岩室城

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岩室城

峨峨たる岩山に築かれた畠山氏の支城

■所在地 有田市宮原町東・有田郡吉備町田口
■別称 岩村城・岩室山城
■創築者 湯浅宗重・畠山氏
■創築年代 平安末期・室町初期
■形式 山城
■遺構 堀切・堅堀・土塁
■規模 約100mX75m
■指定 有田市指定史跡

 

JR紀勢線を南下する列車で、時折顔を出す和歌浦の海を右窓に認めながら、いくつものトンネルをくぐり抜けると、やがて有田川の両岸に広がる広い平野に出る。
この平野を一望する断崖絶壁の岩山に築かれたのが岩室城である。
標高270mのこの山の西方を熊野街道が通り、有田川の渡渉地も眼下に見下ろせる。
岩室城の築城地は、要害堅固であるばかりか、交通の要衛でもあった。

 


「平家物語」(長門本)には、湯浅氏の祖宗重が平忠房ら平家の残党とともに鎌倉幕府に反旗を翻し立て籠った岩村城という城が登場する。
この城が岩室城だと「紀伊国名所図会」にある。
これが史実とすれば、岩室城の創築時代は鎌倉初期ということになる。

 


その後、室町時代の初め応永六年(1399)、畠山基国が、紀伊国守護に任じられると、鳥屋城とともに守護方の拠点となったという。
しかし、岩室城が城郭として本格的に整備されたのは、基国がら四代のちの直順の時代と考えられる。
尚順は、明応二年(1493)の謀反にからんで京を追われ、紀州に下向した。
この時、守護所を大野(海南市大野)から広(広川町)に移して、国内での守護権力の強化に努めた。
尚順は、三男小太郎政氏を岩室城に配し、広域の後方支援と大野城との交通の確保にあたらせた。
この時、城は大改修が加えられたと考えられる。
畠山氏は湯河氏や雑賀衆の勢力拡大とともに弱体化の一途をたどり、戦国時代末期には有田郡内の鳥屋城と岩室城の周辺を支配する地域権力者に成り下がっていく。
天正十三年(1585)秀吉の紀州攻めで落城し、畠山氏も滅亡したといわれる。
城郭は、山頂を中心に東側と西側の尾根に曲輪を造成している。
その曲輪の斜面は鋭く、造成も丁寧である。
畠山氏の築いた城の中では最もよく作られている。
空掘りは、紀北でも数少ない堀切と堅堀をセットで用いており、曲輪の配置も単純ではあるが、帯曲輪などで曲輪間の連絡が容易にできるような構造としており、畠山氏の築城技術の高さがしのばれる。
現在、城跡は有田市側が整備されており、頂上の曲輪には江戸時代にこの地で修行した徳本上人が戦死者の供養のために祀った石塔があり、吉備町側には城址碑が建てられている。
(藤岡英礼)

 

 

高度

 

経路

 

グーグルアース

 

2016.12.29

車(1500cc)で、頂上を目指す。

 

右手に神社の鳥居をすぎると、見えてきます。

 

カーナビで道を間違えないように、ゆっくり上がって行く。

だいぶん、近づきました。

 

 

行きすぎる感じのところに、駐車場があります。

 

案内板

 

動物よけで、閉まっています。

開けて、入ってて、閉めます。

 

千葉山がよく見えます。

 

登り口

 

分かれ道

 

城址

 

 

 

 

 

 

西峰

風景

 

 

三角点

 

空濠

 

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