2009年08月19日(水)

奨学金がなぜ「給付型」なのか?

テーマ:経済・社会

衆議院選挙の幕がいよいよ切って落とされた。


候補者たちの街頭演説はどうやら半分以上が他党の悪口であり、ネガティブキャンペーンばかりしているのは何とかならないものだろうか。聞いていて全くうんざりする。「悪口」の時間を今の1/4くらいにして、大半の時間を「政策」主張にあててほしいものだ。


さて、各党のマニュフェストを読んでみた。賛成できるもの、反対したいもの、いろいろとあるが、「あれ、これは明らかにおかしいのではないか?」と私が感じたのは自民党が掲げている「給付型奨学金」なるものである。


私も大学生のときは日本育英会(現在の日本学生支援機構)の奨学金にお世話になった。毎月3万円ずつ4年間貸与してもらい、社会人になってから無利子で返済するというものだった。これは実にすばらしい制度だと思う。私のような奨学金がなければ困ってしまう学生にとって「月額3万円」を支給してもらうことはどれだけありがたかったかわからない。支給日が来るのが待ち遠しかったものだ。


しかし、これはあくまでも「貸与型」であって、利息なしでお金を借りているわけである。大学を卒業し、社会人になれば返済せねばならない。社会人になりたての頃は、年間返済額約15万円(10年で完済する)も結構きつかったが、それでも数年繰り上げて返済が終わったときは本当にほっとしたものだった。こうした形でお金が世代間でリレーされて延々と「奨学金制度」が続いているわけだ。


給付型奨学金というのは「給付型」という名前の通り、「貸与型」ではない、すなわち返済義務のない奨学金ということだ。しかし、そんなおかしな制度があるものだろうか? 「親の収入が低い学生で、成績優秀者を対象とする」という条件がついているらしい。だが、恵まれない学生に援助をする趣旨は理解できるが、成績優秀者が社会人になれば、もはや自立した成人であるので、返済するのが当たり前ではないか? 社会人になった途端に、「恵まれない」という条件は消滅するはずである。そういうきちんと返済能力がある人たちに税金を「給付型」で使うという発想は根本的に間違っている。


何のための「奨学金」なのか、本当にきちんと考えた政策なのだろうか? 子育て、教育関連に各党が注力するマニフェストを出すのはいいのだが、ちょっとこれは本末転倒、という感じだ。


太田忠の縦横無尽 2009.8.19

「奨学金がなぜ給付型なのか?」

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2009年08月16日(日)

早くも紅葉シーズン

テーマ:日常のこと

ようやく夏らしい気候になってきた。


東京はお盆に入るまでは、1日中曇りのどよーんとした日が毎日のように続き、台風による寒冷前線の刺激がもたらす豪雨や、夕方あるいは明け方に突然激しくにわか雨が襲ってきたりと、「本当に梅雨は明けたのか」という日が続いていたが、ようやく先週後半あたりから夏らしい夏になった。


昼間の外出は必ず帽子をかぶるようにしている。私は昔から猛烈な真夏の日差しにはめっぽう弱く、直射日光に30分でもあたっていると頭痛に襲われて体調がおかしくなるからである。昔はこういう症状をまさに「日射病」と言っていたが、最近はすっかり聞かなくなった。テレビの天気予報で「熱中症にはお気をつけ下さい」といわれても「一体何に熱中して病気になるんだか」という感じで私のような「日射病世代」にはなかなか馴染めない表現である。やはり言葉通り「陽射し」にやられる「日射病」か、あるいは照り返すアスファルトで炙られた熱風にやられる「熱風症」という表現のほうが適切なように思う。一体、何時から「日射病」→「熱中症」に変わったのか? そういえば、気圧を表す「ヘクトパスカル」も一体何時変わったんだろう。私の世代はもちろん「ミリバール」である。「ヘクトパスカル」は何だか可笑しくていまだに馴染めない。


さて、「早くも紅葉シーズン」とは我が家のことである。浴室のガラス窓越しに見える鉢植えのもみじの木の半分が2週間くらい前に紅葉してしまい、今や枯れて落葉しつつあるのである。こんなのは初めてである。毎年決まって12月1日頃に真っ赤に色づいてきれいな紅葉姿を見せるのだが、今年はまるで別人である。そういえば、中庭の夏椿の葉っぱも通常は濃い緑色をして今頃は元気いっぱいなはずなのだが、今年は少し赤茶けて冴えない色になっている。


気候がおかしくなっているのを植物たちは敏感に感じ取り、それを彼らなりにそのままダイレクトに表現しているのだ。


それにしても、毎年どんどんおかしくなっていく気候は気になるところだ。ゲリラ豪雨被害、土砂崩れ災害の規模が目に見えて大きくなっている。山間部であろうが都心部であろうが、「想像を絶する」水害がやってくれば人間などひとたまりもなく飲み込まれる姿を見せつけられることが多くなった。普段は幅50センチのほとんど水が流れていない用水路が何人もの人たちの命を奪ったのにはぞっとした。これから本格的な夕立と台風シーズン。本当に用心が必要だ。


太田忠の縦横無尽 2009.8.16

「早くも紅葉シーズン」

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2009年08月12日(水)

資産運用とは「気づき」である

テーマ:金融・マーケット・資産運用

個人ベースにおける資産運用がますます重要になっていることを日増しに実感させられる社会情勢である。


個人における資産運用といっても、所詮は金融資産のことを指すので、「そんなのはお金持ちだけがやるものだ」「お金のない自分には関係がない」「とても運用など考える余裕などなく毎日生きていくのに手一杯だ」と思っている人たちがあまりにも多いようなのだが、それはあくまでも資産運用に対して真剣に考えていないだけである。


資産運用をやるかやらないか、というのは私の経験や私と同世代の人たち(40代半ば)を見ていると、それは「気づき」があったかなかったかの差に過ぎないだけに思えてくる。すなわち、社会人になって20年も経過すると、資産運用の重要さにいち早く気づいて実行し金融資産を殖やしている人と、やりたいのだがついついめんどくさいので後回しにしている人、今後悔している人、毎日の生活に追われれまだ全く気づいていない人の4つのタイプに分かれる。


なぜこんなことを述べたかと言えば、太田忠投資評価研究所でスタートした『投資講座』の基礎編である「投資基礎講座」に20代の人たちが入会してきているからである。これはちょっと意外だった。そして、もうひとつ意外だったのは50代前後の人たちも入会してきていることだ。現時点では20代の人たちと50代前後の人たちの2つのグループにはっきりと分かれている。


私の場合、ちょうど30歳になって初めて外資系企業に転職したときに資産運用の「気づき」を経験した。日系の準大手証券にいた頃、バブルの崩壊で毎年ボーナスが下がり、おまけに28歳で社員寮を追い出され(人がどんどん辞めていたので空室がいくつもあったのだが、会社の規定で28歳で追い出された)、安い賃貸マンションを借りても社宅費用が差し引かれると手取りがわずか10万円となってしまった。「これはまずい」と思いながらも、とにかく「30歳までに300万円を貯めよう!」という計画をあきらめず、なんとかギリギリ達成し、その300万円がタネ銭となってくれたことが私の資産運用の原点だったことは間違いない。転職してもまだ安月給だったが、資産運用をきちんと始めたのである。


まだ少ない収入と少ない金融資産であっても、将来に向けて戦略的に育てていかねば人生は拓けない。まさに「恒産なくして恒心なし」である。


20代の人たちが「投資基礎講座」に入会するのを見て、私は「自分より先を越された!」と思うのと同時に、「今気づくとはなんてすばらしい!」という二つの思いが入り混じる。


年率10%の運用力を身につければ、10年後には複利で2.6倍、20年後には6.7倍、30年後には17.4倍に成長するパワーがある。これは本当に大きなことなのだ。


今入会している20代の人が30年経過すると50代になり、もう一方の入会者の年代になる。50代前後の人たちが「これから取り組む」とすれば、正直すでにものすごくチャンスを逸したように思える。だが、よく考えてみると、まだこの先30年程度の人生があるわけであり、「正しい資産運用」を10年、20年単位でおこなえるだけの時間が残されている、そして、資産運用に取り組まなければ不安に満ちた老後生活しか送れないかもしれないのだ。


それを考えると、50代の人たちが入会してくるのはちゃんとした理由があり、20代の人たちとは真剣さが違う。


太田忠の縦横無尽 2009.8.12

「資産運用とは気づきである」

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