中村ただし オフィシャルブログ

次世代政策研究会 会長 中村匡志


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明日の開所式、お蔭様で満席だそうです。「国会議員の先生のサプライズ飛び入りもあるかも」とも聞いています。たいへん素晴らしい盛会となりそうです。明日はどうぞよろしくお願いいたします。

さて、前回予告いたしました通り、今回から、私が日本会議久喜支部にてお話しさせていただいている憲法改正入門講義の内容を、順次掲載してまいりたいと思います。

第1回は、「本当は童話作家ではなかったグリム兄弟、と憲法の話」です。ごゆっくりとお楽しみください(以下は、実際にお話しした内容を、読みやすさ等の観点から編集したものです)。

◇ ◇ ◇


中村でございます。どうぞよろしくお願いいたします。

支部長様のほうから「今日から憲法の話をして欲しい」ということでご指名いただきましたので、大学で教員をやっていたこともあり、憲法に関しては学問的に知識を持っているということで、お話しさせていただければと思います。

今日は、具体的な条文に入るよりも、心構え的なものをちょっとお話しさせていただければと思っているのですが、その前にですね、ちょっとこちらのお札を見ていただきたいんですけれども、皆さん覚えていらっしゃいますか。


皆さん覚えていらっしゃるようですね。そう、旧1万円札です。では、肖像画となっているこちらの方はどなたですか?

Aさん「聖徳太子です」

そう、聖徳太子ですね。それでは、次はこちらのお札です。


旧5千円札ですけれども、こちらの肖像画はどなたですか?

Bさん「う~ん、あまり記憶ないです」(一同笑)

いや、同じ方ですよ(笑)。そう、聖徳太子ですね。次は、千円札ですけれども、


こちらの肖像画はどうでしょうか?

Cさん「伊藤博文です」

そうです。伊藤博文です。この2人はどういう共通点があるかといいますと、片や聖徳太子は、歴史の授業とかで覚えていらっしゃるかも知れませんけれども、「十七条の憲法」を起草した本人なんですね。そして、片やこの伊藤博文は「大日本帝国憲法」を起草した人物でございます。

つまり、今ちょっと変わってしまいましたけれども、我が国おいては、「憲法」を起草した人を《国をつくった重要な人物》としてお札に肖像画を印刷して皆で使う、そういう文化があったわけです。そして、それはどこの国でも同じでございまして、ちょっとドイツの国の話をいたしますと、今はもうユーロになってしまいましたけれども、ユーロができる前はドイツの通貨はマルクでございまして、1マルク大体50円くらいなんですが、こちらが千マルクのお札なんですね。


為替相場でいうと、千マルクのお札というのは、大体5万円くらいの価値なんですけれども、マルクがユーロに切り替わった当時の使い出だと、私の感覚だと大体1マルク100円くらいの使い出がありまして、ですから、これは大体10万円札くらいの使い出、価値があるお札なんですね。そこに印刷されているこの2人の方々、どなたか見覚えがありますでしょうか?

Dさん「グリム兄弟ですか」

そうです。これがグリム兄弟でございまして、我々がグリム兄弟というと、『グリム童話』を普通の人は思い浮かべると思うんですね。「何で童話作家がこんな高価なお札の肖像画になっているのか?」ということを不思議に思うかもしれないのですけれども、このグリム兄弟というのは、実は、童話作家などではないんですね。この人たちの本来の職業は、《ゲルマニスト》という人たちなのです。ゲルマニストというのは、《ゲルマニスティック》(ゲルマン学)を研究する《ゲルマン学者》と呼ばれる人たちのことでして…

Eさん「ゲルマンとはドイツのことですか」

概ねそうですね。ドイツとゲルマンが一緒なのかというのは、実は、いろいろと慎重な議論が必要なんですけれども、少なくともグリムに関しては、ドイツとゲルマンは一緒であるという前提から出発しています。今でも「ゲルマニスティック」というものはありまして、大体ドイツ文学をやっている人は、ドイツに留学するとゲルマニスティックの学科に行って勉強するわけで、そういう感じで、今は「ゲルマニスティック=ドイツ文学」みたいになっちゃっているわけですけれども、本当のゲルマニスティック、少なくともグリムがいた時のゲルマニスティックというのは、そういうものではなく、《ゲルマン的なもの》を発見する学問なんですね。

当時の状況についてご説明しますと、そもそも当時は、ドイツの国というものが存在していませんでした。だから、「ドイツの国をつくらなきゃいけない」ということで、それで《ゲルマン的なもの》とは何かということを、いろんなお話であるとか、あるいは古い言い伝えであるとか、あるいは「法書」と呼ばれる古い法律書のようなものを調べて、まとめあげて、そうすることによって、「ドイツ人というのはこういう人たちなんですよ」ということを提示して、それに基づいて皆が「ああ、ドイツという国をつくらなければならない」ということでまとまったのでありまして、そのまさに中心にいたのがこのグリム兄弟なんですね。

Fさん「プロシアが中心ではないのですか」

おっしゃる通り、1871年にドイツが実際に一つの国(ライヒ、Reich)となったときには、領邦(ラント、Land)の一つであるプロシア(ドイツ語ではプロイセン)王国の宰相ビスマルクが中心的な役割を果たしました。しかし、実は、1848年にも一度ドイツが一つの国(ライヒ)としてまとまろうとしたことがあって、その時には結局のところ挫折しているのですが、ドイツの国としての憲法を制定するところまでは行ったのです(施行はされませんでしたが)。そして、そのときに中心的な役割を果たしたのが、ほかでもないグリムだったのです。

プロイセン(プロシア)もそうですけれども、もともとドイツというのは《神聖ローマ帝国》と呼ばれるところだったんですけれども、それが、ナポレオンがやってきて--現在の日本の、西から中国が攻めてくるという状況にも通ずるところがありますけれども--西からフランスが攻めてきて、それでドイツは、それまで神聖ローマ帝国というかたちでまとまっていたのですけれども、それがなくなってしまって、バラバラになった。まあ、日本でいったら、中国が攻めてきた結果、東京と大阪と北海道と全部別の国になっちゃって、そして、日本という国がなくなっちゃったという、そういうような感じの悲惨な状況だったんですよね。ですから、そういう状況の中にあって、「ドイツという国をつくりたい」という、そういう思いがグリムの根柢にあったのですよね。

昨今の憲法学者について、先ほどM先生が「売国憲法学者」とおっしゃってましたけれども、本当にねぇ、私も研究室で個人的にお世話になった方々がおりますのであまり悪口を言いたくはないのですけれども、特に最近の憲法学者の滅茶苦茶ぶりには目に余るものがありまして、やはり私としても一言述べておかなければならないと思っています。

そもそも学者というのは根柢に、このグリムの場合もそうですけれども、目的があって学問をやっているんですよね。やはり、国を愛して、この場合だったら、そもそも「国をつくりたい」という思いがあって、それで学問を一生懸命やっているわけで、学者というのは、本来的に愛国的なものなんですよね。ですから、「売国憲法学者」というのは、「熱い冷酒」とか「嘘つきの正直者」と同じ一種の概念矛盾で、彼らはそもそも「学者」ではないんじゃないかと、そういう風に言わざるを得ないのですよね。学者としての本来のあり方に反しているわけですから。私の師匠の長谷部恭男先生も、最近露出が多くなっておられますが、あの先生も、集団的自衛権に関しては違憲と言ったりするわけですけれども、結局、憲法解釈というのは、根柢にある価値観、物の考え方、政治的主張というものを《憲法解釈》というかたちで述べているだけなので、「集団的自衛権は違憲」と言ってみても、「集団的自衛権反対」と言っているのと、あまり変わらないんですよね。「違憲」と言っているのと、「反対」と言ってるのはあまり変わらないし、そもそも中国に対して防衛する気がないということを言っているのと、変わらないわけなんですね。

実際のところ、憲法学者自身も、「憲法解釈というのは一定の政治的主張に過ぎない」ということを多かれ少なかれ自覚しているものなのです。なぜかというと、憲法の学者は、ほぼ間違いなくケルゼンという学者の書いたものを読んでいるわけなんですね。ケルゼンというのは、オーストリアの学者ですけれども、この人は何を言ったかというと、「法解釈というのは、その根柢にイデオロギーがある」ということを明確にして、法学すなわち「法の学問」(法の科学、「SollenのSein」)というものと「法の実践」(「SollenのSollen」)というものを分けなきゃいけないということを主張したんですね(法学を「純化」するという意味で《純粋法学》(reine Rechtslehre)という)。私はその考え方には反対なんですけれども、我が国の憲法学界の中では、ケルゼンというのはものすごい人気があるんですよね。「法の科学」と「法の実践」を区別するというのは、まあいろいろな理解の仕方がありますけれども、例えば樋口陽一先生という、先ほどM先生のお話の中で「売国憲法学者」の一人として出てきた方ですけれども、あの先生なんかは、《学問は学問で真面目にやりますけれども、それとは別に私の思想信条で左翼の政治活動はガンガンやらせてもらいますよ》ということで、ある意味開き直った理解をされています。やや長くなりますが、樋口先生のお説を読んでみましょう:

「認識と評価、科学と思想の関係という問題は、およそ科学一般について問題となるが、法学の場合には、それにくわえて、特殊に法学的な局面として、「科学学説」と「解釈学説」の関係の問題となってあらわれる。その際、〔…〕法学上の概念ないしそれを用いて構成される命題は、ひとつのものが「科学学説」と「解釈学説」にまたがって機能せしめられるのがむしろ普通であるために、こうした両面機能性という問題に特に注意を払わなければならない。〔…〕
 〔…〕例えばある憲法構造が議会統治制でなく議院内閣制であると確定することは、たしかに科学学説の問題であるが、普通は、そうなると、今度は、その憲法が議院内閣制をとっているという見方に基いて、諸条項の解釈学説がくみ立てられる、という関連になってくる。
 そういう事情のもとで、しばしばおこなわれるのは、もっぱら解釈学説に役立つかぎりで、本来は科学学説にあたるはずの仕事をする、という単純直結論か、それとも、科学学説にたずさわるだけで解釈学説へのはねかえりには無頓着という単純峻別論かであるが、そのほかにもう二つ、自分の解釈学説の説得力を損うようになる科学学説を説くことはあえておこなわないという、自覚的な結合論と、科学学説の場面での認識行為をそれとして貫くが、そこから得られた科学学説〔…〕とはあえてちがった解釈学説〔…〕を主張する立場、すなわち批判的峻別論がありうる。ただし、この最後の立場は、解釈学説という土俵のうえでは、説得効果がいちじるしく減殺されることにならざるをえない。認識の問題としてはこの憲法はAの制度をとっているのだが、解釈の問題としてはそれをBの制度として解釈する、と自ら公言するわけであるから、〔…〕解釈学説としての説得力はいちじるしく低下する。そして、そのために解釈学説としての存在意義が発揮できなくなった、と判断された場合には、もっぱら立法論の主張として、または、所与の実定法体制全般に対する批判の主張というかたちで、実践的主張が展開されることになるであろう。以上は、認識という行為についての提言としての峻別論に関することであるが、それと対応的に同様なことが、実践的評価についての提言としての峻別論に関しても、あてはまる。
 ここでも、解釈学説と科学学説をはじめから区別しない単純直結論、両者を分けっぱなしで、それらの峻別を主張することによる解釈学説へのはねかえりを考慮に入れない単純峻別論のほか、二つの立場がありうる。つまり、自己の解釈主張はあくまで自分の実践的提言なのだということを自覚しつつ、しかし、解釈学説の説得力をへらさないためにあえてそのことを明言せず、認識命題と結びつけたかたちで解釈主張をするという、自覚的な結合論、および、解釈学説を認識の名において説いてはならぬということを明言して峻別論の立場をつらぬくと同時に、そう明言することによる付随的効果として解釈学説の説得力が低下することに対しては、実践の次元で別個にこれを打ち消す行為をするという、批判的峻別論である。そしてまた、ここでも、最後の立場は解釈学説が「科学的」「客観的」ではなくて「主観的」なものでしかありえないという自分の素性を、いわば種明かしすることとなるから、解釈主張の土俵のうえでは、大いに説得力を失うことを覚悟しなければならない。」(樋口陽一『近代憲法学にとっての論理と価値』23頁以下)

そして、彼はそれを承知の上で《批判的峻別論》を採ることを明らかにしつつ、「個人の尊厳という価値すらも、科学の名において教壇から説くことはできないという峻別論を採るとともに、しかし同時に、そうした峻別を説くことによって予想される附随的効果〔…〕に対しては、それを打ち消すのに役立ちうるような評価的立場をとること、である」と述べています(同25頁)。

つまり、ややもってまわった言い方ながら、《大学の「教壇から」の学術活動(「法の科学」)とは別次元の活動として、バリバリの政治活動(「法の実践」)をさせていただきますよ》ということを、ここではっきりと表明しているわけです。だから、あの先生は、左翼の政治集会にどんどん出かけて行って、そこでがんがんアジ演説をするわけです。こういった政治活動(「法の実践」)について、樋口先生は、「そのいとなみは、それを意識的に理性的な土俵のうえでおこなおうとするかぎり、科学ではないにしても学問の名になお値するものといってよいであろう」と苦し紛れの言い訳をしていますが(同25頁)、まったく説得力を欠いています。こんなの学問でも何でもありません。そればかりか、そもそもケルゼンの母国語であるドイツ語では、「科学」(Wissenschaft)と「学問」(Wissenschaft)は同一のものを指しますので、「科学」と「実践」を一生懸命に峻別しようとしてきた彼の努力は、この苦し紛れの迂闊な一言により、一瞬で瓦解して水泡に帰することになります。

まぁ樋口先生などはかなり極端な例ですけれども、いずれにしても、「法の科学」と「法の実践」を分けようというケルゼン的な考え方は、宮澤俊義先生以来、憲法学における論文の書き方なんかにも大きな影響を与えているわけです。つまり、学問は学問で、自分の都合が悪いことであっても、それは論文には書きますよと、だけど最終的には、「俺はこう思う」といって自分の政治的な立場を主張します、と、その最後の部分が「法の実践」だということです。だから、この間名前が出ていた芦部信喜先生の論文なんかを読んでもそうなんですけれども、割と正直なことが途中書いてあるんですよね。自分の主張にとって都合の悪いような、例えばフランスのこういう学者がこういうことを言っているというのが割と正直に書いてあって、結構びっくりするのですよね。だけど、結論的には「俺はこう思うんだ!」って言って、力づくでグッと締めるというような終わり方なんですよね。

皆さんが憲法を勉強するときに、法学部の学生や司法試験受験生なんかもそうですけれども、いろんな人が《教科書》というものから入ってしまうんですね。あれはあんまり良くない。まぁ、良くないといってもなかなか難しいんですけれども。なぜかというと、先ほど述べた、論文の結論の「俺はこう思う!」っていう部分を寄せ集めて作ったのが、いわゆる《教科書》、《体系書》というものだからです。だから、それを読むと、何となく学問をやっているような気分になるのですけれども、実際のところはその人の政治的主張を読んでいるのとあまり変わらないのですよね。ですから、むしろお薦めしたいのは、論文を読むことです。戦前のものもすごく良いし、戦後のものも、もちろん結論は偏っているのだけれども、途中のプロセスは読んでそんなに損になるものではないですね。それに対して、やっぱり教科書はあんまりお薦めできないですね。そして、教科書をさらにコンパクトにした《新書》で出てるものとか、ああいうものはもう最低最悪ですね。ああいうものは読まないほうがいいです。

Gさん「そう言われても、ぽっと入ってきて何をやるかっていったら何もわかんないですよ(笑)」

う~ん、そこがまぁ難しいところですけれども、そのオルタナティヴというか、代わりになるような入門的なお話をここでご提供できればいいな、ということで、頑張ってお話しさせていただきます。

グリムの話に戻りますけれども、先ほど神聖ローマ帝国の話をしたので、まずその話から始めていくのがよいかなと思います。まぁ当時のドイツのことを考えると、いかに我々の状況が恵まれているか--もちろん国内に左翼がたくさんいて、我々として困っていたりはしますけれども--当時のドイツの囲まれた状況に比べたら、やっぱり我々は恵まれた状況にあるなぁとつくづく思うんですね。この地図をちょっと見てください。


もともと神聖ローマ帝国がどういう風に成立したかといいますと、もともとフランク王国と呼ばれるフランク人の国、ゲルマン人の中の一部族のフランク族というのがいて、そのフランク王の国だったから「フランク王国」と言ったんですよね。そのフランク王国が、今のドイツだけじゃなくて、今のスイスであるとか、オーストリアであるとか、あるいは、イタリアのほうまで領土をもっていて、我が国の戦国時代で言ったら天下統一したら京都に上っていくような感じで、ヨーロッパではイタリアのローマがそれにあたる所だったんですよね。そこにはローマ法王という人がいて、我が国でいう天皇陛下にあたる人が、ヨーロッパではローマ法王だったわけですよね。それで、ローマ法王のところに行って、ローマ法王から「お前が皇帝になりなさい」ということで戴冠する、ということで、「神聖ローマ帝国」というものが成立したんですよね。ところが、もともとそのドイツとスイスとオーストリアとイタリアにわたっていた領土が、だんだんと、大体3つぐらいに分かれていきます。ドイツ国王というのと、ブルグント国王というのと(ブルグントというのは、大体今のスイスとか、南仏プロヴァンスとか、あのあたりです)、それからイタリア王(ランゴバルド王)の、3つの国に分かれて、その3つの国の王様をドイツ国王がすべて兼ねるというのが、神聖ローマ帝国の基本的な考え方、領土のあり方だったんですね。このあたりの経緯は少し複雑ですので、資料を読んで叮嚀に追ってみましょう:

「叙任権闘争以降、「王国」〔regnum〕には徐々に「ドイツ人の」という形容が付くようになっていく。8世紀末から資料に現れる「ドイツの(theodiskus, teutonicus)」という語は、もともとたんに「民衆の」というほどの意味であったゲルマン古語に由来し、それが、ロマン語(ラテン語起源のイタリア語やフランス語)とスラヴ語の両言語から区別された言語(ドイツ語)をさすために用いられるようになったものである。10世紀にはドイツ語を喋る人々がドイツ人たち(teutonici)とよばれ、ドイツの地(teutonica terra)という用法も現れる。1000年ごろには、ドイツ語、ドイツ人、ドイツの地という表現が、言語を異にする人々との接触の多いところ(とくに言語の境界地帯)で、接触の体験の多い人々(とくに聖職者や貴族)によって、しばしば用いられている。
 この「ドイツ」と「王国」が結びついて「ドイツ王国(regnum teutonicum)」なる概念が成立するのであるが、11世紀初めからイタリアに現れるこの表現は、1074~75年に、叙任権闘争の一方の当事者たる教皇〔=ローマ法王〕グレゴーリウスVII世によって政治的意味を与えられることになった。すなわち、地上におけるキリストの代理人としてあらゆる王国の上の封主たろうとしたグレゴーリウスは、かつて世界全土(orbis terrarum)に及んだローマ皇帝権の衣鉢を継いで卓越した地位を主張しようとする皇帝ハインリヒIV世に対抗して、ハインリヒの「王国」が「ドイツ」に限定されたものにすぎないことを明示するために「ドイツ王国」という呼称を用いたのである。ハインリヒはむろんこれを拒否したが、「ドイツ王国」なる名称は、やがてそのような政治的脈絡を離れてドイツ人自身に受け入れられていった。
 その結果、ドイツ王国とローマ帝国の概念的区別が明確化される。ローマ帝国はドイツ王国、イタリア(ランゴバルド)王国、ブルグント王国から成り、ドイツ国王=ローマ皇帝がイタリア国王、ブルグント国王でもある、ということになる(いくつもの王国〔Königtum〕およびその国王〔König〕の上に帝国〔Reich, Kaiserreich〕とその皇帝〔Kaiser〕が位置づけられるというのが、その後のドイツ人の概念的枠組になる〔…〕)。」(村上淳一/ハンス・ペーター・マルチュケ『ドイツ法入門』(改訂第5版)3頁以下)

そして、その後、イタリアもブルグントも神聖ローマ帝国から独立してしまって、その結果ドイツ王国だけが残って、グリムの生まれた頃には既に《神聖ローマ帝国=ドイツ王国》となっていたわけです(これを「ドイツ民族の神聖ローマ帝国」(Heiliges Römisches Reich Deutscher Nation)といいます)。しかし、そこで通用しているのは、相変わらず(という言い方は後述の通り正確ではないのですが)《ローマ法》だったんですね。ローマ法というのは、古代ローマ(共和政ローマ・ローマ帝国等)において通用していた法で、「神聖ローマ帝国は古代ローマの後継国である」と考えられていたので、そういう建前の下に、神聖ローマ帝国でもローマ法が通用していました。もっとも、歴史的事実としては、神聖ローマ帝国でローマ法が適用されるようになったのはかなり後のことであり、この「ローマ法の継受」(Rezeption)と呼ばれる現象は、歴史的事実としてもう少し複雑ですから、この辺りの事情についても、叮嚀に資料を読むことにしましょう:

「ドイツ法の存在様式を根本的に規定している第一の歴史的条件は、ローマ法の継受という事象である。ローマ法は、言うまでもなく、古代ローマ国家において発展を遂げた法であるが、そのローマ法の後代への伝達を可能にしたのは、東ローマ皇帝ユスティニアーヌスの下でのローマ法の法典化事業であった。ユスティニアーヌスは、帝政期の諸立法を法典に収録したばかりでなく、共和政期末から帝政期初頭にかけてのいわゆる「古典時代」の法文を抜粋・編集し、ローマ法黄金期の優れた法的営為の証を法典の中に定着させた。「ローマ法大全(Corpus luris Civilis)」と呼ばれたこのユスティニアーヌスの法典は、東ローマ帝国の国力低下とともに一旦は歴史の舞台から忘れ去られるが、12世紀の北イタリアで再発見されて、まずは文献学的研究の、次いで法学的研究の対象とされ、遂には中世イタリアの都市国家の法実務に適用されるようになる。法典に収録された法文の断片の膨大な寄せ集めは、一千年もの時を隔てた現実の世界にそのまま適用できる代物である筈もなく、望ましい結論を獲得するためには、その法文に様々な形で細工を加えることがどうしても必要であった。中世イタリア法学は、まさにそうした込み入った解釈技術を発展させていた。
 そうした法解釈技術は、ドイツからイタリアの大学に留学した学徒達によって、ドイツに持ち帰られる。彼等は、ドイツの各地で裁判官、行政官などの役職に就き、留学で学んだローマ法解釈技術をドイツの法実務に適用し始める。ローマ法は、そうした過程を通じて、ドイツに継受され、ドイツ全土に共通して通用する法、すなわち「普通法(gemeines Recht)」の最重要な法源となったのである。それは単に「ローマ法大全」という法典を普通法の法源として採用した、というような形式的な事態なのではなくて、膨大な法文の集積を現実の要請に合わせて解釈し、適用するという、高度に専門的な技術の総体が移入されたことを意味する。
 別の側面から見れば、ドイツにはそれまでそうした高度に専門的な法技術は存在しておらず、逆にローマ法の継受によって初めてドイツに専門技術の担い手としての法律家集団が登場したということなのである。この専門的法律家集団の欠如こそが、ドイツの地でローマ法の継受という特有の事態を生じさせた決定的な要因である。すなわち、フランスではローマ法の影響下にあった地域が南部にあったにもかかわらず、北部の慣習法地域ではその慣習法の担い手としての法律家集団が育ち、各地方の慣習法を調査し、成文化しており、ローマ法の浸透をくい止めることができたし、イングランドでは国王の裁判所で活動する法律家達がコモン・ローを維持・発展させて、時代の要請にも充分に応えていたため、自己の権力基盤の強化のためにローマ法の導入をはかった国王の努力も実を結ぶことはなかった。それに対してドイツでは、ローマ法の継受に至るまで、法は専門家が担うものになってはいなかった。
 そのことを何よりも顕著に示すのは、ドイツ古来の裁判の形態、とくにそこで採用されていた判決非難(Urteilsschelte)の制度である。ドイツの諸部族では、部族の首長とそれに従う戦士たちが集う人民集会そのものが裁判所としての機能を果たした。そこでは首長自らが裁判長となったが、その権限は訴訟指揮に限定されており、判決の提案は判決発見人に委ねられた。判決発見人が提案した結論に、裁判集会に参集した者全員が賛同すれば、判決が有効に成立する。裁判集会の参加者一人ひとりは、その判決提案に納得できない場合には、判決を非難する権利を有した。判決非難に際して、非難者は非難と同時に自らが正しいと信ずる判決案を提示しなければならない。判決非難によって、非難者と、判決発見人との間に法的争訟が成立し、その決着は、法廷決闘や宣誓によって付けられたと推測される。
 この判決非難については、19世紀後半の著名な法史学者ハインリヒ・ブルンナー(Heinrich Brunner)の、「判決非難は判決発見人の意見に対してではなくて、意図に対して向けられる」という説明が今日なお援用される。つまり判決非難は、判決発見人が本来は別の判決を提案すべきことを承知していながら、故意に法を柾げて誤った判決を提案した、ということに向けられたのだ、というのである。これは、裁判集会に参集した人々、言い換えれば当該法共同体の構成員のすべてが、何が法であるのか、ということについて共通の理解を有している、ということを前提にしている。つまり、このような法共同体においては、法は、法共同体構成員の全員が共有する法的確信というかたちで存在するに過ぎず、それを超えた専門的な法的観念は、およそ存在の余地がなかったのである。判決発見人は、ゲルマン世界における最初の「職業的裁判官」(ハインリヒ・ミッタイス(Heinrich Mitteis))ではあるが、法的見識に関して何らの特別の権威を認められず、常に法共同体構成員一人ひとりの非難に曝されていた。
 このような状態では、専門家の担う法的営為は発展困難であり、ローマ法というまったく異質の専門的学識法の流入に抵抗する、固有法の担い手としての専門法律家集団は育たないままだったのである。ドイツの地で、他の西欧諸国とは異なってローマ法の継受が行われたのは、まさにこのような事情によるのであった。」(海老原明夫「ドイツ法」(北村一郎編『アクセスガイド外国法』151頁以下)154頁以下)

そういう訳で、神聖ローマ帝国の中からイタリアやブルグントが独立してドイツだけが残った「ドイツ民族の神聖ローマ帝国」においては、ヴォルテール流に言えば、まったく「ローマ」的な要素がなくなったにもかかわらず、摩訶不思議なことにドイツ人たちが《ローマ法》を借用して使うようになったわけです。ローマ法というのは、古代ローマでできた法ですから、イタリアとか地中海とかあっちのほうの法律であるわけです。ということは、「ドイツの国なのだけれども、通用している法律はローマの法律である」ということで、これはもう--我々で言う「押し付け憲法」ではないけれど--「借り物憲法」だし、「借り物民法」だし、全ての法律が「借り物」だったわけです。要するに、《ドイツらしさ》の要素が全くない法律だったわけなんですよね。それに対して、「おかしいじゃないか!」ということ言い始めたのが、このグリムだったわけです。「やっぱりドイツという国なんだから、ローマ法というあの「借り物民法」を克服して、ドイツの、我々自身の《自主民法》を打ち立てるべきだ」というのが、グリムの考え方だったんですね。

いま憲法ではなく民法のことだけを申し上げましたけれども、このことには理由がありまして、実は、もともと《ゲルマニスト》というのは、《ロマニスト》、すなわち《ローマ法学者》に対するアンチテーゼ、反対概念として唱えられた概念だったのです。「ローマ法をそのまま使いますよ」と主張する人たち(=ロマニスト)に対して、「ローマ法ではなくゲルマン法を使うべきだ」と主張するのが、ゲルマニストだったのです。そして、これは主に民法に関する論争だったのです。なぜかというと、もうこのときにはナポレオンの所為で「神聖ローマ帝国」そのものがなくなってしまっていて、国というものが存在しない以上、憲法というものもまた存在し得なかったからです。

もっとも、それに加えて、憲法のほうでは、17世紀くらいから、だんだんと、ローマ法とは異なるドイツ独自の《帝国国法論》が成立し、或る程度「借り物」性を克服できていたという事情もあります。逆に言うと、もともと神聖ローマ帝国が存在している当時から、憲法よりも民法のほうが「借り物」度合いがひどかったということです。この点についても、資料を読んで確認してみましょう:

「帝国国制の法的把握は、一七世紀に入るまではローマ法の諸概念によって試みられるにとどまったが、 一七世紀の学者へルマン・コンリング(H. Conring)によって、ローマ法から解放された独自の帝国国法論が歴史的な方法によって展開されることになった。すなわちコンリングは、帝国の国法に関するかぎりローマ法ないしカノン法が継受されたことを承認せず、ドイツの慣習と帝国の伝統が帝国の現実を規定していると見て、そのドイツ国法をとらえようとした。そのさい、かれは、当然のことながら法律学(継受されたローマ=カノン法に関する学問)に依拠することをやめ、アリストテレスや、タキトゥスや、マキアヴェリや、ボダンや、ベイコンを参考にして、これらの手本から歴史的な問題設定と、それによる国制記述の方法を学び、帝国の基礎にあるratio status〔状態の理〕--経験的な現実の国制、とりわけ非ローマ的・ドイツ的な諸侯の自由(Fürstenlibertät)--を認識しようとした。そのさい歴史は、国制の発展をつないでゆく環を示す役割を果したわけである。それに反して、「哲学的考察ないし神学的啓示によってもたらされるような普遍的な倫理や秩序は一つもない」、とされた。このようなコンリングの歴史主義的帝国国法論と、自然法論者プーフェンドルフ(S. Pufendorf)の国法理論とを結合し、後世に大きな影響を及ぼしたのが、クリスティアン・トマジウス(Ch. Thomasius)であった。トマジウスは、ドイツの諸大学のなかで--一六九〇年から一七二八年までかれ自身が教壇に立った--ハレ大学がはじめて国法(Ius publicum)の講義を開設し、非カトリックの多くの大学に模範を示したことを高く評価する。国法を法学の一分野として承認することを拒否する見解、とくにそれが歴史学または政治学に属するという理由でこれを排斥する見解に対して、トマジウスは、この学問がやはり法的素材を扱うものであり、法の解釈を任務とするものである以上、法律家によって担当さるべきことに疑問の余地はない、と主張する。だが、それと同時に、トマジウスは、国法論者にとって真の歴史すなわち帝国国制史の研究が欠かせないものであることを強調するのである。トマジウスによれば、歴史のみが法律の起源、精神、意図、さらに場合によってはその変化を明らかにしうるということは、私法についても国法についてもあてはまるが、国法の場合は国家的な諸関係への依存度が大きく、したがって歴史研究の必要は大きい、とされる。こうして、自然法論者トマジウスは、国法が自然法に服するものであることを認めながらも、それがその時々のstatus reipublicae〔国の状態〕に対応して内容を変化させてゆくものであることを強調した。このように法の可変性=実定性の承認を本質的要素とする歴史主義が、帝国国法論との結びつきを保ちながら、ハレ大学からゲッティンゲン大学に中心を移して、一八世紀の後半にめざましい展開を見せることになるのである。」(村上淳一『ゲルマン法史における自由と誠実』39頁以下)

これに対して、グリムの生きている19世紀になっても、民法のほうは、相変わらず《ローマ法》という「借り物民法」を使っていたのです。だから、このときに民法をどうするかでロマニストとゲルマニストの大論争になったわけです。

当時、サヴィニーという人がおりまして、


この人ですけれども、このサヴィニーという人は、ドイツの法学者中で最も偉大だったと言われる人なのですが、このサヴィニーが、ロマニストの親玉だったわけなのですよね。「ローマ法をそのまま使うのがいいじゃないか」と。

先程も言いましたけれども、この時代のドイツの学者というのは、みんな愛国者なんですね。そして、このサヴィニーの一番核となる主張というのは、《民族精神》という考え方なんですね。「法は民族精神から生じる」という考え方でございまして、《民族精神》とは一体何かというと、《精神》というのはドイツ語で「ガイスト」(Geist)なのですよね。「ガイスト」とは何かというと、《たましい》ということなんですよね。「お化け」という意味でも使いますけれども、人魂みたいな感じでイメージしていただければいいかと思うのですが、つまり、ガイストというのは魂(たましい)ということでして、《民族》というのはこの場合《ドイツ民族》ですから、要するに《民族精神》というのは、《ドイツ魂》、あるいは《ゲルマン魂》ということなのです。つまり、我々でいう《大和魂》のようなものでして、サヴィニーは、この《民族精神》、すなわち、《ドイツ魂》、《ゲルマン魂》から法が生じると言っているのです。

「だったらサヴィニーも、グリムみたいに《ゲルマン法を使うべきだ》と言うべきじゃないか」という風に思うかもしれないのですが、時系列として申し上げますと、まずサヴィニーが居たのです。そして、実はグリムというのはサヴィニーの弟子の一人でございまして、《民族精神》というサヴィニーの基本的な考え方をそのまま受け継いで、グリムはそれをもっと実直にやった、正直にやったということなのです。サヴィニーの考え方というのは技巧的な部分があって、いろんなことを考えあわせた上で、「ローマ法を使うほうがいい」ということを言ったわけです。当時のドイツというのは、ドイツという国がなくてバラバラだったわけなんですね。プロイセンという国があったりとか、あるいはザクセンという国があったりとか、あるいはバイエルンという国があったりとか、いろんな国があって、その国々で個々に法律を持っていたわけなのです。だから、ザクセンはザクセンでザクセン法というのがあって、プロイセンはプロイセンでプロイセン法というのがあって、バイエルンはバイエルンでバイエルン法というのがあると。要するに、日本で言えば、北海道は北海道で北海道法があって、東京は東京で東京法があって、大阪は大阪で大阪法があるという、そういう状態だったわけなんですよね。その中で唯一、ドイツのどこの国でも共通で使われていたのがローマ法だったのです。だから、ドイツの全土でローマ法と領邦法の両方が使われている状況で、「ローマ法のほうをもっと使え、もっと使え」ということをやっていけば、それによって法が統一されて、ドイツの国が統一できるだろう、というように考えたのがサヴィニーなのですよね。

これに対してグリムは、「それはちょっとおかしいじゃないか」と。(「押し付け」ではないけれども)借り物の、余所の民法を使って、それで国を統一するってのはおかしいだろ、ということでサヴィニーに対して反旗を翻すわけなんですよね。それで、《ゲルマン法》というものを探し求めて、いろんな人に「家にどういう昔話が伝えられてますか」というようなことを訊いて、そういうことを丹念に調べてまわるわけですよね。それでできたのが『グリム童話』であるし、それ以外でも、彼らはドイツ語の研究もしているので、ドイツや北欧の言語などを丹念に調べて、ゲルマンの言語というのはどういう言語なのかってことを研究したりして、そういうことによって《ドイツ魂》、《ゲルマン魂》、つまり、《ドイツらしさ》、《ドイツ人らしさ》というものを見つけ出していく、学問的に洗い出していくという作業を一番最初にやり始めた人なんですね。だから、我が国で言ったら、さしづめ本居宣長みたいな人だったわけです。

だから、この《ゲルマニスティック》というのは、我が国でいえば《国学》なのです。その国学の大成者として本居宣長がいるように、このドイツの国においてはグリムがいて、だからこそ一番高いお金にグリムが印刷されていたわけですよね。だから、日本でも、10万円札とか作って、本居宣長の肖像を印刷するってのがいいんじゃないかなってことを、思うわけですけれども…

Hさん「安倍さんの肖像ではどうですかね」(一同笑)

安倍首相も、いま《本来の日本の姿》、つまり《日本らしさ》を取り戻すということで頑張っているわけですから、宣長やグリムと同じ志でいることは間違いないでしょう。そういう意味で、最後にみんなで『グリム童話』の序文を読んで、当時失われつつあった《ドイツらしさ》を必死に探し求めたグリムの熱い思いを存分に味わいつつ、第1回目の講義を締めたいと思います:

「天から遣わされた嵐、あるいは他の災いにより穀物がみな地面に叩きつけられてしまったようなときに、道端の低い生け垣や灌木に守られたわずかな地面があり、そこに二つ三つの穂が真っすぐに立っている、そのような様を思いがけず見つけることがあります。その後再び太陽が暖かく照ると、それらの穂はひっそりと誰にも気づかれることなく成長を続け、早々と鎌で刈り取られ大きな貯蔵室に入れられることもありません。けれども、夏の終りにその穂がしっかりと実ると、貧しい善良な手がそれを探しにやってきます。穂に穂を重ね、丁寧に束ねられると、それは畑の立派な麦束よりも大切に扱われ、家に持ちかえられ、冬の間の食物となります。ひょっとしたら、未来のための唯一の種子となるかもしれません。昔のドイツ文学の豊かさに目を向けたときに、実に多くのものがすでにその生命力を失い、それについての記憶さえ失なわれているのに、ただ民謡や素朴な家庭の昔話だけが残っていることに気づくのにそれは似ています。暖炉のまわり、台所のかまど、屋根裏への階段、今でも祝われている祭日、静けさの中の牧場や森、そして何よりも濁りのない想像力が、それらを守り、時代から時代へと伝えてきた生け垣となったのです。今、この昔話集を概観した後で、私たちはこのように考えます。〔…〕
 これらの昔話を書き留めるのに、今は、まさに適切な時であったように思われます。なぜなら昔話を語り継ぐべき人々が、ますます少なくなっているからです。〔…〕昔話が息づいているところでは、人はそれはいい話だとか、悪い話だとか、詩的であるとか、面白味がないとか、考えることはありません。人は、話を知っていて、話を愛しています。なぜなら、そのように話を受け取っているからです。そして、昔話を楽しむのに、何の理由も必要としません。そういった風習は素晴らしいものです。その点でも、この文学は、他のあらゆる不滅のものと共通しています。それゆえ人は、昔話に反対する意見があるにもかかわらず、昔話を愛好せずにはいられないのです。また、容易に気づくことですが、昔話は、文学に対する旺盛な感受性のあるところに、あるいは、いまだ生きてゆく中でさまざまなあやまりによって、想像力のかき消されていないところにのみ、存在します。私たちはここで、前に述べたのと同じ意味で、昔話を讃えたり、昔話に反対する意見に対して擁護しようとしているのではありません。その存在そのものが、守るに値するのです。これほど多様に、そしてくり返し新たに楽しませるもの、心を動かし、教えを与えるものは、それ自身の中に必然性を備えており、あの永遠の泉、すべての生きるものを露で濡らし、閉じた小さな葉の中のほんのひとしずくさえが曙の光に輝くあの永遠の泉より、湧き出たものに違いありません。
 私たちには心から幸せそうに見える子どもたちの清らかさと同じ清らかさが、この文芸にはしみ透っています。昔話も子どもたちも、いわば青白い、けがれのない、きらきら輝く同じ目をしています。(小さな子どもたちはそういう自分の目に指をつっこむのが好きなものです。)手足などがこの世の務めを果たすにはまだ華著でひ弱であるのに対し、彼らの目はこれ以上成長することはありません。たいていの状況は非常に単純で、日常生活のなかに見つけうるものです。しかし、すべての実際の状況と同様に、それは常に新しく、人の心を打ちます。〔…〕これらの昔話から良い教訓が生まれたり、現在への応用が可能であるとしたら、それはこのような性質に基づくものです。それは昔話の目的でもなければ、そのために昔話が生み出されたのでもありません。けれどもそれは、健やかな花から良い果実が人間の手が加わらずとも生ずるように、昔話の中から生まれたものです。真の文学とは、けっして生活と無関係ではありえないのです。なぜなら、真の文学は生活から生じ、生活に帰るからです。雲が大地を潤した後、生まれたところへ戻るように。〔…〕」(グリム兄弟『初版グリム童話集1』(吉原高志・吉原素子訳)9頁以下)

今回は、入門的な話の半分ぐらいということで、これくらいでお話を切り上げさせていただいて、後はM先生にバトンをお渡しできればと思います。どうもありがとうございました(拍手)。
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