中村ただし オフィシャルブログ

次世代政策研究会 会長 中村匡志


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前々回前回でドナルド・トランプ次期合衆国大統領の政策文書(「アメリカ人有権者とのドナルド・トランプの契約」(Donald Trump’s Contract with the American Voter))を丹念に見てきましたので、今回は、その分析に入りたいと思います。

 

まず結論から言うと、この政策文書は、⑴きわめて真面目で具体的であり、⑵共和党の王道を行くものであり、政策の端々(はしばし)に人間的な温かみが感じられるものであり、⑷体系性を有しているものである、ということができると思います。以下、敷衍します。

 

1 真摯性・具体性

第一に、この政策文書は非常に具体的です。私が実際にマニフェスト文書を丹念に読んでみて最初に受けた印象は、きわめて真面目で具体的な政策が並んでいるというものでした。制定すべき憲法改正や法律のコンセプトはきわめて明確で、その目的を達成するための手段もまた非常に明確です。正直申し上げてアメリカの事情は専門外なのでよく知りませんが、それでも、この国にはどういう問題があって、それに対してこの人がどういう処方箋を提示しているのかが、手に取るようによく分かります。目的と手段の牽連性はこの上なくストレートですから、当然効果は期待できると考えるのが自然でしょう。ここまで政策が熟しているのであれば、あとは或る程度有能な立法スタッフがいれば、2ヶ月後の大統領就任までにこれを法案化することは、さほど困難なことではないはずです。

 

したがって、前回も書いたように、これまでメディアが喧伝してきた「実現不能な狂言ばかり言っている」とか「具体的な政策の中身は何もない」といったイメージ操作の言論は(きつい言い方をすれば)嘘であり、今後のアメリカの政策分析にあたって、百害あって一利なしということです。我々は、この点を十分過ぎるくらいに認識しておく必要があります。

 

2 「小さな政府」

第二に、ここから内容に入っていきますが、この政策集は「小さな政府」という共和党の王道を行くものだということです。「小さな政府」というのは、古典的・本来的な意味での自由主義といってもよいと思いますが、要するに政府の役割を極力減らして、個人や企業の自由な経済活動を最大限に活かすことを主眼とする経済政策です。基本的に、減税規制緩和がその柱となります。

 

トランプ氏の政策文書は、基本的に表面が行政府の措置に関するもの、裏面が立法府の措置に関するもの、という構成になっていますが、まさに、立法府の措置のいの一番に掲げられているのが「中産階級の租税を軽減・簡素化する法律」です。

 

思いきった減税租税の簡素化により年4パーセントの経済成長と2500万人分以上の雇用創出を実現すべく練られた経済計画に、取引改革、規制緩和及びアメリカのエネルギー業界に対する制約の撤廃を組み合わせる。最大の減税は、中産階級のためのものである。子が2人の中産階級家庭は、35パーセントの減税を得られるだろう。現在の7段階の税率等級は3段階に削減し、同様に申告用紙も著しく簡素化するつもりだ。連邦法人最高税率は35パーセントから15パーセントに引下げ、数兆ドルに及ぶアメリカ企業の海外資金は、税率10パーセントで還流させることができるようにするつもりだ。

 

また、行政府の措置に関する表面にも、まさに次のような規制緩和政策が掲げられています。

 

「連邦において新たに1本の規制を設ける場合には、既存の規制を2本廃止しなければならない」という義務を課する。

 

さらに、「育児と高齢者介護の金銭負担を軽減する法律」には、次のような政策が掲げられています。

 

アメリカ人に対して育児と高齢者介護の租税控除を認め、雇用主が地場的な保育サーヴィスを提供するインセンティヴを与え、若年の扶養家族と老年の扶養家族の双方のための非課税の扶養家族支援預金口座を創設し、低収入家族の負担分を適正化する。

 

これらの政策が、減税と規制緩和を通じて「小さな政府」という共和党の基本思想を体現する政策であることは、明らかです。それ以外にも、「学校選択と教育機会の法律」や「オバマケア法の廃止・代替」といった政策は、政府の役割を小さくして国民の自由を尊重するという「小さな政府」の方向性そのものの政策です。

 

このように、トランプ氏の政策が共和党の王道を行くものである以上、今後、共和党の議員たちはこれらの政策の実現を支援していくと思います。

 

選挙戦中に共和党内で「反トランプ」の動きが出たのは、おそらく「トランプにくっついていると自分が落選しかねない」と考えた議員たちが相当数いたからです。しかし、今回の選挙で、トランプ氏は自分自身が大統領選挙に勝利しただけでなく、上院議員選挙も下院議員選挙もすべて勝利させました。つまり、今回の選挙で「トランプにくっついていると勝てる」ということが実証されたわけですから、政治の世界の論理としては、当然トランプ次期大統領の求心力は高まると考えるのが自然です。

 

したがって、今後、トランプ氏の求心力は共和党内で急速に高まっていくものと思われます。

 

3 人間的な温かみ

第三に、この政策集の端々には、人間的な温かみが感じられます。これは、「小さな政府」の政策を打ち出す場合にきわめて重要な点です。我が国では特に顕著ですが、「規制緩和」と聞くと条件反射のように「格差社会」を思い浮かべる方がいます。私はその主張には基本的に与しませんが、この主張が一定の真理を突いているのもまた事実であり、「小さな政府」を余り純粋な形で追求するといろいろと角が立ちます。ですから、「小さな政府」を追求する場合には「人間的な温かみ」で十分な丸みを帯びさせる必要があり、そうして初めて、「小さな政府」の政策は国民的に受容されうるものとなります。

 

例えば、先ほど挙げた「学校選択と教育機会の法律」の末尾には、「職業教育・技術教育を拡大し、二年制大学及び四年制大学をもっと金銭的に通いやすいものにする」という政策が掲げられています。また、「オバマケア法の廃止・代替」の末尾には、「我々としては、とりわけ救命薬の承認を迅速化させたい」という政策が掲げられています。その他、「不法移民をやめさせる法律」の末尾には、「求人がまずアメリカ人の労働者に最初に提供されるようにする」という政策が掲げられています。これらの政策からは、人間を大切にするトランプ氏の優しさと温かみが滲み出ており、これにより、真四角で角ばった「小さな政府」の政策の角が取れています。

 

さらに重要なのは、表面の冒頭に、次のような「ワシントンにおける汚職と特定利益癒着を一掃するための6つの措置」が掲げられていることです。

 

・第一に、連邦議会議員全員に任期の上限を課する憲法改正を発議する。

・第二に、連邦職員全員について新規雇用を停止し、空きポストを補充しないことで連邦の労働力を削減していく(軍・公安・公的医療を除く)。

・第三に、「連邦において新たに1本の規制を設ける場合には、既存の規制を2本廃止しなければならない」という義務を課する。

・第四に、ホワイトハウスと連邦議会の職員が公職を辞してから5年間はロビイストになることを禁止する。

・第五に、ホワイトハウスの職員が外国のためにロビー活動を行うことを生涯に亘って禁止する。

・第六に、外国のロビイストがアメリカの選挙のために資金を集めることを完全に禁止する。

 

これは内容的には、議会改革・行政改革・政治資金改革であり、我が国でよく言われる「身を切る改革」です。この「身を切る改革」というのは、国民の間に燻る不公平感を解消する効果があり、我が国では大阪維新の会が大々的に実行することで、大阪府内で大いに支持を伸ばしたことがよく知られています。私がかつての日本維新の会(現在の「日本維新の会」とは別)に参画した時の結党綱領である「維新八策」にも、参議院の廃止や衆議院議員の半減が掲げられており、その御蔭もあり日本維新の会は当時の国政で大きく伸長しました。そもそも我々日本人ですら、いわゆる慰安婦捏造問題を通じて、アメリカの政界には中国や韓国のロビイストが跋扈していること知っています。アメリカ国民がそういった事実を知らないはずがなく、トランプ氏も、上記のような「身を切る改革」をいの一番に掲げることにより、アメリカ国民の心を鷲摑みにしたのでしょう。

 

(なお、上記の政策には大統領自身の「身を切る改革」が含まれていませんが、大統領職はそもそも3選が禁止されている上、トランプ氏はヒラリー・クリントン氏の4分の1しか選挙資金を使っておらず、しかもクリントン氏と違ってかなりの自腹を切っています。)

 

結局のところ、政治というのは人心掌握術に他なりません。そういう意味で、政策もまた、人間としての温かみと優しさが滲み出ていて、人の心を摑むものである必要があります。実際、トランプ氏の演説を見ると、(言葉はきつくても)底知れぬ人間的な優しさと温かさが底流に流れているのを感じます。こういう点はクリントン氏と誠に対照的で、クリントン氏は文字通り「不徳の致すところ」で負けたように思います。

 

4 体系性

第四に、これは意外に思われるかもしれませんが、トランプ氏の政策構想は、全体としてよくまとまっていて、体系的な合理的一貫性を有している可能性があります。そのことを理解する際、巷間でよく言われる「米国第一主義」という政治的理念から出発すると、おそらく迷路に迷い込んでしまい、左翼がよくやる「差別主義」程度の月並な評価しかできなくなってしまうでしょう。私は、トランプ氏の政策構想の体系性を理解する際には、「リショアリング」という現実に起こっている経済現象から出発するのが正解だと考えます。

 

「リショアリング」(reshoring)というのは「オフショアリング」(offshoring)の反対概念です。かつて企業は安価な労働力を求めて中国をはじめとする外国に工場を移し、これを「オフショアリング」と呼んでいましたが、現在、まったく逆の流れが起きています。新興国での労働力が高騰してきたために「オフショアリング」が段々と経済的に見合わない行為となり、他方、技術革新により高性能のロボットが安価で手に入るようになるにつれ、ロボットを導入した自国生産のほうが経済的に有利になってきて、結論的に、企業の決断として自国に工場を戻す動きが出てきています。これが「リショアリング」です。

 

私の読んだドイツの経済雑誌『ヴィルトシャフツヴォッヘ』の記事によれば、実にアメリカの大企業の半数以上が、既に「リショアリング」を行い、または検討しているということでした(ボストンコンサルティングの調査だそうです)。老練なビジネスマンであるトランプ氏がこの事実を知らないはずがなく、氏は、この大きな経済の動きを読みきった上で、一見「狂言」の観すら呈する一連の政策を提示しているように思います。

 

図式的に言えば、かつての「オフショアリング」の世の中では、企業は、工場を国外に移転するとともに世界全体を市場にするのが一番儲かります。このため、「グローバリズム」が求められ、国内経済は空洞化します。これに対して、現代の「リショアリング」の世の中では、工場が国内に回帰し、販路も地場・国内中心となります。ですから、「グローバリズム」は不要となり、逆に「アンチグローバリズム」(保護主義)が勢いを盛り返します。

 

但し、「リショアリング」においてはロボット生産が主体となるため、単純労働者の雇用は創出されません。生産が国内に回帰するため雇用自体は劇的に回復しますが、創出される雇用は、主に、専門性・熟練性の高い技術者です。ですから、「リショアリング」の世の中においては、単純労働者の労働力がごっそり余剰労働力になります。

 

このような視点からトランプ氏の政策構想を見ると、どのように見えるでしょうか。一番ストレートなのが、裏面の「オフショアリングをやめさせる法律」です。

 

会社が労働者を解雇して他国に移転し、製品を非課税で合衆国に仕出す行為について、そのような行為をなすインセンティヴを失わせる関税率表を制定する。

 

今後の「リショアリング」の世の中では、「オフショアリング」はどんどん不要となりますから、この法律は時代の流れ(ヘーゲル流にいうと「世界精神」)に適合しています。

 

次に、表面の「アメリカ人労働者を保護する7つの行動」を見ると、次のように謳われています。

 

・第一に、私は、北米自由貿易協定(NAFTA)の再交渉を行い又は2205条による脱退を行う私の意図を表明するつもりである。

・第二に、私は、環太平洋パートナーシップ(TPP)からの我が国の脱退を表明するつもりである。

・第三に、私は、財務長官に対して、中国を通貨操縦国に分類するよう命ずるつもりである。

・第四に、私は、商務長官及び合衆国通商代表に対して、アメリカ人労働者に対して不公平な影響を与える一切の通商上の濫用を特定し、かつ、かかる濫用を直ちに終了させるためのアメリカ法上及び国際法上の一切の手段を用いるよう、命ずるつもりである。

・第五に、アメリカのエネルギー埋蔵(シェールを含む)、石油、天然ガス及びクリーンコールは50兆ドル相当の価値を有し雇用を創出するものであるが、私は、その生産に課せられている制約を取り除くつもりである。

・第六に、オバマ=クリントン・バリケードを取り除き、きわめて重要なエネルギーインフラ計画(米加キーストンパイプライン等)の進捗を許可する。

・第七に、国連気候変動プログラムへの数十億ドルの支払を撤回し、当該資金をアメリカの水インフラ及び環境インフラの補修に用いる。

 

NAFTAやTPPからの脱退が、「リショアリング」の世の中で盛んになるアンチグローバリズムの流れに乗ったものであることについては、特に説明は必要ないと思います。第三・第四の措置についても、要するに、アメリカの利益にならない限り、アメリカとして別にグローバリズムを続ける必要はないという姿勢の表れであると思います。特に、第四の措置は保護主義色が濃厚です。第七の措置も同じ方向性で捉えることは可能でしょう。(第五・第六の措置は若干毛色が違いますが、エネルギー産業を重視するこれまでの共和党の方向性に合致するものなのでしょう。)

 

トランプ氏の政策構想の本質は以上の通りですから、よく報じられている米墨国境に建設する「壁」についても、「差別主義」やナショナリズムの観点から見ると本質を見誤ります。そうではなく、先ほど述べた通り、「リショアリング」によって今後アメリカの産業の構造転換が進んでいきますが、その際、単純労働者についてはごっそり余剰労働者になってしまいます。そのことを見越して、国内に単純労働者がこれ以上増えないようにするための措置の一つが「壁」なのです。事実、「不法移民をやめさせる法律」には、次のように記されています。

 

メキシコが費用全額を合衆国に対して補塡するとの完全な了解のもとに、我が国の南側国境への壁の建設の資金を全額支出する。退去強制後の合衆国への不法再入国については2年以上の連邦懲役刑を必須とし、重罪による有罪判決、軽罪の累犯による有罪判決又は2回以上の退去強制があった者の合衆国への不法再入国については5年以上の連邦懲役刑を必須とする。査証法令についても改革を行い、オーバーステイ(不法滞留)に対する制裁を強化し、求人がまずアメリカ人の労働者に最初に提供されるようにする。

 

さらに、「治安と憲法の支配を回復するための5つの行動」には、不法移民の流入による国内の単純労働者の増加を抑制するとともに、国内に既にいる不法移民を削減する方策を掲げています。

 

・第三に、「聖域都市」(不法移民等が検挙されない都市)に対する連邦の資金提供はすべて撤廃する。

・第四に、200万人以上の刑事的な不法移民を我が国から除去するとともに、この者たちの帰国を受入れようとしない外国に対しては、査証発給を撤回する。

・第五に、素性検査を安全に行うことができないテロ傾向地域からの移民の受入れを停止する。我が国にやって来る人々の素性検査はすべて、「極端素性検査」だと思われたい。

 

おそらく、上述の措置をすべて実行しても、産業構造の転換に対応できるくらいに十分な数の単純労働者を削減することは難しいでしょう。そうすると失業者が増加し、国内の治安はさらに悪化します。驚いたことにトランプ氏は、この点についても先回りして手を打っています。すなわち、「市町村の治安を回復する法律」では、次の政策を掲げています。

 

暴力的犯罪に関する対策本部を立ち上げ、市町村警察の訓練と支援を行うプログラムへの資金投入を増強することにより、急増する犯罪、薬物及び暴力を削減する。連邦法執行機関及び連邦検察官が犯罪的なギャングを壊滅させ、暴力的な犯人を投監するためのリソースを増強する。

 

このように見てくると、トランプ氏の政策構想は、一つのストーリーを持った非常に体系的で理に叶った政策構想であると評価するのが妥当であるように思います。先見の明のある成功したビジネスマンであるトランプ氏の面目躍如という感じです。

 

余談ながら、私が起業したのは2005年の1月ですが、起業していきなりお客さんがやって来てくださるほど世の中は甘くなく、起業してからしばらくは、ビジネス書を片っ端から読んだり、成功したビジネスマンを手当たり次第に研究したりということをしていました。不動産王で大富豪のトランプさんは、その界隈では非常に有名な人ですから、何度となくお名前はお見かけしましたし、ビジネスマンとしてのドナルド&イヴァンカ親子を特集した映像を見たこともあり、トランプ親子には、先見の明のある成功したビジネスマンとしてかなりの好印象を抱いていました。

 

ところが、昨年あたりからトランプさんが大統領選予備選の候補としてあらためてクローズアップされてみると、その際のトランプさんのメディアでの紹介され方は、私の記憶の中のトランプさんとは似ても似つかないものでした。余りにも違うので、驚くとともに非常な違和感を感じました。しかし、ありがたいことに当時と違って仕事が目の回るように忙しく、また、EUと違ってアメリカは私の専門外の分野であり、さらに、ここ10年以上私は一貫して共和党支持(我が国の国益から見て民主党より共和党のほうがベターな選択肢であることは間違いない、という意味での共和党支持)で、結局誰が候補になっても共和党を応援することに変わりはありませんので、特に興味を持って調べることもしませんでした。

 

今回の調査を通じて、やはりトランプ氏が先見の明のある優れた人物であることを再確認するとともに、政策の底流に流れる優しく温かい人柄を感じることができ、私の中でようやくスッキリと整理がついて、とても晴れ晴れとした気持ちになりました。

 

と同時に、トランプ氏に対して支離滅裂なイメージ操作のバッシングを浴びせ続けた日米のマスコミには、激しい怒りを感じます。やはりマスコミの情報というのは、古今東西まったく当てにならないものだと、あらためて再確認した次第です。

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前回に引き続き、ドナルド・トランプ次期合衆国大統領の政策構想を先入観なく客観的に知るために、トランプ氏の選挙戦のマニフェスト文書である「アメリカ人有権者とのドナルド・トランプの契約」(Donald Trump’s Contract with the American Voter)の日本語訳を作成しました。

 

実際に全訳を終えてみると、メディアが作り出してきた「実現不能な狂言ばかり言っている」トランプ氏のイメージがいかに的外れなものであるかがよく分かりました。あらためて一次資料に当たることの大切さを認識した次第です。

 

今回は、後編として裏面の全訳を公開します。

 

◇ ◇ ◇

 

表面より続く)

 

私は、以下の広汎な立法措置を提出し、これらの立法措置が私の行政の最初の100日以内に可決されるよう、連邦議会と協働するつもりだ。

 

中産階級の租税を軽減・簡素化する法律

 

思いきった減税と租税の簡素化により年4パーセントの経済成長と2500万人分以上の雇用創出を実現すべく練られた経済計画に、取引改革、規制緩和及びアメリカのエネルギー業界に対する制約の撤廃を組み合わせる。最大の減税は、中産階級のためのものである。子が2人の中産階級家庭は、35パーセントの減税を得られるだろう。現在の7段階の税率等級は3段階に削減し、同様に申告用紙も著しく簡素化するつもりだ。連邦法人最高税率は35パーセントから15パーセントに引下げ、数兆ドルに及ぶアメリカ企業の海外資金は、税率10パーセントで還流させることができるようにするつもりだ。

 

 

オフショアリングをやめさせる法律

 

会社が労働者を解雇して他国に移転し、製品を非課税で合衆国に仕出す行為について、そのような行為をなすインセンティヴを失わせる関税率表を制定する。

 

 

アメリカのエネルギーとインフラの法律

 

官民パートナーシップに資金を投入するとともに、租税上のインセンティヴによって民間投資に梃子入れし、10年間に亘って1兆ドルがインフラ投資に向かうようにする。これは、歳入中立的な法律である。

 

 

学校選択と教育機会の法律

 

親がその子女を公立学校、私立学校、チャータースクール、マグネットスクール、宗教学校又は在宅教育のいずれに入れるかを選択する権利のために、教育予算を振り向ける。「共通核」(全国共通のカリキュラム)は廃止し、教育の監督は市町村の事項とする。職業教育・技術教育を拡大し、二年制大学及び四年制大学をもっと金銭的に通いやすいものにする。

 

 

オバマケア法の廃止・代替

 

オバマケアは完全に廃止し、「健康預金口座」、州境を跨ぐ健康保険の購入の可能化をその代替策とするとともに、メディケイド基金(民間保険未加入者のための公的医療基金)は州に管理させる。アメリカ食品医薬品局(FDA)の官僚主義も改革に含めるつもりだ。すなわち、承認を待っている医薬品が4000以上も存在しているが、我々としては、とりわけ救命薬の承認を迅速化させたい。

 

 

育児と高齢者介護の金銭負担を軽減する法律

 

アメリカ人に対して育児と高齢者介護の租税控除を認め、雇用主が地場的な保育サーヴィスを提供するインセンティヴを与え、若年の扶養家族と老年の扶養家族の双方のための非課税の扶養家族支援預金口座を創設し、低収入家族の負担分を適正化する。

 

 

不法移民をやめさせる法律

 

メキシコが費用全額を合衆国に対して補塡するとの完全な了解のもとに、我が国の南側国境への壁の建設の資金を全額支出する。退去強制後の合衆国への不法再入国については2年以上の連邦懲役刑を必須とし、重罪による有罪判決、軽罪の累犯による有罪判決又は2回以上の退去強制があった者の合衆国への不法再入国については5年以上の連邦懲役刑を必須とする。査証法令についても改革を行い、オーバーステイ(不法滞留)に対する制裁を強化し、求人がまずアメリカ人の労働者に最初に提供されるようにする。

 

 

市町村の治安を回復する法律

 

暴力的犯罪に関する対策本部を立ち上げ、市町村警察の訓練と支援を行うプログラムへの資金投入を増強することにより、急増する犯罪、薬物及び暴力を削減する。連邦法執行機関及び連邦検察官が犯罪的なギャングを壊滅させ、暴力的な犯人を投監するためのリソースを増強する。

 

 

国家安全保障を回復する法律

 

防衛費の連邦予算枠を撤廃し、軍事投資を拡大することにより、我が国軍を再建する。退役軍人については、その選択に従い、合衆国退役軍人省の公的治療を受け又は民間の医師にかかれるようにする。我が国の枢要なインフラをサイバー攻撃から保護する。移民については新たなスクリーニング手続を創設し、我が国への滞在を許可された者が我が国の国民と価値観を支援するよう保証する。

 

 

ワシントンにおける汚職を一掃する法律

 

泥沼からの排水を行い、特殊な利益が我が国の政治に対して与える汚職的な影響を削減するために、新たな倫理改革を法制化する。

 

 

我が国の経済に繁栄を回復し、我が国の市町村に治安を回復し、我が国の統治に正直さを回復するために、11月8日、アメリカ人は、この100日計画に投票するだろう。

 

以上が、貴殿への私の誓いである。

 

我々がこれらの諸政策を追求する場合には、我々は再び、「国民の、国民による、国民のための政府」を手にすることになるだろう。

 

原文:Donald Trump’s Contract with the American Voter

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アメリカ合衆国の大統領にドナルド・トランプ氏が当選し、合衆国の政策が大きく変化する可能性が高まりましたので、早速トランプ氏の政策を調査しています。

 

今回の選挙戦のマニフェスト文書として「アメリカ人有権者とのドナルド・トランプの契約」(Donald Trump’s Contract with the American Voter)という文書があります。これはコンパクトによくまとまっていて、トランプ氏の政策構想を知るのに非常に便利な文書ですが、残念ながら、メディアでの紹介はやや恣意的と感じられる側面があり、正確に把握するためには、やはり原文で全文に触れる必要があります。

 

既に全文について先行する抄訳が存在しているようですが(Gigazine「トランプ次期大統領がまとめた「アメリカを再びかつてのような偉大な国にするための100日プラン」」)、ところどころ誤訳が散見されますので、あらためて当方にて翻訳してみることにしました。(とはいえ、当方はドイツ語の職業翻訳家であり、英語は専門外のため、思わぬ箇所で誤訳があるかもしれませんので、ご注意ください。)

 

今回は、前編として表面の全訳を公開します。

 

 ◇ ◇ ◇

 

アメリカ人有権者とのドナルド・トランプの契約

 

以下は、アメリカを再び偉大にするための私の100日行動計画である。

これは、アメリカ人有権者と私自身の間の契約であり、正直さと責任感を回復し、ワシントンに変化をもたらすものである。

私の任期の第1日目に直ちに私の行政は以下の事項を追求するだろう:

 

ワシントンにおける汚職と特定利益癒着を一掃するための6つの措置:

・第一に、連邦議会議員全員に任期の上限を課する憲法改正を発議する。

・第二に、連邦職員全員について新規雇用を停止し、空きポストを補充しないことで連邦の労働力を削減していく(軍・公安・公的医療を除く)。

・第三に、「連邦において新たに1本の規制を設ける場合には、既存の規制を2本廃止しなければならない」という義務を課する。

・第四に、ホワイトハウスと連邦議会の職員が公職を辞してから5年間はロビイストになることを禁止する。

・第五に、ホワイトハウスの職員が外国のためにロビー活動を行うことを生涯に亘って禁止する。

・第六に、外国のロビイストがアメリカの選挙のために資金を集めることを完全に禁止する。

 

アメリカ人労働者を保護する7つの行動:

・第一に、私は、北米自由貿易協定(NAFTA)の再交渉を行い又は2205条による脱退を行う私の意図を表明するつもりである。

・第二に、私は、環太平洋パートナーシップ(TPP)からの我が国の脱退を表明するつもりである。

・第三に、私は、財務長官に対して、中国を通貨操縦国に分類するよう命ずるつもりである。

・第四に、私は、商務長官及び合衆国通商代表に対して、アメリカ人労働者に対して不公平な影響を与える一切の通商上の濫用を特定し、かつ、かかる濫用を直ちに終了させるためのアメリカ法上及び国際法上の一切の手段を用いるよう、命ずるつもりである。

・第五に、アメリカのエネルギー埋蔵(シェールを含む)、石油、天然ガス及びクリーンコールは50兆ドル相当の価値を有し雇用を創出するものであるが、私は、その生産に課せられている制約を取り除くつもりである。

・第六に、オバマ=クリントン・バリケードを取り除き、きわめて重要なエネルギーインフラ計画(米加キーストンパイプライン等)の進捗を許可する。

・第七に、国連気候変動プログラムへの数十億ドルの支払を撤回し、当該資金をアメリカの水インフラ及び環境インフラの補修に用いる。

 

治安と憲法の支配を回復するための5つの行動:

・第一に、オバマ大統領により発せられた一切の憲法違反の行政行為、覚書及び命令を撤回する。

・第二に、私のリストにある20名の判事(合衆国の憲法=国体を護持・防衛する意思のある者)の中から、連邦最高裁判所のスカリア判事の後任を選出する手続を開始する。

・第三に、「聖域都市」(不法移民等が検挙されない都市)に対する連邦の資金提供はすべて撤廃する。

・第四に、200万人以上の刑事的な不法移民を我が国から除去するとともに、この者たちの帰国を受入れようとしない外国に対しては、査証発給を撤回する。

・第五に、素性検査を安全に行うことができないテロ傾向地域からの移民の受入れを停止する。我が国にやって来る人々の素性検査はすべて、「極端素性検査」だと思われたい。

 

原文:Donald Trump’s Contract with the American Voter

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来たる12月12日(土)に開催されます次世代の党埼玉連絡所のイフコン・タウンミーティングでは、前衆議院議員である杉田水脈(みお)先生に「国際社会と日本の女性」のご講演をいただきます。杉田先生は、いわゆる慰安婦捏造問題の解明にあたって国会の内外で尽力された方であり、当日は、捏造によってアメリカでいじめに苦しんでいる子どもたちやそのお母さんたちに関するお話なども聴くことができると思います。まだお席はございますので、是非ご予約ください(お申し込みは下記画像の電話またはメールまで)。


それでは、今回も、私が日本会議久喜支部にてお話しさせていただいている憲法改正入門講義の内容を、掲載してまいりたいと思います。

第4回は、「《国体》と《憲法》~カール・シュミットの「具体的秩序」論」です。ごゆっくりとお楽しみください(以下は、実際にお話しした内容を、読みやすさ等の観点から編集したものです)。

◇ ◇ ◇


皆さんこんにちは。本日もどうぞよろしくお願いいたします。

本日は、2つ資料をお配りしたのですが、


こちら「憲法改正入門講座第4回 概要」という資料(上掲)と、それから、「カール・シュミット『三種類の法学的思考について』」という資料(後掲)、この2つがありますので、ちょっと確認していただければと思います。

このうち、本日は、この「概要」の「Ⅰ」の部分を何とか終わらせたいなと思っておりまして、「Ⅱ」以降は、次回以降ということにしようかなと思っております。まぁ可能であれば「Ⅱ」の冒頭ぐらいまでは進みたいなぁと思っております。

それで、これまでどういうお話をしてきたかといいますと、最初にグリムの話をさせていただいて、結論としては、憲法改正あるいは自主憲法制定という場合にどういうことをしなければいけないか、その際に出発点をどこに置くかという話なんですが、「大日本帝国憲法」に出発点を置くのでもなく、「日本国憲法」に出発点を置くのでもなく、《国体》というものを出発点に置かなければならない、というお話をしたと思うんですね。そして、新たに制定する憲法、あるいは、現在の憲法を改正して実現する憲法というものは、内容として、その《国体》を具現化するものでなければいけない。それで、《国体》というのをどのように我々は知ることができるか--これまで、GHQの力によって《国体》というのは我々にとってだんだん分からないものになってしまってきているわけですけれども、それをまず取り戻さなければいけない。《国体》というものを我々が知るにはどうすればいいかというと、これは日本の国の歴史であるとか伝統であるとか、そこから汲み出して行かなければいけないということでございます。

先程我々が読んだ日本会議の綱領の第1条にも

「我々は、悠久の歴史に育まれた伝統と文化を継承し、健全なる国民精神の興隆を期す。」

とありますし、基本運動方針の第2条にも

わが国本来の国柄に基づく「新憲法」の制定を推進する。」

とありますから、我々日本会議としては、まさにこの方向性にのっとって憲法というものを新たにつくっていかなければならない。そしてその際に、もちろん手続も重要なのですけれども、大事なのは中身であるということで、《国体》というものをしっかりと反映させた憲法をつくるということをしていかなければならない、ということでございます。

ところが、その作業が実はそれほど簡単ではない、というお話を「Ⅰ」でさせていただいて、それから、「Ⅱ」に入って、《国体》というものの内容を憲法に落とし込むと具体的にどうなっていくか、というお話をさせていただきたいと思っております。そして、その際に、もう1つお配りした「カール・シュミット『三種類の法学的思考について』」(Über die drei Arten des rechtswissenschaftlichen Denkens)という論文のお話を前提としてさせていただかなければならないということになります。

我々が法律を勉強し始めたときに、一番最初にどんなことを習うかといいますと、英米法大陸法の違いというものをまず勉強するわけですね。すなわち、「我々日本というのはドイツから法体系を継受した(受け継いだ)」という風に言われていて、「だから我々日本国というのは大陸法国です」ということを教わりまして、それで、それに対して英米法というものがあると。大陸法の「大陸」というのはヨーロッパ大陸のことを指しておりまして、もともとローマ法というものが存在していたのが、それを受け継いで、イタリア法であるとか、フランス法であるとか、あるいはドイツ法であるとかというものができて、これがいわゆる大陸法を成している。それに対してイングランド(イギリス全体ではなくてイギリスの中核をなすイングランドの部分)と、あとアメリカで使っている法体系というのは、大陸法とは全く異なる法体系である。これが英米法と呼ばれている。こういうことをまず勉強します。

では、具体的にどう違うかというと、大陸法というのは「規範」(Normen)というものを重視する--あるいは制定法主義ということを言われるんですが、要するに、「法律」(Gesetze)というものを制定して、一応それが主たる法源、つまり《法》の源である、という考え方をするのが大陸法諸国の考え方なんですね。ですから、日本においても「法学部に行って勉強する」というと「六法全書勉強するんでしょ?」という話になるわけですよね。

ところが、アメリカやイングランドにおいては、これとはちょっと違う考え方をしておりまして、アメリカのローファーム(law firm)に関する映画とかを観ると分かるのですけれども、向こうの弁護士というのは、とにかく「判例」(case)を探してくるというのが仕事なんですね。裁判勝つには判例を探してこなきゃいけない。なぜかというと、彼らにとっては《法》というのは、まずは「判例」であるという風に考えているんですね。判例というのは何かというと、具体的な事件があって、それに対して裁判官がどのような判断を下したか、どのような判決を下したかというのが集積していって、それが判例、あるいは判例法(case law)というものになるわけです。

法系傾向《法》のイメージ
大陸法制定法主義
(規範主義 - Normativismus)
法律
(抽象的な規範)
英米法判例法主義
(決断主義 - Dezisionismus)
判例
(裁判官の判断)

ということで、図式的に示すと、大陸法国というのは制定法主義であって、大陸法国における法のイメージというのは制定法、あるいは法律であると考えられているのに対して、英米法国というのは判例法国であって、英米法国においては判例というものが主たる法源であるという風にイメージされている。こういうことを、我々が法律を学ぶ時にまず勉強するんですね。

ところが、こういう一般的に流布している《法》の捉え方の理解に対して、「それはおかしいんじゃないか」ということを、このカール・シュミットの論文では言っているわけなんですね。その2つじゃないんだと。もう1つあるんだということを言っているのがこの論文です。それでは早速読んでいきましょう。

 「意識的にせよ無意識にせよ、「法」(Recht)という概念を基に仕事をしている法律家というものは誰でも、この法というものを、①〔抽象的な〕ルール(Regel)、②〔人間による〕判断・決断(Entscheidung)、③〔自分の生きる世の中の〕具体的な仕組・秩序(Ordnung)や型・構成(Gestaltung)、のいずれかとして捉えています。このいずれに該るかという点によって、本書において分類する三種類の法学的思考というものが決まってきます。
 どんな法学的思考も、①ルール〔→法令〕、②判断・決断〔→判例〕、③仕組・秩序〔→制度〕および型・構成〔→(国の)かたち〕の3つすべてを使って仕事をしています。しかしながら、法学的に表される《究極的》なイメージ(そこからその他2つのイメージが法学的に演繹される、という意味で究極的なもの)は、常に1つだけです。すなわち、(ルールと法律という意味での)規範か、それとも判断・決断か、それとも具体的な仕組・秩序かのいずれかなのです。〔…〕例えば、中世のアリストテレス的・トマス主義的な自然法というのは法学的な仕組・秩序思考であるのに対して、17世紀・18世紀の理性法というのは、部分的には抽象的な規範主義、部分的には決断主義であるわけです。」(Schmitt, Über die drei Arten des rechtswissenschaftlichen Denkens, 2. Aufl., Berlin 1993 (unveränd. Ausg. der 1. Aufl., Hamburg 1934), S. 8を翻訳して引用。以下同様)
 「規範主義的思考は、《無人的》(unpersönlich)であり客観的であることに依拠しうるのに対し、判断・決断というのは常に《人的》(persönlich)なものであり、また、具体的な仕組・秩序というのは《人間超越的》(überpersönlich)なものです。」(a.a.O., S. 12)
 「法律家の間で決断主義のタイプが特に広まっているのは、法科の授業と、法実務に直接に役立つかたちの法学というものが、一切の法的問題を《紛争事件》の観点からのみ眺め、単に裁判官の《紛争の判断・決断(裁判)》の準備を整えさせるだけの存在に成り下がる傾向があるからです。これは、一定の試験準備の方法と法科試験の方法のために、《事件に関する判断・決断》と《成文規範の文言からの規範主義的な「理由付け」》についての応答力とその迅速さという、さらに雑なものへと成り下がっています。かくして、法学的思考は、もっぱら衝突や紛争の事件のみを志向するものとなってしまっています。「紛争や利益相反、すなわち具体的な《無秩序》が《判断・決断》によって初めて克服されて、《秩序》へと戻る」というようなイメージが支配的となってしまっています。〔…〕
 実は、この種の法学への傾向が生ずるのは、完結的な《法典》が国の上級公務員たる職業裁判官にとっての「実定」規範や「実定法」として規準を与えるものとなり、そして、このような裁判官の思考に順応した弁護士・検察官にとっての「実定」規範や「実定法」として規準を与えるものとなる場合なのです。このような実証主義は、《法律規範》を《法》と同一視するものであり--たとい慣習法の可能性を認めていたとしても--《法》を知るのではなくて、規範として固定化した《法令適合性》(Legalität)を知るにすぎないのです。19世紀に法実証主義が支配的となった2つの大国、すなわちドイツとフランスにおいては、この法実証主義というものをもっぱら《上級国家公務員たる職業裁判官の国家法令適合性の作用様式》とのみ理解しなければならないことが示されました(この法実証主義の基盤となったのは、内政秩序と安全保障が安定していたことであり、この法実証主義の帰結は、成文法典が制定されたことです)。」(a.a.O., S. 24 f.)
 「これに対して、中世のゲルマン的思考は、徹頭徹尾、具体的な仕組・秩序の思考であったわけですが、この考え方は、ドイツにおけるローマ法の継受によって、15世紀以来ドイツの法律家から排除されていき、そして、抽象的な規範主義が促進されていったわけです。19世紀には、それと同じくらい影響力のある第2の継受、すなわち自由主義的・立憲主義的な憲法規範主義によって、ドイツの憲法思考は、ドイツ内部の問題の具体的な現実から引っこ抜かれて、「法治国」的な規範思考へと枉げられてしまったのです。外来の法体系の継受がこのような効果をもつのは、当然のことです。政治の世界の型・構成と、法の世界特有の思考法・議論法とは、常に、直接的・相互的な関係にあります。例えば、封建的な公共における法感情・法実務・法理論と、市民法(民法)的な手形条例の取引法的な思考とは、法学的な個々の立証の方法と内容によってのみ区別されるのではありません。法学的思考様式を法学的に分類する上でより重要でより深い意義を有するのは、《この両者の違いというものが、前提となる基底的な仕組・秩序全体のイメージの違いとして表現される》ということであり、また、「《通常の状況》とみなしうるのはどのような状況であるのか」、「《通常人》とはどのような人か」、「法の世界や法的思考においては、正しい(と判定すべき)生活のどのような具体像が《典型的》なものと想定されなければならないか」についてのイメージの違いとして表現される、ということです。(不断・不可避・不可欠のものとしての)具体的な《推定》というものがなければ、法学的な理論も法学的な実務もなくなってしまうことでしょうが、この法的推定というものは、《通常と想定される状況》と《通常と想定される人間のタイプ》という前提から直接に生ずるものなのです。したがって、この法的推定は、時代によっても民族によっても異なりますし、また、法学的思考の種類によっても異なるわけです。」(a.a.O., S. 9)

要するに、大陸法の国みたいに「法律が法だ」という考え方と、英米法の国みたいに「判例が法だ」という考え方のほかに、「具体的な秩序こそが法である」という考え方があるということを、シュミットはこの論文において述べているんですね。それでは、この「具体的な秩序」というのは何なのかというと、この講義の第1回と第2回に、ドイツにおいては《ゲルマン法》というものがあるというお話をしたかと思うのですけれども、この《ゲルマン法》というものは、まさにこの「具体的秩序」の一つである(しかし、それが「法実証主義」の所為で失われてしまいつつある)ということなのです。そして、《ゲルマン法》と同じく、他ならぬ我が日本国の《国体》も、まさにこの「具体的秩序」であるという風に考えなければならないわけなのですが、この点については後ほど詳しく見ていくこととして、ここではまず、「具体的秩序」というもののイメージをもう少しくっきりさせるために、《ゲルマン法》の消失と「法実証主義」の擡頭をもたらした第一の要因である「ローマ法の継受」について、第1回の講義の復習をしておきましょう(敢えてあの時とまったく同じ文章を引用しますが、まったく新たな見え方がするはずです)。

「ドイツ法の存在様式を根本的に規定している第一の歴史的条件は、ローマ法の継受という事象である。ローマ法は、言うまでもなく、古代ローマ国家において発展を遂げた法であるが、そのローマ法の後代への伝達を可能にしたのは、東ローマ皇帝ユスティニアーヌスの下でのローマ法の法典化事業であった。ユスティニアーヌスは、帝政期の諸立法を法典に収録したばかりでなく、共和政期末から帝政期初頭にかけてのいわゆる「古典時代」の法文を抜粋・編集し、ローマ法黄金期の優れた法的営為の証を法典の中に定着させた。「ローマ法大全(Corpus luris Civilis)」と呼ばれたこのユスティニアーヌスの法典は、東ローマ帝国の国力低下とともに一旦は歴史の舞台から忘れ去られるが、12世紀の北イタリアで再発見されて、まずは文献学的研究の、次いで法学的研究の対象とされ、遂には中世イタリアの都市国家の法実務に適用されるようになる。法典に収録された法文の断片の膨大な寄せ集めは、一千年もの時を隔てた現実の世界にそのまま適用できる代物である筈もなく、望ましい結論を獲得するためには、その法文に様々な形で細工を加えることがどうしても必要であった。中世イタリア法学は、まさにそうした込み入った解釈技術を発展させていた。
 そうした法解釈技術は、ドイツからイタリアの大学に留学した学徒達によって、ドイツに持ち帰られる。彼等は、ドイツの各地で裁判官、行政官などの役職に就き、留学で学んだローマ法解釈技術をドイツの法実務に適用し始める。ローマ法は、そうした過程を通じて、ドイツに継受され、ドイツ全土に共通して通用する法、すなわち「普通法(gemeines Recht)」の最重要な法源となったのである。それは単に「ローマ法大全」という法典を普通法の法源として採用した、というような形式的な事態なのではなくて、膨大な法文の集積を現実の要請に合わせて解釈し、適用するという、高度に専門的な技術の総体が移入されたことを意味する。
 別の側面から見れば、ドイツにはそれまでそうした高度に専門的な法技術は存在しておらず、逆にローマ法の継受によって初めてドイツに専門技術の担い手としての法律家集団が登場したということなのである。この専門的法律家集団の欠如こそが、ドイツの地でローマ法の継受という特有の事態を生じさせた決定的な要因である。すなわち、フランスではローマ法の影響下にあった地域が南部にあったにもかかわらず、北部の慣習法地域ではその慣習法の担い手としての法律家集団が育ち、各地方の慣習法を調査し、成文化しており、ローマ法の浸透をくい止めることができたし、イングランドでは国王の裁判所で活動する法律家達がコモン・ローを維持・発展させて、時代の要請にも充分に応えていたため、自己の権力基盤の強化のためにローマ法の導入をはかった国王の努力も実を結ぶことはなかった。それに対してドイツでは、ローマ法の継受に至るまで、法は専門家が担うものになってはいなかった。
 そのことを何よりも顕著に示すのは、ドイツ古来の裁判の形態、とくにそこで採用されていた判決非難(Urteilsschelte)の制度である。ドイツの諸部族では、部族の首長とそれに従う戦士たちが集う人民集会そのものが裁判所としての機能を果たした。そこでは首長自らが裁判長となったが、その権限は訴訟指揮に限定されており、判決の提案は判決発見人に委ねられた。判決発見人が提案した結論に、裁判集会に参集した者全員が賛同すれば、判決が有効に成立する。裁判集会の参加者一人ひとりは、その判決提案に納得できない場合には、判決を非難する権利を有した。判決非難に際して、非難者は非難と同時に自らが正しいと信ずる判決案を提示しなければならない。判決非難によって、非難者と、判決発見人との間に法的争訟が成立し、その決着は、法廷決闘や宣誓によって付けられたと推測される。
 この判決非難については、19世紀後半の著名な法史学者ハインリヒ・ブルンナー(Heinrich Brunner)の、「判決非難は判決発見人の意見に対してではなくて、意図に対して向けられる」という説明が今日なお援用される。つまり判決非難は、判決発見人が本来は別の判決を提案すべきことを承知していながら、故意に法を柾げて誤った判決を提案した、ということに向けられたのだ、というのである。これは、裁判集会に参集した人々、言い換えれば当該法共同体の構成員のすべてが、何が法であるのか、ということについて共通の理解を有している、ということを前提にしている。つまり、このような法共同体においては、法は、法共同体構成員の全員が共有する法的確信というかたちで存在するに過ぎず、それを超えた専門的な法的観念は、およそ存在の余地がなかったのである。判決発見人は、ゲルマン世界における最初の「職業的裁判官」(ハインリヒ・ミッタイス(Heinrich Mitteis))ではあるが、法的見識に関して何らの特別の権威を認められず、常に法共同体構成員一人ひとりの非難に曝されていた。
 このような状態では、専門家の担う法的営為は発展困難であり、ローマ法というまったく異質の専門的学識法の流入に抵抗する、固有法の担い手としての専門法律家集団は育たないままだったのである。ドイツの地で、他の西欧諸国とは異なってローマ法の継受が行われたのは、まさにこのような事情によるのであった。」(海老原明夫「ドイツ法」(北村一郎編『アクセスガイド外国法』151頁以下)154頁以下)

つまり、《ゲルマン法》においては、《法》というものが「法共同体構成員の全員が共有する法的確信」、つまり「一般的法意識」あるいは(もっと平たくいえば)「一般常識」というかたちで存在していたのであり、これこそがシュミットのいう「具体的秩序」であったわけです。シュミットの論文でも、やや分かりにくいのですが、「法感情・法実務・法理論」とか、「《通常と想定される状況》と《通常と想定される人間のタイプ》」とか、いくつかキーワードは出てきておりまして、これは要するに「共同体において何が正常なことと考えられているか」ということ(「常識」)こそが「具体的秩序」であるということなのです。このことをもうちょっと掘り下げて具体的に理解するために、シュミットの論文をもう少し読み進めていきたいと思います。

 「〔制度体(Institution)の《かたち》をとるすべての生活領域〕は、固有の法的な《実体》(Substanz)を有していて、その《実体》にあってはおそらく一般的なルールも存在している(しかも、そのルール通りに動いている)わけですが、それは、《実体》から湧き出してくるもの、固有の具体的な内部秩序から導かれるものにすぎないわけで、他方、例のルールや機能・作用を足し合わせてみても、この内部秩序にはならないわけです。婚姻における夫婦の共同生活、家における家族の共同生活、氏における氏子の共同生活、身分における等族の共同生活、国家における官吏の共同生活、教会における聖職者の共同生活、〔…〕軍隊における軍人の共同生活は、事前に決められた法律の機能主義に解消させることも、契約のルールに解消させることもできないものです。
 こういった秩序の内部における数多くの慣習・ルール(通りであること)・予測可能性によって、当該秩序の本質を把握すること、当該秩序の本質を網羅することは不可能ですし、また、そんなことをすべきでもなくて、これらのものは、当該秩序の召使いにすぎないわけです。どんな制度体であっても、その具体的な内部秩序・規律・名誉というのは、その制度体が続く限り、すみずみまで規範化・ルール化してしまおうとするいかなる試みにも屈することはありません。〔しかしながら、〕それによって、立法者と法律適用者は、「制度体とともに与えられる具体的な法概念を受容して適用するか、それとも、制度体を破壊してしまうか」というジレンマに陥ることになるのです。」(Schmitt, a.a.O., S. 17)
 「サンティ・ロマーノは、その著書『法秩序』(L’Ordinamento giuridico)で、「イタリア法とかフランス法などといってルールの集積を考えるのは間違いであって、本当は、まずもってイタリアやフランスの《国》という多種多様の複雑な《組織》が具体的な《秩序》としてこれらの《法》をなしているのであって、国家権威・国家権力を有する数多くの判断主体や結合関係が法規範を産出し、変更し、適用し、保障するけれども、これらの判断主体や結合関係がこれらの規範と同一化してしまうことはない」と言っておりますが、これは正しいです。まさにこれこそが、イタリア法ないしフランス法なのです。「法秩序は、チェス盤上の駒のごとく、ルールにのっとって動くこともあるが、とりわけ、自らルールを動かすこともあるような単一存在、実在なのです。したがって、ルールはむしろ、法秩序の客体または手段なのであって、それほど法秩序の構造の要素ではないのです」。ロマーノは「規範の変更は、秩序の変更の原因というよりはむしろ帰結である」と付言していますが、これは正鵠を射ています。」(a.a.O., S. 20)

ここでまずシュミットは婚姻、つまり結婚を「具体的秩序」の一つの例として挙げているわけですが、法律の条文には、結婚というものについてもいろいろルールがありまして、例えば、日本の民法752条には、

「夫婦は同居し、互いに協力し扶助しなければならない。」

という規定があります。これを法律家は、夫婦の同居義務・協力義務・扶助義務と呼んでおります(「義務」とは、しなければならないこと。「扶助」とは、助け合うこと)。あるいは、民法の条文にはありませんけれども、判例では、夫婦の間で貞操義務という義務も認められております(「貞操」とは、結婚相手以外とは性交渉を持たないこと)。

要するに、「別の人と性交渉を持ってはいけない」とか、あるいは、「夫婦は助け合わなければいけない」とか、「一緒に住まなければいけない」とか、民法にはいろいろルールが決められているわけですけれども、それでは、こういったルールを全部足し合わせたら「結婚」になるかといったら、それはそうではないのですよね。まず「結婚」という社会的な《実体》があって、そこから「結婚というのはこういうもんだよな」という、みんながそういうイメージ(一般常識、一般的法意識)を持っていて、それで「結婚というものは、多分、お互いに助け合う関係だよな」ということを、そっちの方から導いているわけなんですよね。ですから、扶助義務とか同居義務とか、あるいは貞操義務という、そういうところから「結婚」というものが導かれるのではなくて、逆に、「結婚」のほうがまずあって、そこからルールが導かれる、というそういう関係にあるわけなんですね。

そして、まさに《国体》の話もそういう話であるわけでして、①まず「具体的な秩序」としての《国体》という社会的な《実体》が存在していて、だからまず我々は《国体》というものを知らなければいけないのであって、そして、②《国体》というものが分かった上で、初めて、「憲法」というものを構想する、「こういうルールがなければいけないよね」ということを考えていく、という順番で、物事を論じていかなければいけないと思うんですね。

ところが、それはそんなに簡単なことではなくて、だからシュミットも

「立法者と法律適用者は、「制度体とともに与えられる具体的な法概念を受容して適用するか、それとも、制度体を破壊してしまうか」というジレンマに陥る」

という警告を発しておりますけれども、「具体的秩序」である《国体》を「ルール」である《憲法》に落とし込んでいく憲法の起草作業というのは、本当に難しい作業であって、一つ間違うと国の命運を左右するとんでもないことが起こってしまいますから、とりわけ慎重さが必要な作業なのです。そういう意味で、実は、かつての「大日本帝国憲法」の起草作業というのはいくつか失敗していると私は思っておりまして、このうち、一番大きな失敗は何かというと、これは大日本帝国憲法4条だと思うんですね。4条というのは、

「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」

という条文ですけれども、ここで「統治権」(Hoheit、Hoheitsrecht/e、imperium)という西洋の概念を使ったのは、我が国の《国体》を捻じ曲げてしまう根本的な原因になったように思うのです。そして、この条文の解釈学説として主張されたのが、いわゆる天皇主権説という学説でございまして、この「主権」という概念にもいろいろな理解があるのですけれども、この場合、天皇主権説というのはどういう風に理解されているかというと、「天皇が《支配》の主体である」というようなかたちで理解されてしまっているわけです。これは、なぜかというと、「主権」(Souveränität)という概念がもともとヨーロッパから由来するものであって、ヨーロッパにおいては国を統治するという場合には、必ず《支配》(Herrschaft)の関係になるからです。例えば、「デモクラシー」(民主制)といったら民衆が支配するし、「アリストクラシー」(貴族制)といったら貴族が支配するわけで、誰が支配するか(「支配の主体」)の部分が違うわけですけれども、いずれにせよ《支配する人》がいて《支配される人》がいるという、そういう構造が統治の根本をなしているわけなんですね。

ところが、日本の伝統的な統治のあり方である《国体》においては、そもそも《支配する人》というのが存在しないのです。《支配する》というのは、上代の日本語では「うしはく」という言葉で表現しますけれども、『古事記』によると、日本の国土(「葦原の中つ国」)ができてからしばらくの間は、国つ神である大国主命が「うしはく」国であって、要するに、大国主命は、ヨーロッパ的な《支配》の統治方式で国をつくっていったわけですけれども、そのようなやり方ではこの日本国を永続させることができないということで、天照大神は八百万の神々の評議に基づいて、タケミカヅチの神を高天原から葦原の中つ国へと派遣するわけです。いわゆる国譲りのお話ですが、

「ここに天の鳥船の神を建御雷の神に副へて遣はしたまひき。ここをもちてこの二はしらの神、出雲の國の伊那佐(いなさ)の小濱(をばま)に降り到りて、十掬(とつか)劒(つるぎ)を拔きて、逆(さかしま)に浪の穗に刺し立て、その劒の前(さき)に趺(あぐ)み坐(ま)して、その大國主の神に問ひて言(の)りたまひしく、「天照大御神、高木の神の命(みこと)もちて問ひに使はせり。汝(いまし)が領(うしは)ける葦原の中つ國は、我が御子の知らす國ぞと言依さしたまへり。故(かれ)、汝が心は奈何(いか)に。」とのりたまひき。」(『古事記』(倉野憲司校注)60-61頁)
(そこで、アメノトリフネの神をタケミカヅチの神の副官として派遣なさいました。そこで、この二柱の神様は、出雲の国の伊那佐の海岸にご降臨になり、長い剣をお抜きになり、波の上から逆さまに刺して立てられて、その剣の先に胡座をかかれて、大国主の命を尋問して仰せられることには、「天照大神・高木の神(タカミムスビの神)の勅命を受けた尋問の使者でございます。『国つ神であるあなたの《うしはく》葦原の中つ国は、天つ神の皇孫の《しらす》国である』と神勅がございました。そうだとすると、あなたのご意思はいかがでしょうか」と仰せられました。)

「しらす」というのは、なかなか一言で表すのが難しい概念なんですが、ここで明らかなように「うしはく」の対義語であるわけでして、私は、《思いやり》の統治であるという風に理解すると一番分かりやすいと思うんですね。要するに、《君主が国民のことを思いやり、国民が君主のことを思いやる》という、そういう統治のあり方です。実は、「しらす」という語はそれだけではなくて、本当はとても豊かな意味内容をもっているわけなのですけれども、とりあえず、一番核心となるのはそういうことだとご理解いただければと思います。そして、この《思いやり》の統治として最も典型的なのは、仁徳天皇のお話だと思うわけございます。

神格統治形態統治のイメージ
天つ神
(惟神の道=《国体》)
しらす
(しろしめす)
思いやり
(君主が国民を「おおみたから」として敬い、国民が君主を「すめらぎ」として敬う)
国つ神
(《国体》とは異なる統治)
うしはく支配
(君主(Hoheit)が国民(Untertane)を支配する)

実は、『古事記』というのは、上巻・中巻・下巻の3巻から成っていて、上巻は神代のお話で、中巻は神武天皇から始まり、そして下巻はこの仁徳天皇から始まっているのです。本居宣長をはじめ、この編別には特に意味がないという風に考える人も多いのですけれども、中巻が初代天皇である神武天皇のご事蹟から始まっていることに鑑みても、下巻が仁徳天皇から始まっていることにはやはり意味があるのではないかと思うわけです。つまり、上巻の神代は「惟神(かんながら)の道」である《国体》をそのまま体現している世界であるわけですが、歴代天皇の御代々々のうちで、神武天皇の御代と仁徳天皇の御代が特によく《国体》のあり方を体現している聖代である、という風に理解されていたからこそ、編者である太安万侶は、このような編別を採用したのではないかと思うわけです。そういう意味で、仁徳天皇のご事蹟というのは、《国体》、つまり古来からの日本の統治のあり方の最も純粋なかたちを表しているわけです。それによると、

「ある時、天皇が高い山にお登りになって、四方を御覧になって仰せられますには、「国内に烟(けむり)が立っていない。これは国がすべて貧しいからである。それで今から三年の間人民の租税労役をすべて免除せよ」と仰せられました。この故に宮殿が破壊して雨が漏りますけれども修繕なさいません。樋(ひ)を掛けて漏る雨を受けて、漏らない処におうつり遊ばされました。後に国中を御覧になりますと、国に烟が満ちております。そこで人民が富んだとお思いになって、始めて租税労役を命ぜられました。それですから人民が栄えて、労役に出るのに苦しみませんでした。それでこの御世を称えて聖(ひじり)の御世と申します。」(『古事記』(武田祐吉訳註)328-329頁)

今風に言えば減税(免税)政策と経費節減政策ということになりますけれども、重要なのは、これが《思いやり》に基づく君民一体思想に基づくものであったという点です。このことを確かめるために、同じ仁徳天皇のご事蹟について『日本書紀』にもっと詳しい記述がありますので、そちらも読んでみましょう。

「四年春二月六日、群臣に詔して、「高殿に登って遥かにながめると、人家の煙があたりに見られない。これは人民たちが貧しくて、炊(かし)ぐ人がないのだろう。昔、聖王の御世には、人民は君の徳をたたえる声をあげ、家々では平和を喜ぶ歌声があったという。いま自分が政について三年たったが、ほめたたえる声も起こらず、炊煙(すいえん)はまばらになっている。これは五穀実らず百姓が窮乏しているのである。都の内ですらこの様子だから、都の外の遠い国ではどんなであろうか」といわれた。
 三月二十一日、詔して「今後三年間すべて課税をやめ、人民の苦しみを柔げよう」といわれた。この日から御衣や履物は破れるまで使用され、御食物は腐らなければ捨てられず、心をそぎへらし志をつつまやかにして、民の負担を減らされた。宮殿の垣はこわれても作らず、尾根の茅(かや)はくずれても葺かず、雨風が漏れて御衣を濡らしたり、星影が室内から見られる程であった。この後天候も穏やかに、五穀豊穣が続き、三年の間に人民は潤ってきて、徳をほめる声も起こり、炊煙も賑やかになってきた。
 七年夏四月一日、天皇が高殿に登って一望されると、人家の煙は盛んに上っていた。皇后に語られ、「自分はもう富んできた。これなら心配はない」といわれた。皇后が「なんで富んできたといえるのでしょう」といわれると、「人家の煙が国に満ちている。人民が富んでいるからと思われる」と。皇后はまた「宮の垣がくずれて修理もできず、殿舎は破れ御衣が濡れる有様で、なんで富んでいるといえるのでしょう」と。天皇がいわれる。「天が人君を立てるのは、人民の為である。だから人民が根本である。それで古の聖王は、一人でも人民に飢えや寒さに苦しむ者があれば、自分を責められた。人民が貧しいのは自分が貧しいのと同じである。人民が富んだならば自分が富んだことになる。人民が富んでいるのに、人君が貧しいということはないのである」と。〔…〕
 九月、諸国のものが奏請し、「課役が免除されてもう三年になります。そのため宮殿はこわれ、倉は空(から)になりました。いま人民は豊かになって、道に落ちているものも拾いません。つれあいに先立たれた人々もなく、家には蓄えができました。こんなときに税をお払いして、宮室を修理しなかったら、天の罰を被るでしょう」と申し上げた。けれどもまだお許しにならなかった。
 十年冬十月、はじめて課役を命ぜられて宮室を造られた。人民たちは促されなくても、老を助け幼き者もつれて、材を運び土籠を背負った。昼夜を分けず力をつくしたので、幾何(いくばく)も経ずに宮室は整った。それで今に至るまで聖帝とあがめられるのである。」(『日本書紀』(宇治谷孟訳)上巻231-232頁)

つまり、仁徳天皇が丘に登って国民の家を見ていると、煙が上がっておらず、「ああ、ご飯を炊く煙が出ていないということは、ご飯をまともに食べられていないんじゃないか」ということで、ご心配遊ばされて、それでは3年間租税を免除しよう、ということで、まず君主のほうが、国民に対する《思いやり》を示されたわけです。そして、国民が租税を払わなくて済むようになったので、だんだん豊かになっていったわけですね。それで、今度は国民の側から、「豊かになったから、ぜひ租税を収めさせてくれ。国にお金がなければ困るだろう」ということで、今度は国民のほうが君主(あるいは国)に対する《思いやり》を示したわけです。つまり、君主と国民は一体であるという思想のもとにお互いがお互いを思いやるということで、この《思いやり》の統治の関係においては、《支配者》というものはどこにも存在しないわけなんですね。

そして、天皇陛下が自分の身をまったく顧みずにひたすら国民(「おおみたから」)の幸せのみを願われるというお姿(《思いやり》の統治)は、現在に至るまで変わらずにご皇室に脈々と受け継がれているわけです。このことは、『終戦のエンペラー』にも描かれている昭和天皇のマッカーサー元帥に対するおことば(「敗戦に至った戦争の、いろいろの責任が追及されているが、責任はすべて私にある。文武百官は私の任命する所だから、彼等に責任はない。私の一身はどうなろうと構わない。私はあなたにお委ねする。この上は、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい」)や、東日本大震災の際に天皇陛下が被災者の方々に向けて発せられたビデオメッセージ(いわゆる平成の玉音放送)において、実際に体感することができます。



しかしながら、天皇主権説を主張された穂積八束先生であるとか上杉慎吉先生は--穂積先生にしても上杉先生にしても必ずしも《国体》というものが分かっていなかったのではなくて、あの時代の人ですから、むしろ《国体》というものを非常によく分かっていたわけですけれども--にもかかわらず、日本の《国体》の根幹の部分を西洋の「主権」という概念を使って表現してしまったので、非常に間違った理解が進んでしまったわけなんですね。そして、それが元で、軍の内部においては「皇道派」という考え方の人々が出てきて、まさにドイツの皇帝のような「天皇親政」を実現しようという話が出てきてしまい、最終的には、二・二六事件という国家を揺るがす大事件が惹き起こされてしまうわけです。しかし、この二・二六事件が起こった時に昭和天皇が激怒あそばされたことからも拝察されるように、そもそもドイツの皇帝のような「天皇親政」を実現しようという思想自体が、《国体》というものを正しく理解していなかったということなのです(このことは『古事記』の天孫降臨のお話を読むとよく分かるのですが、今日は時間がありませんのでまたの機会にお話しします)。



それから、天皇機関説事件というのが起こります。これは、美濃部達吉先生が国家主権説という学説を唱えて、この学説は「国家が統治権を有し、天皇は国家の機関である」という学説だったわけですが、これに対して、これは大日本帝国憲法4条の解釈学説である天皇主権説に反するということで、政治問題化して、戦前非常な攻撃を受けたという事件です。この学説がどういうものであったかを知るために、ちょっと資料を読んでみましょう。

「国家学説のうちに、国家法人説というものがある。これは、国家を法律上ひとつの法人だと見る。国家が法人だとすると、君主や、議会や、裁判所は、国家という法人の機関だということになる。この説明を日本にあてはめると、日本国家は法律上はひとつの法人であり、その結果として、天皇は、法人たる日本国家の機関だということになる。……
 これがいわゆる天皇機関説または単に機関説である。
 天皇機関説は、主権または統治権、すなわち、国土・国民を支配する権利は、法人たる国家に帰属する、または、国家がその権利の主体である、と説くから、国家主権説、または国家主体説とも呼ばれることがある。それに対しては、天皇機関説に反対する説は、主権または統治権は、法人たる国家ではなくて、天皇に帰属する、または、天皇がその権利の主体である、と説くから、天皇主権説または天皇主体説とも呼ばれる。
 これらの学説については、法人・機関・主権・統治権といったような概念をじゅうぶんに吟味した上でないと、それらの概念を使っての論議が、科学的には、不十分であることをまぬかれない。しかし、ここで扱う現実の歴史的事件としての天皇機関説事件においては、ほぼ右にのべられた程度の--科学的には、不十分ないし不正確な--理解の上に、事件が展開した〔…〕」(宮澤俊義『天皇機関説事件』上巻6頁)

かく言う宮澤先生が果たして主権概念を「科学的に十分で正確」に理解していたかというのはかなり疑問のあるところで、この点についてはまたの機会にあらためて詳細に検討いたしますけれども、それはともかく、この美濃部先生の国家主権説もまた、「主権」とか「統治権」という西洋の概念を使って我が国の統治のあり方を分析してしまったために、統治というものを《支配》の関係として理解してしまったわけです。ですから、これもまた《国体》の理解としてはまったく間違った学説であったわけです。

そういう意味で、結論としては天皇主権説も国家主権説も両方とも間違っていると思いますので、私としては、この論争自体が大変不毛なものであったと思います。そもそも、日本の《国体》というものを西洋の概念で表現すること自体が間違っているのです。しかし、美濃部先生もまたあの時代の人ですから、《国体》を理解していなかったわけではなくて、表現方法を間違えたということなのでして、国家主権説というのは、要するに、「君主も国民もどちらも主権者ではない」ということを表現した学説でありますから、「我が国の統治においては《支配》の主体は存在しない」という意味では、《国体》の一側面を正しく表現していないこともないのです。だからといって国家主権説が正しいとは言いませんが、いずれにせよ、歴史の経過としては、天皇機関説事件を契機として天皇主権説というものが政府の公式な解釈となって広まってしまったために、みんなが《国体》というものを、恰もヨーロッパの皇帝による《支配》の統治のように誤解する大きな原因となってしまったということなのです。

ですから、この《国体》から「規範」というものを導き出すという作業はそんなに簡単な作業ではないわけでございまして、もし間違ったことをするととんでもないことが起こってしまうのですから、我々はきわめて慎重にこの作業を行っていかなければならない、そして、《国体》というものを歪曲してしまう(「制度体を破壊してしまう」)ことなく我々がこの作業を行うためには、やはり日本人本来のことば--言霊--である《やまとことば》(「制度体とともに与えられる具体的な法概念」)というものを根幹に据えなければならない、というのが、シュミットの所説も踏まえたこの「Ⅰ」の部分の結論となるわけでございます。

というところで、時間がまいりましたので、本日はここまでとさせていただきます。どうもありがとうございました。(拍手)
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来たる11月28日(土)に開催されます次世代の党埼玉連絡所のイフコン・タウンミーティングでは、自由主義史観研究会で副代表を務められた齋藤武夫先生に「聖徳太子の国づくりの大方針」のご講演をいただきます。

『教科書が教えない歴史』シリーズを覚えておられる方も多いかと思いますが、先生は、自由主義史観研究会の設立メンバーとしてこのシリーズの執筆をご担当されるとともに、小学校教諭として歴史教科書改革を推進されました。まだお席はありますので、是非ご予約ください(お申し込みは下記画像の電話またはメールまで)。

IFCON埼玉第2回



それでは、今回も、私が日本会議久喜支部にてお話しさせていただいている憲法改正入門講義の内容を、掲載してまいりたいと思います。

第3回は、「失われた《国体》を求めて」(A la recherche de la «Constitution» perdue)です。ごゆっくりとお楽しみください(以下は、実際にお話しした内容を、読みやすさ等の観点から編集したものです)。

◇ ◇ ◇


皆さんこんにちは。本日もどうぞよろしくお願いいたします。

今回は3回目ということでお話しさせていただくのですが、まずは、前回までどんなお話をしてきたかをまとめておきたいと思います。


まず1回目でグリムの話をさせていただいて、グリムというのは《ゲルマニスト》という、《ドイツ人とはどういう人たちなのか》、《ドイツというのはどういう国なのか》という、ドイツの国柄を研究する《ゲルマニスティック》という学問を大成した人物である、というお話をさせていただきました。そして、第2回目では、1848年のドイツの統一憲法制定議会においては、まさにこのグリムが中心的な存在となって、ドイツの国柄である《自由》というものを基に自主憲法を制定することを提唱した、というお話をさせていただきました。


そして、このグリムの自主憲法制定論を大いに参考にして、我が国も、やはり、現在の「日本国憲法」という紙切れから出発するのではなくて、《日本人というのはどういう人たちなのか》、《日本という国はどういう伝統をもった国であるのか》という《国体》から議論を始めていかなければいけない、というお話をさせていただきました。それで、その際にですね--石原慎太郎先生なんかもそうですが--大日本帝国憲法万能論というのがございますけれども、私はそれには賛成しない立場でございまして、やはり前回挙げた大日本帝国憲法11条なんかは、例えば空軍というものをつくれない規定とも解釈されうる規定であるわけでございまして、やはり大日本帝国憲法を復活すれば万事解決するとは到底思えないわけです。ですから、我々が自主憲法をつくるにあたっては、日本の《国体》を基にして、日本国憲法よりも、そして大日本帝国憲法よりも良いものつくらなければいけない。そういうようなお話をさせていただきました。

そして前回、講義の後に、Aさんから「《国体》というものがそもそもよく分からない」というご質問をいただきましたので、今日は、このご質問にお答えするために、《国体》とは何かというお話をさせていただきたいと思うんですね。具体的には、まず、本居宣長の『うい山ぶみ』を読んでみたいと思っています。


これまで申し上げてきた通り、ドイツのグリムにあたる日本の学者というのは本居宣長であると私は考えておりまして、《国体》というものがどういうものなのかという点につきましても、やはりこの宣長に聞いてみるのがいいんじゃないかと思うわけでございます。そして、宣長が、《国体》を知るための方法論を解説しているのが『うい山ぶみ』という論文でございまして、この『うい山ぶみ』という論文はそれほど長い論文ではありませんので、まずは全文をざっと現代語で読んでみて、それから細かい点について、原文とともに解説していくことにいたします。

「うい山ぶみ

本居宣長 著  
中村匡志 訳  


 世の中にある学問研究の流派は、さまざまな研究対象を扱っていて、それぞれ相異なっています。
 これらの学問研究の流派を挙げるとすれば、まず、神話を中心に《道》を専門的に研究する流派があります。これを神学といい、その人を神道者といいます。次に、国家の組織・儀式・法令を中心に研究する流派があります。これを有職学といいます。また、古くは六国史その他の古文書をはじめとして、後世の文献に至るまで、どちらの流派にも属さずに研究する流派もあります。この流派をさらに分類するならば、さまざまなものがあるでしょう。例えば、歌を研究する流派がありますが、この中にも、歌を詠むだけの流派と、古い歌集や物語書などを解明する流派と二種類があります。
 大体このような感じでさまざまな流派があって、各自が好きな流派に属して学問研究を行うわけであり、各自の研究方法についても、教師の心性や生徒の心性によってさまざまなものがあります。このように学問を志した初学者の中には、最初から自分が属したいと思った流派があって、またその研究方法についても自分で案出するような方もおられます。しかし、そういうふうに特に属したい流派もなく、研究方法についても自分で発見しようがないという場合には、物知りな人をつかまえて「どの流派に属するのがよいのでしょうか?初学者の研究方法は?どの本をまず読んだらよいでしょうか?」などと問い求めるのが通常です。
 これは、誠にかくあるべしという話であるわけでして、学問研究の対象を匡正し、研究方法を匡正して、その後に邪悪な方面に陥ってしまわないように、研究が早く大成するように、最大の業績が上がるようにということを、最初からよく準備してから入ってきてほしいものです。同じ精力を使いながらも、流派や研究方法によって、うまくいったりそうでなかったりすることはあるに違いないからです。
 そうはいっても、学問研究の対象については、「これよりもこちら」と押し付けることはできず、たいていは各自の「学びたい」という思いに委ねるべきだと思います。
 いかに初学者とはいっても、学問を志す人であれば、幼児の心ではないわけですから、各人に応じた属したい流派というものは必ずあるものなのです。それに、人によって好きなことと嫌いなことがあり、また、生まれつき得意なことと不得意なことがありますので、嫌いなことや不得意なことをしていては、同じ努力をしても成果が上がることは少ないです。また、(研究対象にかかわらず)研究方法についても、それなりの理屈によって「こういうのがよいでしょう」と教え示すことは簡単ですが、それが最終的な結果としてよいものであったのか、それとも思いのほかに悪いものだったのか、ということを知るのは実際には難しく、これについても、断言して押し付けるようなことはできないのですから、実のところ、各人の心のおもむくままにしてよいことなのです。
 結局のところ、学問は、長い年月にわたって飽きず怠けず励み努めることこそが肝要であり、研究方法はどのようなものであってもよいに違いなく、それほどこだわらなくてよいことなのです。
 どんなに研究方法が素晴らしかったとしても、怠けて努力しないのであれば、成果は上がりません。才能がある人か才能のない人かによって成果はかなり異なり、才能のあるなしは生まれつきのことですので、力量に差があるわけですが、それでもたいていは、才能のない人であっても、怠けず努力さえすれば、それに応じた成果は上がるものなのです。学ぶのに時間が掛かる人も、努め励めば、思いのほかに業績を上げることがあります。また、忙しくて時間のない人も、思いのほか時間のある人よりも業績を上げるものです。ですから、才能が貧しいとか、学ぶのに時間が掛かるとか、時間がないということで、心が折れてやめてしまわないでください。どんなかたちであっても、努力さえすればできるものだと心得るべきです。心が折れるというのは、学問において大いに厭うべきことなのです。
 まずは以上のような次第ですので、学問研究の対象を押し付けることはできませんし、研究方法についても、こうするのが必ずよいだろうと決めることは困難であり、また、決めなかったとしても実際には困ることはありませんので、ただ心に委ねるべきことであるわけですが、そのようにばかり言うのは、初学者にとっては、とっつきどころがなくて厭になったり怠けたりするきっかけともなってしまいますので、やむを得ずここでわたくし宣長が、こうであるべきだということを一通り申し上げることにします。
 もっとも、その教え方については、これは人々の心のことですから、自分としては「このようにするのが良いかな」と思うわけですけれども、「そんなことをしたら悪い」と思う人もいるに違いないわけですから、押し付けるのではなく、単に、私の教えに依りたいと思う方のために申し上げるのみのことといたします。
 そもそも、上述のさまざまな対象を扱う学問研究の諸流派は、どれもこれも素晴らしい流派であって、理解して知らずに済ますことはできないものですから、すべてを残さず学んでいただきたいものの、一人の生涯の力ではその奥義を究めるということは難しいですので、そのうちで中心とするところを定めて、「必ず奥義を究めつくそう」と最初に志を高く大きく立てて、努め学ばなければなりません。そのようにしつつも、それ以外の研究対象をも力の及ぶ限り学んで理解するべきです。
 そして、その中心として依拠すべき流派はどの流派かといえば、それは《道の学問》なのです。そもそもこの道は、天照大神の道であり、天皇陛下が天下をしろしめす道であり、世界中に浸透した真の道が、ただ皇国日本にのみ伝わったものです。この道はどのような道かというと、『古事記』・『日本書紀』の二つの正典に記された神代上代のもろもろの事績の上に備わっている道なのですから、この二つの正典を、繰り返し繰り返しよく読んでください。また、初学者は、私が著した『神代正語』を数十遍読んでその古語のあり方を口で慣れ知り、また、〔『古事記伝』の〕「直日(なおび)のみたま」・『玉矛百首』・『玉くしげ』・『葛花』等々を学び始めから、二つの正典と交互に読んでください。そうすれば、二つの正典の事績に《道》が備わっていることについても、《道》の概要についても、たいていは合点が行くことでしょう。また、早いうちにこれらの書物を読んでおけば《大和魂》がよく固まりますから、シナの思想に嵌ってしまわないための防禦としてもよろしいことでしょう。《道》を学ぼうとする者は、まずは、シナの思想を選り分けてきれいに洗い流した上で、大和魂を強固にすることこそが重要です。そして、二つの正典のうちでは、《道》を知るためには、とりわけ『古事記』を先にしてください。『日本書紀』を読むには、大いに心得が必要です。文のままに解釈しては、いにしえの意味とは違ってしまうことがあり、必ずシナの思想に足を取られてしまいます。それから、〔斎部広成の編纂した〕『古語拾遺』は、やや後代のものではありますが、二つの正典の助けとなることが多いですから、早めに読んでください。それから、『万葉集』は、歌集ではありますが、《道》を知るにはとても重要な書籍です。とりわけよく学んでください。詳しいことは以下で述べますが、まず《道》を知るための学びは、たいてい上述の書物であるわけです。
 しかしながら、『日本書紀』より後の歴代天皇の御代のことも知らないわけにはいきません。その書物とは、『続日本紀』・『日本後紀』・『続日本後紀』・『文徳実録』・『三代実録』です。『日本書紀』から『三代実録』までをあわせて「六国史」といいます。これらはみな、日本国政府による正史です。次々に必ず読んでください。また、これらの史書の中には、歴代天皇の御代の宣命(せんみょう)にいにしえの心や言葉が残っていますから、特に気をつけて読んでください。それから、『延喜式』・『姓氏録』・『和名抄』・『貞観儀式』・『出雲国風土記』・『釈日本紀』・『令』(りょう)・『西宮記』・『北山抄』、それから私の著書である『古事記伝』など、これらのおおかたは、古学の方々がよく読まなければならない書物です。しかしながら、学びはじめには、これらの書物をざっと読むということはたやすいことではありませんから、巻数の多い大部の書物はしばらく後回しにして、短い本からまず読んでいくのもよいでしょう。その中でも、『延喜式』の「祝詞の巻」・「神名帳」などは、早く読まなければなりません。そもそもこれらの書物については、必ずしも順番を決めて読むほどのものではなく、ただ都合に任せて順番関係なくあれこれと読んでいってください。
 また、どの書物を読むにしても、学びはじめには、片っ端から文の意味を理解しようとしてはなりません。まずは大まかにざーっと読んで、他の本に移って、あれこれと読んでから、また以前に読んだ本に立ち返りつつ、何遍も読んでいくうちに、最初には聞こえてこなかったこともだんだんと聞こえてくるようになるものです。そうして上述の書物を何遍か読んでいくうちに、その他の読むべき書物についても、学習方法についても、だんだんと自分の判断でできるようになってきますので、その後のことは、いちいち諭して教える必要はありません。心に任せて、力の及ぶ限り、古い書物も新しい書物も広く読むべきですが、「コンパクトでそう広くなく」というのも一法でしょう。
 それからまた、五十音の取扱、仮名遣いなどは、必ず気をつける点です。語釈は重要ではありません。そしてまた、シナの書物も一緒に読むべきです。古い書物はすべて漢字・漢文を借りて記されていて、特に、孝徳天皇・天智天皇の御代以降は、万事においてシナの制度によることが多かったですので、史書を読むにも、シナの文章法を大まかに知らないでいては、至らない点が多いからです。但し、シナの書物を読むにあたっては、とりわけ大和魂をよく固めておいてから読まなければ、シナのうまい言葉に惑わされてしまうことでしょう。このことを心得るのは、重要なことです。
 そうしてまた、だんだんと学問に入って行って、だいたいのことも大まかに合点の行くぐらいになったならば、とにかく早めに、古い書物の註釈をつくろうと決心してください。註釈をするということは、つねに大いに学問に役立つことです。そうして、上述の通り、二つの正典の次には、『万葉集』をよく学んでください。自分でも古風の歌を学んで詠んでください。どんな人でも必ず歌を詠むべきであって、ましてや学問をする者はなおさら詠まないわけにはいかないのです。歌を詠まなければ、いにしえの世の詳しい心や、雅の趣を理解することは困難です。万葉の歌の中でも、安らかで丈高くのびやかなものに倣って読んでください。また、長歌も詠んでください。そしてまた、歌には古風・後世風と時代によって違いがありますが、古学の者が古風をまず旨として詠むべきことはいうまでもありません。また、後世風も、抛っておかずにに倣い詠んでください。後世風の中にも、良いもの、悪いものとさまざまな詠みぶりがありますので、よく選んで倣ってください。また、『伊勢物語』・『源氏物語』以外にも、物語書も常に読んでください。自分で歌を詠み、物語書もいつも読み、いにしえの人々の雅の趣を理解することは、歌学びのためにはいうまでもないことですが、いにしえの《道》を明らかにする学問にとっても、非常に助けとなります。

 いかならむ うひ山ぶみの あさごろも 浅きすそ野の しるべばかりも

本居宣長
寛政10年10月21日夕方脱稿」(底本はこちら

いかがでしたでしょうか。宣長の細やかな心遣いが感じられる文章だと感じられたのではないでしょうか。

ところで、この『うい山ぶみ』という論文は、私個人としても憲法との関連で思い入れが強い論文なのです。私が長谷部恭男先生のもとで憲法学というものを研究してみようと思った最初のきっかけは、大学2年の時に先生の憲法の講義を聴講して非常に面白いと思ったことなのですが、その年に、先生の体系書が出版されて、その開巻劈頭、

「才のともしきや、学ぶことの晩(オソ)きや、暇(イトマ)のなきやによりて、思ひくづをれて、止(ヤム)ることなかれ」
(才能が貧しいとか、学ぶのに時間が掛かるとか、時間がないということで、心が折れてやめてしまわないでください。)

と書いてあったんですね。実は、これは先ほど読んだ『うい山ぶみ』の一節です。

私なんかは本当に浅学菲才の人間で、現在は実業に身を置いておりますのでなかなか研究に割ける時間というのも少ないのですけれども、それでもこの宣長の言葉に励まされて、今日まで学問をやってこれたので、憲法学に関しても、いろいろと今こうやってお話しすることができているわけです。この講義の中では、先生のことを学問的にはいろいろと批判しておりますけれども、やはりこういう基底的な部分では今でもかつての師匠には大変感謝しておりまして、それは、グリムがサヴィニーに対して学問的には袂を分かっても心情的には相変わらず感謝の念を抱き続けていたのと、多分同じなんじゃないかなと思うんですね。

まぁ、正直なところを申しますと、私個人としては、先生もいい加減左翼と一緒にアジ演説とかやっていないで、早く『うい山ぶみ』を読んだときの学問を志した初心に返って、日本を守るために働いていただきたいなぁと思いますね。本当は日本が大好きなのですから。


いずれにしても、宣長も、どこかの研究機関に属してお給料もらって研究していたのでなくて、開業医としての生業を営みながら、その傍らで国のために一生懸命学問をやっていたわけなんですよね。そういう意味で、私も宣長と同じ境遇にあるわけですから、宣長の言葉を励みにして、引き続きがんばってまいりたいと思います。

それでは、まず冒頭から見ていきましょう。宣長は、

「世に物まなびのすぢ、しなじな有て、一トようならず、そのしなじなをいはば、まづ神代紀をむねとたてて、道をもはらと学ぶ有リ、これを神学といひ、其人を神道者といふ
(世の中にある学問研究の流派は、さまざまな研究対象を扱っていて、それぞれ相異なっています。これらの学問研究の流派を挙げるとすれば、まず、神話を中心に《道》を専門的に研究する流派があります。これを神学といい、その人を神道者といいます。)

と述べています。ここで確認しておかなければならないのは、ここでは《国体》は「道」という言葉で表現されているということです。ここでは「神道者」という言葉も見えますけれども、この「道」というのは惟神(かんながら)の道、つまり「神様の(時代の)ままの道」ということで、「神道」と呼ばれるものでもあるわけです。つまり、《国体》=「道」=「惟神の道」=「神道」ということです。私は、神道というものを「宗教」とカテゴライズするのは根本的に間違っていると思っているのですが、なぜかといえば、「神道」というのは本来は「惟神の道」、つまり、神々の時代にまで溯る《国のあり方》、《日本人のあり方》そのものを指しているからです。そういえば、天皇陛下のおことばとかをまとめた本が、宮内庁から『道』というタイトルで出版されていますけれども、ここには、《国体》という意味合いが間違いなく籠められていると思います。

ちなみに、先ほどM先生のお話に、GHQの発した「神道指令」というものが出てきましたけれども、これは、現在では「神道」という一つの宗教を壊すための指令であるかのように誤解されておりますが、実際には全然違っていて、これは、日本の《国体》そのものを壊す指令、つまり、《日本の国のあり方》、《日本人のあり方》そのものを壊すための指令だったのですね。その辺りのことも、きちんと宣長まで溯れば自然と理解できるわけです。

そして、この《国体》=「道」=「惟神の道」=「神道」を研究する学問を、宣長自身は「神学」と呼んでいます。我々が「国学」と呼んでいるものです。しかし、宣長自身は「国学」と呼ばれることを非常に厭がるんですね。この『うい山ぶみ』は、本文は非常に短いのですけれども、膨大な註がついておりまして、最初の註には次のように書いてあるんですね。

「物学ビとは、皇朝の学問をいふ、そもそもむかしより、たゞ学問とのみいへば、漢学のことなる故に、その学と分むために、皇国の事をば、和学或は国学などいふならひなれども、そはいたくわろきいひざま也、みづからの国のことなれば、皇国の学をこそ、たゞ学問とはいひて、漢学をこそ、分て漢学といふべきことなれ
(学問研究というのは、日本についての学問をいいます。そもそも、昔から、単に「学問」とだけいえばシナの学問のことを指していたために、日本についての学問を「和学」とか「国学」などと称する習慣となっていますが、これは非常に悪い言い方です。自分の国のことなのですから、日本についての学問のほうをむしろ単に「学問」と呼んで、シナの学問のほうを「漢学」と呼ぶべきです。)

つまり、その当時「学問」といえば中国の学問のことを指していたわけですが、しかし、それはおかしいということを宣長は言うわけですね。それで、その「学問」と区別して、日本のことを学ぶ学問というのを「国学」とか「和学」と言っていたのですけれども、それは逆だと。学問といったら本来は、日本のことを学ぶことを「学問」と言って、それと区別して中国のことは「漢学」と呼ぶべきだと。なぜかと言うと、そもそもそういう言い方が通常であるぐらいに、日本人というのは当時外国思想に侵されていた。それで、それを洗い流すということをやらなければいけない、ということを宣長は言うわけです。

道を学ばんと心ざすともがらは、第一に漢意儒意を、清く濯(スス)ぎ去て、やまと魂(タマシヒ)をかたくする事を、要とすべし
(《道》を学ぼうとする者は、まずは、シナの思想を選り分けてきれいに洗い流した上で、大和魂を強固にすることこそが重要です。)

つまり、日本のことを学ぼうとする者は、まずは外国思想をきれいに選り分けてきれいに洗い流した上で、大和魂、日本人の本来の心というものを強固にすることが大切であると、宣長は言っているわけです。これが、『うい山ぶみ』で一番大事な部分だと私が思っている箇所なんですが、それで、そのための方法として、具体的にはどうすればよいかという話がもう少し前に出てきておりまして、

「さてその主(ムネ)としてよるべきすぢは、何れぞといへば、道の学問なり、そもそも此道は、天照大御神の道にして、天皇の天下をしろしめす道、四海万国にゆきわたりたる、まことの道なるが、ひとり皇国に伝はれるを、其道は、いかなるさまの道ぞといふに、此道は、古事記書紀の二典(フタミフミ)に記されたる、神代上代の、もろもろの事跡のうえに備はりたり
(そして、その中心として依拠すべき流派はどの流派かといえば、それは《道の学問》なのです。そもそもこの道は、天照大神の道であり、天皇陛下が天下をしろしめす道であり、世界中に浸透した真の道が、ただ皇国日本にのみ伝わったものです。この道はどのような道かというと、『古事記』・『日本書紀』の二つの正典に記された神代上代のもろもろの事績の上に備わっている道なのです。)

ここでですね、なぜ我々が『古事記』と『日本書紀』を学ばなければならないか、特に『古事記』を学ばなければいけないかということがわかるわけです。『古事記』より後に、いろんな本が日本でも出てますけれども、それらというのは全て、やはり外国思想の影響を受けている中で、『古事記』というのは、特に『古事記』の上巻、神様の時代のお話というのは、本来の日本の姿、日本人の姿、日本の国のあり方というものを示しているから、だから重要なんだということを言っているわけです。そもそも私たちが『古事記』を読めるのは、この宣長の御蔭でございまして、現在の日本人が『古事記』を読めるようになったのは、まさにこの宣長が解読して読めるようにしたからなのです。それまで解読不能の文書だったのが、宣長が読めるようにして、「これはすごいものだ!」ということに気づいて、それで、ようやく《日本人》というアイデンティティーが生じて、我々が日本人としての誇りを持てているということなんですね。

ですから、我々にとっても、日本の《国体》というものは『古事記』を読むことで学ぶことができるということなのです。ですから、M先生のやっている『古事記』の講座というのは非常に大事であると私は考えていますし、それは、我々にとってだけではなく、日本人全体にとって大事なことあると思うわけなんですね。

それで、その際にですね--今日は、丸山眞男という、左翼の学者で「ザ・戦後レジーム」みたいな人ですけれども、その人の書いた『日本の思想』という本からの引用もお配りしておりまして--Aさんのおっしゃっていた「国体というものが非常にわかりにくい」という考え方そのものが、まさに《戦後レジーム》そのものであるということについても、ちょっとお話ししたいんですね。

実は、先程M先生のお話にも出てきた「神道指令」によって、『国体の本義』と『臣民の道』という2冊の本が発禁になったんですね。本来であれば、宣長の言うように『古事記』を何度も繰り返し読むのが良いのですけれども、実際には、我々が『古事記』を読んでもなかなか分かりにくいものですし、また、それが日本人としてのアイデンティティー、国のあり方とどう直結するのかというのは、なかなか難しい話であるわけです。そこで、その点を非常に分かりやすく書いてあるのが、『国体の本義』という本でございまして、私も、この本をみんなに読んでもらいたいなと思って--ここ(=日本会議久喜支部)の方々だけではなくて、国民の皆様に広く読んでいただきたいなと思って--ウェブサイトのほうに現代語化したものを上げているんですけれども、それを読むとですね、《国体》というものがどういうものなのかということが非常によく分かるんですね。

《国体》というのは、要するに日本人としてのあり方ですから、いくらGHQが一生懸命検閲とかして政治的に否定しても、そんなに人間というのは簡単に変わるわけではありませんから、とりわけ人間本来の心に近いところでは意外によく残っているものなのです。以前、『グリム童話』の序文を読んだ時に、グリムが《ドイツらしさ》を探し求めるにあたって、「実に多くのものがすでにその生命力を失い、それについての記憶さえ失なわれているのに、ただ民謡や素朴な家庭の昔話だけが残っている」とか、「暖炉のまわり、台所のかまど、屋根裏への階段、今でも祝われている祭日、静けさの中の牧場や森、そして何よりも濁りのない想像力が、それらを守り、時代から時代へと伝えてきた生け垣となった」と言っていたことを覚えていると思います。だから、グリムは《ドイツらしさ》を求めて童話の蒐集を行うわけなんですが、それは日本も同じで、GHQによって《日本らしさ》というのは大いに失われてしまったのですけれども、実際には、サブカルチャーなんかによく残っているわけなんですね。

例えば、将棋というゲームがありますけれども、ここには非常によく日本の《国体》というものが表れていて、実は、実際にもGHQが日本の将棋を禁止しようとしたことがあります(升田幸三という棋士がうまく反論して事なきを得た)。どういうことかと申しますと、日本の将棋というのは西洋のチェスとは全然違いまして、一回とった駒を自分の駒として打つことができるのですね。これは、西洋では考えられないことでございまして、あちらでは、《敵》と《味方》というのは絶対的なもの、あるいは、《正義》と《悪》というのは絶対的なものなのですけれども、日本人にとってはそうではない。これは将棋だけではなくて、例えば、携帯ゲームというのが今流行っていますけれども、よくCMでやっているパズドラとかコロプラとか、そういうのも全部そうなんですが、《倒した敵が全て味方になる》という、そういうシステムを採用してるんですね。私の知る限りでは、一番最初にそれをやったのは、ファミコンの『女神転生』というゲームなんですが、それが、「これはいいじゃないか!」ということで広まっていって、今や日本のゲームは、ほとんどがそればっかりになっているという現実があるんですね。それはなぜかというと、やっぱりそれが日本人の心性に合うからどんどん広まっていくわけです。

それから、『ドラゴンボール』という漫画がありますけれども、これも、《敵だと思って戦っていた人が、どんどん味方になっていく》という、そういうお話なんですね。ウーロンとか、天津飯とか、ピッコロ大魔王とか、そういう人たちが全部敵だったのが、どんどん味方になっていくという、それが《日本人らしさ》、つまり日本の《国体》の重要な一つの側面だと思うわけですね。そして、実際に『国体の本義』にも、まさにそれが我が国体の一つの表れ方である、ということが書いてありまして、例えば、「国民相互の和」の項には、

「要するに我が国においては、それぞれの立場による意見の対立、利害の相違も、大本(おおもと)を同じうするところより出づる特有の大和(だいわ)によってよく一となる。すべて葛藤が終局ではなく、和が終局であり、破壊をもって終わらず、成就によって結ばれる。ここに我が国の大精神がある。而して我が国に現れるすべての進歩発展は、皆かくして成される。聖徳太子が憲法十七条に、

 和をもって貴しとなし、忤(さか)うることなきを宗(むね)と為(な)す。人皆党(たむら)有り、また達(さと)れる者少し。ここをもってあるいは君父に順(したが)わずして、乍(また)隣里(さととなり)に違う。しかれども上和(やわら)ぎ下睦(むつ)びて、事を論(あげつら)わんに諧(かな)いぬるときには、すなわち事理(ことわり)自ずからに通ず。何事か成らざらん。

と示したもうたのも、我が国のこの和の大精神を説かせられたものである。」

と述べられていますし、「武の精神」という項には、

「而してこの和は、我が国の武の精神の上にも明らかに現れている。我が国は尚武(しょうぶ)の国であって、神社には荒魂(あらみたま)を祀る神殿のあるのもある。修理固成の大命には天(あま)の沼矛(ぬぼこ)がまず授けられ、皇孫降臨の場合にも、武神によって平和にそれが成就し、神武天皇の御東征の場合にも武が用いられた。しかし、この武は決して武そのもののためではなく、和のための武であって、いわゆる神武(しんぶ)である。我が武の精神は、殺人を目的とせずして活人(かつじん)を眼目としている。その武は、万物を生かさんとする武であって、破壊の武ではない。すなわち、根柢に和をもち生成発展を約束した葛藤であって、その葛藤を通じてものを生かすのである。ここに我が国の武の精神がある。戦争は、この意味において、決して他を破壊し、圧倒し、征服するためのものではなく、道に則(のっと)って創造の働きをなし、大和すなわち平和を現ぜんがためのものでなければならぬ。」

とあり、究極的な「和」のありかたとして、

「我が国の和は、理性から出発し、互いに独立した平等な個人の機械的な協調ではなく、全体の中に分(ぶん)をもって存在し、この分に応ずる行いを通じてよく一体を保つところの大和(だいわ)である。したがって、そこには相互のものの間に敬愛随順(けいあいずいじゅん)・愛撫掬育(あいぶきくいく)が行ぜられる。これは単なる機械的・同質的なものの妥協・調和ではなく、おのおのその特性をもち、互いに相違しながら、しかもその特性すなわち分を通じてよく本質を現じ、もって一如の世界に和するのである。すなわち我が国の和は、各自その特質を発揮し、葛藤と切磋琢磨とを通じてよく一に帰するところの大和である。特性あり、葛藤あるによって、この和はますます偉大となり、その内容は豊富となる。またこれによって個性はいよいよ伸長せられ、特質は美しきを致し、しかも同時に全体の発展隆昌をもたらすのである。実に我が国の和は、無為姑息の和ではなく、潑剌(はつらつ)としてものの発展に即して現れる具体的な大和である。

ということになるのです。したがって、

「わが国民性には、この没我・無私の精神とともに、包容・同化の精神とその働きとが力強く現れている。大陸文化の輸入にあたっても、己(おのれ)を空しうしてシナ古典の字句を使用し、その思想を採り入れる間に、自ずから我が精神がこれを統一し同化している。この異質の文化を輸入しながら、よく我が国特殊のものを生むに至ったことは、全く我が国特殊の偉大なる力である。このことは、現代の西洋文化の摂取についても深く鑑みなければならぬ。
 そもそも没我の精神は、単なる自己の否定ではなく、小なる自己を否定することによって、大なる真の自己に生きることである。元来個人は国家より孤立したものではなく、国家の分としておのおの分担するところをもつ個人である。分なるがゆえに常に国家に帰一するをその本質とし、ここに没我の心を生ずる。而してこれと同時に、分なるがゆえにその特性を重んじ、特性を通じて国家に奉仕する。この特質が没我の精神と合して他を同化する力を生ずる。没我・献身というも、外国におけるが如き、国家と個人とを相対的に見て、国家に対して個人を否定することではない。また包容・同化は他の特質を奪い、その個性を失わしむることではなく、よくその短を棄てて長を生かし、特性を特性として、採ってもって我を豊富ならしめることである。ここに我が国の大いなる力と、我が思想・文化の深さと広さとを見出すことができる。」(「没我同化」の項)

そういう意味で、《国体》というのは、もちろん天皇陛下が君臨するという、そういう側面もあるんですが、それだけではなく、本当にいろいろな側面があるということなんです。例えば、大日本帝国憲法の発布勅語という、現在の前文に当たる部分には、《君主が民を思いやり、国民が君主を思いやる》という、《思いやりの統治》のあり方というものが、我が日本国においては伝統であって、その御蔭で日本はこれまで素晴らしい歴史を歩んでくることができたのだ、ということが明確に書いてあるあるわけなんですね。

「朕国家ノ隆昌ト臣民ノ慶福トヲ以テ中心ノ欣栄トシ〔…〕
 惟フニ我カ祖我カ宗ハ我カ臣民祖先ノ協力輔翼ニ倚リ我カ帝国ヲ肇造シ以テ無窮ニ垂レタリ此レ我カ神聖ナル祖宗ノ威徳ト並ニ臣民ノ忠実勇武ニシテ国ヲ愛シ公ニ殉ヒ以テ此ノ光輝アル国史ノ成跡ヲ貽シタルナリ朕我カ臣民ハ即チ祖宗ノ忠良ナル臣民ノ子孫ナルヲ回想シ〔…〕」
(この日本国が栄え、日本国民が幸せになることこそが、朕の最高のよろこびです。
 思うに、代々の天皇がこの日本国を建国して永続的に継承することができたのは、日本国民の代々のご先祖様たちの協力とサポートによるものです。日本国がこの輝かしい歴史を有するのは、代々の天皇が威厳と人徳を備えるとともに、代々の国民が忠実・勇敢で国を愛し公共のために尽くしたことの結果なのです。当代の日本国民は、歴代天皇の忠実で善良な国民の子孫であるのだ、ということを朕は思い起こします。)

ですから、そういう日本の《国体》のことは、戦前の日本人は、皆当然のこととしてよく分かっていたわけです。心の中で分かっているだけではなくて、実際にもいろんなところに明記されていて、我々(=日本会議久喜支部)が毎回会のはじめに読んでいるような「教育勅語」も学校でしっかりと読んでいて、みんな《国体》というものをよく分かっていたのです。

ところが、戦争が終わってGHQがやってきて、「神道指令」によって《国体》を否定し、『国体の本義』と『臣民の道』を発禁にして、「教育勅語」を否定してこれを読ませないようにして、さらに、先日聴いた上島嘉郎さんのお話にもあったように、事前検閲・事後検閲という制度を通じて、いわゆる《戦後レジーム》が新聞社や出版社の内部論理として定着してしまうわけです。このために、GHQが去った後も相変わらず《国体》を正しく伝える言論が長らく封殺されて、その代わりに、「《国体》は悪いものだ」というイメージ操作のような言論ばかりが量産されていくわけです。本日とりあげる丸山眞男の『日本の思想』は、まさにその頃(昭和36年)に出版されたものですが、これが、国体(國體)をどのように描き出しているか、早速見てみたいと思います。

「〔戦前、〕國體を特定の「学説」や「定義」で論理化することは、ただちにそれをイデオロギー的に限定し相対化する意味をもつからして、慎重に避けられた。それは否定面においては--つまりひとたび反國體として断ぜられた内外の的に対しては--きわめて明確な権力体として作用するが、積極面は茫洋とした厚い雲層に幾重にもつつまれ、容易にその核心を露わさない。治安維持法の「國體ヲ変革シ」という著名な第一条の規定においてはじめて國體は法律上の用語として登場し、したがって否応なくその「核心」を規定する必要が生じた。大審院の判例は、「万世一系ノ天皇君臨シ統治権ヲ総攬シ給フ」国柄、すなわち帝国憲法第一条第四条の規定をもってこれを「定義」(昭四・五・三一判決)した。」(同書35頁)

つまり、丸山の説によると、「当時《国体》というものはどこにも説明されておらず、それどころか、むしろ権力に都合のいいように意図的に隠されていたが、昭和4年の大審院判決で仕方がないからようやく初めて定義された」ということなのですけれども、はっきり言ってこれはまったくのデタラメです。よくこんないい加減な話が書けるものだと正直びっくりします。

先ほどからずっと見てきた通り、《国体》というのは、明治政府(や大正・昭和の政府)が勝手に作り上げたものではなくて、惟神(かんながら)の道、つまり、神様の時代からずっとこの日本国にあって、日本人に連綿と受け継がれてきたものなのです。江戸時代になって、本居宣長があらためてその点を指摘して称揚するわけですが、先ほど見た通り、宣長は、《国体》を知りたければ『古事記』を読めばいいと明言しているわけです。丸山眞男というのは日本政治思想史の学者ですので、そんなことは百も承知なわけですが、それを素知らぬ顔して「国体というのはよくわからないですねー、恐ろしいものですねー」と言っているわけです。学者としての良心の欠片もないと言わざるをえません。

明治政府としても、まさに大日本帝国憲法においては、「告文」・「発布勅語」・「上諭」と3つの文章にわたって詳しく「皇祖皇宗ノ遺訓」=「皇祖皇宗ノ後裔ニ貽(のこ)シタマヘル統治ノ洪範」=《国体》について明確に述べていますし、この憲法を起草した伊藤博文が著した『大日本帝国憲法義解』(事実上、官撰註釈書とみなされた)にも、随所に《国体》についての解説があります。もちろん、これらは、本居宣長をはじめとする国学の研究成果の蓄積を踏まえているものでして、戦前の憲法学の本には、どの本にも必ず《国体》に関する話が定義も含めて書いてあります。

さらに言えば、学校教育の場でも、「教育勅語」という、或る程度子どもにも理解できるかたちで、「皇祖皇宗ノ遺訓」であり国民の「祖先ノ遺風」でもある12の徳目によって日本国民が一致団結することこそが「国体ノ精華」(《国体》の神髄)だとしっかり教えておりましたし、それから、これは大審院判決よりも時代は後になりますが、昭和12年には文部省が『国体の本義』を編纂して、政府として国民に広く《国体》というものを理解してもらおうと努めていたわけです。

ですから、そうした事実を全部素通りして、「国体というのは隠されていました、恐ろしいですねー」というのは、本来であれば、学問的にまったく通用しない話なのです。

ところが、大日本帝国憲法もなくなって、『国体の本義』も禁書にされて、「教育勅語」も否定されて読まれなくなってという時代に、歴史を書き換えるために、いかにもこの国体というものは全く訳の分からないものであったかのような話をまことしやかに書いている。こういうものが、日本人のいろんな人に読まれて、あたかもこれが真実であるかのようになってしまったという顚末で、現在《国体》というものが我々日本人にとってもよく分からなくなってしまっているわけですけれども、本来《国体》というものはきわめて明確なものであって、訳の分からないものであるという考え方自体が《戦後レジーム》そのものであるということでございます。

時間がまいりましたので、本日はここまでとさせていただきます。ご清聴いただきまして、どうもありがとうございました。(拍手)
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開所式・中村匡志

お蔭様をもちまして、10月24日に開催いたしました次世代の党埼玉連絡所の開所式及びイフコン(タウンミーティング)は、50席全席が埋まる満員御礼の大盛会となりました。本当にどうもありがとうございました。

浜田和幸先生

参議院議員の浜田和幸先生も、飛び入りで駆けつけてくださいました。

小名木善行先生

小名木善行先生には、『古事記』の神武東征についての素晴らしいご講演をいただきました。神武天皇は東征の途上、五瀬命(いつせのみこと)とともに安芸に7年、備後に8年いらっしゃったわけですが、これは農業技術を教えておられたということで、我が国の国体は建国当時から変わっていないのだなぁとあらためて感慨を覚えました。この点については、後述の憲法改正入門講座をご参照ください。



ご著書にサインもいただきました。滑らかな筆で「明察功過」、「和と結ひ」、「忠義」、「修理固成」(しゅりこせい)と記していただきました。

第2回の埼玉イフコン・タウンミーティングは、11月28日(土)午後3時からです。『教科書が教えない歴史』シリーズで有名な自由主義史観研究会の設立メンバーとして歴史教科書改革を推進された齋藤武夫先生に、「聖徳太子の国づくりの大方針」のご講演をいただきます。是非お早めにご予約ください(お申し込みは下記画像の電話またはメールまで)。

IFCON埼玉第2回



それでは、今回も、私が日本会議久喜支部にてお話しさせていただいている憲法改正入門講義の内容を、掲載してまいりたいと思います。

第2回は、「グリムの自主憲法制定論」です。ごゆっくりとお楽しみください(以下は、実際にお話しした内容を、読みやすさ等の観点から編集したものです)。

◇ ◇ ◇


皆さんこんにちは。本日も、どうぞよろしくお願いいたします。

前回「憲法解釈というのは、結局のところ、憲法解釈者の意見を述べているのに過ぎない」というお話をしたんですが、この点については、何だか理論的な話に終始してしまいましたので、おそらく、ちょっと分かりにくかったかなと思うんですね。私が言いたいのは、例えば、自衛隊に関して、「今回の安保法制のように自衛隊が集団的自衛権を行使することは、違憲である」と主張されている方がおられる場合に、それは実際のところ、憲法そのものから「それは違憲である」という結論を導いているのではなくて、その主張している人が「それに反対だ」と政治的意見を言っているのとあまり変わらない、ということなのですが、この点について、まずは前回の説明の補足をさせていただきたいなと思うんですね。

前回のお話は抽象論で終わってしまいましたので、今回はちょっと具体例を使って実験してみたいと思います。その際に、現在の9条とかですと、いろいろ議論がごちゃごちゃになっていますので、さしあたり、架空の事例を使って分かりやすく説明したいと思うんですね。具体的には、大日本帝国憲法の次の2つの条文を使います。

第十一条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第十二条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム

今日はまず、この2つの条文を具体例にして、法律家がやっている《解釈》というものはどういうものなのか、ということを、まずは皆さんに実際に体感していただきたいと思うのです。

大日本帝国憲法が制定されたのが、西暦で申しますと1889年でございます。そして、1889年にこの憲法ができたその際には、軍隊というものは陸軍と海軍しか存在しませんでした。だから、憲法の起草者は「陸海軍」と規定したわけです。

けれども、それから12年後の1901年に、ライト兄弟が大西洋を飛行機を使って横断して、その後、この飛行機というものがどんどん実用化されていって、大東亜戦争の時には飛行機というものが大々的に戦争に用いられるようになったのです。現在も、自衛隊には、陸上自衛隊と海上自衛隊だけではなく航空自衛隊もございまして、三つの軍隊により編制されているわけです。これに対して、大日本帝国の軍隊は、実際にも、憲法の条文通り陸軍と海軍だけで編制されていたわけですけれども、

「それでは当時、大日本帝国は、憲法上、空軍を編制することができたのだろうか」

ということを、架空の事例として考えてみたいと思うんですね。

そこで問題になるのが、憲法の条文の「陸海軍」という文言なのです。これは当然、条文ができたときには飛行機というものが存在してなかったので「陸海軍」と書いてあるわけです。けれども、その後世界がどんどん変わって、飛行機というものができたということなのですが、そもそも憲法解釈、あるいは、憲法解釈に限らず法の解釈というものは何のためにあるかというと、条文を現実に適応させるために解釈という作業を行うわけなんです。そこで、この飛行機を使った軍隊というものを、陸軍からも海軍からも独立した軍隊として編制することが憲法上許されるかどうかという問題が、条文を現実に適応させるための解釈の問題として論じられることになるわけです。

Aさん「「軍隊ヲ統帥ス」だったらいいですよね」

そうです。憲法の文言が「軍隊ヲ統帥ス」だったら大丈夫なのですけれども、起草者の想像力が欠如したしていたというかなんというか、憲法の条文としては「陸海軍」と規定してしまったわけなんです。

それを、例えば「空軍というものをつくりたい。そしてそれは憲法上もOKなんだ」という主張する人が、憲法解釈としてどんな主張をするかというと、例えば《勿論解釈》(argumentum a fortiori)というのが解釈の一つの方法としてありまして、

「憲法には「陸海軍」を編制できると書いてあるのであるから、もちろん空軍も編制できる」

という解釈を主張するかもしれないですね。ただ、この勿論解釈というのは、漢文で出てくる「Aすらなお○○、況んやBをや」と同じレトリック(修辞法)ですから、最初に程度の甚だしいものを挙げて、それよりも程度の少ないものなら当然そうであるという、そういう言い方になります。ですから、「陸海軍ですら編制できるのだから、それよりも規模の小さな(あるいは、派生的な存在にすぎない)空軍は当然編制できる」というような、少し制限のかかった物言いになります。

それが厭な人は、《拡大解釈》(extensive Auslegung)とか《類推解釈》(Analogie)という解釈方法を検討することになります。拡大解釈というのは、例えば、

「この条文ができた時には、「陸海軍」というのは当時存在するあらゆる種類の軍隊だったのだから、この条文の「陸海軍」というのは実際には「あらゆる軍隊」という意味で使われた。つまり、飛行機というものができた現在においては、「陸海軍」という文言は「あらゆる軍隊」という意味に拡大して解釈すべきである。そうだとすると、空軍も編制できる」

というような主張です。この場合には、歴史的な立法者の意思(この場合は架空の例ですが)を援用しているので、《歴史的解釈》(historische Auslegung) という手法によって拡大解釈を正当化しているということになります。

これに対して、類推解釈というのは、

「「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」・「天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム」という、この2つの条文は、《すべての国家は自衛権を有する》という一般原則の表れであって、そうであるとすれば、この一般原則から、我が国は空軍を編制できるという自明の結論を導くことができる」

というような解釈です。拡大解釈と類推解釈は、機能的にはよく似ていますが、拡大解釈がその条文限りのものであるのに対して、類推解釈というのは一般的な法原則を抽出する点が違います。いわば、拡大解釈というのは、或る意味「場当たり的」なのものであるのに対し、類推解釈は一般的な原則を抽出するので、いろんな局面に適用できることになって、その分射程が広くなります。

この辺りの話は、おそらく一度には消化できないと思います。私も、この辺りの法学方法論の話は、大学で法律学を勉強し始めて2年くらい経ってようやく少しずつ仕組みが分かってきて、さらにそれを使いこなせるようになるまで数年かかりましたから、いま一気に理解しようとする必要は全然ありません。今は、何となくイメージを頭にとどめておいていただくだけで十分です。こういった技術は、例えていうと、大工さんでいう鉋(かんな)とか鑢(やすり)みたいなもので、触らせてもらうのに何年かかかって、それを使いこなすまでにまた何年もかかる、というような、一種の職人芸なのです。

いずれにしても、中世イタリアから千年近くの歴史を誇る法解釈学(Rechtsdogmatik)の職人芸的技術をもってすれば、あの2つの条文から「空軍も編制できる」という結論を導くことは、それほど難しいことではないのです。

しかし、この条文から全く反対の結論を導くこともできます。すなわち、

「条文には「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」、あるいは「天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム」としか書いていないので、空軍は、憲法を改正しないと編制できない」

という解釈論を主張することもできます。これを《反対解釈》(argumentum e contrario)といいます。つまり、テーゼ(命題)を裏返すかたちで、《条文に書いてあること》から《条文に書いていないこと》を導くのでございまして、この場合であれば、「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」という条文から「天皇は、陸海軍ならざるものを統帥せず」、「天皇ハ陸海軍ノ編制〔…〕ヲ定ム」という条文から「天皇は、陸海軍ならざるものの編制を定めず」という結論を導き出す。これが反対解釈です。

実は、これは論理学的には正しくない方法なんですね。論理学的にいうと、「命題」と「命題の裏」は同値にはならないということなんですが、それは確かにそうなんですけども、それがまぁ「陸海軍」としか書いてないんだから、何となくそういう結論が導かれそうな気もするということで、論理学上は決して正しくないのですけれども、法学上は伝統的に正しい方法だと認められているわけです。結局のところ、法学というのは《説得の学問》ですので、論理的に正しいかどうかという点よりも、聴いている人が納得するかどうかという点のほうが大事であるわけです。

ですので、法解釈論としては、これはどちらの解釈もあり得るということになります。つまり、法学の世界においては、同じ条文から「空軍を創設できる」と言う結論も、「空軍を創設できない」と言う結論も、どちらも同じように導くことができるということなんですね。ですから、憲法解釈というのは、主張している人の意見を単に述べているに過ぎないということになるわけでございます。賛成の意見の人は「合憲」という解釈を主張するし、反対の意見の人は「違憲」という解釈論を主張する、というだけの話なのです。

ですから、そういう意味では、憲法学者が言っていることというのは、そこらへんの飲み屋で酔っ払いのおっちゃんが言っていることと、大して変わらないんですね。どちらも《意見》を言っているにすぎないという意味では。だから、むしろ重要なのは、その帰結が果たして現実の世界で妥当なものなのかという点なのです。9条の解釈論の場合であれば、どれだけしっかりと外交・防衛の現実を踏まえたものであるのかとか、本当に国の命運を任せられるくらいに正確な現状分析と政策構想に基づくものであるのかとか、あるいは、本当に「この素晴らしい日本国を、自分の子どもたち、孫たちに末長く受け継いでいきたい」という愛国の情から出たものであるのかとか、そういった点であるわけです。

まさにこの点を憲法学者がおろそかにしていて、随分いい加減なことを言っているから、私は腹を立てているわけです。まず、「この日本をしっかりと守り、子々孫々に永遠に受け継いでいきたい」という愛国の気持ちが、欠片も感じられない。これが一番の問題です。サヴィニーやグリムの爪の垢でも煎じて飲んでほしい。それに、今時、「中国に対して防衛できる体制なんか整えなくていい」とか、よく平気であんなことを言えるもんだと思いますよ。本当に、平和ボケとしか言いようがない。本日いらしていただいている皆さんのほうが、よっぽど外交・防衛の現実をよく分かっていらっしゃると思います。

まぁ、これは別に憲法学者を責めているわけではなくて、私も研究者の世界にいたのでよく分かりますけれども、特に憲法の研究者というのは、研究室に籠って論文ばかり読んで、あの閉鎖的なムラ社会でずーっと暮らしていますから、あんまり外の世界のことは分からないわけです。別に内政・外交の専門家でもないし、現実政治の世界も知らないし、しかも、学界全体を支配しているあのおかしな左翼的な雰囲気にだんだん染まっていって、一般国民の感覚からどんどんズレていってしまう。でも、彼らは一応憲法に関して意見を言うのが仕事ですから、まぁこういう局面になるといろんなことを言うわけです。

でも、彼らとしては、たとえ言っていることが間違っていても何の責任も取る必要はないし、その所為で中国が攻めてきても何の責任も取らないわけです。そんな無責任な意見に国の運命とか国民の生命が左右されてはたまりませんから、だからこそ、きっちりと選挙というかたちで国民の信託を受けた安倍さんは、そういういい加減な意見はきちんと受け流して、その代わりに必要な法案をしっかりと通して、国民のために責任をきっちり果たしたわけです。

というところで、やや長くなりましたけれども、以上で前回の補足を終わりまして、そろそろ本題に戻りたいと思いますが、まずは、前回どういうお話をしたかということを、ちょっと思い出していただきたいんですけれども、

Bさん「グリムの話です」

そうですね。グリムの話をさせていただいてですね、


こちらですね、グリム。グリムというのは単なる童話作家ではなかったと。この人たちは《ゲルマニスト》と呼ばれる人たちであって、《ゲルマン魂》、つまり《ドイツらしさ》というのはどういうことなのかというのを研究する、あるいは、昔のいろんな史料から発見する、そういうことを対象とする学問をやっていた人だということで、我が国でいえば、さしづめ本居宣長のような方であったということです。「《大和魂》、つまり《日本らしさ》とはどういうことなんだろう」ということを熱心に研究したのが《国学》ですけれども、グリムのやっていた《ゲルマニスティック》という学問は、それと同じものであったということでございます。

そこまでは日本とドイツで同じなのですけれども、ドイツと日本で違うのは、このグリムが憲法制定にあたって指導的な役割を果たしたという点なのです。この点については、草加にある獨協大学の先生で、残念ながら今年お亡くなりになってしまいましたが、堅田剛先生という法制史の先生がいらっしゃって、その先生の『法のことば/詩のことば』という論文集に詳しいお話が載っておりますので、これからちょっとそれをみんなで読んでみたいと思います。

「〔1848年の「ドイツ帝国憲法」(いわゆるパウロ教会憲法)を制定する会議であるフランクフルト国民会議の〕第二十九選挙区はライン川下流のエッセンを中心とする地域から構成されていたが、グリムがここに住んでいたわけではない。当時はアカデミー会員兼大学教授として、彼の住居はベルリンにあった。にもかかわらず、五月一九日の再選挙で急遽選出され、グリムもこれを受けた。このような選挙であったにもかかわらず、右の手紙〔省略〕には驚きもためらいも認められない。グリムは当選を当然のこととして受けとめ、ただちにフランクフルトに赴いた。
 実をいえば、グリムはすでに無名の「政治家」ではなかった。彼は一八四六年と四七年にはフランクフルトとリューベックでゲルマニステン大会〔=ゲルマニスト大会。「ゲルマニステン」(Germanisten)は「ゲルマニスト」(Germanist)の複数形〕を主宰し、四八年三月革命時のいわゆる準備議会にも議員として参加していたからである。そのうえ三七年に起きたゲッティンゲンの七教授事件の記憶は、中心人物ヤーコプ・グリムの名とともに、人々の胸にいまだ強く残っていた。三月前期をとおしてグリムは自由と統一の象徴であり続けた。〔…〕
 〔憲法草案を起草する「一七人委員会」の〕委員は各領邦国家から出されたが、このなかにはプロイセン代表のダールマン、ヴュルテンベルク代表のウーラント、ハンザ諸都市代表のゲルヴィーヌスなどがいた。この委員会の仕事はまもなく準備議会に引き継がれ、一七人委員会の多くもそれに参加した。
 ここに挙げた委員たちはみなグリムと密接な関係にある。たとえば文学者のウーラントは、ゲルマニステン大会においてグリムを議長に推薦した人物である。また政治学者のダールマンと歴史学者のゲルヴィーヌスは、グリムとともにゲッティンゲンの七教授事件において中心的な役割を果たしていた。〔…〕
 三月三一日に開会した準備議会へのグリムの関わりについては、これに加えてハイデルベルク集会との関係もみておかねばならない。この集会は、一七人委員会と準備議会の前身として位置づけられる。〔…〕
 彼らの人脈は、ゲッティンゲンの七教授事件、ゲルマニステン大会、準備議会といった一連の政治的出来事のなかで培われてきたものだ。そしてこうした人脈の真ん中にグリムがいたことは、もっと注目されてよい。グリムはダールマンほどには政治的でなかったけれども、グリムの素朴な政治性こそが、のちに述べるように、大きな政治的役割を果たすことになった。〔…〕
 フランクフルト国民議会は、五月一八日にパウロ教会で開催された。マイン河畔のフランクフルト市が選ばれたのは、ドイツのほぼ中央部に位置するという地理的理由ばかりではなく、神聖ローマ帝国の皇帝がここで代々戴冠式をおこなったという歴史的理由にもよる。もとよりそのような帝国はとうの昔になくなってはいたが、依然としてここは統一ドイツの神聖な場所であり続けた。パウロ教会はこの町の中心、レーマー広場に面して建っている。
 議会開会の日を描いた有名な絵によれば、白シャツの民兵と連邦軍が整列する中を、燕尾服を着た議員たちが隊伍を組んでパウロ教会に入場していく。それを見物する大勢の市民たち。そして教会の入り口で彼らを迎える黒・赤・金の三色旗。ドイツの統一を表す旗である。〔…〕
 しかしながら、ヤーコプ・グリムの姿は国民議会の開催日にはまだ見出すことができない。彼が選出されたのはその翌日だからで、ベルリンからフランクフルトに到着するのは、さらに数日後のことである。

 「一八四八年五月二四日、グリムは議員としてフランクフルト国民議会に加わった。彼はパウロ教会において、真ん中の列の演壇の真ん中の特別席に座った。」

 あたかも真打ち登場とでもいうかのように、グリムは遅れて議場に入り、しかも真ん中の特別席に着席する。ドイツの中心、フランクフルトの中心、そしてパウロ教会の中心にグリムがいる。フランクフルト国民議会は、この瞬間において、自由と統一の象徴たるヤーコプ・グリムの議会であった。
 フランクフルト国民議会には、ダールマン、ゲルヴィーヌス、アルプレヒトといったゲッティンゲンの同志もいたし、ウーラント、ミッターマイアー、ベーゼラー、そしてアルントのようなゲルマニステン大会の参加者もいた。彼らはここの政治的立場は同じではなかったけれども、その中心にはきまってグリムの存在があった。やはりこの意味でも、国民議会はグリムの議会であった。」(堅田剛『法のことば/詩のことば』204-208頁)

このように、グリムは、いろいろな意味で、このとき、憲法制定議会であるフランクフルト国民議会の中心にいたわけです。前回もお話しした通り、サヴィニーをはじめとして、この時代のドイツの学者というのはみんな愛国者なのです。勿論グリムも熱烈な愛国者であって、この国民会議においても「ドイツの領土であるシュレースヴィヒ=ホルシュタインを侵略するデンマークに対しては徹底抗戦すべきだ」という演説も行っているわけですが、このグリムこそが、古くからの言い伝えや法書や言語から《ゲルマン魂》、つまり《ドイツらしさ》を学問的に洗い出す《ゲルマニスティック》という学問を大成したわけです。

そして、そのグリムがどのような憲法を提案したかというと、前回お話しした、「借り物」のローマ法から解放されたドイツ独自の《帝国国法論》(いわば「ゲルマン憲法」)において《ドイツらしさ》の核心をなしていた《自由》というものを、まさに憲法の第1条に置くべきだと主張したのです。そうすることによって、この憲法ははじめて《ドイツらしい》憲法になるのだ、ということです。この点についても、堅田先生の論文を叮嚀に読んでいきましょう。

「グリムが「国民」というとき、これは「民族」のことである。国民議会における〔グリムの〕第三の演説「基本権について」は、まさにこの観点からの修正動議であった。グリムの動議は、基本権に関わる憲法委員会草案の第一条を修正せよとする。この意味で、それは統一ドイツの憲法および国家体制そのものの根底にも関わるものであった。

 「諸君! 私の誇りとする条項のために若干の言葉を提案せねばなりません。〔…〕自由の概念は神聖かつ重要なものでありまして、これを我々の基本権の冒頭に据えることが私にはどうしても必要なことと思われます。」

〔…〕憲法委員会の草案第一条は、「すべてのドイツ人はドイツ一般市民権を有する……」というものであった。だがドイツ人とは誰か。〔…〕以下にみるように、彼の提案は〔…〕人権の前にまず「自由」の理念から国家と国民の性格規定をおこなおうとするものであった。

 「ゆえに草案の第一条を第二条として、そこに次の内容の第一条を挿入することを提案いたします。

  『すべてのドイツ国民は自由である。ドイツの国土はいかなる奴隷状態も容認しない。ここに留まる外国の非自由民をドイツの国土は自由にする。』

 ゆえに私は、自由の権利からさらに自由の効力を引き出します。そうでなければ空気は不自由にするのであって、ドイツの空気は自由にするものであるはずだからです。以上述べたことで、議案の趣旨を説明するには充分だと思われます。(多くの席からブラヴォー)」

 ドイツの空気は自由にする(Deutsche Luft macht frei.)というこの提案は、〔ゲルマン法の〕有名な法諺「都市の空気は自由にする」(Stadtluft macht frei.)を明らかに踏まえている。すなわち中世ヨーロッパにおいては、農民が自治権を認められた自由都市に逃げ込んで一年と一日滞在した場合には、この農民は土地と領主から解放されて自由な身分を獲得することができた。〔…〕
 こうしたゲルマン的自由の理念を、グリムは近代的国民国家における文字どおりの基本権として再構成しようとする。かつて都市が自由であったように、今度は国家が自由な場所とならねばならない。」(同書217-219頁)

つまり、1848年にフランクフルトでパウロ教会憲法というものが制定されて、これが、当時ドイツはバラバラだったんですけれどもそれを一つにまとめるための一つの憲法をつくろうということで、その中心にいたのがグリムであったわけですが、そのグリムは、それまでのゲルマニスティックの研究から、ドイツという国の本質をなす国柄--日本でいえば国体--を発見して、それはこのグリムの考えでは《自由》であって、そして、この《自由》というものこそが《ゲルマン魂》、《ドイツ人らしさ》の本質をなしている、したがって、ドイツの国の一番根幹となるあり方である、という風に考えたんですね。だからこそ、ナポレオンによって崩壊させられた祖国ドイツを再び統一し再興する憲法の第1条には、

「すべてのドイツ国民は自由である。ドイツの国土はいかなる奴隷状態も容認しない。ここに留まる外国の非自由民をドイツの国土は自由にする。」

という、まさにこの条文が来なければいけない、そうでなければ、本来的な意味でのドイツ人の憲法、すなわち《自主憲法》にはならない、ということを、グリムは能う限りの情熱をもって主張したのですね。

しかし、結局のところ、このグリムの提案は、賛成192票、反対205票という僅差で否決されてしまって、うまく行かなかったのです。それで、「これが受け容れられないんだったら、俺がここにいてもしょうがない」ということで、グリムは国民議会に見切りをつけて帰ってしまうわけなんです。けれども、それまでの経緯も含めて考えると、グリムがいなかったらこのパウロ教会憲法というものは存在していなかった、というのは間違いのないところでございまして、そして、このパウロ教会憲法というのは、1919年のヴァイマル(ワイマール)憲法や、現在のドイツの憲法である1949年のボン基本法の模範となっているわけですから、ドイツにおいては、現代においても、ドイツの国をつくった最大級の偉人として、グリムがこの旧千マルク札に描かれているわけなのです。

このことから何が学べるかといいますと、何よりもまず、現在の憲法改正の議論においては「《日本らしさ》は何か」という点に関する認識が全く欠けてしまっているということが、一番の問題なんじゃないかなということを、私は思うわけなのです。その点がすっぽり抜け落ちてしまっていると。

Cさん「そう。それがないんですよね」

そうなんですよ。本来憲法というものは、このグリムの自主憲法論と同じように、《大和魂》、《日本らしさ》というものをまず出発点に据えなければならないわけです。

一般に《自主憲法論》というと、「アメリカ人が起草して、アメリカの占領下のいろいろな圧力の中で制定された」というあの苦い制定経緯がありますので、《日本人が起草し、日本国民が自由意思によって制定する》という手続面さえクリアできれば良いと誤解されている方もたくさんおられるわけです。勿論そういう手続面もとても大事で、グリムも国民議会で「外国の干渉を許してはならない」ということもまた熱心に主張しているわけですけれども、それと同じくらいに、あるいはそれ以上に、《どういう憲法を制定するか》という内容面、実体面の話が大切であるということを、グリムの自主憲法論はまた教えてくれているわけです。

そして、内容的には、法の究極の淵源をなす日本にとっての民族精神、つまり《大和魂》、《日本らしさ》に関する議論が最初に来なければいけないわけです。伝統的な言い方をすれば《国体論》、要するに、「この日本国は一体どのような国であるのか」ということを探求する《国柄》の議論こそが、一番最初に来なければならないのです。そして、この《国柄》というものは、当然、どこぞの外国が一時的に掌握した権力で勝手に押し付けていった紙切れにあるのではなく、まさしくサヴィニーが説いた通り、我々日本民族が歩んできた《歴史》そのものの中にこそあるものなのです。もちろん9条の改正は実際に必要な改正だと思うんですけれども、それは、やっぱり「日本の国というのはどういう国なのか」という《日本らしさ》の議論、《国柄》の議論が出発点にあって、そこからの帰結、あるいは派生するものとして主張すべきものであって、最初の議論がすっぽ抜けて9条というのは、私はあまり良くないことなんじゃないかなぁと思うんですね。

そういう点も含めて、我々がどのような憲法改正をしなければいけないかと言うことを、いろいろと考えているんですけれども、例えば石原先生なんかは日本国憲法破毀論というの唱えておられまして…

Dさん「明治憲法に戻すんですよね」

そうです。「日本国憲法を破毀することによって、大日本帝国憲法を復活させよう」ということを、おっしゃっておられるわけですよね。しかしながら、先程見た11条と12条という二つの条文をとってみても、大日本帝国憲法という憲法は必ずしも完璧ではないわけです。空軍をどうするかというような重要なことが書いていなくて、空軍をつくろうとしても、賛成論も反対論もどちらの解釈も帰結できるし、改正しようにも、そもそもこの憲法は「不磨の大典」であるという憲法慣習が成立してしまったために、事実上改正不能となっていたわけです。だから、空軍という新たな軍隊が必要になっても、結局のところどうしようもなかったわけです。その他にも、さまざまな欠陥がございまして、そういう欠陥が原因となって、戦前のいろいろな政治論争が巻き起こされたりしましたので、そういう意味でも、決して完璧ではないんですね。

しかし、他方、日本国憲法もボロボロであると。ボロボロであるというか、もちろん上っ面だけ見ると良いところも全くないわけではないですけれども、そもそも根本の部分がいかれてしまっている。別のところでお話ししたこともありますけれども、日本国憲法というのは、実は、いろんな意味で日本を壊すようなもの、あるいは《日本らしさ》を壊すようなものになってしまっている。これは、敗戦後の占領状態において、日本人の団結力とか強さとかにさんざん苦しめられた戦勝国の意図でこの憲法が制定されたということに起因するわけですけれども、日本国憲法は、そういう意味で、完全に根っこが腐っているわけで、この憲法でこの日本国という大木を今後千年、二千年と永続させていくことは構造上無理であるわけです。

ただ、そういう中にあっても、何とか伝統をきちんと受け継いで《日本らしさ》を保っている規定も実際には少なくないですし、あるいは、腐った根っこの部分さえきちんと生命力のある根っこにすげ替えてあげれば、我が国のもの、《日本らしい》ものとして息を吹き返してくるという、そういうような幹の部分もあります。例えば《民主主義》というのはその一つです。昭和21年の衆議院における憲法改正審議においては、当時の吉田茂首相が、

「日本においては他国におけるがごとき暴虐なる政治とか、あるいは民意を無視した政治の行われたことはないのであります。民の心を心とせられることが日本の国体であります。故に民主政治は新憲法によって初めて創立せられたのではなくして、従来国そのものにあった事柄を単に再び違った文字で表したに過ぎないものであります

と述べていますけれども、実際にもまさにその通りで、我が国においては古来より国民は「おおみたから」と呼ばれて、国政においては何よりも貴(とうと)いものとして尊重されてきました。つまり、天皇陛下にとって国民というのは、皇祖皇宗、すなわち皇室の祖先神や歴代天皇からお預かりしている最も大切な宝なのであって、粗末にすることなどありえないわけなのです。

これに対して、ヨーロッパの「民主主義」(デモクラシー)というのはギリシャに起源をもちますけれども、これは、デーモス(δῆμος、民)のクラトス(κράτος、支配)ということで、「民による支配」という意味です。つまり、ヨーロッパにおいては、《統治》というのは、誰が統治するにしても常に「支配」であるわけなのですが、日本はそうではない。選挙の時にもずっとお話ししましたけれども、《君主が民を思いやり、民が君主を思いやる》という《思いやりの統治》こそが、我が国の統治の根本原理であるわけです。これは常識的に考えても、ヨーロッパの「デモクラシー」(民の支配)よりも断然優れた統治体制で、だからこそ、この日本という国はこんなに長く続いてきたわけです。要するに、同じ《民主主義》という概念一つとっても、ヨーロッパ流の解釈をすると「支配」というキナ臭いものになるのに対し、日本の国体にのっとった解釈をすれば、実に平和的で皆が幸せになる、そういう素晴らしい統治形態のことを指すようになるのです。

したがって、いま述べてきたそういういろいろな意味で、「大日本帝国憲法か日本国憲法か」という二択論というのは、正しくないと思うのです。この点についての資料として、私の好きなコリンズの『ビジョナリー・カンパニー』という本、これは「どうやったら素晴らしい組織(ビジョナリー・カンパニー)ができるか」という組織論の本ですけれども、非常に共感できる記述がありましたので、こちらもちょっとみんなで読んでみたいと思います。

「挿話 「暴君《あれかこれか》」ではなく「天才《あれもこれも》」

 以下では、中国の陰陽思想からとった陰と陽の紋様を随所に使っていく。この紋様は意識的に選んだもので、ビジョナリー・カンパニーの重要な側面を象徴している。ビジョナリー・カンパニーは「暴君《あれかこれか》」に屈することはない。「暴君《あれかこれか》」とは、逆説的な考えは簡単に受け入れず、一見矛盾する力や考え方は同時に追求できないとする理性的な見方である。「暴君《あれかこれか》」に屈していると、ものごとはAかBかのどちらかでなければならず、AとBの両方というわけにはいかないと考える。たとえば、こう考える。

・「変化か、安定かのどちらかだ」
・「慎重か、大胆かのどちらかだ」
・「低コストか、高品質かのどちらかだ」
・「創造的な自主性か、徹底した管理かのどちらかだ」
・「未来に投資するか、目先の利益を追求するかのどちらかだ」
・「綿密な計画によって進歩するか、臨機応変に模索しながら進歩するかのどちらかだ」
・「株主の富を生み出すか、社会の役に立つかのどちらかだ」
・「価値観を大切にする理想主義か、利益を追求する現実主義かのどちらかだ」

 ビジョナリー・カンパニーは、この「暴君《あれかこれか》」に屈することなく、「天才《あれもこれも》」によって、自由にものごとを考える。「天才《あれもこれも》」とは、さまざまな側面の両極にあるものを同時に追求する能力である。AかBのどちらかを選ぶのではなく、AとBの両方を手に入れる方法を見つけ出すのだ。
 このあと八章にわたり調査結果をくわしく述べていくなかで、ビジョナリー・カンパニーの多くが、こうした一見矛盾する逆説的な考え方を持っていることを説明していく。以下に例をあげてみよう。

 「利益を超えた目的も、現実的な利益の追求も」
 「揺るぎない基本理念と力強い変化も、前進も」
 「基本理念を核とする保守主義も、リスクの大きい試みへの大胆な挑戦も」
 「明確なビジョンと方向性も、臨機応変の模索と実験も」
 「社運を賭けた大胆な目標も、進化による進歩も」
 「基本理念に忠実な経営者の選択も、変化を起こす経営者の選択も」
 「理念の管理も、自主性の発揮も」
 「カルトに近いきわめて同質的な文化も、変化・前進・適応する能力も」
 「長期的な視野に立った投資も、短期的な成果の要求も」
 「哲学・先見・未来志向も、日常業務での基本の徹底も」
 「基本理念に忠実な組織も、環境に適応する組織も」

 両者のバランスをとるといった月並みな話をしようというのではない。「バランス」とは、中間点をとり、五十対五十にし、半々にすることだ。ビジョナリー・カンパニーは、たとえば、短期と長期のバランスをとろうとはしない。短期的に大きな成果をあげ、しかも、長期的にも大きな成果をあげようとする。ビジョナリー・カンパニーは、理想主義と収益性のバランスをとろうとしているわけではない。高い理想を掲げ、しかも、高い収益性を追求する。ビショナリー・カンパニーは、揺るぎない基本理念を守る方針と、力強い変化と前進を促す方針のバランスをとろうとしているわけではない。その両方を徹底させる。つまり、ビジョナリー・カンパニーは陰と陽をないまぜにし、はっきりとした陰でも、はっきりとした陽でもない灰色の輪をつくろうとしているわけではない。陰をはっきりさせ、かつ、陽をはっきりさせようとする。陰と陽を同時に、どんなときも共存させる。
 不合理ではないか。おそらくそうだろう。まれではないか。そうだ。難しくはないか。まったくそのとおりである。しかし、F・スコット・フィッツジェラルドによれば、「一流の知性と言えるかどうかは、二つの相反する考え方を同時に受け入れながら、それぞれの機能を発揮させる能力があるかどうかで判断される」。これこそまさしく、ビジョナリー・カンパニーが持っている能力である。」(コリンズ『ビジョナリー・カンパニー』(山岡洋一訳)72頁以下を一部改訳)

実は、組織論を勉強すると、「古来より我が国に伝えられてきた統治のあり方というものが、いかに優れたものであるか」ということがよく分かります。日本国という組織は世界で最も古い組織の一つであって、その仕組みは、当然ながら、組織というものを永続化するための実践的な智慧に満ち溢れているわけです。ですから、そういう組織論的な意味でも、私自身としては、憲法改正のあり方としては、「大日本帝国憲法か日本国憲法か」の二択論ではなくて、「大日本帝国憲法の良さと、日本国憲法の良さの両方を兼ね備えた憲法をつくろう」、あるいは、「大日本帝国憲法と日本国憲法のどちらよりも良いものをつくろう」という大胆な企てのほうが、実は正しいあり方なんじゃないかな、という風に思うんですね。それで、そこから、いろんな細かい論点についても議論していくといいんじゃないかなと思っています。

例えば、その一つの例としてTPPの話があると思うんですけれども、日本においては、TPPに関してやたらとコメというものが議論になるわけです。他にいくらでもTPPの対象となる農作物というものはあるわけですけれども、にもかかわらず、メディアで議論になるのは決まってコメですし、私たちの日常的な議論の中でも、TPPの話といったらやっぱりコメの話になるわけですよ。私はかねがね、これは非常に不思議な現象だなと思っていたのですが、この前、M先生から「斎庭(ゆにわ)の稲穂の神勅」のお話を伺ったときに、ようやくその点について合点がいきました。つまり、これは実は《国体論》、すなわち《日本らしさ》に関するお話だったのです。

つまり、現在の議論ですと、コメは国際的には農作物の一つ、一種として扱われていて、その関税をどうするか、というように考えているわけなんですけれども、そもそも、我が国においては、コメというものは、単なる農作物ではないのですよね。M先生が教えてくださったように、我が国には斎庭(ゆにわ)の稲穂の神勅というのがあって、

「吾が高天原に所御(きこしめ)す斎庭(ゆにわ)の穂(いなほ)を以て、亦吾が児(みこ)に御(まか)せまつるべし」

つまり、ご皇室が天照大神から授かることによって、代々天皇陛下が稲作を模範として行っていて、それに倣って(習って)国民が稲作をやっているということが、古来より我が国のあり方、《国柄》だったわけなのです。皆さん毎年ニュースで天皇陛下が田植えをされている報道を見るかと思うのですが、あれはそういう意味でございまして、古く天智天皇の時代においても

「秋の田のかりほの庵の苫をあらみわが衣手は露にぬれつつ」

という風に、天皇陛下ご自身が率先して農作業を行っていたわけです。


これは、我が国以外では考えられないことでございまして、中国でもヨーロッパでも、皇帝が自ら手を汚して農作業を行うなどというのはまずありえない話ですし、ギリシャに至っては、農作業というのは奴隷にやらせるものだと思われていたわけです。

しかし、我が国の歴史はこれとは全然違っておりまして、まず天皇陛下ご自身が率先垂範してコメづくりを行い、国民もそれに倣って(習って)コメづくりを行う。そして、収穫されたお米は、天皇陛下が祭主となって、国民とともに神様にお供えする(神嘗祭・新嘗祭)。まさにこの一連の過程こそが統治の核心をなしていたわけです。そういう意味で、我が国においては、コメというのは、単なる経済的な財(goods)ではないんですね。私法・公法という区別がありますけれども、その枠組からすれば、国民の意識の上では、我が国におけるコメというのは、私法上のものではなくてむしろ公法上のものなのであって、だからこそ、日本人はコメに関して非常に繊細な心を持っていて、TPPの話になると、その他の農作物はいくらでもあるにもかかわらず、コメの話ばかり気になってしまうわけです。

実は、国際経済法においても、国内法に関して私法と公法の分類というものが認められておりまして、公法上の問題というのは、基本的に例外規定を設けることができるんですね。例えば、「労働者を自由に交換しましょう」という協定を結ぶ場合に--例えば、EUの基本条約にはそういう規定がありますけれども--自分の国の公務員、これを外国人に開放していいはずがないだろう、ということで、少なくとも原則論としては、「それぞれの国が、公法上の問題については例外規定を設けることができる」ということになっています。

しかしながら、我が国においては、コメというものに憲法上何の位置づけも与えられていないわけなんですね。だから、国際的にも、「我が国においてはコメは公法的なものだ」ということを主張できなくなってしまっているわけです。しかし、もし我が国が--ドイツにおいて教会で用いられる「神聖物」(res sacrae)が公法上の特別な保護を受けるのと同じような意味で--コメというものの有する公法的な意義を憲法にしっかりと位置づけるならば、これはTPPのような国際交渉においても、日本の国体というものがもっと配慮されるようにというかたちで交渉することは、もっと容易になるはずなのです。

だから、そういう意味でも、まず日本の国体というものを根本に据えて、そこから物事を考えれば、いろんな意味で、国内的にも国際的にもすんなりと問題解決できるんじゃないかなということを思うわけです。

というところで、時間がまいりましたので、今日はここまでといたします。ご清聴いただきましてどうもありがとうございました。(拍手)
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明日の開所式、お蔭様で満席だそうです。「国会議員の先生のサプライズ飛び入りもあるかも」とも聞いています。たいへん素晴らしい盛会となりそうです。明日はどうぞよろしくお願いいたします。

さて、前回予告いたしました通り、今回から、私が日本会議久喜支部にてお話しさせていただいている憲法改正入門講義の内容を、順次掲載してまいりたいと思います。

第1回は、「本当は童話作家ではなかったグリム兄弟、と憲法の話」です。ごゆっくりとお楽しみください(以下は、実際にお話しした内容を、読みやすさ等の観点から編集したものです)。

◇ ◇ ◇


中村でございます。どうぞよろしくお願いいたします。

支部長様のほうから「今日から憲法の話をして欲しい」ということでご指名いただきましたので、大学で教員をやっていたこともあり、憲法に関しては学問的に知識を持っているということで、お話しさせていただければと思います。

今日は、具体的な条文に入るよりも、心構え的なものをちょっとお話しさせていただければと思っているのですが、その前にですね、ちょっとこちらのお札を見ていただきたいんですけれども、皆さん覚えていらっしゃいますか。


皆さん覚えていらっしゃるようですね。そう、旧1万円札です。では、肖像画となっているこちらの方はどなたですか?

Aさん「聖徳太子です」

そう、聖徳太子ですね。それでは、次はこちらのお札です。


旧5千円札ですけれども、こちらの肖像画はどなたですか?

Bさん「う~ん、あまり記憶ないです」(一同笑)

いや、同じ方ですよ(笑)。そう、聖徳太子ですね。次は、千円札ですけれども、


こちらの肖像画はどうでしょうか?

Cさん「伊藤博文です」

そうです。伊藤博文です。この2人はどういう共通点があるかといいますと、片や聖徳太子は、歴史の授業とかで覚えていらっしゃるかも知れませんけれども、「十七条の憲法」を起草した本人なんですね。そして、片やこの伊藤博文は「大日本帝国憲法」を起草した人物でございます。

つまり、今ちょっと変わってしまいましたけれども、我が国おいては、「憲法」を起草した人を《国をつくった重要な人物》としてお札に肖像画を印刷して皆で使う、そういう文化があったわけです。そして、それはどこの国でも同じでございまして、ちょっとドイツの国の話をいたしますと、今はもうユーロになってしまいましたけれども、ユーロができる前はドイツの通貨はマルクでございまして、1マルク大体50円くらいなんですが、こちらが千マルクのお札なんですね。


為替相場でいうと、千マルクのお札というのは、大体5万円くらいの価値なんですけれども、マルクがユーロに切り替わった当時の使い出だと、私の感覚だと大体1マルク100円くらいの使い出がありまして、ですから、これは大体10万円札くらいの使い出、価値があるお札なんですね。そこに印刷されているこの2人の方々、どなたか見覚えがありますでしょうか?

Dさん「グリム兄弟ですか」

そうです。これがグリム兄弟でございまして、我々がグリム兄弟というと、『グリム童話』を普通の人は思い浮かべると思うんですね。「何で童話作家がこんな高価なお札の肖像画になっているのか?」ということを不思議に思うかもしれないのですけれども、このグリム兄弟というのは、実は、童話作家などではないんですね。この人たちの本来の職業は、《ゲルマニスト》という人たちなのです。ゲルマニストというのは、《ゲルマニスティック》(ゲルマン学)を研究する《ゲルマン学者》と呼ばれる人たちのことでして…

Eさん「ゲルマンとはドイツのことですか」

概ねそうですね。ドイツとゲルマンが一緒なのかというのは、実は、いろいろと慎重な議論が必要なんですけれども、少なくともグリムに関しては、ドイツとゲルマンは一緒であるという前提から出発しています。今でも「ゲルマニスティック」というものはありまして、大体ドイツ文学をやっている人は、ドイツに留学するとゲルマニスティックの学科に行って勉強するわけで、そういう感じで、今は「ゲルマニスティック=ドイツ文学」みたいになっちゃっているわけですけれども、本当のゲルマニスティック、少なくともグリムがいた時のゲルマニスティックというのは、そういうものではなく、《ゲルマン的なもの》を発見する学問なんですね。

当時の状況についてご説明しますと、そもそも当時は、ドイツの国というものが存在していませんでした。だから、「ドイツの国をつくらなきゃいけない」ということで、それで《ゲルマン的なもの》とは何かということを、いろんなお話であるとか、あるいは古い言い伝えであるとか、あるいは「法書」と呼ばれる古い法律書のようなものを調べて、まとめあげて、そうすることによって、「ドイツ人というのはこういう人たちなんですよ」ということを提示して、それに基づいて皆が「ああ、ドイツという国をつくらなければならない」ということでまとまったのでありまして、そのまさに中心にいたのがこのグリム兄弟なんですね。

Fさん「プロシアが中心ではないのですか」

おっしゃる通り、1871年にドイツが実際に一つの国(ライヒ、Reich)となったときには、領邦(ラント、Land)の一つであるプロシア(ドイツ語ではプロイセン)王国の宰相ビスマルクが中心的な役割を果たしました。しかし、実は、1848年にも一度ドイツが一つの国(ライヒ)としてまとまろうとしたことがあって、その時には結局のところ挫折しているのですが、ドイツの国としての憲法を制定するところまでは行ったのです(施行はされませんでしたが)。そして、そのときに中心的な役割を果たしたのが、ほかでもないグリムだったのです。

プロイセン(プロシア)もそうですけれども、もともとドイツというのは《神聖ローマ帝国》と呼ばれるところだったんですけれども、それが、ナポレオンがやってきて--現在の日本の、西から中国が攻めてくるという状況にも通ずるところがありますけれども--西からフランスが攻めてきて、それでドイツは、それまで神聖ローマ帝国というかたちでまとまっていたのですけれども、それがなくなってしまって、バラバラになった。まあ、日本でいったら、中国が攻めてきた結果、東京と大阪と北海道と全部別の国になっちゃって、そして、日本という国がなくなっちゃったという、そういうような感じの悲惨な状況だったんですよね。ですから、そういう状況の中にあって、「ドイツという国をつくりたい」という、そういう思いがグリムの根柢にあったのですよね。

昨今の憲法学者について、先ほどM先生が「売国憲法学者」とおっしゃってましたけれども、本当にねぇ、私も研究室で個人的にお世話になった方々がおりますのであまり悪口を言いたくはないのですけれども、特に最近の憲法学者の滅茶苦茶ぶりには目に余るものがありまして、やはり私としても一言述べておかなければならないと思っています。

そもそも学者というのは根柢に、このグリムの場合もそうですけれども、目的があって学問をやっているんですよね。やはり、国を愛して、この場合だったら、そもそも「国をつくりたい」という思いがあって、それで学問を一生懸命やっているわけで、学者というのは、本来的に愛国的なものなんですよね。ですから、「売国憲法学者」というのは、「熱い冷酒」とか「嘘つきの正直者」と同じ一種の概念矛盾で、彼らはそもそも「学者」ではないんじゃないかと、そういう風に言わざるを得ないのですよね。学者としての本来のあり方に反しているわけですから。私の師匠の長谷部恭男先生も、最近露出が多くなっておられますが、あの先生も、集団的自衛権に関しては違憲と言ったりするわけですけれども、結局、憲法解釈というのは、根柢にある価値観、物の考え方、政治的主張というものを《憲法解釈》というかたちで述べているだけなので、「集団的自衛権は違憲」と言ってみても、「集団的自衛権反対」と言っているのと、あまり変わらないんですよね。「違憲」と言っているのと、「反対」と言ってるのはあまり変わらないし、そもそも中国に対して防衛する気がないということを言っているのと、変わらないわけなんですね。

実際のところ、憲法学者自身も、「憲法解釈というのは一定の政治的主張に過ぎない」ということを多かれ少なかれ自覚しているものなのです。なぜかというと、憲法の学者は、ほぼ間違いなくケルゼンという学者の書いたものを読んでいるわけなんですね。ケルゼンというのは、オーストリアの学者ですけれども、この人は何を言ったかというと、「法解釈というのは、その根柢にイデオロギーがある」ということを明確にして、法学すなわち「法の学問」(法の科学、「SollenのSein」)というものと「法の実践」(「SollenのSollen」)というものを分けなきゃいけないということを主張したんですね(法学を「純化」するという意味で《純粋法学》(reine Rechtslehre)という)。私はその考え方には反対なんですけれども、我が国の憲法学界の中では、ケルゼンというのはものすごい人気があるんですよね。「法の科学」と「法の実践」を区別するというのは、まあいろいろな理解の仕方がありますけれども、例えば樋口陽一先生という、先ほどM先生のお話の中で「売国憲法学者」の一人として出てきた方ですけれども、あの先生なんかは、《学問は学問で真面目にやりますけれども、それとは別に私の思想信条で左翼の政治活動はガンガンやらせてもらいますよ》ということで、ある意味開き直った理解をされています。やや長くなりますが、樋口先生のお説を読んでみましょう:

「認識と評価、科学と思想の関係という問題は、およそ科学一般について問題となるが、法学の場合には、それにくわえて、特殊に法学的な局面として、「科学学説」と「解釈学説」の関係の問題となってあらわれる。その際、〔…〕法学上の概念ないしそれを用いて構成される命題は、ひとつのものが「科学学説」と「解釈学説」にまたがって機能せしめられるのがむしろ普通であるために、こうした両面機能性という問題に特に注意を払わなければならない。〔…〕
 〔…〕例えばある憲法構造が議会統治制でなく議院内閣制であると確定することは、たしかに科学学説の問題であるが、普通は、そうなると、今度は、その憲法が議院内閣制をとっているという見方に基いて、諸条項の解釈学説がくみ立てられる、という関連になってくる。
 そういう事情のもとで、しばしばおこなわれるのは、もっぱら解釈学説に役立つかぎりで、本来は科学学説にあたるはずの仕事をする、という単純直結論か、それとも、科学学説にたずさわるだけで解釈学説へのはねかえりには無頓着という単純峻別論かであるが、そのほかにもう二つ、自分の解釈学説の説得力を損うようになる科学学説を説くことはあえておこなわないという、自覚的な結合論と、科学学説の場面での認識行為をそれとして貫くが、そこから得られた科学学説〔…〕とはあえてちがった解釈学説〔…〕を主張する立場、すなわち批判的峻別論がありうる。ただし、この最後の立場は、解釈学説という土俵のうえでは、説得効果がいちじるしく減殺されることにならざるをえない。認識の問題としてはこの憲法はAの制度をとっているのだが、解釈の問題としてはそれをBの制度として解釈する、と自ら公言するわけであるから、〔…〕解釈学説としての説得力はいちじるしく低下する。そして、そのために解釈学説としての存在意義が発揮できなくなった、と判断された場合には、もっぱら立法論の主張として、または、所与の実定法体制全般に対する批判の主張というかたちで、実践的主張が展開されることになるであろう。以上は、認識という行為についての提言としての峻別論に関することであるが、それと対応的に同様なことが、実践的評価についての提言としての峻別論に関しても、あてはまる。
 ここでも、解釈学説と科学学説をはじめから区別しない単純直結論、両者を分けっぱなしで、それらの峻別を主張することによる解釈学説へのはねかえりを考慮に入れない単純峻別論のほか、二つの立場がありうる。つまり、自己の解釈主張はあくまで自分の実践的提言なのだということを自覚しつつ、しかし、解釈学説の説得力をへらさないためにあえてそのことを明言せず、認識命題と結びつけたかたちで解釈主張をするという、自覚的な結合論、および、解釈学説を認識の名において説いてはならぬということを明言して峻別論の立場をつらぬくと同時に、そう明言することによる付随的効果として解釈学説の説得力が低下することに対しては、実践の次元で別個にこれを打ち消す行為をするという、批判的峻別論である。そしてまた、ここでも、最後の立場は解釈学説が「科学的」「客観的」ではなくて「主観的」なものでしかありえないという自分の素性を、いわば種明かしすることとなるから、解釈主張の土俵のうえでは、大いに説得力を失うことを覚悟しなければならない。」(樋口陽一『近代憲法学にとっての論理と価値』23頁以下)

そして、彼はそれを承知の上で《批判的峻別論》を採ることを明らかにしつつ、「個人の尊厳という価値すらも、科学の名において教壇から説くことはできないという峻別論を採るとともに、しかし同時に、そうした峻別を説くことによって予想される附随的効果〔…〕に対しては、それを打ち消すのに役立ちうるような評価的立場をとること、である」と述べています(同25頁)。

つまり、ややもってまわった言い方ながら、《大学の「教壇から」の学術活動(「法の科学」)とは別次元の活動として、バリバリの政治活動(「法の実践」)をさせていただきますよ》ということを、ここではっきりと表明しているわけです。だから、あの先生は、左翼の政治集会にどんどん出かけて行って、そこでがんがんアジ演説をするわけです。こういった政治活動(「法の実践」)について、樋口先生は、「そのいとなみは、それを意識的に理性的な土俵のうえでおこなおうとするかぎり、科学ではないにしても学問の名になお値するものといってよいであろう」と苦し紛れの言い訳をしていますが(同25頁)、まったく説得力を欠いています。こんなの学問でも何でもありません。そればかりか、そもそもケルゼンの母国語であるドイツ語では、「科学」(Wissenschaft)と「学問」(Wissenschaft)は同一のものを指しますので、「科学」と「実践」を一生懸命に峻別しようとしてきた彼の努力は、この苦し紛れの迂闊な一言により、一瞬で瓦解して水泡に帰することになります。

まぁ樋口先生などはかなり極端な例ですけれども、いずれにしても、「法の科学」と「法の実践」を分けようというケルゼン的な考え方は、宮澤俊義先生以来、憲法学における論文の書き方なんかにも大きな影響を与えているわけです。つまり、学問は学問で、自分の都合が悪いことであっても、それは論文には書きますよと、だけど最終的には、「俺はこう思う」といって自分の政治的な立場を主張します、と、その最後の部分が「法の実践」だということです。だから、この間名前が出ていた芦部信喜先生の論文なんかを読んでもそうなんですけれども、割と正直なことが途中書いてあるんですよね。自分の主張にとって都合の悪いような、例えばフランスのこういう学者がこういうことを言っているというのが割と正直に書いてあって、結構びっくりするのですよね。だけど、結論的には「俺はこう思うんだ!」って言って、力づくでグッと締めるというような終わり方なんですよね。

皆さんが憲法を勉強するときに、法学部の学生や司法試験受験生なんかもそうですけれども、いろんな人が《教科書》というものから入ってしまうんですね。あれはあんまり良くない。まぁ、良くないといってもなかなか難しいんですけれども。なぜかというと、先ほど述べた、論文の結論の「俺はこう思う!」っていう部分を寄せ集めて作ったのが、いわゆる《教科書》、《体系書》というものだからです。だから、それを読むと、何となく学問をやっているような気分になるのですけれども、実際のところはその人の政治的主張を読んでいるのとあまり変わらないのですよね。ですから、むしろお薦めしたいのは、論文を読むことです。戦前のものもすごく良いし、戦後のものも、もちろん結論は偏っているのだけれども、途中のプロセスは読んでそんなに損になるものではないですね。それに対して、やっぱり教科書はあんまりお薦めできないですね。そして、教科書をさらにコンパクトにした《新書》で出てるものとか、ああいうものはもう最低最悪ですね。ああいうものは読まないほうがいいです。

Gさん「そう言われても、ぽっと入ってきて何をやるかっていったら何もわかんないですよ(笑)」

う~ん、そこがまぁ難しいところですけれども、そのオルタナティヴというか、代わりになるような入門的なお話をここでご提供できればいいな、ということで、頑張ってお話しさせていただきます。

グリムの話に戻りますけれども、先ほど神聖ローマ帝国の話をしたので、まずその話から始めていくのがよいかなと思います。まぁ当時のドイツのことを考えると、いかに我々の状況が恵まれているか--もちろん国内に左翼がたくさんいて、我々として困っていたりはしますけれども--当時のドイツの囲まれた状況に比べたら、やっぱり我々は恵まれた状況にあるなぁとつくづく思うんですね。この地図をちょっと見てください。


もともと神聖ローマ帝国がどういう風に成立したかといいますと、もともとフランク王国と呼ばれるフランク人の国、ゲルマン人の中の一部族のフランク族というのがいて、そのフランク王の国だったから「フランク王国」と言ったんですよね。そのフランク王国が、今のドイツだけじゃなくて、今のスイスであるとか、オーストリアであるとか、あるいは、イタリアのほうまで領土をもっていて、我が国の戦国時代で言ったら天下統一したら京都に上っていくような感じで、ヨーロッパではイタリアのローマがそれにあたる所だったんですよね。そこにはローマ法王という人がいて、我が国でいう天皇陛下にあたる人が、ヨーロッパではローマ法王だったわけですよね。それで、ローマ法王のところに行って、ローマ法王から「お前が皇帝になりなさい」ということで戴冠する、ということで、「神聖ローマ帝国」というものが成立したんですよね。ところが、もともとそのドイツとスイスとオーストリアとイタリアにわたっていた領土が、だんだんと、大体3つぐらいに分かれていきます。ドイツ国王というのと、ブルグント国王というのと(ブルグントというのは、大体今のスイスとか、南仏プロヴァンスとか、あのあたりです)、それからイタリア王(ランゴバルド王)の、3つの国に分かれて、その3つの国の王様をドイツ国王がすべて兼ねるというのが、神聖ローマ帝国の基本的な考え方、領土のあり方だったんですね。このあたりの経緯は少し複雑ですので、資料を読んで叮嚀に追ってみましょう:

「叙任権闘争以降、「王国」〔regnum〕には徐々に「ドイツ人の」という形容が付くようになっていく。8世紀末から資料に現れる「ドイツの(theodiskus, teutonicus)」という語は、もともとたんに「民衆の」というほどの意味であったゲルマン古語に由来し、それが、ロマン語(ラテン語起源のイタリア語やフランス語)とスラヴ語の両言語から区別された言語(ドイツ語)をさすために用いられるようになったものである。10世紀にはドイツ語を喋る人々がドイツ人たち(teutonici)とよばれ、ドイツの地(teutonica terra)という用法も現れる。1000年ごろには、ドイツ語、ドイツ人、ドイツの地という表現が、言語を異にする人々との接触の多いところ(とくに言語の境界地帯)で、接触の体験の多い人々(とくに聖職者や貴族)によって、しばしば用いられている。
 この「ドイツ」と「王国」が結びついて「ドイツ王国(regnum teutonicum)」なる概念が成立するのであるが、11世紀初めからイタリアに現れるこの表現は、1074~75年に、叙任権闘争の一方の当事者たる教皇〔=ローマ法王〕グレゴーリウスVII世によって政治的意味を与えられることになった。すなわち、地上におけるキリストの代理人としてあらゆる王国の上の封主たろうとしたグレゴーリウスは、かつて世界全土(orbis terrarum)に及んだローマ皇帝権の衣鉢を継いで卓越した地位を主張しようとする皇帝ハインリヒIV世に対抗して、ハインリヒの「王国」が「ドイツ」に限定されたものにすぎないことを明示するために「ドイツ王国」という呼称を用いたのである。ハインリヒはむろんこれを拒否したが、「ドイツ王国」なる名称は、やがてそのような政治的脈絡を離れてドイツ人自身に受け入れられていった。
 その結果、ドイツ王国とローマ帝国の概念的区別が明確化される。ローマ帝国はドイツ王国、イタリア(ランゴバルド)王国、ブルグント王国から成り、ドイツ国王=ローマ皇帝がイタリア国王、ブルグント国王でもある、ということになる(いくつもの王国〔Königtum〕およびその国王〔König〕の上に帝国〔Reich, Kaiserreich〕とその皇帝〔Kaiser〕が位置づけられるというのが、その後のドイツ人の概念的枠組になる〔…〕)。」(村上淳一/ハンス・ペーター・マルチュケ『ドイツ法入門』(改訂第5版)3頁以下)

そして、その後、イタリアもブルグントも神聖ローマ帝国から独立してしまって、その結果ドイツ王国だけが残って、グリムの生まれた頃には既に《神聖ローマ帝国=ドイツ王国》となっていたわけです(これを「ドイツ民族の神聖ローマ帝国」(Heiliges Römisches Reich Deutscher Nation)といいます)。しかし、そこで通用しているのは、相変わらず(という言い方は後述の通り正確ではないのですが)《ローマ法》だったんですね。ローマ法というのは、古代ローマ(共和政ローマ・ローマ帝国等)において通用していた法で、「神聖ローマ帝国は古代ローマの後継国である」と考えられていたので、そういう建前の下に、神聖ローマ帝国でもローマ法が通用していました。もっとも、歴史的事実としては、神聖ローマ帝国でローマ法が適用されるようになったのはかなり後のことであり、この「ローマ法の継受」(Rezeption)と呼ばれる現象は、歴史的事実としてもう少し複雑ですから、この辺りの事情についても、叮嚀に資料を読むことにしましょう:

「ドイツ法の存在様式を根本的に規定している第一の歴史的条件は、ローマ法の継受という事象である。ローマ法は、言うまでもなく、古代ローマ国家において発展を遂げた法であるが、そのローマ法の後代への伝達を可能にしたのは、東ローマ皇帝ユスティニアーヌスの下でのローマ法の法典化事業であった。ユスティニアーヌスは、帝政期の諸立法を法典に収録したばかりでなく、共和政期末から帝政期初頭にかけてのいわゆる「古典時代」の法文を抜粋・編集し、ローマ法黄金期の優れた法的営為の証を法典の中に定着させた。「ローマ法大全(Corpus luris Civilis)」と呼ばれたこのユスティニアーヌスの法典は、東ローマ帝国の国力低下とともに一旦は歴史の舞台から忘れ去られるが、12世紀の北イタリアで再発見されて、まずは文献学的研究の、次いで法学的研究の対象とされ、遂には中世イタリアの都市国家の法実務に適用されるようになる。法典に収録された法文の断片の膨大な寄せ集めは、一千年もの時を隔てた現実の世界にそのまま適用できる代物である筈もなく、望ましい結論を獲得するためには、その法文に様々な形で細工を加えることがどうしても必要であった。中世イタリア法学は、まさにそうした込み入った解釈技術を発展させていた。
 そうした法解釈技術は、ドイツからイタリアの大学に留学した学徒達によって、ドイツに持ち帰られる。彼等は、ドイツの各地で裁判官、行政官などの役職に就き、留学で学んだローマ法解釈技術をドイツの法実務に適用し始める。ローマ法は、そうした過程を通じて、ドイツに継受され、ドイツ全土に共通して通用する法、すなわち「普通法(gemeines Recht)」の最重要な法源となったのである。それは単に「ローマ法大全」という法典を普通法の法源として採用した、というような形式的な事態なのではなくて、膨大な法文の集積を現実の要請に合わせて解釈し、適用するという、高度に専門的な技術の総体が移入されたことを意味する。
 別の側面から見れば、ドイツにはそれまでそうした高度に専門的な法技術は存在しておらず、逆にローマ法の継受によって初めてドイツに専門技術の担い手としての法律家集団が登場したということなのである。この専門的法律家集団の欠如こそが、ドイツの地でローマ法の継受という特有の事態を生じさせた決定的な要因である。すなわち、フランスではローマ法の影響下にあった地域が南部にあったにもかかわらず、北部の慣習法地域ではその慣習法の担い手としての法律家集団が育ち、各地方の慣習法を調査し、成文化しており、ローマ法の浸透をくい止めることができたし、イングランドでは国王の裁判所で活動する法律家達がコモン・ローを維持・発展させて、時代の要請にも充分に応えていたため、自己の権力基盤の強化のためにローマ法の導入をはかった国王の努力も実を結ぶことはなかった。それに対してドイツでは、ローマ法の継受に至るまで、法は専門家が担うものになってはいなかった。
 そのことを何よりも顕著に示すのは、ドイツ古来の裁判の形態、とくにそこで採用されていた判決非難(Urteilsschelte)の制度である。ドイツの諸部族では、部族の首長とそれに従う戦士たちが集う人民集会そのものが裁判所としての機能を果たした。そこでは首長自らが裁判長となったが、その権限は訴訟指揮に限定されており、判決の提案は判決発見人に委ねられた。判決発見人が提案した結論に、裁判集会に参集した者全員が賛同すれば、判決が有効に成立する。裁判集会の参加者一人ひとりは、その判決提案に納得できない場合には、判決を非難する権利を有した。判決非難に際して、非難者は非難と同時に自らが正しいと信ずる判決案を提示しなければならない。判決非難によって、非難者と、判決発見人との間に法的争訟が成立し、その決着は、法廷決闘や宣誓によって付けられたと推測される。
 この判決非難については、19世紀後半の著名な法史学者ハインリヒ・ブルンナー(Heinrich Brunner)の、「判決非難は判決発見人の意見に対してではなくて、意図に対して向けられる」という説明が今日なお援用される。つまり判決非難は、判決発見人が本来は別の判決を提案すべきことを承知していながら、故意に法を柾げて誤った判決を提案した、ということに向けられたのだ、というのである。これは、裁判集会に参集した人々、言い換えれば当該法共同体の構成員のすべてが、何が法であるのか、ということについて共通の理解を有している、ということを前提にしている。つまり、このような法共同体においては、法は、法共同体構成員の全員が共有する法的確信というかたちで存在するに過ぎず、それを超えた専門的な法的観念は、およそ存在の余地がなかったのである。判決発見人は、ゲルマン世界における最初の「職業的裁判官」(ハインリヒ・ミッタイス(Heinrich Mitteis))ではあるが、法的見識に関して何らの特別の権威を認められず、常に法共同体構成員一人ひとりの非難に曝されていた。
 このような状態では、専門家の担う法的営為は発展困難であり、ローマ法というまったく異質の専門的学識法の流入に抵抗する、固有法の担い手としての専門法律家集団は育たないままだったのである。ドイツの地で、他の西欧諸国とは異なってローマ法の継受が行われたのは、まさにこのような事情によるのであった。」(海老原明夫「ドイツ法」(北村一郎編『アクセスガイド外国法』151頁以下)154頁以下)

そういう訳で、神聖ローマ帝国の中からイタリアやブルグントが独立してドイツだけが残った「ドイツ民族の神聖ローマ帝国」においては、ヴォルテール流に言えば、まったく「ローマ」的な要素がなくなったにもかかわらず、摩訶不思議なことにドイツ人たちが《ローマ法》を借用して使うようになったわけです。ローマ法というのは、古代ローマでできた法ですから、イタリアとか地中海とかあっちのほうの法律であるわけです。ということは、「ドイツの国なのだけれども、通用している法律はローマの法律である」ということで、これはもう--我々で言う「押し付け憲法」ではないけれど--「借り物憲法」だし、「借り物民法」だし、全ての法律が「借り物」だったわけです。要するに、《ドイツらしさ》の要素が全くない法律だったわけなんですよね。それに対して、「おかしいじゃないか!」ということ言い始めたのが、このグリムだったわけです。「やっぱりドイツという国なんだから、ローマ法というあの「借り物民法」を克服して、ドイツの、我々自身の《自主民法》を打ち立てるべきだ」というのが、グリムの考え方だったんですね。

いま憲法ではなく民法のことだけを申し上げましたけれども、このことには理由がありまして、実は、もともと《ゲルマニスト》というのは、《ロマニスト》、すなわち《ローマ法学者》に対するアンチテーゼ、反対概念として唱えられた概念だったのです。「ローマ法をそのまま使いますよ」と主張する人たち(=ロマニスト)に対して、「ローマ法ではなくゲルマン法を使うべきだ」と主張するのが、ゲルマニストだったのです。そして、これは主に民法に関する論争だったのです。なぜかというと、もうこのときにはナポレオンの所為で「神聖ローマ帝国」そのものがなくなってしまっていて、国というものが存在しない以上、憲法というものもまた存在し得なかったからです。

もっとも、それに加えて、憲法のほうでは、17世紀くらいから、だんだんと、ローマ法とは異なるドイツ独自の《帝国国法論》が成立し、或る程度「借り物」性を克服できていたという事情もあります。逆に言うと、もともと神聖ローマ帝国が存在している当時から、憲法よりも民法のほうが「借り物」度合いがひどかったということです。この点についても、資料を読んで確認してみましょう:

「帝国国制の法的把握は、一七世紀に入るまではローマ法の諸概念によって試みられるにとどまったが、 一七世紀の学者へルマン・コンリング(H. Conring)によって、ローマ法から解放された独自の帝国国法論が歴史的な方法によって展開されることになった。すなわちコンリングは、帝国の国法に関するかぎりローマ法ないしカノン法が継受されたことを承認せず、ドイツの慣習と帝国の伝統が帝国の現実を規定していると見て、そのドイツ国法をとらえようとした。そのさい、かれは、当然のことながら法律学(継受されたローマ=カノン法に関する学問)に依拠することをやめ、アリストテレスや、タキトゥスや、マキアヴェリや、ボダンや、ベイコンを参考にして、これらの手本から歴史的な問題設定と、それによる国制記述の方法を学び、帝国の基礎にあるratio status〔状態の理〕--経験的な現実の国制、とりわけ非ローマ的・ドイツ的な諸侯の自由(Fürstenlibertät)--を認識しようとした。そのさい歴史は、国制の発展をつないでゆく環を示す役割を果したわけである。それに反して、「哲学的考察ないし神学的啓示によってもたらされるような普遍的な倫理や秩序は一つもない」、とされた。このようなコンリングの歴史主義的帝国国法論と、自然法論者プーフェンドルフ(S. Pufendorf)の国法理論とを結合し、後世に大きな影響を及ぼしたのが、クリスティアン・トマジウス(Ch. Thomasius)であった。トマジウスは、ドイツの諸大学のなかで--一六九〇年から一七二八年までかれ自身が教壇に立った--ハレ大学がはじめて国法(Ius publicum)の講義を開設し、非カトリックの多くの大学に模範を示したことを高く評価する。国法を法学の一分野として承認することを拒否する見解、とくにそれが歴史学または政治学に属するという理由でこれを排斥する見解に対して、トマジウスは、この学問がやはり法的素材を扱うものであり、法の解釈を任務とするものである以上、法律家によって担当さるべきことに疑問の余地はない、と主張する。だが、それと同時に、トマジウスは、国法論者にとって真の歴史すなわち帝国国制史の研究が欠かせないものであることを強調するのである。トマジウスによれば、歴史のみが法律の起源、精神、意図、さらに場合によってはその変化を明らかにしうるということは、私法についても国法についてもあてはまるが、国法の場合は国家的な諸関係への依存度が大きく、したがって歴史研究の必要は大きい、とされる。こうして、自然法論者トマジウスは、国法が自然法に服するものであることを認めながらも、それがその時々のstatus reipublicae〔国の状態〕に対応して内容を変化させてゆくものであることを強調した。このように法の可変性=実定性の承認を本質的要素とする歴史主義が、帝国国法論との結びつきを保ちながら、ハレ大学からゲッティンゲン大学に中心を移して、一八世紀の後半にめざましい展開を見せることになるのである。」(村上淳一『ゲルマン法史における自由と誠実』39頁以下)

これに対して、グリムの生きている19世紀になっても、民法のほうは、相変わらず《ローマ法》という「借り物民法」を使っていたのです。だから、このときに民法をどうするかでロマニストとゲルマニストの大論争になったわけです。

当時、サヴィニーという人がおりまして、


この人ですけれども、このサヴィニーという人は、ドイツの法学者中で最も偉大だったと言われる人なのですが、このサヴィニーが、ロマニストの親玉だったわけなのですよね。「ローマ法をそのまま使うのがいいじゃないか」と。

先程も言いましたけれども、この時代のドイツの学者というのは、みんな愛国者なんですね。そして、このサヴィニーの一番核となる主張というのは、《民族精神》という考え方なんですね。「法は民族精神から生じる」という考え方でございまして、《民族精神》とは一体何かというと、《精神》というのはドイツ語で「ガイスト」(Geist)なのですよね。「ガイスト」とは何かというと、《たましい》ということなんですよね。「お化け」という意味でも使いますけれども、人魂みたいな感じでイメージしていただければいいかと思うのですが、つまり、ガイストというのは魂(たましい)ということでして、《民族》というのはこの場合《ドイツ民族》ですから、要するに《民族精神》というのは、《ドイツ魂》、あるいは《ゲルマン魂》ということなのです。つまり、我々でいう《大和魂》のようなものでして、サヴィニーは、この《民族精神》、すなわち、《ドイツ魂》、《ゲルマン魂》から法が生じると言っているのです。

「だったらサヴィニーも、グリムみたいに《ゲルマン法を使うべきだ》と言うべきじゃないか」という風に思うかもしれないのですが、時系列として申し上げますと、まずサヴィニーが居たのです。そして、実はグリムというのはサヴィニーの弟子の一人でございまして、《民族精神》というサヴィニーの基本的な考え方をそのまま受け継いで、グリムはそれをもっと実直にやった、正直にやったということなのです。サヴィニーの考え方というのは技巧的な部分があって、いろんなことを考えあわせた上で、「ローマ法を使うほうがいい」ということを言ったわけです。当時のドイツというのは、ドイツという国がなくてバラバラだったわけなんですね。プロイセンという国があったりとか、あるいはザクセンという国があったりとか、あるいはバイエルンという国があったりとか、いろんな国があって、その国々で個々に法律を持っていたわけなのです。だから、ザクセンはザクセンでザクセン法というのがあって、プロイセンはプロイセンでプロイセン法というのがあって、バイエルンはバイエルンでバイエルン法というのがあると。要するに、日本で言えば、北海道は北海道で北海道法があって、東京は東京で東京法があって、大阪は大阪で大阪法があるという、そういう状態だったわけなんですよね。その中で唯一、ドイツのどこの国でも共通で使われていたのがローマ法だったのです。だから、ドイツの全土でローマ法と領邦法の両方が使われている状況で、「ローマ法のほうをもっと使え、もっと使え」ということをやっていけば、それによって法が統一されて、ドイツの国が統一できるだろう、というように考えたのがサヴィニーなのですよね。

これに対してグリムは、「それはちょっとおかしいじゃないか」と。(「押し付け」ではないけれども)借り物の、余所の民法を使って、それで国を統一するってのはおかしいだろ、ということでサヴィニーに対して反旗を翻すわけなんですよね。それで、《ゲルマン法》というものを探し求めて、いろんな人に「家にどういう昔話が伝えられてますか」というようなことを訊いて、そういうことを丹念に調べてまわるわけですよね。それでできたのが『グリム童話』であるし、それ以外でも、彼らはドイツ語の研究もしているので、ドイツや北欧の言語などを丹念に調べて、ゲルマンの言語というのはどういう言語なのかってことを研究したりして、そういうことによって《ドイツ魂》、《ゲルマン魂》、つまり、《ドイツらしさ》、《ドイツ人らしさ》というものを見つけ出していく、学問的に洗い出していくという作業を一番最初にやり始めた人なんですね。だから、我が国で言ったら、さしづめ本居宣長みたいな人だったわけです。

だから、この《ゲルマニスティック》というのは、我が国でいえば《国学》なのです。その国学の大成者として本居宣長がいるように、このドイツの国においてはグリムがいて、だからこそ一番高いお金にグリムが印刷されていたわけですよね。だから、日本でも、10万円札とか作って、本居宣長の肖像を印刷するってのがいいんじゃないかなってことを、思うわけですけれども…

Hさん「安倍さんの肖像ではどうですかね」(一同笑)

安倍首相も、いま《本来の日本の姿》、つまり《日本らしさ》を取り戻すということで頑張っているわけですから、宣長やグリムと同じ志でいることは間違いないでしょう。そういう意味で、最後にみんなで『グリム童話』の序文を読んで、当時失われつつあった《ドイツらしさ》を必死に探し求めたグリムの熱い思いを存分に味わいつつ、第1回目の講義を締めたいと思います:

「天から遣わされた嵐、あるいは他の災いにより穀物がみな地面に叩きつけられてしまったようなときに、道端の低い生け垣や灌木に守られたわずかな地面があり、そこに二つ三つの穂が真っすぐに立っている、そのような様を思いがけず見つけることがあります。その後再び太陽が暖かく照ると、それらの穂はひっそりと誰にも気づかれることなく成長を続け、早々と鎌で刈り取られ大きな貯蔵室に入れられることもありません。けれども、夏の終りにその穂がしっかりと実ると、貧しい善良な手がそれを探しにやってきます。穂に穂を重ね、丁寧に束ねられると、それは畑の立派な麦束よりも大切に扱われ、家に持ちかえられ、冬の間の食物となります。ひょっとしたら、未来のための唯一の種子となるかもしれません。昔のドイツ文学の豊かさに目を向けたときに、実に多くのものがすでにその生命力を失い、それについての記憶さえ失なわれているのに、ただ民謡や素朴な家庭の昔話だけが残っていることに気づくのにそれは似ています。暖炉のまわり、台所のかまど、屋根裏への階段、今でも祝われている祭日、静けさの中の牧場や森、そして何よりも濁りのない想像力が、それらを守り、時代から時代へと伝えてきた生け垣となったのです。今、この昔話集を概観した後で、私たちはこのように考えます。〔…〕
 これらの昔話を書き留めるのに、今は、まさに適切な時であったように思われます。なぜなら昔話を語り継ぐべき人々が、ますます少なくなっているからです。〔…〕昔話が息づいているところでは、人はそれはいい話だとか、悪い話だとか、詩的であるとか、面白味がないとか、考えることはありません。人は、話を知っていて、話を愛しています。なぜなら、そのように話を受け取っているからです。そして、昔話を楽しむのに、何の理由も必要としません。そういった風習は素晴らしいものです。その点でも、この文学は、他のあらゆる不滅のものと共通しています。それゆえ人は、昔話に反対する意見があるにもかかわらず、昔話を愛好せずにはいられないのです。また、容易に気づくことですが、昔話は、文学に対する旺盛な感受性のあるところに、あるいは、いまだ生きてゆく中でさまざまなあやまりによって、想像力のかき消されていないところにのみ、存在します。私たちはここで、前に述べたのと同じ意味で、昔話を讃えたり、昔話に反対する意見に対して擁護しようとしているのではありません。その存在そのものが、守るに値するのです。これほど多様に、そしてくり返し新たに楽しませるもの、心を動かし、教えを与えるものは、それ自身の中に必然性を備えており、あの永遠の泉、すべての生きるものを露で濡らし、閉じた小さな葉の中のほんのひとしずくさえが曙の光に輝くあの永遠の泉より、湧き出たものに違いありません。
 私たちには心から幸せそうに見える子どもたちの清らかさと同じ清らかさが、この文芸にはしみ透っています。昔話も子どもたちも、いわば青白い、けがれのない、きらきら輝く同じ目をしています。(小さな子どもたちはそういう自分の目に指をつっこむのが好きなものです。)手足などがこの世の務めを果たすにはまだ華著でひ弱であるのに対し、彼らの目はこれ以上成長することはありません。たいていの状況は非常に単純で、日常生活のなかに見つけうるものです。しかし、すべての実際の状況と同様に、それは常に新しく、人の心を打ちます。〔…〕これらの昔話から良い教訓が生まれたり、現在への応用が可能であるとしたら、それはこのような性質に基づくものです。それは昔話の目的でもなければ、そのために昔話が生み出されたのでもありません。けれどもそれは、健やかな花から良い果実が人間の手が加わらずとも生ずるように、昔話の中から生まれたものです。真の文学とは、けっして生活と無関係ではありえないのです。なぜなら、真の文学は生活から生じ、生活に帰るからです。雲が大地を潤した後、生まれたところへ戻るように。〔…〕」(グリム兄弟『初版グリム童話集1』(吉原高志・吉原素子訳)9頁以下)

今回は、入門的な話の半分ぐらいということで、これくらいでお話を切り上げさせていただいて、後はM先生にバトンをお渡しできればと思います。どうもありがとうございました(拍手)。
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たいへんご無沙汰しております。かなり久しぶりの投稿となってしまいましたことを、お詫び申し上げます。

ご存知の通り、昨年末の衆議院の解散・総選挙において我が次世代の党は大敗し、私が支部長をつとめていた埼玉十三支部も含め、埼玉県内の拠点はすべて消滅するという苦難の時期を過ごしました。しかし、この度、或る篤志家の方が、我が次世代の党のために無償でミーティングルームをご提供してくださることになり、党本部の「連絡所」として埼玉の拠点が復活することになりました。党員として、本当に喜ばしいことです。JR土呂駅(大宮からひと駅)の東口駅前の非常に便利な場所です。

今月24日の午後2時からは、IFCON(イフコン)ミーティングを兼ねた開所式が開催され、国史研究家の小名木善行先生に『古事記』についてのご講演をいただきます。もちろん、私も参加する予定でおります。先週土曜日の時点で、すでに50席中30席強は埋まっているそうですので、是非お早めにお申込みください(お申込み方法は上記画像参照)。

◇ ◇ ◇


さて、せっかくの久しぶりの投稿ですので、昨年末の総選挙から現在にかけての近況を、少しご報告させていただきたいと思います。

まずは、昨年の衆院選におきまして、有権者の皆さまから1万7254票もの多大なるご信託をいただきましたことに、あらためて心よりお礼を申し上げたいと思います。本当にどうもありがとうございました。

あの選挙の当日、東京新聞さんでは、

「次世代新人の中村匡志氏(37)は久喜や春日部、蓮田市内の五カ所で街頭演説をした後、猛烈な寒さのなか、最後は久喜駅前でマイクを握った。「最後の演説に際し、まずスタッフと支援者に心からお礼したい」と深々と頭を下げた後、自主憲法制定の必要性などを力強く訴え、「愛する日本のため命を懸けて働きます。次世代の党と中村を、よろしくお願いします」と拳を振り上げた。」(東京新聞平成26年12月14日

と報道してくださったようですが、この「まずスタッフと支援者に心からお礼したい」という言葉は、まさに心の底からこのときの気持ちが溢れ出たものでした。この選挙においては、「日の丸を高らかに掲げたい」とか、「我が国の伝統である《思いやり》の統治(=国体)の素晴らしさを演説で訴えたい」とか、「お仕事で疲れている皆さんがお休みになっている土日の早朝は住宅地で騒ぎ立てないようにしたい」とか、そういう私がイメージしてきた選挙戦を、まさにそのイメージ通りに行うことができました。それはやはり、スタッフの皆様のご理解がなければ、絶対にそういうことはできなかったのであり、そういう意味で、選挙戦を締めくくったあの瞬間には、何よりもまず、スタッフの皆様、そして、お手伝いや応援をしてくださった支援者の皆様への感謝の気持ちでいっぱいでした。

思い起こせば、人生で初めての選挙(平成24年)では、突然党本部からお電話をいただいて、ドイツから急遽帰国し、大阪で面接をして、そのまま選挙区が決まって公認発表、という本当に慌ただしい感じでしたので、まったくのゼロから12日間ですべてを準備して選挙戦を戦ったのでした。正直よく乗り切ったものだと思いますが、公示を迎えるまでの12日間は文字通りまったく寝る時間がなく、人間というのはこんなに何日も徹夜できるものなのかと自分でも驚いたものでした。

それに比べたら、昨年末の選挙戦は準備もしっかりとできましたし、党支部という小さいながらも熱い思いをもった同志たちの組織を基盤に選挙戦を戦えたわけです。また、ありがたいことに、埼玉県神社庁様よりご推薦をいただけたのをはじめ、さまざまな方々から陰に陽にさまざまなご支援・ご協力をいただくこともできました。さらに、党からいただいたご支援も本当に手厚いものでした。立派な出陣式もさせていただきました。報道でも、選挙期間に入る直前に埼玉新聞さんに一面カラー写真入りで私の話をほぼそのまま掲載していただくことができました。


中村匡志埼玉新聞一面


このように振り返ってみると、本当にこんな恵まれた選挙戦はなかったと心から思います。しかし、私の不徳により大敗北を喫し、得票率も9.6パーセントと、10パーセントをわずかに下回ってしまったため、法律の規定により、「供託金は全額没収、選挙費用については公費支給なし(全額自己負担)」という、まったく予想もしていなかった想定外の結果となりました。手厚いご支援をいただいた党に対しては、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいでした。そして、私自身も、数百万単位で想定外の出費となったため、正直申し上げてかなり財務的なダメージは大きかったです。

そのような次第で、選挙終了後には直ちに党支部の事務所を引払い、フェイスブックで

「皆様、今回の選挙戦では多大なるご支援を賜りまして、誠にありがとうございました。心より感謝申し上げます。御蔭様で1万7254票(得票率9.6%)をいただきましたが、及びませんでした。力及ばず、本当に申し訳ございませんでした。

得票率が10%を下回ったため、600万円の供託金は全額没収となり、さらに、数百万円の選挙費用もすべて自己負担となりました(公費負担なし)。今後しばらくは、生業のお仕事に専念することといたします。

次世代の党も壊滅状態となりましたので、いずれにしましても政治活動のほうは一区切りつけなければならない時機が来たように思います。

これまで当方の政治活動に本当に多くのご支援を賜りまして、どうもありがとうございました。この2年間、素晴らしい出会いをたくさんいただき、本当に素晴らしい時間を過ごすことができました。皆様には、感謝の気持ちで一杯です。

今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。」


と書き込みました。

私はもともと、平成24年当時、売国民主党政権のために我が日本国が危機に瀕しているのを目の当たりにし、居ても立ってもおれず、国のための捨て鉢となろうと決意して維新の会の公募に応募し、政治の世界に入りました。また、その選挙の結果、民主党政権から自民党政権に戻りましたが、私が物心のついたころから自民党政権というのは村山談話・河野談話をはじめとするさまざまな売国行為を働いてきましたので、自民党政権に戻ったからといって日本国の危機が解消するとは到底思えませんでした。ですから、私は引き続き日本を守るために国政への挑戦を希望し、当時の日本維新の会の支部長を拝命しました。

その後、私自身の政見の深まりや分党等の経緯があって、次世代の党の支部長となり、その支部長としての職責から昨年末の選挙にも出馬し、全力を尽くして戦ったわけですが、実際には、安倍政権は私の予想を遙かに超えてよくやってくれていて、我が国の危機はひとまず去ったといえる状況になったのです。そう考えると、私が国のための捨て鉢にならなければならない理由はもはやなくなったように思いました。

そういう次第で、私がもともと政治活動を志した理由も解消しましたので、もとのビジネスの世界に帰ることにし、爾来、善良な一公民として安穏と暮らしていました。

それからもう一つ、このような選択をした理由として、「家族を大切にしたい」という思いもありました。あの2年間のように、経済活動・政治活動・社会活動の3足の草鞋を履いていると、どうしても仕事ばかりで家には毎日深夜の帰宅、休日も家にはほとんどいないということになります。もちろん、こういう生活はそれはそれで張りがある素晴らしい生活なのですが、やっぱり見えないところで疲れは溜まっていきますし、何よりも寂しい思いをさせてしまう家族に大きな迷惑を掛けました。ですから、政治活動と社会活動には一度区切りをつけて、これまで迷惑をかけた分も含めて、何よりもこれまで支えてくれてきた家族に恩返しをする生活をしたいと考えていたのです。

そもそも、自分の人生を振り返ってみると、情けないことに、あまり家というものを大切にした記憶がないのです。しかし、次世代の党の支部長になって、日本の伝統に対する理解を深めていくにつれて、だんだんと「これではいけないな」と思うようになりました。「こういうふうに家族をないがしろにしているのは、人間として何か間違っているのではないか」、そういう風に思うようになったのです。人格的に尖っていたものが丸くなったと言っていいかもしれませんが、そういう風に思うようになった大きなきっかけは、明治天皇が公民としての徳目を宣示せられた「教育勅語」に親しんだことでした。すなわち、教育勅語には、

「父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ」

と、《家族を大切にする》という徳目が、他のどの徳目にも先行して、いの一番に掲げられているのです。つまり、自分が学業を修めて社会や国家のために尽くす(「學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ德器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼ス」)ことも勿論大切であるけれども、それは、まず《家族を大切にする》ということがきちんとできてからにしなさい、ということを教えてくれているのです。

そういえば、現在の我が国の元号である「平成」も、中国の漢代の歴史書である『史記』の「内平らかにして外成る」という言葉から採られたのでしたが、これも同様の趣旨のことを述べたものです。すなわち、『史記』の「五帝本紀第一(舜帝)」には、

「昔、〔…〕高辛氏(こうしんし)に才子八人あり。世、これを八元(はちげん)という。〔…〕舜、〔…〕八元を挙げ、五教を四方に布かしむ。父は義、母は慈、兄は友、弟は恭、子は孝。内平らかにして外成る」

とあり、これが「平成」の由来となったわけですが、これを私なりの解釈を加えつつ訳すと、

「昔、高辛という家には秀才が8人いて、これを「八元」と呼んだ。古代の聖王である舜は、この八元を登用し、5つの教えを天下に広めた。父は道義の心(正しさ)をもって接すること、母は慈悲の心(優しさ)をもって接すること、兄は友愛の心(思いやり)をもって接すること、弟は恭順の心(素直さ)を持って接すること、子は孝行の心(尊び)をもって接すること、これである。この教えが広まることにより、家の中が平和になり、そうなることで、社会が秩序をもつものになった」

ということになります。つまり、私たちが普段何気なく用いている「平成」という元号には、「国民が皆何よりもまず家族を大切にして、そうすることで社会が自然と良い社会になっていく、そんな時代になって欲しい」という深遠な思いが籠められているのです。

また、中国の春秋時代の古典である『大学』にも、

「物格(いた)りて后(のち)知至(きは)まる。知至まりて后意誠なり。意誠にして后心正し。心正しくして后身脩まる。身脩まりて后家斉(ととの)ふ。家斉ひて后国治まる。国治まりて后天下平かなり」

という有名な文句があります。後半部分は「修身斉家治国平天下」という熟語にもなっていますから、ご存知の方も多いでしょう。この言葉には、私は感ずるところがあって、支部の党員手帳にも採用したのですが、これは私の解釈によると、

「何が根本的に大切なのかということが分かれば、そこから自らの知識経験を体系化することができる。自らの知識経験を体系化することができれば、どんな事象に対しても一貫した態度をとることができる。どんな事象に対しても一貫した態度をとることができるようになれば、心を枉げずに正しく保つことができる。心を枉げずに正しく保つことができるようになれば、我が身を平安に保つことができる。我が身を平安に保てるようになれば、我が家をも平安に保つことができる。我が家を平安に保てるようになれば、我が国をも平安に保つことができる。我が国を平安に保てるようになれば、天下をも平安に保つことができる。」

ということなのです。つまり、これも要するに、「自分の家も満足に治めることができずに、国や天下を治めようとするのは、そもそも順番が間違っているよ」ということを教えてくれているのです。

そういう次第で、今年に入ってからは、ビジネスと家族中心の生活を送っています。これは理屈抜きに楽しい生活で、このような安らかな生活を送れることは、本当にありがたいことだと思っています。とりわけ、社会活動をお休みさせていただくにあたって、当方の状況を汲んで寛大なご理解とご海容を賜ったことにつきましては、関係者の皆様に心から感謝しております。財務的なダメージの回復という意味ではまだまだ道半ばではありますが、「斉家」という意味では或る程度目処がついてきた部分もあり、気力もだいぶ戻ってきました。

ちょうどそういう時期にあたり、最近、憲法学者たちが国民の生活を危機に陥れるようなかたちで暴走を始めたのを目の当たりにして、「この点で、いま自分が何もしなくてよいのだろうか」という忸怩たる思いを抱くようになりました。

というのも、実は、私が人生で最初に就いた職業は、憲法学の研究者なのです。そして、私が東大の法学部研究室で助手をしていた時の指導教官が、今回の暴走の狼煙を上げる役目を果たした、あの長谷部恭男先生なのです。そういう意味で、うまく表現できませんが、私としては、自責の念に似た感情(こういう言い方は先生に失礼かもしれませんが、かつての師匠が皆様にご迷惑をお掛けして申し訳ないという感情)と、国民のためには何とかあの暴走を止めなければならないという焦燥の念に駆られた、何とも言えないやるせない複雑な気持ちになりました。

私の見るところ、憲法学者というのはいわゆる《戦後レジーム》の最も強固な擁護者であって、しかも、現在の憲法学の中にはこの《戦後レジーム》を解除する機序がもはや全く働いていません。働いていないというより、むしろ《戦後レジーム》を強化する機序に満ち満ちている。だから、この《戦後レジーム》の洗脳を解除するためには、一旦憲法学というものを離れなければならないわけです。私はたまたまあの世界から抜け出し、その後政治の世界に入っていろいろな方の教えを受ける機会がありましたから、あの《戦後レジーム》の洗脳を解除することができました。だから、私はいまあらためて憲法学の文献を読み返してみても、ほとんど足をすくわれずに済むのですが、憲法学者というのは憲法学を仕事にしていますから、憲法学を一旦離れるなんてことは普通できないわけです。だから、知らず知らずのうちに《戦後レジーム》の底なし沼にどっぷり浸かって抜け出せなくなるわけです。

勿論、それでも、一部の慧眼の方々はおそらくこの構造を見抜いているはずです。憲法学者が好んで参照するドイツの憲法学を先入観なしに見れば、現在の日本の憲法学のおかしさに少なからず気づくはずですし、あるいは、日本の憲法学史を調べて戦前と戦後の憲法学を注意深く比較すれば、やはり現在の日本の憲法学のおかしさに気づくはずなのです。ところが、私も末席に座っていたこともあるあの憲法学界というのは、ひどく閉鎖的なムラ社会なのです。自由な言論があるようで、ない。「精神的自由権」というものの価値を、あれだけ声高に主張しているにもかかわらずです。私はこれが厭で厭で仕方がなくてあの業界から足を洗ったわけですが、もしあの中に居てしかもこの構造に気づいている方々がいたとすると、その方々は、次の2つの行動のいずれかをとるように思います。すなわち、割り切って成りきるか、あるいは、黙るか。

割り切って成りきるというのは、西洋風の言い方をすれば、悪魔に心を売り渡したということです。悪いことだと分かっていながらも、それが自分の利益になるからやるということですから、もはや救いようがありません。これに対して、黙るというのは、まだ良心が残っているように思います。本来であれば、こういう、構造に気づいていて、なおかつ、割り切って成り切ることを拒否するような方々が、しっかりと声を上げて、憲法学界を二つに割って侃々諤々の議論をやってくれればよいのですが、残念ながらそれを期待することは現状では難しいようです。それとは逆に、むしろ合憲か違憲かの学者の多数決をやって喜ぶなどという、学問性を抛棄するようなこと(学者の多数決で正解が決まるのであれば論文は要りません)まで平気で行うような暴走状態にある憲法学界には、もはや自浄作用は期待し得ないものと見ざるを得ません。

こういう現状を見るにつけ、自分にも微力ながら何かできることがあるのではないか、いや、何かしなければならないのではないかという気持ちが日に日に強くなりました。

そんな時、日頃お世話になっている方々から「憲法について話をして欲しい」というありがたいお申し出をいただきました。少し悩みましたが、月一回の講義ですので、この程度であれば大丈夫だと判断し、思い切ってお受けすることにしました。また、その関連で、「美しい日本の憲法をつくる埼玉県民の会」にも参加させていただき、その推進委員のほうも拝命することにいたしました。

そういう次第で、少しずつではありますが、この日本国のための活動を再開しつつあります。ただ、あくまで善良な一公民としての憲法に関する活動にとどめておこうと思っています。詳しくは補論で分析しますが、そうすることには法律上の理由もあります。

今後しばらく、このブログでは、皆様に講義の内容を順次ご紹介できればと思っております。どうぞ楽しみにしていてください。


〔補論〕

憲法改正に関する講演活動や、上記埼玉県民の会の活動は、法的に見ると、「日本国憲法の改正手続に関する法律」(いわゆる国民投票法)の「国民投票運動」の事前運動、あるいは、「憲法改正に関する意見の表明」と位置付けられるべきものであると考えられます。

まず、「国民投票運動」の事前運動についてですが、国民投票法100条の2によれば、「国民投票運動」とは、「憲法改正案に対し賛成又は反対の投票をし又はしないよう勧誘する行為」をいいます。そして、ここでいう「憲法改正案」とは、同法14条1項1号によれば「国会の発議に係る日本国憲法の改正案」を指します。現在のところ、国会の発議はないわけですから、上述の活動は純然な意味では「国民投票運動」ではない訳です。しかし、公職選挙法のように事前運動を禁止する規定(公職選挙法129条)は国民投票法には存在しないのですから、「この節及び次節の規定の適用に当たっては、表現の自由、学問の自由及び政治活動の自由その他の日本国憲法の保障する国民の自由と権利を不当に侵害しないように留意しなければならない」とする国民投票法100条の趣旨にも鑑み、国民は自由に「国民投票運動」の事前運動をなしうると解する必要があります。実際に、国民投票法100条の2の規定を見てみると、公務員については、「国会が憲法改正を発議した日から国民投票の期日までの間」に限って「国民投票運動」が解禁されるものとされていますので、論理的に「国民投票運動」の事前運動はできないことになりますが、その反対解釈として、公務員以外の一般の国民(裁判官・検察官・警察官等を除く。国民投票法101条・102条)は、「国民投票運動」の事前運動をなしうるという結論になります。

次に、「憲法改正に関する意見の表明」についてですが、これは国民投票法100条の2にのみ出てくる概念で、特に定義規定も見当たりません。いずれにせよ、公務員については、「国会が憲法改正を発議した日から国民投票の期日までの間」に限って解禁されるものとされており、やはりその反対解釈として、公務員以外の一般の国民は、時期を問わず「憲法改正に関する意見の表明」をなしうるという結論になります(なお、裁判官・検察官・警察官等については法は沈黙しており、一義的な結論は導けません)。

実質的に見ても、「国民投票運動」の事前運動と「憲法改正に関する意見の表明」は、公職を目指す活動とはまったく別物の活動です。したがって、少なくとも一般の国民が行う限り、公職選挙法が適用される余地はなく、もっぱら国民投票法のみが適用されるものと考えられます。
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 9月29日に、臨時国会が開会しました。次世代の党結党後初めての国会であり、国会議員の先生方は皆さま意気込んでおられて、文字通り我が党らしさを炸裂させた活躍をされております。会期冒頭の10月1日の平沼先生の代表質問も、我が党全員の思いがこめられた演説となっておりますので、是非ご覧ください。





 10月8日には、次世代の党国会議員団による初めての街頭演説会が有楽町にて開催され、私もお手伝いさせていただきました。本当にたくさんの聴衆の皆さまにご清聴いただきまして、誠にありがとうございました。





 演説につきましては、こちらからお聴きください。









 10月11日・12日は、松山で開催された日本青年会議所の全国大会・卒業式に参加し、11日は、石原慎太郎最高顧問の講演を聴きました。もともと日本という国は本来の姿のままで本当に素晴らしい国であるわけですが、敗戦と占領政策で無惨にも解体されてしまった、だから我々はまずもってその本来の姿を取り戻さなければならない、ということに一人でも多くの聴衆の方が気づいてくれるといいなと思いました。





 12日は、松山城の麓に三笠宮寬仁親王妃殿下をお迎えしての大会式典でございました。また、それに引き続いての卒業式では小室哲哉さんのライブもあり、大いに盛り上がりました。卒業生の皆さま、ご卒業おめでとうございます。





 10月19日は、日本会議の皆さまと、久喜市民まつりのお手伝いをさせていただきました。日本神話の紙芝居を上演し、イザナギ・イザナミのお話や、天の岩屋戸のお話、ヤマタノオロチのお話、因幡の白兎のお話、海幸・山幸のお話をさせていただきました。





 いずれも私が子どもの頃に大好きだったお話で、子どもたちだけでなく、読んでいる私自身も童心にかえった気持ちでたいへん楽しい時間を過ごすことができました。





 10月20日は、当支部にて10月例会「次世代の党オリエンテーションセミナー」を開催いたしました。このセミナーにおきましては、「次世代の党は我が国においていかなる使命を有する政党なのか」という今後の活動において最も核心となる点を、支部の皆さまと共有したいという思いでお話しさせていただきました。





 東京都北区議会議員の戌亥宗和先生と元北本市議会議員の石倉一美先生もご来賓として駆けつけてくださり、御蔭様で盛会のうちに講師の任を全うすることができました。また、セミナー後の皇后誕生日奉祝会(懇親会)におきましては、皇后陛下のお誕生日をお祝いしつつ楽しく歓談いたしました。ご参加いただきました皆さま、誠にありがとうございました。





 以下、当日お話しした内容をまとめておきたいと思います。


◇ ◇ ◇


【講演趣旨】

 8月に結成されたばかりの次世代の党、党員の皆さまにとって分からないこともまだたくさんあることと思います。私としてもお伝えしたいことは数多くありますが、その中でも最も重要なのは、「我々がまさに存在するこの平成26年の日本国に次世代の党が生まれたのはなぜなのか」という点であると思います。そして、それが明らかになることにより、「我が国において次世代の党に課せられている使命は何なのか」ということもまた明らかとなります。これらの根本的な点を今回のセミナーでお伝えすることにより、まずは次世代の党というものをしっかりと理解していただくことが、今後の皆さまのすべての活動の根幹となってまいります。

 この点をお伝えするのが、今回のお話の目的です。


【講演内容】

(※当日実際にお話しした内容を、読みやすさ等の観点から編集したものです。)


一 ヘーゲルの「世界精神」

 先日、松山におきまして石原慎太郎最高顧問のご講演、1時間にわたるものでございましたけれども、こちらを聴く機会がございました。どんなお話だったかと申しますと、「日本人は歴史を知らない」ということをおっしゃっておられました。これはどういうことなのか、ということでございますが、そこが、非常に次世代の党の核心部分と繋がってまいりますので、今日は、その辺りのお話を中心にしていきたいと思っております。

 石原先生がよくお使いになるフレーズとして、「僕の好きなヘーゲルって哲学者が」ということをおっしゃっておられます。私もヘーゲルというのは大好きでございまして、このヘーゲルという哲学者はいろいろなことを言っているのですけれども、今日の話題との関連で申しますと、一番大切なのは「世界精神」というお話だと思うんですね。

 ヘーゲルというのはドイツの哲学者でございまして、「世界精神」をドイツ語で申しますと、「ヴェルトガイスト」(Weltgeist)となるわけでございます。「ヴェルト」(Welt)は「世界」で、英語でいえばワールド(world)ですね。「ガイスト」(Geist)というのは「精神」でございます。例えば、「闘魂」という場合に「カンプフガイスト」(Kampfgeist)などと訳されておりますけれども、このように、「ガイスト」というのは「たましい」という意味でございます。

 それでは「世界精神」とは何かということになりますが、実は、字面とはちょっと異なる内容をもつ概念ですので、まずはその辺りの説明を少し長めにしておきたいと思います。

 例えば、歌謡曲でも何でも「流行り」というものがございます。そして、なぜそれが流行ったのかというのには、必ず理由というものがある、というのが、このヘーゲルの根本的な考え方でございます。なぜこの時間(平成26年)のこの場所(日本という国)において、例えば『アナと雪の女王』の「ありの~ままの~」という、あの歌が流行ったのか、という、そういうことにはすべて理由があるんだ、というのがヘーゲルの考え方なんですね。つまり、なぜ流行ったかといえば、それが「世界精神」に適合するから流行ったのだ、という風に考えるわけです。つまり、「世界精神」というのは何かといえば、歴史における《流れ》のようなもののことを「世界精神」と呼んでいるわけです。

 ですから、例えば政治家であれば、歴史の流れに適合した政治家が歴史の舞台に出てきて、後世に名を残すということになるんですね。有名な話として、ナポレオンが馬に乗ってやって来るのを見て、ヘーゲルは「世界精神が馬に乗っている」と言ったそうです。これはどういうことかと申しますと、このナポレオンという政治家(軍人でもありますが)は、「世界精神」にまさに適合しているからこそ、フランスの皇帝になって、ヨーロッパのほとんどの部分をフランスの領土にすることができたわけです。そういうことを指して、ヘーゲルは「世界精神が馬に乗っている」と表現したわけでございます。

 この「世界精神」について、我々にとって大事なのは、なぜこの次世代の党がこの平成26年のこの日本国に誕生したのかという点を探っていくことです。そして、そうすることが、おそらく一番分かりやすいのではないかと思いますので、まずは、そこからお話を始めさせていただきます。

 そうそう、一つ言い忘れましたが、うちの支部では次世代の党の『党員手帳』というものをつくっております。そして、その一番最後に「名言集」というのがございまして、これは、私が好きな言葉を勝手に集めたものでございます。そのうちの一つでございますが、小林一三さんという方がおられまして、この方は企業家で、戦前に阪急をつくられて、商工大臣まで務められた方でございます。その方がおっしゃっているのが、「百年先の見える者は気狂いにされ、現状に踏み止まる者は落伍者になる。十年先きを見て実行する者は成功者となる」ということでございます。

 まぁ、例えばニーチェのように、余りにも先が読めすぎる人というのは、世の中からまったく相手にされないわけです。実際にも、この平成26年、西暦で申しますと2014年に、100年後の2114年の話をしても、今生きている人にとっては、そもそもどれだけの人が生きているか分かりませんし、やはり人間というのは自己中心的な生き物ですから、100年後というのは自分に直接関心があるわけではないんですね。そうではなく、予め10年先の「世界精神」を見越して、そこに向けていろいろと準備して動いていくと、そのうちに人々のほうが追いついてきて、世界精神にのっとったことができると、そういうことだと私は理解しております。

 ですから、「世界精神」というのは、私は、何をやるにも大事なことだと思っております。もちろん、政治をやるにも大事ですし、あるいは、商売をやるにしても「世界精神」というのは大事ですね。あるいは、歌を歌ったりとか、そういうことをやるにもやはり「世界精神」というのは大事なんですね。これから、そういうサブカルチャーの部分も含めてお話ししていきたいと思いますが、先程ご紹介いただいたように、私は西暦でいいますと1977年生まれでございます。ですので、余り昔のことは自分自身で体験したわけではございませんので、勿論あとからそういう昔の話も出てまいりますが、まずは、自分自身で実際に体験した身近なお話から始めていきたいと思います。


二 日本の「ありのままの姿」

 1980年代というのは私が物心ついた頃でございますが、当時日本はバブル景気でございまして、バブルで皆すごく盛り上がっておりました。日本の経済がガンガン成長している時でございまして、そこで、有名な言われ方として、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」という言われ方がされておりました。

 これはどういうことかと申しますと、1945年に日本が負けて、本当に焼け野原になって、経済活動がまったく行えないような状況になってしまったわけですが、そこからどんどん奇跡の復興を遂げて、1980年代にナンバーワン、つまり世界一になったということでございます。戦後の日本人というのは、まさにそこを目指していたわけなのですが、いざ一番になってみると、「あれっ?」と思ったわけです。「あれっ、一番になったけど何も起こらないよ」と。さらに言えば、何も起こらないどころか、それまで一番を目指して皆がんばってきたのに、それを達成してしまったので、一気に気が抜けてしまったわけです。ですから、「もうどこを目指していいのか分からない」という、そういう漂流する時代になってしまったわけです。

 それで、そのあとどういうことが起こったかといいますと、来るべくして、「失われた20年」という経済的にもドン底の時期がやってきたわけでございます。今は、それよりも経済がちょっと良くなってきていますが、それもまた、やはり理由のあることだと思うんですよね。

 そこで、サブカルチャーを見ていきたいと思うのですけれども、2000年代(今から10年前くらいですね)にどんなものが流行ったかというと、例えば、SMAPの「世界に一つだけの花」という歌が流行りました。非常に印象的な歌詞でございまして、「ナンバーワンにならなくていい、もともと特別なオンリーワン」という歌詞なんですね。

 日本は1940年代に戦争に負けて、ナンバーワンを目指してきた。そして、1980年代に達成した。それで、それがいかに馬鹿げた目標であったかということをそのときに認識して、「あ、ナンバーワンなんかにならなくてもいいんだ」ということに日本人は気づいたわけです。そして、そんなことよりも「もともと特別なオンリーワン」であることが大事なんじゃないかなってことに、気づき始めたということです。ここまでが2000年代くらいまでの歴史の流れ、すなわち「世界精神」です。

 それで、その10年後の今年(2014年)は、先程もちょっと触れた『アナと雪の女王』のテーマソングが流行りました。「ありのままの姿見せるのよ、ありのままの自分になるの」というあの歌が、もちろんディズニーの戦略なんかもあると思うんですけれども、この日本国においても流行ったというのは、やはり理由のないことではないと思うのです。

 どういうことかと申しますと、近年の日本人は、私なんかも含めてですけれども、「今の日本という国は、ひょっとしたら、ありのままの姿ではないんじゃないか」ということに、日本人が何となく気づきかけているのです。この「ありのままの姿」ということについては、私自身も最近になって「日本のありのままの姿」というのは何なんだろう、ということを追い求めるようになって、それで、「あ、もしかしたらこういう風かもしれない」ということにようやく気づいてきたような段階ですので、ほとんどの日本人にとっては、何となく「おかしいな」とは思っていても、それが「なぜそういう気持ちをもつのか」という具体的なところまではいかないでしょうし、ましてやその問題を解決するというのもなかなかできないという、そういうもどかしい状況だと思うんですよね。

 そこで、先程の「十年先きを見て実行する者は成功者となる」というお話ですけれども、我々としては、やはり10年後くらいには日本人が皆そういうことに気づいてくれるのではないかなということで、だからこそ、我々次世代の党というのはこの平成26年というタイミングで生まれたのではないかな、ということを思っているわけです。つまり、我々は、歴史の流れにあって、水先案内人のように日本人を導いていく役割を担っているわけでございます。

 少し話は戻りますけれども、ナンバーワンを目指すというのは、やはり価値観としてちょっと歪んでいるんですよね。どちらの国とは申しませんが、すべてにおいてやたらと「うちがナンバーワンだ」と言い回りたがる国がありますけれども、まぁ、普通の人間関係を考えてみても、人間同士で普通に接していて、「俺はお前より上だよ」なんて余り言わないですよね。それを敢えて毎回言わないと気が済まないというのは、やはり、普通の人間関係としてもおかしいものを感じますし、何となく人格的にも歪んだものを感じます。かつての日本も、ああいう風なアピールまではしませんでしたけれども、ナンバーワンを目指すということ自体については、或る程度歪んだ姿だったんじゃないかなということは思うんですよね。

 ですから、そういうものではなく、「本来のありのままの日本」というものを探していくということを、今後10年くらいで日本人はやっていくのではないかなということを、今思っているわけでございます。ですから、我々としては、それにさきがけて、オピニオンリーダーとして「日本のありのままの姿」というものをまず正確に知ろうじゃないか、ということが重要になってまいります。そして、まさにそれこそが、今回のセミナーの一番大事な目的なのでございます。


三 日本はなぜ日本であるのか

 そこで、どうやってこの「日本のありのままの姿」を探っていけばいいかというと、やっぱり歴史なんですよね。ヘーゲルの話でもそうですけれども、歴史というのは、ちゃんと見ていけばいろいろなことに気づかせてくれるものですし、とりわけ日本の歴史というのは、本当にいろいろなことに気づかせてくれる、そういう歴史であるわけです。

 日本においては、かなり昔に中国から紙が伝わってまいりましたので、歴史を記述するということが長らく可能だったわけでございます。そしてそれは非常にありがたいことなのでございます。そういう記録手段がなかった国というのは、自国の歴史を持っていない場合も結構あるのです。その中にあって、日本という国においては、一番古い歴史書が『古事記』と『日本書紀』ですけれども、少なくとも8世紀にはそういう歴史書があって、それ以前の歴史を知ることができるのであり、このことは本当にありがたいことなのでございます。そのありがたい遺産を存分に生かして、我々は国のかたちというものを探っていこうと思うわけでございます。

 『古事記』・『日本書紀』においてどこが一番起点となっているかといいますと、《神様》なんですね。昨日も久喜の市民まつりで神話の紙芝居をやりましたけれども、「国のはじまり」というお話もございまして、これはAさんの自作の紙芝居なのですけれども、Aさん、日本のはじまりはどういう神様からはじまっているか、教えていただけますか。

Aさん「アメノミナカヌシの神(天之御中主神)です」

 ありがとうございます。その通り、アメノミナカヌシの神という神様でございまして、こちらは姿のない神様でございます。そのあと、何代か姿のない神様があらせられて、そのあと、一番最初に姿をお持ちになったのは、どちらの神様ですか。

Aさん「イザナギとイザナミの神です」

 そうです。イザナギとイザナミの神です。ここが、日本の歴史の起点となっているわけでございます。そして、イザナギとイザナミという神様の御子としてお生まれになったのが、皇室の祖先神であるアマテラスオオミカミ(天照大神)でございます。そして、アマテラスオオミカミから何代か下って、最初の天皇になられたのが神武天皇でございます。

 この神武天皇が即位されたのが、皇紀元年でございます。皇紀で申しますと今年は2674年になりますので、神武天皇が即位されたのが2674年前ということになるわけでございます。具体的な年代が始まったのがここでございます。

 日本という国の歴史のはじまりをどこにするかというのは、なかなか難しい問題であるわけでございますけれども、建国ということで申しますと、建国記念日(2月11日)というのは神武天皇が即位された日でございますから、この考え方からすれば、この皇紀元年が日本国の建国ということになります。ですから、この皇紀元年から現在に至るまでの日本の歴史において、何が日本国を日本国たらしめているのか、ということを、まずは調べていく必要があるわけでございます。

 ここでちょっと他の国のお話をしようかと思うのですけれども、例えば中国の歴史を見てみますと、秦という一番最初の皇帝を輩出した王朝があります。その前にも夏とか殷とか周とか王朝はありましたけれども、皇帝というものを一番最初に輩出したのがこの秦という王朝でございまして、何が秦を秦たらしめているかといいますと、これは皇帝の家なんですね。ちょっと難しい字なんですけれども、贏(えい)氏、つまり、贏さんという家の人が皇帝になる国が秦であったわけです。そして、この秦を倒したのが漢でございます。この漢の皇帝は、劉(りゅう)氏でございます。初代の皇帝は劉邦と呼ばれる人で、この人はいろいろと伝説があって、大蛇を刀で斬ったとか、内股に黒子がたくさんあったとか、いろいろとありますけれども、ここで言いたいのは、劉氏が贏氏を倒すことによって秦という国は漢という国に替わったということでございます。つまり、皇帝の家が別の家に替わるということと、国が別の国に替わるということは、同じことだったわけです。

 そして、こういう国の移り替わりというのが、中国においてはもの凄く頻繁にあったわけでございます。秦、漢、そのあとは三国時代と申しまして、魏・呉・蜀の三国が三者三様で皇帝を名乗っている時代がございました。さらにそのあとにまた晋という国ができてと、何度も替わっているわけでございます。現在の中華人民共和国に至るまでに、その前は中華民国、その前は清ですけれども、まぁこれが連続的なものと見ていいのかという問題はありますけれども、とりあえず、どんどん王朝が替わっているということを認識していただければと思います。

 それに対して、我が国においては、神武天皇以来、ご皇室がずっと天皇という位に就いておられる。昔は大王(おおきみ)と呼ばれておりまして、聖徳太子の頃に天皇という称号を使うようになりましたが、これは王朝が替わったということではなくて、同じ家の方々が連綿と天皇という位を受け継いでいるわけでございます。

 そして、日本の歴史を見ると、実は、このご皇室以外には、歴史を通じて変わらない要素というのは見出せないわけです。例えば、権力の所在を見てみると、藤原氏が権力を持っていたりだとか、或いは平氏が権力を持っていたりだとか、或いは、鎌倉幕府であれば源という家が権力を持っていたりだとかと、どんどん変わっていってしまう。また、経済体制を見てみても、公地公民ということをやって私有財産は認めませんよという経済体制を採ったこともありますし、現在のように私有財産は認めますよという経済体制を採っていたこともあるわけです。こういう権力の所在とか経済とかさまざまな要素を見ていくと、2674年前からずっと同じで変わらない唯一の要素こそがご皇室である、ということが歴史から明らかになるわけでございます。

 その証に、ご皇室にあっては名字というのがもはや全く分からないわけでございます。中国におきましては、王朝そのものは日本よりも昔からあるわけですけれども、頻繁に変わっているので、前の王朝はこういう名字だったということが記録にも残っていて分かっているわけです。これに対して、日本においては、人間の記憶の辿れる大昔からずっとご皇室が天皇の位に就いておられるので、そもそも名字が何だったかということを誰も知らない、ご皇室自体も知らない、ということになっているのでございます。

 「易姓革命」という用語がございまして、これは「姓が易(か)わる革命」ということなのですけれども、中国においては、王朝の名字が変わることによって国が替わることを「革命」と呼んでいたわけでございます。こういう「革命」という言葉の本来の意味からすれば、「日本は一度も革命が起こっていない国である」という風に言い換えることもできるわけです。

 かつて宮澤俊義という憲法学者が「八月革命説」という学説を唱えておりました。私はもともと憲法の研究者でしたが、この「八月革命説」には反対でございます。さきほども申し上げました通り、本来の用語法からすれば「革命」という語は易姓革命のことを指しているのであって、もちろん敗戦によって国の基本方針は或る程度変わった部分がありますけれども、それは「革命」ではないわけでございます。「革命」というのは王朝の姓が変わることにより別の国になるということでございます。日本ではこの意味で「革命」が起こったことはなく、日本が日本でなくなったことは一度もないわけでございます。つまり、ご皇室が変わらずにご皇室であり続けることで、日本はずっと同じ日本という国であり続けている、ということでございます。


四 「思いやり」の統治

 では、中国においてはこんなに頻繁に王朝が替わっているのに、なぜ日本においてはこんなに長い間王朝が替わらなかったのでしょうか。やはり、それは何か技術というか、一定の理由がなければ、そんなに長く続くはずはないわけでございます。どうしてそういうことが可能だったのかということを考えてみると、いくつかの要素を挙げることができると思います。

 さきほどお配りした「大日本帝国憲法発布勅語」は、私自身非常に感銘を受けましたので、支部でも毎回朗読することにいたしました。原文はさきほど読みましたので、今回は訳のほうだけ、Bさん、読んでいただけますでしょうか。

Bさん「この日本国が栄え、日本国民が幸せになることこそが、朕の最高のよろこびです。
 代々の天皇がこの日本国を建国して永続的に継承することができたのは、日本国民の代々のご先祖様たちの協力とサポートによるものです。
 日本国がこの輝かしい歴史を有するのは、代々の天皇が威厳と人徳を備えるとともに、代々の国民が忠実・勇敢で国を愛し公共のために尽くしたことの結果なのです。
 当代の日本国民は、歴代天皇の忠実で善良な国民の子孫であるのだ、ということを朕は思い起こします。」

 どうもありがとうございました。これは大日本帝国憲法と申しまして、まぁいろいろな考え方がございますが、この憲法を改正することによって現在の憲法というものができたと考えるのが自然であるように思います。もちろん、この改正が果たして有効なものかという点について、石原先生は「あんなの無効だから総理大臣が無効だといえば破棄できるんだ」とおっしゃるわけですけれども、その辺りは、今日は踏み込むとそちらのほうに時間を取られてしまいますので、とりあえずは、改正前の憲法であるということだけ理解していただければと思います。

 この大日本帝国憲法というものが、西暦で申しますと1889年にできたわけですけれども、その際に、明治天皇がこの勅語(天皇のおことば)を述べられたわけでございます。そして、どういうことを述べられたかと申しますと、さきほど読んでいただいた通り、天皇陛下にとって一番の幸せというのは国民の皆さんが幸せになってくれることであり、そして、国民のほうもまた、天皇陛下ないし国のために皆で尽くすということで、君民がお互いに「思いやり」を持ち合って統治していきましょう、ということを、日本という国はずっとやってきたのだ、ということを述べられたのでございます。

 例えば、仁徳天皇という天皇がおられますけれども、仁徳天皇におかれては、民衆の家を見回ってみると、どうも飯を炊く煙が上がっていない。これは炊く飯すらもないのではないか、ということをご心配あそばされて、「しばらくはもう租税を徴収するのはやめよう」ということで、数年間租税を徴収するのをおやめになられて、数年後に国民が再び豊かな暮らしができるようになったので、それでは税を集めますよということにまた改めたところ、国民も喜んで租税を納めたということでございます。

 こういうふうに、お互いに、「もしかして国民が困っているんじゃないかな」とか、国民の側も、「国も租税がないと運営ができなくて困るんだろうな」とか、お互いがお互いを思いやって、お互いのためのことをするというのが、日本という国のもともとの統治のあり方だったと思うんですね。

 伊藤博文が大日本帝国憲法をつくるときに一番困ったのが、西洋にそういう考え方がないという点だったそうです。西洋においては、統治というと、どうしても上下関係で物事を考えたがるわけです。ドイツ語では「ヘルシャフト」(Herrschaft)といって、統治というのは「支配」であると考えるわけです。王は臣民を支配するというのが、もともとのドイツの国法学(憲法学)の発想であり、1800年代くらいまで家産国家論というのが唱えられていました。「家産」というのは「家の財産」を意味しますから、つまり、皇帝なり王様なり、あるいは地元の公爵とか伯爵とか、そういうのはすべて持ち主の家で、領土やそこに住む人たちを持ち物としていたということで、「支配」の関係だったわけです。ですから、さきほど申し上げたような「お互いがお互いのためを考えて」というような「思いやり」の発想は、この家産国家論からはまず出てこないですよね。やはり、こういう西洋にはない日本独自の考え方というのが、大日本帝国憲法発布勅語には表れているのだと思います。

 大日本帝国憲法の第1条というのは、天皇が統治権を総攬するという規定でございますけれども、ここでいう「統治」というのは、もともとの草案が「しろしめす」という和語を用いていたことからも分かりますように、まさにこのような日本独自の統治のあり方を指している言葉でございまして、これは、かなり伊藤博文が苦心して当てた漢語であるというように聞いております。しかし、憲法学というのはもともと西洋の学問ですから、その後ドイツから憲法学を導入していくにつれて、この「統治」という用語もどうしても西洋的な「支配」の意味で解釈されるようになってしまって、そのために、どちらがどちらを支配するのかいう、いわゆる主権論のお話が出てきてしまったわけです。だから、その系の議論として八月革命説のような変な学説が出てきてしまったわけですけれども、しかし、これはそもそも議論の立て方というか前提自体が間違っておりまして、この条文における「統治」というのは、もともと起草者の意思として、ドイツ的な「ヘルシャフト」の統治ではなくて、日本的な「思いやり」の統治のことを指していたわけなのでございます。

 やはり、そういうお互いがお互いの幸せを願い合う関係というのは、人間関係として長続きしますよね。どちらかが力で押さえつけてどちらかが搾取されている関係というのは、まぁ或る程度の期間は続くかもしれませんけれども、ずっと続くということはないわけでございまして、やはり人間というのは、「お互いがお互いを思いやる」ということで人間関係が成立するのではないかなと思います。やはりそれがあったからこそ、日本の国はずっと天皇陛下をいただく国であったのではないかと思うんですよね。


五 統治における「権威」と「権力」の分離

 それから、さきほどの「ヘルシャフト」の話ですけれども、もちろんヘルシャフトを行使する人というのは、日本においても実際にいたわけでございます。例えば、幕府といわれるものは基本的に軍事政権でございまして、軍事政権ですから、武力で人民を支配することで統治していたわけでございます。もちろん、文治政治とかいろいろなヴァリエーションがありますけれども、根本原理としては、武力を持って、刀を持って、逆らったら首を斬られるというところに、統治の根本原理があったわけです。

 もともとは、ご皇室もそういう武力による支配ということをしておりまして、例えばヤマトタケルノミコト(日本武尊)のお話は皆さまご存知だと思いますけれども、ヤマトタケルノミコトは景行天皇の皇子でございまして、日本のいろいろな所をまわって、武力で各地の豪族を倒すことによって、日本の国をつくりあげていく過程のお話でございます。したがって、もちろんさきほど述べたような「思いやり」の統治というものが根本原理としてありながらも、そういう「ヘルシャフト」の部分もまたご皇室は折に触れて使用してきたわけですけれども、だいたい平安時代くらいからこれがちょっと変わってきます。

 いわゆる摂関政治というものが成立して、藤原氏(藤原不比等の子孫)が実質的な権力を握るようになりますと、ご皇室ではなく、藤原氏の人々が、摂政や関白といった地位に就いて権力を行使する統治を行うようになります。統治ということの中身には、どうしても権力的な作用が入らざるを得ないわけですけれども、この摂関政治が成立する過程において、もともとご皇室が有していた統治の作用のうち、権力的な部分が別の主体(この場合には藤原氏)に移ったということになります。そして、統治の作用から権力的な部分を除いた「権威」の部分を天皇が担当すると、どうもうまくいきそうだということが、経験から分かってきたわけです。

 例えば藤原氏でいえば、天皇から摂政であるとか関白という位をいただくことにより、その権力が正統化されるわけですし、或いは幕府でいえば、天皇から征夷大将軍という位をいただくことにより、この武力支配は正統化されるわけです。こういう根本的な正統性を与える作用のことを「権威」と申しますが、日本国においては、根本的な、最高の統治権威を与えてきたのは常に天皇陛下でございまして、その代わり、「権力」については他の者が担当するということで制度的な分化が起こって、長らくそういう統治のスタイルを採ってやってきたわけでございます。

 現代では、権力分立(ぶんりゅう)とか三権分立と申しまして、国家権力というのは立法権と行政権と司法権の三つに分かれるわけですけれども、現行憲法上、立法権を担う国会という機関は天皇陛下により召集されることになっておりますし(7条2号)、行政権を担う内閣総理大臣についても天皇陛下により任命されるということになっておりますし(6条1項)、司法権を担う最高裁判所の長官もまた、天皇陛下により任命されるということになっております(6条2項)。このように、現代においてもやはり、国家の「権力」というものは天皇陛下から独立した別の機関が担いつつも、かつ、それらの機関に対して究極的な「権威」を与えているのは天皇陛下であるという統治のスタイルは、変わっていないわけでございます。

 実はイギリスにおいても、長い王制の歴史の中で、「君臨すれども統治せず」、つまり、権威と権力を分離して、権力の部分については王が担当しないというのがよいだろうということになって、そういう現在の統治のスタイルに落ち着いたわけでございます。イギリス以外においても、現在でも王室がきちんと残っている国というのは、ほとんどがそのような統治のスタイルを採用しております。そういうことにも鑑みますと、我が国の歴史において、統治における「権力」と「権威」をうまく分離することができたということは、日本という国を永続的なものにするのにあたって、大いに役立ったのではないかというふうに思うわけでございます。

 ちなみに、西洋のような「ヘルシャフト」、つまり「権力」による支配のことを、日本の昔の言葉では「うしはく」と呼んでおりました。これに対して、さきほど申し上げたような日本古来の「思いやり」の統治のあり方は「しらす」といいますが、この「しらす」の原理からすれば、やはり権力的な支配というのは逸脱した統治のあり方でございますから、我が国においては、「うしはく」という言葉自体は、伝統的に、非常にネガティヴな響きをもつ言葉とされてきたのでございます。神話におきましても、オオクニヌシノミコトが「うしはく」の統治を行っていたのを、ニニギノミコトが「しらす」の統治にあらためたというお話が出てまいります。そして、このニニギノミコトの子孫こそがご皇室でございまして、もともとは「あめのしたしろしめすすめらみこと」というのが天皇の呼び名でございましたが、この「しろしめす」というのは「しらす」のことでございますから、そもそもご皇室による統治のあり方というのは「うしはく」とは対局にあるものなのでございます。

 そういう意味で、ご皇室が権力的な統治作用をご担当されるというのは、そもそもからして不適切なことなのでございまして、そうであるとすれば、我が国において統治の作用の中から権力的な部分が分離されたというのは、或る意味歴史における必然の流れであったようにも思われるわけでございます。


六 「権威」の源

 こういうようなさまざまな理由があって、日本の国というのはこれまでずっと存在してくることができたわけですけれども、その長い歴史の中において、日本が初めて負けたのがさきの大戦(世界的にいえば第二次世界大戦、アジアとしてみれば大東亜戦争)でございます。元寇といって、元という国が攻めて来ても日本は負けなかったわけでございまして、初めて負けた相手がアメリカだったわけですけれども、そのときに、アメリカ人というのは日本人がとても怖かったわけなんですよね。

 日本人というのは本当に勇敢に戦って、アメリカにあれだけの恐怖を与えた国というのは、日本以外には歴史上存在しないわけです。『永遠の0』を読まれた方もおられるかと思いますけれども、いかにアメリカ人が日本人を怖がっていたかということがよく分かりますよね。日本人はものすごい技術力と精神力を持っていて、それがものすごい団結力を発揮しながらやってくるわけです。敵として、こんな恐ろしい敵はなかったのではないかと思います。

 或いは、『菊と刀』という本がありますけれども、そもそも我々日本人というのは西洋の発想とはまったく違う考え方で動いておりますので、アメリカ人は、日本人が何を考えているのかというのがまったく分からなかったわけでございます。人間、よく分からないものというのは本当に怖いわけでございまして、それで、日本人というものを分析しようと思って、ああいう報告書のようなものをつくって、少しでも怖さを軽減しようとしたわけです。

 まぁ、あの『菊と刀』というのは内容的には余り正しくないわけですけれども、いずれにせよ、アメリカ人にとって、日本人の勇敢さとか、技術力とか、精神力とか、団結力とか、未知の考え方とか、いろんな意味で日本人のことが怖かったわけなんですよね。だからこそ、ああいう報告書によって少しでも日本人を知ろうともしたし、他方で、原爆や東京大空襲等のアメリカ人が戦時中にやったことを考えますと、言葉は悪いですけれども、「この恐ろしい日本人を根絶やしにしたい」という気持ちも正直なところ抱いていただろうということは、何となく想像がつきます。まぁそこまで行かなくとも、「日本という国を完膚なきまでに解体して、日本人というこの恐ろしい存在が二度とアメリカに歯向かうことのないようにしてやろう」とも思っただろうなということは、容易に想像がつくわけでございまして、こういう恐怖の感情が、おそらくアメリカ人による日本占領政策の方向性を決めたのではないかと思うわけでございます。

 あのとき日本は無条件降伏をしましたから、日本において初めて外国が国民の統治権、支配権を握るということが起こったわけでございます。したがって、アメリカがGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)として法律を制定したり、行政をおこなったりしたのですが、そのときに、アメリカは神道指令というものを発したわけです。

 そもそも天皇陛下の権威というのはどこからやってきているかというと、さきほどの系図を見ても分かりますけれども、神様からいただいているものでございます。日本という国は、至るところに神社がございまして、非常に神様と一緒にいる感じがするのでございます。ドイツにおりますと、もちろん教会は街ごとにあって、あちらはあちらで宗教的な感じはするのですけれども、やはりちょっと雰囲気は違いますよね。日本の神様というのは、まぁ私の印象論ですけれども、非常に明るい感じがするイメージがございまして、やはり日本に帰って来るとパーッと明るい感じがするんですよね。そして、その明るい感じの源となっているのが神社なのではないかと思うわけでございまして、いろんな意味で神社というのは中心になっているのでございます。

 日本において一番根本となっている神社は、これはいろいろな考え方がありますけれども、私は伊勢神宮と考えるのがよいのではないかと思うのでございます。伊勢神宮というのは、アマテラスオオミカミを祀った神社でございます。そして、伊勢神宮も含めて、皇室の祖先神を祀る「祭主」というのが天皇陛下であったわけでございます。つまり、神様から権威をいただいているからこそ、天皇陛下は別の主体に権威を与えたり、或いはご自身でメッセージを発したりということもできるわけでございまして、さきほどお配りした「五箇条の御誓文」というのも、明治天皇が神様に誓うことによって、明治維新という改革を行うことができたわけでございます。そうすることによって、神様から正統性をいただいて、それを国内で断行することができたということでございます。

 そういう意味で、日本における「政」(まつりごと)というのは、「まつり」という言葉が入っている以上、これは、神様をお祀りするということなのでございます。そして、この日本で最も中心的な神様をお祀りする役目を与えられている神道の祭主が天皇陛下であられる、ということでございます。

 そして、この仕組みこそが、GHQの最も壊したかったものなのです。だからこそ、GHQは、神道指令を発し、憲法に政教分離を入れることで、神様と天皇陛下という両者の関係を断ってしまおうということを目論んだわけでございます。神道指令を実際に読んでみますと、「本指令ノ目的ハ宗教ヲ国家ヨリ分離スルニアル」ということがまさに書いてございますし(二(イ))、「伊勢ノ大廟ニ関シテノ宗教的式典ノ指令並ニ官国幣社ソノ他ノ神社ニ関シテノ宗教的式典ノ指令ハ之ヲ撤廃スルコト」ということも書いてございます(一(ニ))。そして、政教分離規定を憲法に挿入することにより、GHQは日本の国政の根本を永続的に解体することに成功したわけです。

 この政教分離の規定というのは、具体的には憲法の中にいくつかございまして、1つ目は、「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」という23条1項後段の規定、2つ目は、「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」という23条3項の規定、それから、3つ目は、「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない」という89条の規定でございます。

 現在、保守の方々の中にも、この政教分離に賛成される方は結構おられます。特に、公明党を政府から排除したいということで、政教分離に賛成される方は結構おられますけれども、私はその考え方には賛同できません。やはり、日本が日本であるためには政教分離というものはあってはならないのでございます。ですから、憲法において改正すべき点は9条を含めていろいろありますけれども、一番大事なのはこの政教分離の規定を外すということだと思うのです。これこそが改正しなければならない筆頭格だと思うのです。

 大日本帝国憲法が制定されるときに、いろいろなことを伊藤博文はやったわけですけれども、彼はヨーロッパを見てまわって、天皇というものを大日本帝国憲法においてどう位置づけようかと考えていたわけでございます。その際に、ローマ法王を見て、このローマ法王こそがヨーロッパ人の精神的な基軸となっているということに気づいたのです。「日本における天皇陛下と同じではないか」ということに気づいて、それで、「日本国においては、天皇陛下こそが国民の精神的基軸となるということを、新しい憲法においても根本理念としなければならない」ということを考えたわけです。ですから、大日本帝国憲法というのはそういう精神に基づいてできているわけでございまして、だからこそ、政教分離などというものは、まったく入っていなかったわけでございます。

 私がドイツにいる間に、ローマ法王ヨハネ・パウロ二世が亡くなられたことがございまして、その当時私はジャーナリストのようなこともやっておりましたから、かなりいろいろなメディアをチェックしたのですけれども、それが、私が小学校6年生のときに昭和天皇が崩御されたときの日本の雰囲気に物凄く似ていたのでございます。ですから、伊藤博文の言ったことというのはやはり正しかったということになりますし、伊藤博文が日本においてこういう憲法をつくろうとしたものが、きちんと今でも精神として生き残っているのだなぁと思ったりするわけでございます。ですから、そういうものは非常に大切にしていかなければいけないなということを思いますね。

◇ ◇ ◇


 まだまだ続きますが、ブログ投稿の制限文字数をオーバーいたしましたので、続きはウェブサイトにてご覧ください。
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 9月16日には、午後3時より久喜で次世代の党衆議院埼玉県第十三支部の創立総会、同日午後6時より東京で次世代の党の結党大会がございました。


リニューアルした久喜の支部です


 創立総会では、支部の活動の心得として、

  • ① 日本国の理念と次世代の党の理念はいずれも「日本を永遠にする」ことであり、まったく同じであること。
  • ② 近代日本においては、五箇条の御誓文が常に改革の根本原理となっていること。
  • ③ 我が国においては、古来より「思いやり」が統治の基本原理となっていること(このことは、大日本帝国憲法発布勅語を読むとよくわかります)。

等をお話しさせていただきました。



 結党大会では、石原慎太郎先生・平沼赳夫先生・山田宏先生・桜内文城先生からのお話の後、若手議員5名(坂元大輔先生・松田学先生・宮沢隆仁先生・杉田水脈先生・西野弘一先生)による熱のこもったプレゼンテーションが行われ、若いエネルギーを体感できる素晴らしい会になりました。



 平沼先生のお話では五箇条の御誓文にも言及されておられ、支部の方向性が正しいことが確認できてとても嬉しく思いました。



 桜内先生からは、「2045ビジョン」プロジェクトが発表されました。このプロジェクトは、2015年~2045年の30年計画によって、①日本国が現在の諸問題を克服し、②日本国が本来の姿を取り戻すのみならず、③日本国が今よりも遥かに豊かで暮らしやすい国になる、という3つのことを実現しようとするものです。とてもチャレンジングな目標ですが、かつて日本は明治維新において、五箇条の御誓文から22年で諸改革を実現して大日本帝国憲法の制定にまで漕ぎ着け、28年で日清戦争に勝利しています。そう考えればチャレンジングではあっても決して不可能ではありません。日本国を永遠にするために我々は頑張ってまいります。

「2045年の日本はいったいどんな国になっているんでしょうか。またどんな国にしていくべきなんでしょうか。皆さんも想像してみてください。2045年、私たちは国民自らの手で作った憲法を持っています。また、国と地方の役割分担が明確になり次世代の活躍しやすい国になっています。ライフスタイルも大きく変わります。エネルギー自給率が100%の日本、食料自給率が100%の日本。自前の力で自国を守れる日本。世界一税率が低い日本。伝統文化やポップカルチャーで世界中から観光客が集まる日本。労働力不足をロボットがサポートしてくれる日本。そして国民が100歳まで健康で安心して暮らせる日本。こうやって我々が想像するのは来年生まれる次の世代の日本人が30歳になったときの日本です。そしてそれは30年後に私たちが生活している日本なのです。私たちは今までの政党が近視眼的にしかとらえてこなかった政策立案を全く新しい形で考えます。2045ビジョンは2045年に実現したい日本の姿を構想するプロジェクトです。次世代の党はこのプロジェクトの提言をもとに2045年にあるべき日本の姿を実現するための政策を立案していきます。2045ビジョンで私たちは提案します。次世代の日本の姿を。その未来の日本を作るための政策を。発表を行うのは2015年8月です。」(桜内先生の演説より抜粋)



結党大会全編の動画です


 会場いっぱいの2000名もの皆さまにご参集を賜りまして、本当にどうもありがとうございました。支持者の皆さまの熱烈なご支持を身をもって体感することができ、本当に嬉しかったです。

 さて、前回ご紹介した党員手帳も無事刷り上がってまいりましたので、当支部に所属されている党員の皆さまにお送りしました。



 また、9月28日には、公益社団法人日本青年会議所の主催するグローバルリーダー育成塾の卒塾式がございました。



 靖國神社に皆さまと一緒に昇殿参拝させていただいたのち、靖國会館にて卒塾式が挙行されました。国家基本問題研究所の先生方を中心とする豪華講師陣による諸学の講義をはじめ、本当に盛りだくさんで学ぶところの多かったこの塾ですが、終わってみるとあっという間の半年間でございました。





 「この塾で何を学んだか」については卒塾論文に書いておきましたので、以下そのまま転載します。なお、塾生の卒塾論文をまとめた文集は各政党に配布してくださるそうです。

◇ ◇ ◇


2014年度グローバルリーダー育成塾卒塾論文

公益社団法人 日本青年会議所
グローバルリーダー育成塾 Iチーム
      中  村  匡  志




 平成26年3月から9月にかけて、このグローバルリーダー育成塾の塾生として学ぶことができたことは、私にとって本当にかけがえのない大きな財産となっております。
 第一に、日本国の諸問題に関する諸先生の講義は、概ね素晴らしいものばかりであり、これらの講義において私は数限りない気づきをいただきましたが、これらの気づきは、私がこれまでに自分の中で練り上げてきた政治に関する哲学と思想についていま一度反省を迫るものでした。例えば、後述のように私は「五箇条の御誓文」の存在については知っていましたが、その内容がいかに重要かということについてはこれまで気づいておりませんでした。しかし、櫻井よしこ先生をはじめとする諸先生の講義により、「五箇条の御誓文」は近代日本における国政改革の基本原理として今なお生きているのだ(あるいは、今なお生かさなければならないのだ)ということに気づかされました。私は、これらの意義深い気づきと真摯に向き合うことにより、自らの政治に関する哲学と思想の完成度をより高めることができました。
 第二に、松田学衆議院議員の講義は、ちょうど私が旧日本維新の会の分党にあたって二つの選択肢のいずれを選択しようかと悩んでいたときに聴講したものでした。そして、「われわれこそ日本維新の会の正当な継承者である」という松田先生のお話を聴いたことがきっかけとなって、いろいろ調べ直し考え直していくうちに、次世代の党を選択する決意が固まりました。したがって、文字通り、この塾に参加したことによって、人生の重大な選択のための重要なヒントをいただいたことになります。
 第三に、上述の経緯により次世代の党の支部長として新たに組織を構想していこうとするまさにその時に、この塾でリーダーシップに関する講義を聴講することができました。これは、時宜に叶っていて非常にありがたく、文字通り現在進行形で存分に組織づくりに生かさせていただいております。とりわけ、岩田松雄先生の講義においては、組織づくりにおいてミッションとヴィジョンがいかに重要であるかを理解することができましたが、その講義を一緒に聴講した周りの社長さんたちが、既にミッションとヴィジョンを掲げた手帳を社内でしっかりと共有しているのを知って、二重にショックを受けました。そういえば我が春日部青年会議所にもハンドブックがあり、そこにはミッションとヴィジョンが掲げられており、これを毎回唱和していることにあらためて気づきました。岩田先生の薦めてくださった『ヴィジョナリー・カンパニー』等も読みながらいろいろと考えを巡らし、我が国の理念は何なのだろうか、我が党の理念は何なのだろうかということを煮詰めて、支部の『党員手帳』を完成させることができました。この『党員手帳』では、国歌・五箇条の御誓文・大日本帝国憲法発布勅語(抄)・教育勅語(抄)・次世代の党綱領・政策実例・支部長所信・支部信条を巻頭に掲げています。
 このような貴重な学びの機会を与えてくださった公益社団法人日本青年会議所グローバルリーダー育成委員会の皆さまと公益社団法人春日部青年会議所の皆さま、とりわけ、この機会を直接的に与えてくださった吉田稔副委員長と宮下智義理事長には、心より御礼申し上げたいと思います。本当にどうもありがとうございました。
 これらの学びの成果を踏まえて、この卒塾論文においては、「憲法」と「外交問題」の2つのテーマを選択して論ずることといたします。

目次

第一論文 我が国の国風における五箇条の御誓文の位置づけ
 一 五箇条の御誓文の「再発見」と「翻訳」
 二 「維新八策」――「船中八策」――「五箇条の御誓文」
 三 「国是」としての五箇条の御誓文
 四 「憲法」――「国体」――「国是」
 五 結論

第二論文 国際社会における我が国の名誉回復のために――河野談話の否定・廃棄と河野洋平元自民党総裁の処罰
 一 河野談話の否定と廃棄
 二 河野洋平元自民党総裁の処罰
  1 刑法犯
  2 民法上の不法行為
  3 自民党の除名
  4 勲章の返上・褫奪等


【テーマ:憲法】
第一論文 我が国の国風における五箇条の御誓文の位置づけ


一 五箇条の御誓文の「再発見」と「翻訳」

 上述の通り、私は「五箇条の御誓文」の存在自体と大体の内容を知ってはおりましたが、この塾で学ぶまでは、これがいかに重要な文書であるかということに気づいておりませんでした。そういう意味で、私はこの「五箇条の御誓文」というテクストを「再発見」したということになります。
 私は、生業として翻訳業を営んでおりますが、翻訳家の性分として、「重要なテクストについては自ら原文にあたってみないと気が済まない」というものがあります。翻訳という営為には、不可避的に翻訳家の「解釈」が紛れ込むものであることを、翻訳家自身が最も痛切に知っているからです。だからこそ、翻訳家は、重要なテクストの「解釈」は人任せにせずに、自分で行いたいと思うのです。
 ですから、この「五箇条の御誓文」というテクストについても、まさにそうしたいと私は思いました。もちろん、文語とはいえ日本語ですから、一読すればひと通りの意味は理解できます。しかしそうではなく、そこから更に進んで、現代日本で暮らす我々が同じ内容(ソシュール言語学でいう「シニフィエ」)を表現する場合にはどのような言葉(ソシュール言語学でいう「シニフィアン」)を使って表現するであろうか、というところまで掘り下げて訳したいと思ったのです。「《翻訳》という営為は、それが人に伝えることを目的とする以上、かくあらねばならぬ」というのが私の翻訳家としての信条でもあります。
 私の考えによれば、《翻訳》という営為は、単に言語間で語と語を置き換えるというような単純なものではなく、①まずは書き手のテクストを手掛かりに、このテクストを書き上げたときの書き手に同化することによって、書き手がこのテクストにより表現しようとしたシニフィエを正確に劃定した上で、②今度は読み手(一定の時間的・空間的制約の中にある読み手)に同化しながら、この読み手が用いている言語体系を用いて、このシニフィエを正確に表現するテクストを造り上げる、という、巷間で思われているよりも若干複雑な行為です。私は、ドイツの大学で翻訳学(Übersetzungswissenschaft)の講義を聴講したことをきっかけとして、その後長年にわたって翻訳の実務に携わるうちに、そう信ずるに至ったのです。
 少し本題から外れてしまいましたが、いま述べたような精神態度でテクストと格闘して私が完成させたのが、以下の翻訳です。

五箇条の御誓文
一 廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スヘシ
(広く会議を開いて、どんなことでもみんなで議論して決めましょう)
一 上下心ヲ一ニシテ盛ニ經綸ヲ行フヘシ
(国民は一丸となって、どんどん経済活動を行いましょう)
一 官武一途庶民ニ至ル迄各其ノ志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメンコトヲ要ス
(個人はみな自分の志を実現して、生命力に満ちた人生を送りましょう)
一 舊來ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ
(これまで続けてきた悪い慣習は思い切って廃止し、それに代えて物事の道理や科学を新たな行動原理としましょう)
一 智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ
(知識を世界に求めて、これにより我が国の国際競争力を強化しましょう)


二 「維新八策」――「船中八策」――「五箇条の御誓文」

 私が平成24年9月の旧日本維新の会の公募に応募して政治家を志したのは、祖国が内憂外患に苛まれる姿を外国の地から目の当たりにし、居ても立ってもおれず、何か自分にできることはないかと考えたからでした。それまでの民主党政権の失政により日本の弱体化は頂点に達し、当時の韓国大統領李明博は我が国固有の領土である島根県の竹島に白昼堂々不法上陸、続いて中国人活動家も我が国固有の領土である沖縄県の尖閣諸島に白昼堂々不法上陸、挙げ句の果てには、上述の李明博が我が国の天皇陛下を平然と侮辱するに至りました。もはや我が国は自国の尊厳も存立もまったく守れない最低の国に成り下がってしまったのであり、私の人生においてこんなに悔しかったことはありません。
 当時私はドイツにおいてEU・ドイツの政策調査を生業としておりましたので、この状況を打開するために日本がどのような政策を打つべきかということについて、自分なりの構想を持っておりました。とりわけ経済政策については、EUがリスボン戦略を断行して経済を復活させたのと同じく、我が国も新自由主義に基づく構造改革を断行しなければならないと考えていました。また、これは学生時代からの持論ですが、我が国は「土下座外交」とはきっぱり訣別して、毅然とした態度で自立した外交と防衛政策を行っていかなければならないと考えていました。それから、私が人生で最初に就いた職業は憲法の研究者ですが、それ以来、憲法をどのように改正すべきかということをずっと考えてきました。
 そして、公募を機に目を通した旧日本維新の会の結党綱領「維新八策」は、私の構想を完全に先取りしたものであったばかりか、私の構想などよりも遙かに具体的で、かつ、微に入り細を穿つものでした。このような、あたかも三国時代の諸葛孔明のごとき大それたことをやってのける方がいらっしゃることに私は大いに驚嘆するとともに、「ならば日本はまだ大丈夫」と強く感激したことを覚えています。つまり、この「維新八策」を実現すれば、絶対に日本は強くなり復活すると確信したのです。だからこそ、私は、日本維新の会の公募に応募したのです。
 今回、五箇条の御誓文を《翻訳》してみて、この御誓文の根柢にある価値観と、「維新八策」の根柢にある価値観は、非常に通ずるものがあることを感じました。「懐かしい」という表現は適切かどうか分かりませんが、あの「維新八策」の源流はこんなところにあったのか、というような新鮮な発見の感覚を覚えました。実は、よくよく起源を調べてみれば、この感覚は或る意味当然のことであったのです。なぜなら、この五箇条の御誓文は坂本龍馬の起草した「船中八策」を基にしたものだったからです。もちろん、「維新八策」が「船中八策」を模範としていることは言うまでもありません。
 つまり、「船中八策」を媒介点として、「五箇条の御誓文」と「維新八策」という二つの点は一つの線で繋がったのです。それだけではありません。さまざまな文書を調べていくうちに、昭和天皇が昭和21年元日に発布せられた「新日本建設に関する詔書」においてもこの「五箇条の御誓文」が掲げられていることにも気づきました。昭和天皇は御誓文に言及せられた上で、「叡旨公明正大、又何ヲカ加ヘン。朕ハ茲ニ誓ヲ新ニシテ國運ヲ開カント欲ス」と、あらためてこの五箇条の御誓文を新日本建設の原理としていくことを述べられていたのでした。
 そうだとすれば、「五箇条の御誓文」は、明治維新という大改革と、昭和の敗戦後の新日本建設という大改革の双方において、基本原理になったのだといえます。そして、平成の国難にあっても、この「五箇条の御誓文」こそが基本原理とならなければならず、だからこそ「維新八策」が練られたのだと考えられます。つまり、「五箇条の御誓文」は、近代の日本において常に国政改革の基本原理となってきたのです。
 実は、「維新八策」の内容のいくつかは、安倍政権の政策にも採り入れられていますが(規制改革を主体とした成長戦略、TPP加盟、教育委員会改革、農協改革、憲法96条改正論等)、これは、「維新八策」が「五箇条の御誓文」の精神に則った我が国の国情に適合するものであり、だからこそ党派を超える普遍性を持っていたためであると考えられます。

三 「国是」としての五箇条の御誓文

 この五箇条の御誓文についての気づきを得た当時、私は支部で「政治教室」を開催し、市民の皆さまに「憲法改正入門」を毎週講義していました。憲法の基礎理論、改正手続、皇室、安全保障と論じてきて、全12回のこの「憲法改正入門」は、ちょうどその総まとめを行う時期に差し掛かっていました。そして、この講義を総括するテーマとしてふさわしいと考えたのは「前文」でした。
 現在の日本国憲法の前文は、連合国軍最高司令官総司令部民政局の起草したものであるため、日本国の国風と歴史を完全に無視している上、我が国の存立自体を他国に委ねさせる非常に危険なものとなっています。したがって前文の全面改正が必要となるわけですが、もし私が新たにこの前文を起草できるのであればどのように起草するか、ということを考えて、以下のような草案を受講生の皆さまにご提案してみました。

日本国憲法

 歴史を顧みるに、古来、日本国は、統治者である天皇が国民をたえず思いやり慈しむとともに、国民もまた天皇を思いやり敬うという、類稀なるすぐれた「和」の統治原理を発達させた。次に、藤原氏及び平氏並びに源氏諸氏の軍事政権による権力的支配の時代を通じて、三種の神器を継承し神道の祭祀を行う天皇は我が国における最高の権威の源泉として君臨し、世俗の権力に正統性を与えつつも自ら政を執らないという、天皇不親政の統治原理を確立した。さらに、明治維新に至って軍事政権を廃止し、新たな政府においては
一、広く会議を開いて、どんなことでもみんなで議論して決めるべきである
一、国民は一丸となって、さかんに経済活動を行うべきである
一、個人はみな自分の志を実現して、生命力に満ちた人生を送るべきである
一、これまで続けてきた悪い慣習は思い切って廃止し、それに代えて物事の道理や科学を新たな行動原理とすべきである
一、知識を世界に求めて、これにより我が国の国際競争力を強化すべきである
という五箇条の御誓文を新たな建国の体とした。
 われわれ日本人は、引き続きこれらの伝統的な統治原理及び建国の体を守りつつ、この憲法を確定する。


 ここで私は、五箇条の御誓文を「建国の体」と呼んだわけですが、この点については、その後考えをさらに進めることができましたので、現在では「国是」と呼ぶべきだろうと考えています。明治天皇ご自身が、「我国未曽有ノ変革ヲ為ントシ朕躬ヲ以テ衆ニ先シ天地神明ニ誓ヒ大ニ斯国是ヲ定メ万民保全ノ道ヲ立ントス衆亦此旨趣ニ基キ協心努力セヨ」と述べられ、また、昭和天皇も「顧ミレバ明治天皇明治ノ初國是トシテ五箇條ノ御誓文ヲ下シ給ヘリ」と述べられ、いずれのテクストにおいても「国是」の概念を用いられていることが大きな理由ですが、もう少し理論的な点も含めて、この点については次節において敷衍することにします。

四 「憲法」――「国体」――「国是」

 日本語で用いられている「憲法」という概念は、歴史上古来より用いられている概念ですが、明治時代以降は、ドイツ語のフェルファッスング(Verfassung)、フランス語のコンスティテュシオン(Constitution)、英語のコンスティテューション(Constitution)の訳語としても用いられるようになりました。穂積陳重は、「西洋の法律学が本邦に渡って来たときに、学者は彼のコンスチチューシオン、フェルファッスングなどの語に当てる新語を鋳造する必要があった。〔…〕憲法なる語を始めて現今の意義に用いたのは誰であるか。それは実に箕作麟祥博士であって、明治六年出版の「フランス六法」の中にコンスチチューシオンを「憲法」と訳されたのである」と述べています(穂積陳重『法窓夜話』(岩波文庫、昭和55年)177-178頁)。
 私がドイツ憲法を研究し始めたときに最初に取り組んだのはカール・シュミットの『憲法学』(Verfassungslehre)でしたが、そこで原語のフェルファッスングという概念が多様な意味内容を表すことに面食らったことをよく覚えています。

「フェルファッスングという語は、いろいろな意味をもっている。その一般的な語義においては、いかなる人といかなる物も、いかなる経営体といかなる社団も、およそあらゆるものが、とにかくある「フェルファッスング」において存在し、ありとあらゆるものが、ある「フェルファッスング」をもちうる。そこからは何らの特殊概念は生じない。相互了解が可能となるためには、フェルファッスングという語は、国家、すなわち、人民の政治的統一体のフェルファッスングに限定されねばならない。そのように限定する時、この語は、国家それ自体、しかも政治的統一体としての、または、国家的実存の特殊的・具体的な態様および形式としての個々の具体的な国家を表すことがある。この場合、フェルファッスングという語は、政治的統一と秩序の全体的状態を意味する。ところが、フェルファッスングという語は、一箇の完結せる諸規範の体系を意味することもある。この場合にも、この語は統一体を表すわけであるが、具体的に実存する統一体ではなく、思考された観念的な統一体を指す。この二つの場合、フェルファッスングという概念は、ひとつの(実在的または思考された)全体を示すが故に、絶対的である。同時に、今日では、一連の一定の種類の法律をフェルファッスングと呼ぶ用語法が一般に行われている。その際には、フェルファッスングとフェルファッスング法律とが同一視される。かくて、個々のフェルファッスング法律がいずれもフェルファッスングとして現われうる。したがって、この概念は、相対的となる。」(シュミット『憲法理論』(尾吹善人訳、創文社、昭和47年)3-4頁を一部改訳)


 どうやらドイツ語の一般的な意味においては、フェルファッスングというのは「構造」という意味であり、憲法学においてもどうやら「国家の構造」という意味が本義らしい、ということがこの文章から分かります。実際、ドイツにはフェルファッスングスレヒト(Verfassungsrecht)、つまり、「フェルファッスング法」という概念もあり、フェルファッスングは「国家の構造」、フェルファッスングスレヒトは「国家の構造に関する法」ということで概念上の区別を行うことができます。そして、現在我が国で「憲法」という概念で言い表されている意味内容は、基本的にはフェルファッスングではなくフェルファッスングスレヒトのほうなのです。
 ですから、この意味でのフェルファッスング(「事実状態としての憲法」という用語が用いられることもありますが、適切とはいえません)にどのような訳語を当てるべきかということが問題となります。当初、私は、この意味でのフェルファッスングの訳語に「国体」を当てるべきだと考えていました。ドイツ語には「体の調子が悪い」という場合に「良いフェルファッスングにない」という言い方をすることがあり、ドイツ語の「フェルファッスング」という語と日本語の「体」という語にはかなり親近性があるからです。
 しかし現在、私は「国体」という語はもう少し限定された意味で使うべきだと考えるに至っています。「国体」という語を用いて我が国固有の国柄を分析するようになったのは水戸学に溯ると言われており、さしあたり西欧のフェルファッスングの概念とは別物と考えるべきであるからです。
 中国の歴史においては、殷から清に至るまで何度も王朝が交代し、その度に国号が変わってきました。例えば、秦は嬴氏による王朝であり、漢は劉氏による王朝です。このように王朝が変わって国号が変わることを「易姓革命」といいますが、このような現象は世界各地において見られます。ドイツにおいても、メロヴィング王朝からホーエンツォラーン王朝に至るまで何度も王朝が変わっています。ところが、我が国においては権威(「しらす」)と権力(「うしはく」)を見事に分離できたために、我が国の歴史においては、古代から現代に至るまでさまざまな主体が権力の担い手として登場するにもかかわらず、天皇が統治権威の究極の源泉であるという一点だけは常に不変であり続け、一度も「易姓革命」が起こることがありませんでした。
 そして、この我が国特有の統治のあり方を「国体」と呼びます。我が国の国歌である「君が代」も、天皇陛下の君臨せられる日本国、すなわち「国体」が永遠であれということを詠ったものです。「国体」というのは我が国特有のものですから、世界の他のいずれの国においてもこのことを表現する概念はないと思いますし、ドイツ語のフェルファッスングもまた「国体」を意味することはできないのです。
 現在私は、フェルファッスングの訳語としては、「国風」とか「国情」という語を当てるのが適当だろうと考えています。「国柄」でも良いのですが、この語は現在「国体」の言い換えとして用いられることが多いので、避けたほうがよいかもしれません。
 ところで、カール・シュミットの憲法学には「実定的フェルファッスング」(positive Verfassung)という概念もあります。「実定的」(positiv)というのは、ラテン語の「制定された」(positivus)という言葉から来たもので、革命によって定められた国家のあり方を「実定的フェルファッスング」、すなわち「制定された国家の構造」と呼んでいるのです。これを制定する主体がいわゆる「国家の構造を制定する権力」(我が国では「憲法制定権力」と呼ばれていますが誤解を招く訳語です)であり、この権力により制定された政体の基本原理は、同一の体制が継続する限り絶対的なものであるために、憲法上は「改正禁止規定」として現れることになります。
 上述の通り、我が国においては「革命」が起こったことはありませんので、もちろん、このドイツの実定的フェルファッスングの概念を我が国にそのまま当て嵌めることはできません。しかし、明治維新や昭和の新日本建設のように、国難にあたって国政の大改革を行った事例は我が国にも存在し、これらの改革において定められた基本原理を我が国においては「国是」と呼ぶのが、明治天皇・昭和天皇の用語法にも照らして適当であると考えられます。

五 結論

 以上をまとめると、
① 我が国の国のあり方の基本構造を「国風」または「国情」と呼ぶのが適当であり、それは「国体」と「国是」から成る。
② 「国体」とは、我が国の歴史において、権力の所在のいかんにかかわらず、常に天皇陛下が権威の究極の源泉であり続けたことをいい、国歌「君が代」は、この日本国の理念が今後も永遠に続くことを祈念する歌である。
③ 「国是」とは、国政改革の基本原理をいい、近代日本の国是は「五箇条の御誓文」である。
④ 憲法の前文は、我が国の「国風」(「国情」)を明確に表現するものでなければならない。
ということになります。

以上


【テーマ:外交問題】
第二論文 国際社会における我が国の名誉回復のために――河野談話の否定・廃棄と河野洋平元自民党総裁の処罰


一 河野談話の否定と廃棄

 いわゆる「慰安婦問題」は朝日新聞が政治的な意図を持って捏造したものであるというのは、我々次世代の党がかねてから(旧日本維新の会時代も含めて)主張してきたところです。この点につき、グローバルリーダー育成塾においても、高橋史郎先生・西岡力先生をはじめとする、主張を同じうする先生方の講義を聴講し、微に入り細を穿つ知識をいただくことができたことは、本当に有意義なことでした。どうもありがとうございました。
 折しも8月上旬に、朝日新聞は、旧日本領朝鮮での慰安婦の強制連行を報じた「吉田証言」報道が誤報であったことをようやく認めました。しかし、訂正が遅きに失したのみならず、いまだに朝日新聞は「捏造ではなく誤報」であると強弁している上、「河野談話、吉田証言に依拠せず」として「河野談話を取り消す必要はない」との主張をいまだに繰り返しています。日本国民全員に迷惑を掛けたにもかかわらず不遜で反省のない朝日新聞の態度には、本当に腸の煮え繰り返る思いがします。そもそも、平成4年1月に当時の首相宮澤喜一が訪韓した際に当時の韓国大統領盧泰愚に対して根拠のない謝罪を8回も繰り返したことが河野談話の遠因となっているわけですが、これは朝日新聞の「軍関与資料発見」報道によって煽られたことが主たる原因となっているのです。国民の怒りが頂点に達しており、各新聞・週刊誌からも袋叩きに遭っている以上、朝日新聞がこれ以上言い逃れを続けることはもはや困難であると思われます。
 もっとも、安倍政権が、昨年5月に河野談話を継承してしまうという大きな間違いを犯したために、朝日新聞に足下を見られてしまっていることもまた否定できません。すなわち、朝日新聞は「自民党政権が河野談話を否定することはないだろう」と高を括って、そこに胡座をかいているのです。
 そもそも、国際社会において「旧日本領朝鮮における性奴隷の強制連行」などといういわれなき風説(典型的には、いわゆるクマラスワミ報告書)が流布してしまったのは、平成5年8月に、当時の内閣官房長官河野洋平が、日本政府による強制連行があったと誤解されかねない談話(「慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった」)を発表し、さらにこれについて「おわびと反省の気持ち」まで表明してしまったことに根本的な原因があります。しかし、産経新聞や政府が検証した通り、旧日本領朝鮮における慰安婦の強制連行はまともに立証しうるものではなく、韓国政府の甘言に乗り妥協の産物として確たる裏付けを欠いたまま河野談話が発表されたことが明らかとなっています。
 我々次世代の党は、かねてから、この河野談話を否定し廃棄することが我が国の名誉回復には絶対に必要であると主張し、日々運動を重ねています。今年4月には、旧日本維新の会として、河野談話見直しを求める署名約16万筆を集め、政府に提出しました。また、今年7月には、次世代の党として、河野談話検証結果公表後に国会で山田幹事長が河野氏の参考人招致を求めました。しかしながら、現在のところ、自民党政権は、河野談話の否定と廃棄にも応じていませんし、河野洋平元自民党総裁の国会招致にも応じていません。
 しかし、この重大局面にあって、「河野元自民党総裁の体面」などという小さな私益よりも、「日本国の名誉回復」という大きな公益を優先すべきであることは、誰の目にも明らかです。是非、自民党におかれては、この点をしっかり認識して、勇気を持って河野洋平元自民党総裁を国会に招致するとともに、河野談話を明確に否定し廃棄していただきたいと考えます。

二 河野洋平元自民党総裁の処罰

 日本国の名誉回復のために河野談話の否定と廃棄が必要なことは上述の通りですが、それだけでは十分ではありません。やはり、国際社会に誤解を招く談話を発表して日本国の名誉を傷つけるとともに、日韓関係悪化の元凶を作出することにより回復困難なかたちで大きく国益を害した河野洋平元自民党総裁個人の責任は重大であり、何らかのかたちで処罰することが必要です。本節においては、河野元自民党総裁にいかなる処罰が可能であるかを検討します。

1 刑法犯

 刑法には、外交に関する犯罪として、①外患誘致罪(81条)、②外患援助罪(82条)、③外国国章損壊罪(92条)、④私戦予備・陰謀罪(93条)、⑤中立命令違反罪(94条)等が掲げられていますが、いずれも本件について構成要件該当性がありません。
 名誉毀損罪(230条)については、「死者の名誉を毀損した」場合であっても、「虚偽の事実を摘示することによって」「人の名誉を毀損」すれば処罰の対象となります。したがって、河野談話が刑法上「虚偽の事実を摘示」したものと評価できるか否かを検討する必要があります。河野談話の文言はこの点かなり巧妙であるため、立証のハードルはなかなか高いと思いますが、検討する価値がないわけではないでしょう。なお、「事実を摘示しなくても、公然と人を侮辱した者」についても処罰の対象とされています(231条)。
 しかし、これよりもより適用可能性が高いのは、信用毀損罪(233条)でしょう。本罪の構成要件は、「虚偽の風説を流布し、又は偽計を用いて、人の信用を毀損し、又はその業務を妨害した者」であり、河野元自民党総裁の行為はまさにこれに該当します。すなわち、河野談話を発表することにより「旧日本領朝鮮において慰安婦を強制連行」という虚偽の風説を流布し、あるいは、韓国政府と通謀して河野談話を発表することにより、日本国と軍人の方々の信用を毀損し、あるいは、日本国の外交業務を妨害したものということができます。但し、本条にいう「信用」の概念を経済的側面に限定している判例がネックになります。

2 民法上の不法行為

 民法上の不法行為責任(709条)を問うことについては、名誉毀損に関する上述の問題のほかに、誰が原告になりうるかという問題もあり、さまざまな意味でハードルが高いものと思われます。

3 自民党の除名

 上述の通り、法律上の処罰・問責が難しいとすれば、やはり自民党が党内における自浄作用を発揮し、河野元総裁を正面から党紀にかけるべきでしょう。自民党規律規約前文には、「民主政治の要諦は、国民との信頼関係にある。わが党は、この理念を中心に据え、党活動を行っていくとともに、姿勢に対する信頼を確保するため、責任ある公党として、常に綱紀を厳正に保ち、信賞必罰を徹底し、政治倫理を確立する。そのため、党員一人ひとりに、政党人としての自覚を求め、かりそめにも、国民の信頼を裏切ることのないように、自らを厳しく律することを求める」とあります。韓国政府の甘言に騙されて日本国民の名誉を毀損する風説を流布する談話を発表するという河野洋平元自民党総裁の行為は、文字通り「国民の信頼を裏切る」ものといえ、明らかに規約の精神に反します。
 ところが、同規約9条が党員処罰の対象としている行為は、①「党の規律をみだす行為」、②「党員たる品位をけがす行為」、③「党議にそむく行為」の3つしかありません。河野元総裁の行為は「党員たる品位をけがす行為」といえないこともありませんが、具体的には「汚職、選挙違反等の刑事事犯に関与した行為」「暴力行為」「その他党紀委員会において党員たる品位をけがすものと認めた行為」しか掲げられておらず、ここに該当するとはいうことはなかなか困難です。同規約22条では「個別企業・団体の利益の擁護により公共の利益を損なう行為」や「著しく社会的非難を受ける行為」も処罰対象となっていますが、行為主体が「党所属国会議員」に限られており、既に国会議員ではない河野元総裁に適用することには困難が伴います。
 しかし、上述の通り河野元総裁の行為が規約の精神に反していることが明らかである以上、自民党は、処罰の対象を「行為の当時党所属国会議員であった者」に拡大する等の方法により、しかるべき規約の改正を行った上で、河野洋平の除名をしっかりと行うべきです。
 国民は、自民党がきちんと自浄作用を発揮してまともな保守政党になってくれることを期待しています。頑張ってください。

4 勲章の返上・褫奪等

 河野洋平元自民党総裁は、民主党政権下の平成23年の秋の叙勲においてなぜか桐花大綬章を受賞しています。
 しかし、勲章授与の根拠法である「勲章制定ノ件」(明治9年太政官布告第54号)は、その前文において「凡ソ国家ニ功ヲ立テ績ヲ顕ス者宜ク之ヲ褒賞シ以テ之ニ酬ユヘシ」と勲章授与の趣旨を説諭した上で、「桐花大綬章ハ旭日大綬章又ハ瑞宝大綬章ヲ賜フベキ者ノ中其勲績又ハ功労特ニ優レタルモノニ之ヲ賜フ」と定めています(4条1項)。そして、旭日大綬章は「国家又ハ公共ニ対シ勲績アル者」に対して授与される最上級の勲章とされ(2条1項、1条2項)、また、瑞宝大綬章は「国家又ハ公共ニ対シ積年ノ功労アル者」に対して授与される最上級の勲章とされています(3条1項、1条2項)。つまり、何らかのかたちで国家又は公共に対し最上級の功績のある者に対してでなければ、規定上、桐花大綬章を授与してはならないはずなのです。上述の通り、河野洋平元自民党総裁は、国家に対して功績があるどころか、河野談話の発表により国益を大きく毀損していますので、到底上述の要件を充たしているとは考えられません。つまり、法的に見て、河野洋平元自民党総裁には桐花大綬章を与えるべきではありませんでした。
 したがって、まずは、「位、勲章等ノ返上ノ請願ニ関スル件」(昭和20年勅令699号)に基づいて河野元自民党総裁本人が自主的に勲章を返上することを政府として促すべきでしょう。しかし、もしこれに河野元自民党総裁が応じない場合には、強制的な手段に訴える必要があります。
 勲章の褫奪については「勲章褫奪令」(明治41年勅令291号)に定めがあり、「素行修ラス帯勲者タルノ面目ヲ汚シタルトキ」には「情状ニ依リ其ノ勲等、又ハ年金ヲ褫奪」することができることとされています(2条4号)。但し、河野談話を発表したのが平成5年、勲章を授与したのが平成23年という時系列になっていますので、勲章褫奪令による勲章褫奪はなかなか難しいように思われます。
 しかし、上述の通り、河野洋平元自民党総裁への桐花大綬章授与は法的な要件をまったく充たしておらず、当該授与行為には重大かつ明白な瑕疵が存在していたと考えられます。したがって、政府は、河野洋平元自民党総裁への桐花大綬章授与を、違法な行政行為として無効とすることが可能です。

以上
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