asahi.com の記事に平清盛の事について
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平家の棟梁 平清盛は中級公家であった平忠盛の長男として、
1118年に生まれた。保元・平治の乱で源氏をおさえ、絶大な武力
と経済力を背景に中央政界に進出。1167年に太政大臣となり、
娘の徳子を高倉天皇の后とした。さらに徳子の生んだ幼い安徳天皇を
即位させ、一族を高位高官につけて西国30余国を知行国とし、
500の荘園と大輪田泊(神戸港)による貿易を独占した。
しかし、晩年には彼と一門の強権政治に朝廷や公家が反感を持ち、
各地で源氏が挙兵するさなか、熱病で死去した。『平家物語』巻第六では
「入道相国、やまひつき給ひし日よりして、水をだにのどへも入給はず。
身の内のあつき事、火をたくが如し。(中略)比叡山より千手井の水を
くみくだし、石の舟にたゝへて、それにおりてひへたまへば、
水おびたゝしくわきあがて、程なく湯にぞなりにける」とある。
高熱を癒すために水風呂に入れるとお湯になったというのである。
平家物語はフィクションであり、たぶんに脚色されているが、
右大臣九条兼実(1149~1207年)は『玉葉』で「治承五年二月二十七日
禅門(清盛)頭風を病むと云々」「閏二月三日 禅門の所悩、殊に進み
」「四日 夜に入り伝へ聞く、禅門薨去す」とした。藤原定家(1162~1241年)
も『明月記』で「去る夜戌の時(午後8時)、入道前太政大臣已に薨ずるの由、
所々より其の告げあり。或は云ふ、臨終動熱悶絶の由」と記した。
高熱の原因としては、肺炎(服部敏良)、脳出血により視床下部性発熱
(大坪雄三)などの説もあるが、最も受け入れやすいのはマラリア説
(橋本雅一、吉川英治)である。
asahi.com マラリアとみれる熱病で没した平清盛 の記事より
一部抜粋
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