幡宮の元宮古宮八幡宮

祭神の豐比咩(とよひめ)命阿曾隈つまり新羅の氏神ということになる。









ブログ☞八幡神の謎⑯〜天台宗の開祖最澄〜
入唐にさいし、豊前国香春社で行路の平安を祈っている。(円仁も)
延暦2年(803年)最澄は唐へ渡る際にまず大分県の宇佐八幡宮に参り、八幡大菩薩の勧めで香春の賀春宮に航海の安穏を祈請した。
賀春明神に航海中の守護を受けて無事入唐求法を果して帰朝した最澄は、大同元年(806年)天台宗を開き、9年後の弘仁5年(814年)唐への渡航の無事と天台宗開創の御礼に再び香春を訪れた。この地で、法華八講の法会を行い、功徳を永劫に遺すため梵字を岩に刻み、七堂伽藍を建立して国家鎮護と安寧の析願所として賀春山神宮院と名づけた。


▶続日本後記(869成立)・承和4年(837)条
 「太宰府曰く、豊前国田河郡香春神は辛国息長火姫大日命、忍骨命、豊比咩命の是三社である。元々この山は石山であって草木がなかったが、延暦22年(803)、最澄が入唐するにあたってこの山に登り、渡海の平安を願って麓に寺を建てて祈祷したところ、石山に草木が繁茂するという神験があった。水旱疾疫の災いがある毎に郡司百姓が祈祷し、官社に列することを望んだので、之を許した」



◉最澄が入唐守護を祈願した「賀春山神宮院」

賀春山神宮院の鎮守「牛頭山 高座石寺」
また、六坊を建立し、同時に比叡山山王権現を勧請し、当寺の鎮守としたとある。 香春神社古記に六坊の名が記されている。
▶『香春神社舊記』
香春神社宮寺有六坊山王山高座石寺、雲立山東光寺、壽龜山小蔵寺、碧水田功徳寺、無盡山大蔵寺、瑞鷲山観昔寺是也。

その内の一坊が「山王山 高坐石寺」、現在の「牛頭山 高座石寺」である。



ひらめき電球ブログ☞近江国二宮 日吉大社(ひよしたいしゃ)
西本宮:大己貴神(大国主神に同じ)
東本宮:大山咋神
宇佐宮本殿には、田心姫神が祀られている。
東本宮(男神・大山咋神)と樹下宮(女神・鴨玉依姫神)が里宮で祀られている。牛尾神社(大山咋神荒魂)と三宮宮(鴨玉依姫神荒魂)が奥宮となる。

日吉大社の「山王祭」は、大山咋神と鴨玉依姫神の結婚神事鴨玉依姫神による出産、御子神(賀茂別雷命)誕生の儀式です。
「日枝山」には日吉大社が、「松尾」には松尾大社があり、ともに大山咋神を祀っている。日枝山と松尾については、共通の祭神を祀る社の存在だけではなく、八王子山と松尾山の両方に巨大な磐座と、古墳群(日吉社東本宮古墳群、松尾山古墳群)が存在し、ともに漢人系氏族(三津首(みつのおびと)氏、秦氏)に祀られるなど、共通点が多いことが指摘され、最澄は、大山咋神を祀る漢人系氏族である「三津首氏」の出身であり、大山咋神の神域についての深い知識を有していたことが指摘されている。また松尾大社は、渡来系氏族の秦氏により松尾山の神として平安京以前から奉斎されていた。ここに天台宗開祖の最澄と秦氏との何かのつながりを感じる。宇佐神宮本殿の西御前にも宗像三女神を祀るが、かつては玉依姫命(神武天皇御母)または仲姫命(応神天皇皇后)とする説が有力という。ここで近畿地方においては「鴨玉依姫神」で、九州地方では、神武天皇御母であり、海神の綿津見神の娘「玉依姫命」と重なって見える。




神功皇后新羅征討前の伝承


の麓には、神功皇后 ・仲哀天皇を祭神とする鏡山大神社がある。
▶『豊前国風土記』逸文
田河の郡。鏡山。昔、気長足姫尊(神功皇后)がこの山にいらせられて、はるかに国状をご覧になり、祈って申されるには、「天神も地祇も、私の(新羅征伐の)ために幸福を与え給え」と。そして御鏡をもってここに安置した。その鏡は化して石となり、現に山の中にある。それで名づけて鏡山という。

神功皇后を「日本書記」では氣長足姫尊。「古事記」では息長帯比売命と記されている。

香春岳の第一座祭神の「辛国息長大姫大目命」は、韓国から渡来した金属精錬(息長)の女神で、天目一箇神と同じくか精錬にかかわる巫女神で、神功皇后の名前「息長帯比売命」を連想させ、「辛国息長大姫大目命」は神功皇后という説や豊前国の息長氏の伝承地との説がある。

▶宝賀寿男氏によれば
息長氏の同族は、神武天皇以降の諸天皇から出た後裔諸氏と称して出てくるが、息長氏以前の初期分岐は、主には神武天皇の皇子神八耳命の後裔と称して九州のほぼ全域に繁衍した。
応神天皇以降、皇位についた息長氏族は、もとは宇佐国造の支流に出て、遠い淵源を北東アジアにもつ五十猛神を遠祖とする天孫系の氏族であった。息長氏族では、近江と畿内の周辺に住む氏が多いが、筑紫の米多国造(肥前国三根郡米多郷)も出したと述べる。


▶なんだかひらめき電球
ブログ☞奈良田原本「太安万侶」「鏡 織物 雅楽の聖地」訪れる
奈良田原本、弥生時代の前期に栄えた唐古・鍵遺跡(からこ・かぎいせき)があり、銅鐸から銅鏡への時代の変化や初代神武天皇の皇子神八井耳命(かんやいみみのみこと)を祖とする多氏秦氏のつながりが見えた。そのルーツをたどると「秦王国」この地につながるような気がした。






▶戦国時代には、香春岳に山城の居城として使われるようになる「幻の鬼ヶ城」
香春の三山に、平安〜室町時代に及ぶ戦後記に登場する豊前国古城史の中に「不落の名城」とある。しかし場所は特定できていないので「幻の鬼ヶ城」ともいわれてきた。昭和51年の調査では二ノ岳のようであるという。
『豊前軍紀略』などでは、香春鬼ヶ城の築城は、1157年、平清盛が太宰府大弐に任じられた翌年、香春岳山王権現の東に城を築き、神妙な山ゆえ「鬼岳(城)」と号し、一族の越中ノ二郎兵衛次に命じて守らせたとある。

『隠徳太平記」には、1586年一月毛利側の高橋鑑種が、賀春岳の城を攻め落とすという記述があり、一ノ岳頂上には「香春岳上宮」の祠があって、近江の日吉神社(山王権現)が祀られていた。本来この神は天台宗の比叡山を守護する神の大山咋神のこと。
現在は、セメントの原料とともに一ノ岳「香春岳上宮(山王権現)」は山頂から永遠に消滅した。




上香春地区をあるく
私は、「古宮八幡神社」から「香春神社(かわらじんじゃ)」まで歩きました。
702年に太宰府と豊前国府とを結ぶ道「田河道』がつくられると、その通り道の香春には役人や技術者が多く宿泊するようになり、江戸時代になると小倉街道の宿場町として繁栄した。




香春には一ノ岳の石灰石。明治6年に郡役所が設置され、町はにぎわいを見せていたが、石灰産業の成長により中心部が田川市へ移行した。当時の町長であった木村健吉氏は、こうした危機感を募らせ「浅野セメント」を誘い、昭和10年に創業を開始する。石炭を「黒ダイヤ」と呼ぶように、この地では石灰石を「白ダイヤ」と呼んだと言う。この古代からの資源は、町の振興に大きく貢献する事となった。

しかし、1998年に秩父小野田と合併して太平洋セメントとなり、2000年に、香春工場は生産構造最適化のため、本体から切り離され、2004年3月に会社解散された。


香春神社(かわらじんじゃ)



(削り取られた香春一ノ岳)


一ノ岳の「辛国息長大姫大目命」は無惨にももう無くなった。






八幡神軍による隼人従伐


宇佐八幡宮の重要行事のひとつ「放生会」に際して、八幡神のご正躰として奉納される銅鏡が「古宮八幡宮」で鋳造される。
「古宮八幡宮」の神幸祭りには、必ず長光家でつくったおまがり様という龍頭の餅を献じていた。
これは、どういった意味があるのだろう?

神亀元年(724) 宇佐八幡宮の放生会は、隼人の反乱鎮圧後、八幡神が辛嶋勝波豆米に対して
 「隼人等多く殺した報いとして、毎年放生会を修むべし」
と託宣した(承和縁起)のをうけて始められたという。


ブログ☞怨霊〜隼人と八幡神〜

『八幡宇佐宮御託宣集』(以後『託宣集』という)には、8世紀のはじめころに起きた隼人の反乱を制圧するため、八幡神を神輿(みこし)に乗せ、宇佐の人々も参加されたことが記している。

▶養老3年(719)大隈・日向の隼人(はやと)が反乱を起こした。翌年朝廷の祈願により八幡神は「吾行きて降伏さすべし」と託宣した。

八幡宮の宮司・大神諸兄(大神比義の孫)が、豊前国下毛郡野仲の霊池・三角池の真薦で枕を作り、これを八幡神の御験(薦枕という)として御輿に収め、禰宜・辛嶋勝波豆米を御杖人(神の託宣を聞く憑依)として、征隼人軍の将軍・豊前国主・宇努首男人(うぬのおびとおひと)とともに出征した。
このとき彦山の権現及び修行僧の法蓮、その弟子の華厳・覚満・体能といった法師らも同行した。

戦場に赴いた八幡神軍の戦いぶりについて
水に竜頭の船を浮かべ、地上には獅子狛犬を走らせ、空に鷁鳥を飛ばし、仏法の二十八部衆(千手観音の信者を守るという28柱の御法神)に傀儡舞(クグツマイ)を舞わせ、それに見とれて敵愾心を忘れ、城を出てきた隼人等を殺した」とある。



▶『宇佐記』に、「第29代欽明天皇32年(571年)癸卯2月豊前国宇佐郡菱形池の上小椋山」にて鎮祭した。
『続日本紀』に大隅国設定の翌年・和銅七年に豊前国から二百戸の民を隼人教導のため移住させたとあり、その移住者たちが国家鎮護として建立したものとも伝えられる韓国宇土峯神社(鹿児島県霧島市国分上井)があります。
奈良時代の宇佐から大隅への遷座に際して、当地の宇豆峯(現 宇土門)の絶頂に奉遷・鎮斎されたと考えられていて、御祭神の五十猛命は木の神であり、父神である須佐之男命と一緒に日韓両国を往来。社名の「韓国」はこの事跡にちなみ、また、「宇豆峯」は山林の美称だという。


ここに、隼人の殺害、新羅の侵略、新羅神の八幡神軍の戦い、宇佐八幡宮「放生会」などがみえてくる。
また、結局五十猛命は、新羅の神なのだろう。

古代宇佐神宮の有力祠官の辛嶋氏は、「辛嶋勝姓系図」によると
「スサノヲ命を祖神とし、その子・イタケル命を奉斎して新羅より渡来し、筑紫国(福岡県筑紫野市付近)にイタケルを祀り(筑紫神社)、豊前国香春岳(福岡県唐香春町)に移って新羅神を祀り(香春神社)、そののち豊国を経て宇佐に入った」
とある。

源平争乱期には平清盛の娘を妻とする大宮司・宇佐公通が平氏方につき、朝廷の裁定により宇佐神宮は、石清水八幡宮が管理することになった。
石清水八幡宮は紀氏の氏寺ですが、紀国造一族の故地は基山のある肥前国基い郡ともみられ、基山が五十猛命による「日本植林発祥之地」であり、筑紫神社が鎮座する。

もう一つ付け加えれば、住吉神社の発祥の地、住吉三神の元津宮といわれる「現人神社」は、基山の北部、筑紫郡那珂川町にある。


ブログ☞住吉大神・神功皇后・八幡神・武内宿禰命 の謎
この謎が解けたような気がする。




筑紫神社
筑紫の国号になったと伝えられる神社
筑紫では、三種の神器出土の吉武高木遺跡の南方近隣にあるもと妙見社といった五十猛神社がある。筑紫野市原田には、筑紫神社があり五十猛神(白日別神)がまつられる。

荒穂神社
筑紫神社の南西方に位置するのが、筑前と筑後の境に位置する基山であり、そこに筑紫神社が鎮座する。基山には五十猛神による「日本植林発祥の地」で、祭神は荒穂大神すなわち荒(安羅)からきた五十猛神であった。
「筑後国風土記逸文」昔、こ(筑前・筑後)の国境に荒ぶる神がいて通行人の半分は生き半分は死んでいた。その数は極めて多かった。そこで「人の命尽の神」と言った。筑紫君、肥君らの占いによって、筑紫君等の先祖である甕依姫(みかよりひめ)を祭司としてまつらせたところ、これより以降は通行人に神の被害がなくなったという。これを持って「筑紫の神」と言う。

現人神社
筑紫郡那珂川町にある現人神社は、住吉神社の発祥の地、住吉三神の元津宮といわれている。底筒男命中筒男命、表筒男命の住吉三神をお祭りする最古の神社で、福岡の住吉宮も後に現人神社より御分霊されたという。









神社・お寺巡り ブログランキングへ


にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村

AD
 |  リブログ(0)

芳瑩(ほうえい)さんの読者になろう

ブログの更新情報が受け取れて、アクセスが簡単になります

AD

ブログをはじめる

たくさんの芸能人・有名人が
書いているAmebaブログを
無料で簡単にはじめることができます。

公式トップブロガーへ応募

多くの方にご紹介したいブログを
執筆する方を「公式トップブロガー」
として認定しております。

芸能人・有名人ブログを開設

Amebaブログでは、芸能人・有名人ブログを
ご希望される著名人の方/事務所様を
随時募集しております。