2009年04月05日(日)

「1/無限」の確率をつくりだした日

テーマ:旅行・ダイビング

中学生まで数学は得意だった。一時は因数分解の不思議さに取りつかれて相当な難問までこなし、クラスの仲間からは「因数分解の帝王」と呼ばれていた時期もあったほどだ。


ところが高校になると急激に難しくなり、苦手教科に変貌して「数が苦」へと堕落してしまった。私の友人に「微分、積分、いい気分」というのが口癖の数学の天才がいて、かつての因数分解の帝王も影なしだった。そういう私であったが、確率の概念だけは大好きで、高校生から大学生までを対象にした矢野健太郎監修の『モノグラフ 』(懐かしいねぇ)を読破し、現代数学社の『確率論史』という恐ろしく専門的な大著を面白がって読んでいた。


人生に悩む人たちを商売にする占い師や占星術師のセリフにもしばしば確率の話が登場する。「生まれてきたことに感謝しなさい」といってもありきたりすぎて命の大切さを実感することにはならないので、「あなたのお父さん、お母さんが結婚しないとあなたは生まれてこなかった。そのさらにお父さん、お母さんがいて、またさらにお父さん、お母さんがいなければ……」のような話が延々と続く。場合によっては、最も早く卵子にたどり着いた精子の話まで引き合いに出される。確かにそうだ。一番早くたどり着く精子の確率は「1/数千万~数億」なので、とんでもなく奇跡的なことなのだ。だが、普通に暮らしているとまさか自分がそんなにすごい存在であることを実感するのは正直言って難しい。


そういえば、夫婦だって日本人同士のカップルを単純計算してみても、結婚した相手はおよそ1/6000万の存在だ。あ、違ったか。これでは老人や赤ん坊とも結婚しなければならないので、もっと適齢期を狭めて1/2000万くらいにしよう(まだ大雑把すぎるが)。これを特定の結ばれたカップルで計算すると1/2000万の2乗となり「1/4億」の確率となる。でも、そんなすごいことが起きているとは実感できない。いや、ちょっと考えてみれば、相手の1/2000万の確率だって、別の人でも同じ確率となるのだ。それに気づいたら大いに興ざめした。これではパートナーに対して最大級の賛辞である「かけがえのない」という枕詞もおちおち使えなくなってしまう。


生きていることはすごいことなはずなのに、それを自分で確かな手ごたえとして実感できないだろうか、と昔からよく考えることがあった。


だが、これまでの人生で一度、自らの意思で「1/無限」というありえない確率を生み出したことがある。それは04年9月に初めて宮古島にダイビングに出かけた時だった。沖縄の海は世界のダイビングポイントの中でも10本の指に入るほどすばらしい場所である。


「マリンレイク」という宮古島の北部にあるポイントに潜った時だった。宮古島は島を取り巻く浅瀬の海底が複雑怪奇な形をなしており、実にダイナミックなのが特徴である。ケーブ(洞窟)の中に入り、振り返りつつ海面のほうを見上げると、差し込んでくる太陽の光が巨大な複重層のカーテンを作り出し、それが生き物のようにゆらぎながらキラキラと輝く。海底の深い紺碧の色彩との対照的な情景に見とれた。そしてケーブの中をどんどん進んでいくと、やがて水面へ浮上した。驚いたことにそこは陸地にある小さな湖だった。すなわち、海と湖とがつながっているという特殊な場所であったのだ。感動が高まった。少し休憩した後、再度ケーブの中を進みつつ、エントリーしたポイントを目指した。その途中で、広大な真っ白な海底が現れた。よく見ると白化した枝サンゴの死骸のおびただしい堆積だった。静かな死者たちから放たれるオーラは実に艶めかしかった。その時である。「ここで奇跡を起こせる!」と私の頭に突然パッとひらめいた。「1本だけもって帰れば、それは私と枝サンゴとの間にありえない確率を生み出すことができる」。思わず興奮した。そして、私は長さ10センチ足らずの扇状に4本枝分かれしているサンゴを手にとったである。


このサンゴが我が家に来る確率は「1/無限」といってよい。そもそも人間に拾い上げられることなどまずありえないのだ。そして海の中で崩壊していく運命だったものを、私が捻じ曲げ、しかも他の誰でもない我が家へ招き入れたのだ。しかも相手は世界中の無限に存在するサンゴのうちの1本である。今日も書棚の一角にこのサンゴは存在し、「1/無限」の確率を主張してくれる。


「そのへんに落ちている石ころでも同じことではないのか?」とヤボなことは聞かないでほしい。それは断じて違う。感動には舞台装置が必要なのである。


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