家族の問題に巻き込まれて苦しい方へ向けて記事を書いています。

 

 

 

私ごとですが、

 
私の実家には、発達障がいと医者に病名を付けられた妹がいます。
 
私たち姉妹の関係は
 
もう、妹が生まれた時から構築されていますから
 
長い付き合いです。
 
 
遡れば、学校に行き始めたころ
 
友達となじめない妹は
 
いつも私のくっつき虫
 
行き帰りも、うんざりするほど一緒
 
 
数回だが、妹の追跡を逃れるために
 
置き去りにして、走って逃げたことがある 
 
そのシーンだけは、よく覚えているのだけど
 
よっぽど、私も虫の居所が悪いときだったに違いない。
 
面倒を見なさいと、言われたわけではなかったけど、
 
自ら、犠牲にして、我慢して
 
妹のストーカーを許していた。
 
 
妹がかわいそう
 
 
当時、そう思い込んでいたからだ。
 
 
父母から虐待を受け
 
知能が足りないと父母から言われ続け
 
それを、なんとも
 
助けようもしなかった、または出来なかった自分の良心がうずく
 
うっすらとした罪悪感が
 
無下に妹を拒絶させなかった。
 
 
その後も同じような関係は大人になった今も続いている。
 
 
事あるごとに私は面倒をみては、
 
最後は、妹からの罵り
 
したこい文句、訴え、恨みで終わる。
 
 
私が関わることで
 
妹が満足することは、一度もなかったろう。
 
 
 
それでも、関わり続けたのは
 
罪悪感が衝動となって
 
 
かわいそうな妹
 
私が見捨てた妹を
 
 
見捨てられないでいた。
 
 
 
いや、妹を見捨てないという選択は
 
私自身の第2の安全、「助け手」であり「罪滅ぼし」な場所を失うのが
 
怖かったのかもしれないと今は思う。
 
 
妹を自分と重ねていた。
 
こうして助けてくれる人が、あのとき居たなら
 
どんなに、どんなにか救われただろうか
 
 
こうして欲しかったことを妹を通して
 
私の叶えられなかった夢を「再現」し続けていた気がする。
 
 
 
だから、妹から求められたら
 
お世話をしないという選択を出来なかった。
 
父母からも、あからさまに 助けを求められるようになっていった。
 
自分の人生よりも最優先事項としての
 
家族の助け手として、私の役割は
 
相変わらず機能していた。
 
 
不毛の何十年の末、
 
子供が不登校になったとき
 
私は、慌てもしたが、同時に
 
妹という片方の荷物から、逃げられることに気がついた。
 
もとの家族 が、血の絆という
 
逃げられない絆を突きつけてくるのなら
 
こちらもまた、私自身の家族のためという
 
正当な口実を手に入れたことになった。
 
 
その時、冷酷ながら、私は
 
そのことに気づいていた。
 
 
あれから、今、私は冷酷なままであり続けたのか?
 
自問自答は続いているが
 
 
今は、罪悪感はかなり少ない。
 
妹をかわいそう、とも思えなくなっている。
 
 
私が面倒をみなくてはいけない
 
そんなこと、無理だよ
 
そう、長い時間をかけて親に伝えてきた。
 
親たちは、どこまで了承しているのか、
 
していないのか、私には関わりのないことのように
 
私は、自分の心のままに、
 
付き合いたいように
 
実家と付き合っている。
 
 
たまに、恨めしい打診が来たりもするが
 
そこに気持ちが翻弄されることも
 
なくなった。
 
罪悪感に支配されることはなくなった。
 
 
かわいそうと、エンドレスな世話を焼く事、
 
なにも返ってこない、もっともっとと犠牲を強いられる自分が喪失していく時間の辛さと
 
なにもしないという罪悪感の狭間から
 
卒業できている。
 
 
私は私の気持ちに添いながら
 
ゆっくりと、静かに家族を見直している。
 
 
家族とは、なんと残酷なものであるのだろうか。
 
 
今、私が作ってきた子供達との家族の絆は
 
なんとゆるやかで暖かなものになれたかと安堵もする。
 
 
そこに手を貸してくださった方たち
 
閉塞した家庭に一筋の光となった
 
その光を頼りにここまでこれた。
 
私はこれからも、
 
そういうものになりたいのです。
 
 
長くあった妹への気持ちの区切りがついたこともあり
 
書いてみました。