「時代と断層」 雁金敏彦

 時代の変遷によって変わり得る物と変わり得ないもの・・・社会システム論的な視点から歴史を追いかけて、今日も資料の山を掘りかえして東奔西走。
 史学を主体とした社会進化論。社会構造論。政策科学等の視点が主です。
 2012年から始めてみました。


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 公明と共産が票を伸ばしたのは、投票率低下による組織得票力という要素だけでは無く、批判票を有る程度吸収したからだ。
 野望に対する諮詢、暴走としての抑制。

 しかし自民にとって、参院では公明の意向を「配慮」しなければ成らない物の、組閣人事上の配慮と消費税の課税形態、地域振興券程度で妥協を見るだろうかと思われる。

 大勢として自民は非常に有利に政策を続けるだろう。

 しかしながら安倍内閣への胸騒ぎとして、その大勝利を国民による「白紙委任」と理解し、数的有利を最大限発揮するだろうと予測して見せるのは単なる過ぎた危惧だろうか。

 確かに国民は不安の中から、自民の圧勝を許容した。

 日本は25年間の空走期に余剰設備と老朽技術を東アジアにばらまき、不良債権処理に喘ぎ、社会内失業者を底辺へと排除する中で、戦後経済の清算に懊悩し次々に失点を重ねたてきた。
 かつ、米国や中国等の諸外国による過当な攻勢を許容せざるを得ない風下に立った。

 さらに言えば、一億総中流は瞬く間に過去の意識と成り、水と安全はどちらも随分と高い値札が付く様に成った。改めて時間軸を戻せば、かつての常識は減衰し、人々の生活も激変したことに改めて愕然とする。

 社会の末端まで情報管理技術が張り巡らされる事で、生活の細部までが合理化され効率化された結果、人々に時間や人間関係に「あそび」の余裕を極端に失わせているように見える。
 それに加わえ淘汰競争と経済的な衰退が人々の生活を万力の様に締め付け、息苦しさを蔓延させてきた。それがこれまでの痛みをともなう25年間だったろう。

 内閣のスローガンはそうした25年間に逆戻りして良いのかと述べる。

 内閣とそのスタッフは、バブル以降に明確な設計図を描き、「ある種」の変化をもたらしたと言う意味で、90年以降に政権をとった内閣の中では特異な位置づけを確かに維持している。

 つまりは多くの人々は今の不安に追い立てられ、安倍政権を積極的に支持する事もしないかわりに、「失われた時間」の生み出す不安を恐れて消極的に安倍内閣批判にブレーキをかけ、または消極的に息を潜めて棄権した。

  故に、アベノミクスと言う安倍内閣の方策こそが、やがて自分と言う末端にまで波及する「かもしれない」という果無い願望を夢見たかもしれない。日々押し寄 せる抜き差し成らない日常の不安と休息無き日常に裏打ちされた虚像として揺らぎに人々は疲れている。 故に自民大勝は正しく述べれば「白紙委任」等と言う 種類の物ではないかと感じる。

 しかし、内閣にはもはや歯止めは無い。

 自公内の現内閣に冷ややかな参議院のグループ程度はいる。そして、野党も日本の舵取りに対して厳しく追及はするだろう。
  ただ、構造としてみれば内閣のブレーキと成る物は国内には現状存在し得ない。特に野党第一党の党首落選と言う失態は致命傷であり、求心力は生みにくい様に 見える。他の野党もその意味では変わらない。このままなら弱体化した勢力がさらに分裂し、再統合に膨大な時間とエネルギーを要して四月頃まで空走する。

 故に単純に考えれば、安倍内閣は「改革」と「進歩」を加速化させるだろう。

 安倍内閣は「民意」という言語の幾何学的「解釈」によって、原発再稼働は確定し、5月までに機密情報関係や対スパイ法法制の諸制度改革という前払いも終わる。議論余地は埋まらないまま、それを良いと信じる多くの意思の中で事態は進むだろう。

 「岩盤規制」と竹中平蔵氏が連呼して来た労働市場改革、医療制度改革、一次産業改革が劇的に進み、「国民からの白紙委任を頂いた」という口実の元に、一気に民間市場に下げ渡されることも回避出来ない。

 特にこのファンタスティクな解体ショーは改めて述べるまでもない茶番にさえ見える。外資にとっては確かに素晴らしいごちそうだし、円安も進んでいる。

 疑り深く成るのは道理で、現実には、郵便局のがん保険がなぜ外資一社なのか。郵貯バンクの幹事の席がなぜ日本資本にほぼ席が無いのかと言う、「自由主義市場」など名ばかりの同じインチキが、そうした分野でもなし崩し的に進む事を懸念するのは当然だろう。

 短期的には市場が活性化するだろうけれど、長期的には日本国が近代以降備蓄して来た国民の生活安定と組織力は根幹から脅かされるだろう。

 量的緩和も継続され、円は150~170円を許容する言葉を聞く。

  上げ下げを繰り返しながらも株高は安定し、年始以降も高値を更新するかと周辺で多くの人が述べる。大企業の企業収益も、労働市場の規制緩和も助け舟と成 り、ますます内部留保と社内年金、株主配当を増やすが、それが社会の資本環流には乗らないため、社会が実感出来る様な形ではうまく還元はされない。即効性 はほとんどないだろう。

 バブルのおこぼれはうたかたの夢ではないか。
 実態的な生活意識の改善が進まなければ、景気は高揚せず、国民の不安はむしろ邁進する予測は悲観的過ぎるとは言えない様に思える。

 徳島山間は何十年ぶりの早い雪を抱き、孤立していた。
 かつての山村は備蓄食糧を前提にした生活が有り、その生活の知恵は大した物であったが、老齢化がすすみ、村落共同体が既に破壊されているので相互扶助の共助が喪失し、孤立すれば弱い。高齢化も進み、昔とは違う。

 確かに改革論者が述べる様に、衰弱死するくらいなら、死ぬ前に一か八かにかけろというかけ声が説得力を持たざるを得ない現実がそこには有る。
 即効性のある代案を求められてもひねり出せない自らの無能はその前で反論の言葉を失う。

 「あそこも孤立しています」と言われて見上げた山村は、そこだけが白く見えた。
 手に届く様で決して届かないもどかしさがそこに有った。


新・忘れられた日本人---辺界の人と土地



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 自民圧勝とは、つまりは、大軍による強制奇襲であった。

 離合集散を続けた小勢力は分散割拠してまとまらず弱体化しており、そこに突然現れた大軍に抗す術を持たなかった。

 奇襲を受けた小勢力は組織的な攻勢をかける余地もなかった。兵力を整えて、争点を明確化し、大軍の戦果の「後」を述べる言葉を持たなかった。

 戦端をひらく提案を行った内閣参謀は、緒戦から「争点無し」の情報戦に勝利し、議論を矮小化させる事に成功した。

 彼等の思惑通りメディアによって「大義無し」が連呼されるほど論点は消失し、投票率が低下する事で、既存組織力が威力を発揮し、旧来からの投票組織基盤を持つ基礎兵力の差が、小選挙区制と言うSystemによって倍増され、大勢を圧倒的な自民有利に導いた。

 また、劇的な原油安と言う大雨が降った事は、大軍の奇襲を成功させた一つの明確な要因と成った。攻める側はそれを天啓と見た事だろう。

 こうして、大軍を前にした諸勢力は、各個撃破され無残に打ち砕かれて行った。


 しかし、実際には争点が無かった訳では無い。原発再稼働や東北の復興、防衛に関する施策には、未だ言葉で埋め合わせるにはその余地が残っている。

 また、アベノミクスの特に第三の矢とされる大規模規制緩和には世論の根強い疑義が存在する。

 しかし、それらは争点には成らなかったし、何より、それを批判する側も世論が納得する様な、アベノミクスと言う一つの設計図に対抗する様な、大きな意見としての「日本の設計図」を形成出来ていなかった。

 こうして、自民は圧倒的な勝利を得た。


 山の中で仕事に追い回されている間に、世の中は乱世の勢いだ。島根は森林に人は居らず、徳島と高知は現世の波に洗われていた。

 奥出雲のあてがわれた宿は、旅館と言いつつ民宿であった。
 贅沢は言うまい。

 出雲そばは製麺所製でエポキシ塗料のウルシ風塗装はところどころはげ落ちて、下地のプラスチックが覗けている。

 宿の夜は非常に冷え、暖房は効きが悪く、連日、毛布を袋おりにして新聞紙を足に巻いて床に着いた。

 80年代のメローな色調の卓上ランプを枕元に、宮本常一の「忘れられた日本人」の文字を追った。古い木造家屋を軋ませる北風は、ラフカディオハーンの物語を宮本の言葉に重ねたが、古人の面影は遂に枕元に現れる事も無かった。

 宿の子供は妖怪ウオッチ零式を自慢してみせたが、出雲の山間さえもはや祖母から妖怪話を受けづく風は絶えて久しい。妖怪の地方和名より、メーカーの定めた商標名が幅を効かせている。

 妖怪カードを「ぬりかべ」と読んだ所、「むりかべ」だと嗜められ、妖怪ウオッチのキャラ設定を四半時レクチャーされる事に成った。

 経済に追い立てられ、さらに構造改革が進む。

 宮本が言葉の端に慚愧を漂わせたがごとく、日本人全体が失われて行く様な喪失感を覚えつつ、安倍氏のにこやかな笑顔を画面の上に見る。


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「解散・総選挙 なぜ今?与党が勝つとどうなる?」

更新 2014/11/17 16:00


http://dot.asahi.com/aera/2014111700047.html



 上の記事でも皆さん色々と述べられておられます。

 何故、今の時期かと言う問題は、やはり今が最良だと判断するに足る状況が現実に有ると言えるわけで、安倍さんのブレーン達にとっては今が最高のタイミングと言う事なのだと考えています。


 まず今のタイミングでは、安倍内閣は財界から極めて高い支持を維持しています。

 現在、安倍内閣には財界からの資本が潤沢に流入しています。上場企業の多くが過去最高収益を記録する等、財界からは特に安倍政権に対する強い逆風は無い訳です。

 さらに言えば、消費税導入に関しては米国を含めて財界から異論が出た事も飲込みましたし、法人税減税と労働移動支援助成金制度等も拡充しています。海外へのトップセールスとワンセットに成った経済援助も安倍さんになってから大判ぶるまいに成りました。
 そして、株価は微妙な上げ下げを繰り返しながらも上昇傾向に有る訳です。

 ですので、財界に対しては安倍政権はほぼ満額回答というべき政策を実現してきたと言えると思います。不満が生じる余地が小さい訳です。

 官界はいろいろと有りますが、基本ベースでは安倍内閣を支持する形での合意が形成されている・・・というより、財務や経産の主導集団は安倍内閣の政策の多くを牽引している格好です。

 政界を自民が圧倒的比率で牽引する状態で、財界と官界が安倍内閣を支持している状態が安定していると言う事です。

 ですので、外的には各社会勢力が安定して自民の支持に回っていると言うタイミングはまず、かなり大きいと言えるかと思います。

2に続く

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 「日本領海でのサンゴ密猟」について、中国外務省は3日、華春瑩報道官の公式声明として、

中国は一貫して海洋生物の保護を重視し、漁業者に対しても法に従って操業するよう求め、アカサンゴの密漁を禁じている

と記者の質問に返答している。
(資料1)

 また、中国政府が公式に日本政府の要請に対して反応している内容は、菅官房長官の発言として

中国は本件の重大さを認識しており、漁民に対する指導など、具体的な対策に取り組むとの回答があった。我が国からも、中国に(密漁漁船に関する)情報提供をしている

という回答からも分かる。(資料2)

 これは、日本政府は木寺昌人中国大使を通じて、3日中国の王毅外相に遺憾の意を伝え、サンゴ密猟の再発防止を求める文書を提出していることを受けている。

 つまり、日本政府側による外交レベルでの積極的な働きかけが行われているのだが、それは日本が外交ルートを通じて中国に抗議し、その抑止を要請、中国政府も公式には取り締まりを確約するという、外交上の順当なプロセスを踏む形でやりとりがなされている事を示している。

 また、日本政府は中国政府に対して公式には取り締まりを確約するという成果を引き出している事から、明確な外交プロセスとして日本側に逸脱行為は無い。

 しかし、台風後の昨日も本日も、中国の密漁船が日本海域で公然と日本資源の略奪行為を続けており、ここで

漁民に対する指導など、具体的な対策に取り組む

という中国政府の声明は守られていない事が分かる。(資料3)

 
だが、そもそも中国の漁業については、厳格に中央統制が機能する登録認可型のSystemを採用しており、中国漁船の行動は中国当局の管理下にある事は大前提である。
(資料4)(資料5)(注記1)

 現実に彼等の行動を見ても「当局の目を盗んで」という行為ではなく、明らかに日本の報道を含めたメディアでの拡散に警戒感を覚える気配はなく、その「映像」が中国当局の罰則の証拠となる事を彼等が全く恐れていない様子は、これらの船団に明確に観察出来る。

 彼等は堂々と公然と「密猟」という資源簒奪行為をカメラの前で繰り広げている。

 つまり、日本側の映像証拠に対して、中国当局が取り締まらないと言う前提の行動である事は明白で、中国の漁船団が、これほど大量に日本に出漁し ている以上、これは密猟ではなく中国政府の介在する形での事実上の放任もしくは意図的な行為である事を疑わざるを得ない。

 中国政府が周到な点として、中国漁村等に対して密猟禁止に関する啓蒙活動の一環として、サンゴ密猟禁止ポスターの掲示を含めたアナウン ス行為は火急迅速に行っている。

 また、見せしめ逮捕や密告に対する懸賞金制度の施行等、実効性に疑問視される向きも有るが、全く対応をしていない訳でもない。
 国際社会に向けた外交上のジェスチャーとして国内対策の既成事実は確保し ているという意味でも、非常に巧妙な対応を見せており、予期される日本や国際批判をかわす事も計算している様にみえる。

 傍証として、アカサンゴは中国国内で確かに高値で取引される投機品として脚光を浴びているが、アカサンゴの分布は、小笠原沖だけでは無い。良く知られ る様に四国沖を筆頭に九州周辺にも大面積で生息し、さらに投機対称と成る宝石サンゴは長崎五島列島、沖縄、ミッドウェイにも分布する。(資料6)(資料7)

 では、何故小笠原沖に異常に中国籍の「密猟」漁船が密集しているかについてだが、各国の軍事アナリスト等が分析している様に小笠原諸島から、サ イパン、グアムを結ぶ第2列島線を攪乱し、日本及びアメリカの太平洋西部海域支配を限定化する事が狙いであると容易に推測出来る。

 中国は80年代より第二列島線までの海域支配を明言してきており、西太平洋での中国の「権利」を述べ、その野心を露骨に示し続けているからだ。(資料8)(資料9)

 つまり、容易に予測されるのは自国船籍密漁船に対する「取り締まり活動」を口実に、第二列島線までの中国軍による哨戒活動の拡大が公然化するというシナリオである。

 中国軍艦戦が第二列島戦付近まで常駐する様に成れば、第一列島線である台湾・奄美海域から、日米両国の軍事連携が寸断される事に成り、日本南海での中国のプレゼンスが急拡大する事に成る。
 これにより、日本は南からも中国の軍事的威嚇と資源簒奪が常態化する事態に対応しなければ成らなく成る。

 旧来から言われ続けて来た様に、中国政府や軍部が、その興味や野心を抱く海域には、先に大挙して漁船団が現れる点を欧米メディア等は「中国の漁船と言う兵器」等と表現し、これを批判している。漁船の次は哨戒船、そして軍監と既成事実を拡大する事がワンセットと成り、世界中で繰り返されている。
 
(資料10)




 これらの状況を解析すると、中国はまず小笠原沖でのサンゴ密猟と言う脅威を演出し、日本の動揺を生成している戦略的な行動である事が容易に推察可能である。

 つまり、尖閣初等周辺域での「漁船」越境問題や、ベトナムやフィリピンで行っている領海侵犯行為に見られる様な、中国が従来から選択して来た他国に対する主権侵害行為の一つのパターンを確実に踏襲している事が分かる。
(資料11)

 自ら相手国の主権を侵害する事で、意識的に外交交渉上の争点を生成し、それを材料に本来相手に妥協させたい部分に対して、外交上の交換条件を作り出すと言う旧来の戦術の焼き直し行為を、再び実行しているに過ぎない。

 こうした観点から見れば、今回の事は両国間で懸念されて来た首脳会談問題に直結している事は明らかだ。

 その前段階として、日本政府が中国政府と取り交わした「同意事項」生成に向けて、両国間で交渉が加熱してきた時期から、この「密猟行為」が突然拡大して来たというタイミングと見事に合致する。

 中国側の戦略的意図は、日本側に対して世論反撥を含めた外交的優位を確立する為と、首脳会談時の「そもそも存在しない妥協点」を作り出す為という、極めて戦略的手法に乗っ取った行動であると分析出来る。

 同時に日本国内で日本政府対応に対する不信を生成される事を予期し、相手の国内で混乱を生成し、友好か強硬かと言う世論の議論の拡大を促し、相手国の足並みの揃わない対立関係を内包した世論を背景に、自らの交渉を有利に運ぶという攪乱戦術の意味合いも持ち合わせている点もまた、非常に戦略的な行動で有ると言える。

 こうした中国の演出を理解せず、いたずらに事象に着目し続ける事は、日本にとって不利であり、本来であれば密猟取り締まりとしての司法上の対処が望ましい。

 具体的には、日本政府による司法権上の権利行使として、密猟者に対する厳格な逮捕拘留活動の拡大は急務であり、さらに言えば悪質なケースに対して、逮捕時の武力行使に向けた法的罰則(懲役5年以上)の強化の為の立法の生成という、日本国側の自発的検挙活動が望まれる。

 しかし、日本側はアメリカを中心とした国際世論から強く促され続けている首脳会談開催にこだわり、そうした自発的な強硬態度に向けて行動する事を消極化させている。
 このことも、日本国内の政府は弱腰と言う批判を拡大させ、安倍政権の政治力を弱め弱体化させるという効果を生む。
 この二律背反によって日本は何も出来なく成る。

 そして既に中国の国内メディアが報道している様に、日中は首脳外交交渉前にテンプレートと成る合意文章を作成し、その中で

沖縄県・尖閣諸島の問題について「異なる見解を有している」
(資料12)

という文言を加えた事で、中国国内メディアはこれを「日本が遂に領土問題として認めた」と言う論調で、既成事実化をアピールし始めている。まして、ここには沖縄県と言う言葉が堂々と含まれている事に驚かざるを得ない。

 また、

歴史を直視し、両国関係に影響する政治的困難を克服する

とする同意文章も、日本側が遂に自ら非を認めてテーブルに着くとしきりにPRされている。

 確実に日本側の意図している対話の為のお膳立てという筋書きは巧妙に書き換えられ、中国がこれまで一方的に付け足して来た外交カードがレベルアップによって強化されるとともに、巧妙にその内容が拡大解釈されて行く。

 対欧米向けの中国系メディア報道でも、「尖閣の領土問題」と「日本の歴史を直視」が話し合われると言うPRが成され、日本側は首脳会談の前から「会談の失敗の原因」という「かせ」を予め相手に押し付ける狡猾なトラップに対峙しなければ成らなく成った。
(資料13)(資料14)(資料15)

 そして、ここに新たに「密猟問題」という外交テーマが加わり、日本がその他の経済や資源、防衛交渉で、新たなカードが交換条件として、中国側の切り札に加わる事と成る。

 日本人は旧来の「友好」VS「強硬」という二元的な外交戦略を改め無ければ成らないし、中国は日本の紆余曲折という国内事情を充分読み切って、今回の「密猟」行動をとっていると理解すべき段階だ。




 
 古来よりの日本的な感覚から言えば、交渉前には出来るだけ騒乱を避けて穏便な行動をとり、相手の立場を少なくとの尊重してみせるのが礼節とされる。

 そして、そうした認識は日本型の社会構造維持においては、当然何ら間違った認識とは言えないだろう。しかし、これが異なる社会構造を持つ文化圏に対する時、日本的な認識でそのまま相手を観察し、日本文化的な対応をとり、相手にもそれを期待する事は決して得策とは言えない。

 中国だけでなく、韓国や北朝鮮にも見られる中華文化圏国家群の社会文化的行動傾向として、交渉の前に成ると逆に小さな武力衝突や外交的トラブルを起こし、意識的に相手側を攪乱すると言う手法は、史的観察においてもレギュラーと言うべき当然の行為であり続けて来た。

 これを日本文化圏的感覚で「ずるい」と糾弾するのではなく、それは異文化の社会的行為として他者として自覚的に観察し、冷静に理性的に対処する事が求められる。

 すでに明らかな事だが日本型の外交上の配慮から開催予定の首脳会談にむけ、サンゴ密猟事案に対しては日本側が強い対応を取る事が出来ず、首脳会談前後の外交交渉でのサンゴ密猟事案の解決と言う事に成る公算が大きい。

 結果的に中国に対して「国内で取り締まってください」と述べる事は外交上のお願いとなり、それは外交的な日本の妥協点・弱点として相手にカードを一枚増やす事を意味する。その事を中国政府は良く理解して行動していると言う戦略的観察を日本人は忘れては成らない。

 相手は中華文化圏という「駆け引き」というネゴシエートを、子供から大人まで骨の髄のレベルで戦略的に行使する文化圏であり、当初から日本型の誠意等、決して期待しては成らないし、「けしからん民族」だと激怒する必要も無い。

 それは文化圏としての構造上の差分に過ぎず、所謂、「文明の衝突」なのである。

 文化傾向から見て、それはどちらも間違っておらず、お互いにやり方が違うにしか過ぎない。根本の歴史に基づいた社会文化的な「」として求められる形が、構造として異なっていると言う事に過ぎない。

 日本側がすべき事は、自価値をしっかりと担保した上で、相手の差異性を理解し、毅然とした態度で厳しく当たるべきである。

 平身低頭で隷属したり、自分を曲げて相手との意味の無い「友好」に傾斜したり、逆に攻撃的に相手の主張を強硬にはねのける事も得策ではない。
 剛直で時に柔軟なネゴシエーターとして、根本から異なった「」である人々、つまり、一筋縄でいかない相手にしたたかに対処する事が望まれる。

 相手は孫子や諸葛孔明を産出した国であることを踏まえ、いたずらにこうした攪乱戦法に乗り、意味の無い友好親善や、断交も含めた強硬路線もまた、相手の術中に嵌る事になり、我々は歴史を繰り返す事に成る。我々はその轍を回避しなければ成らない。

 中国に対する日本世論の見識が、逆にこの事案によって深化する事を期待したい。

雁金敏彦 情報技研




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(資料1)
中国「サンゴ密漁の取締り強める」」 NHKニュース
11月3日 18時53分
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20141103/k10015906811000.html

(資料2)
サンゴ密漁防止、中国外相に求める…政府
読売 2014年11月06日 15時43分
http://www.yomiuri.co.jp/politics/20141106-OYT1T50091.html

(資料3)
サンゴ密漁:小笠原、漁船100隻超が再集結 台風去り
毎日新聞 2014年11月07日 11時30分(最終更新 11月07日 12時02分)
http://mainichi.jp/select/news/20141107k0000e040198000c.html

(資料4)
「日中民間漁業協定(1955年)
東京大学東洋文化研究所 田中明彦研究室
http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/JPCH/19550415.T1J.html

(資料5)
東シナ海で3カ月間の全面休漁、海洋資源保護に対応
レコードチャイナ 2014年6月3日 20時32分
http://www.recordchina.co.jp/a89079.html

(資料6)

全日本さんご漁場図
 全日本珊瑚漁業協同組合
http://www.j-coral.com/report57/IMG-s5705zen_0002.jpg

(資料7)

ミッドウェー漁場図
全日本珊瑚漁業協同組合
http://www.j-coral.com/report57/IMG-s5705zen_0003.jpg

(資料8)
TRENDS INCHINA’S NAVAL MODERNIZATIONUSCHINA ECONOMIC AND SECURITY REVIEWCOMMISSIONTESTIMONYJESSE L.KAROTKIN
http://www.uscc.gov/sites/default/files/Karotkin_Testimony1.30.14.pdf

(資料9)
中国の南太平洋島嶼諸国に対する関与の動向―その戦略的影響と対応―
吉川 尚徳
http://www.mod.go.jp/msdf/navcol/SSG/review/1-1/1-1-3.pdf

(資料10)
China’s 50,000 Secret Weapons in the South China Sea
http://nationalinterest.org/feature/china%E2%80%99s-50000-secret-weapons-the-south-china-sea-10973

(資料11)
China-Japan Maritime Dispute: China Recalls Navy Ships, But Sends More Fishing Boats
http://www.ibtimes.com/china-japan-maritime-dispute-china-recalls-navy-ships-sends-more-fishing-boats-1712429

(資料12)
日中首脳が会談へ 前提として合意文書発表 異例の対応
朝日新聞デジタル 11月7日(金)19時46分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20141107-00000042-asahi-pol

(資料13)
尖閣 見解相違認める 日本側譲歩 日中首脳会談へ
東京新聞 2014年11月8日 朝刊
http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/news/CK2014110802000116.html

(資料14)
日中が対話再開へ、尖閣めぐり見解の相違認める
ロイター日本語版 2014年 11月 7日 19:07 JST
http://jp.reuters.com/article/worldNews/idJPKBN0IR0PE20141107

(資料15)
日中が対話再開で合意、東シナ海の危機管理体制構築へ
WSJ日本語版 2014 年 11 月 7 日 18:33 JST
http://jp.wsj.com/news/articles/SB12377912224764574491004580263461085235080?mod=WSJJP_hpp_RIGHTTopStoriesFirst

(注記1)
密漁船を=全て偽装登録の「三無漁船」であり中国が取締に苦慮していると一部報道に有るが、外洋航行可能な中型漁船が100隻前後常に操業する事 態の説明には成らない。「三無漁船」含まれているだろうとする推測と、小笠原沖で大規模に漁船が公然と展開するな事態には、事実認識上の大きな乖離が有 る。




雁金敏彦著



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 香川県高松市の沖合に大島が有り、ここに国立療養所 大島青松園が設立されたのは明治42年(1909)。

 この病院は日本国政府が設立した国立ハンセン病(注.1)療養所であり、かつて伝染性の業病と恐れられたハンセン病者を社会から隔離する役割をもっていた(注.2)。

 人類にとって古いハンセン病の歴史は、常に病を得た人々への強い差別と排除を伴った。
 この病気が徐々に皮膚、骨、内蔵を侵し、人の外見を損なうという部分が、見る人々を生理的に恐れさせ、恐怖によって社会は患者達を排除しようとし続けた。

 中世から近世にかけて、社会から排除された患者達は集住と漂泊を余儀なくされ、やがて患者は路辺に倒れてその生を終えざるを得なく成った。この時代に欧州や日本等では、宗教施設が療養と隔離の為の患者保護施設として各地に展開した。

 しかしむしろその差別は近代に入って明確に成った。
 科学の進展から細菌感染と言う認識が確立し、原因不明とされた病気が感染症だと理解されると、逆に感染を恐れて感染者を危険視する風潮は強まり、ハンセン病罹患者に対してその隔離政策は徹底した物と成って行く。(注.3)

 近代国民国家の時代、各国は地理的に孤立した島嶼等を選んで、感染予防の為のハンセン病専用の建築物を建造した(注.4)。
 そこでは感染者は家族と引き離され、感染予防と逃亡抑制から専用通貨まで用意され、葬儀や埋葬までその地に限定された。同時に不妊手術等の強制断種さえ制度化され行われている。(注.5)
 戸籍から抜かれる等の処理とともに、施設内では園名と言う名前を与えられ古い名は捨てさせられ、強制的に存在を抹消され社会から人がかき消されると言う装置が制度化されていた。

 つまり、ハンセン病にかかると言う事は、生きながら死者に成る事を宣告されるという、全ての終わりを意味していた。

 実はハンセン病は極めて弱い感染力しか持たなかった。しかし、その病変への恐怖から伝染力が強いと信じられ、強い社会リスクとして捉えて、これを近代国家の合理的防疫という観点からも強制的に社会から隔絶しようとした。
 施設に勤務する医療従事者やその家族にまで根強い偏見と差別が続いた事は今日でも良く知られている(注.5)。

 この国立療養所 大島青松園の入所者の為に「霊交会」キリスト教カソリックの信者組織が設立されたのが大正三年(1914)である。
 きしくも、それは桜島大噴火と同じ年と成っている。

 桜島噴火被害の責を負わされる形で鹿角義助は鹿児島を去り、多度津測候所所長として大島青松園がある香川に転任したのが大正三年(1914)。
 辞職を拒まれた事で、鹿角自ら転任を願い出たとはいえ、それは事実上の更迭と社会からは理解された。ただ、測候所のおかれた状況を理解する中央気象台(気象庁)にとっては、鹿角を保護すると言う傾向に強く傾く。

 鹿角は温暖な瀬戸内の気象に触れ、浜田から鹿児島まで積み上げて来た気象観測に対する長年の技術をもって職務に打ち込み、すぐに新しい任地にとけ込んでいる。多度津測候所で鹿角は定年退官まで実直で正確な仕事を続け、退いて後も多度津の隣 香川丸亀に住んだ。

 その香川にあるハンセン病施設、大島青松園の「霊交会」の機関誌「霊交」には、患者や職員、そして家族達の様々な思いが綴られている。(注.6)
 社会から忌み嫌われ排除される身の居場所を、一身にキリスト教的な信仰の中に探ろうとする人々の声がそこに残っている。つまり霊交とは、罹患により肉体が滅ぶと宣告されても、霊と言う精神の世界では神と交わろうとする願いを示していた。(注.7)

 長年発行を続けた機関誌「霊交」の文末には、全国からの寄付者名簿があり、その中に鹿角義助の名前が残っている(注.8)。鹿角は測候所の勤務時代以降を通して毎年寄付を続けた。

 社会から強い排撃を受け、全てを失って故知を追われた人々の住まう大島青松園に、鹿角は寄付を続けた理由に何が有ったのか、史料からはそれ以上判断する事は出来ない。寄付者名簿にその名が残るのみである。

 ハンセン病のカソリック系患者組織の活動に寄付を続けた鹿角はまた、自身も熱心なカソリックであった。つまり、自殺を禁じたその信仰において、そもそも桜島大噴火の予知を果たせなかった引責の為の「自決」はそもそも選択出来無かったのである。

 鹿角は昭和36年8月多度津の隣地である丸亀市の自宅でその一生を終えた。86才である。
 鹿角は大森や今村より長く生き、そして、彼等が震災とと格闘を通し、その苦心惨憺のうちに人生終えた様子を四国から見つめ続けた。

 かつて人生に浅からぬ交わりをもった二人が迎えた結末について、最も長く生きる事に成った鹿角がどのように感じていたのか、それについて史料には語る文字は見当たらない。

おわり





(注.1)
 ハンセン病、癩病またはらい、英名では一般にレプラ。抗酸菌マイコバクテリューム・レプラによって引き起こされる感染症の一種。紀元前16世紀頃にエジプトの史料に登場する病変をハンセン症の最初の例と解釈出来る史料が最も古いとされる。

 一般に広く知られた伝染病であり、その病変の激しさにより、強力な感染力を持つ不治の病と誤解され、ハンセン病感染者は差別され社会から迫害を受けた。現在では感染力が非常に弱い事で知られ、抗生物質により完治が確立している。中世までは社会に蔓延した慢性病であったが、ペストの流行とともに反比例するかの様に感染者数を減らした事は、その原因が諸説有り未だ明確ではなく議論の対象である。

(注.2)
旧約聖書レビ記13章

「13:1 ついで主はモーセとアロンに告げて仰せられた。
13:2 「ある人のからだの皮膚にはれもの、あるいはかさぶた、あるいは光る斑点ができ、からだの皮膚でらい病の患部のようになったときは、その人を、祭司アロンか、祭司である彼の子らのひとりのところに連れて来る。
13:3 祭司はそのからだの皮膚の患部を調べる。その患部の毛が白く変わり、その患部がそのからだの皮膚よりも深く見えているなら、それはらい病の患部である。祭司はそれを調べ、彼を汚れていると宣言する。」

「45.患部のあるらい病人は、自分の衣服を引き裂き、その髪の毛を乱し、その口ひげをおおって、「汚れている、汚れている。」と叫ばなければならない。その患部が彼にある間中、彼は汚れている。彼は汚れているので、ひとりで住み、その住まいは宿営の外でなければならない。」

(注.3)
 癩予防法。

 県知事等は強制的に感染者を拘禁し、家屋等を消毒した後、療養所へと隔離入院させる権限を付与された。これにより感染者は強制的に家族や地域と引き離され、終生完治しない限り療養所に軟禁状態にされるという仕組みが立法化されていた。感染原因が明確ではなく、実効性のある治療が確立されていない時代に隔離は事実上、死の宣告と同じだった。昭和28年にはらい予防法に引き継がれ、当時その根本的な社会の対処法はほとんど変わらなかった。

 また、社会的には昭和5年(1930)頃からに、全国的に無癩県運動が始まる。これは、地域内で患者を強制摘発し強制的に収容することで、自治体内からハンセン病患者を一掃する為の物で、強制摘発は患者本人だけではなく、摘発行為に抵抗するその家族にまで及ぶ激しい物であった。

(注.4)
 日本においては特に明治維新以降、隔離政策が強かった外国人居留者によるハンセン病患者無隔離の苦情が殺到した事も、ハンセン病患者隔離施設と法整備の必要を迫らせる要因と成った。


(注.5)
 国民優生法(1940)

第2章 - 優生手術(第3条~第13条)

本人又は配偶者の遺伝性精神病質、遺伝性身体疾患もしくはは癩(らい)疾患、血族の遺伝性精神病など者は優生手術を行う。また、医師がその疾患の遺伝を防止するため公益上必要であると判断した場合、都道府県優生保護審査会の審査を経て優生手術を行う。

(らい=ハンセン病に遺伝性は無い。)

(注.5)
 2004年に起きた施設職員の子弟に対する入学差別事件等を参照した。

(注.6)
「報知大島」阿部安成 2012、

(注.7)
 宗教とハンセン病治療には長い歴史が有る。光明皇后の逸話は仏教説話であり、日本においては中近世から現代までを通して、主に仏教者が患者救護の役割を果たした。近代以降、キリスト教もまた、強い役割を担う。宗教的な克己心によってしか、強烈な忌避意識を解決出来なかったという部分に、ハンセン病にまつわる深い懊悩が有る。
 ただ、現実的な視点から見て、自身の葬儀において血縁者の援助が受けられないという必要性から患者の入信が必要であったと言う面も強い。

(注.8)
「「霊交」第195号,1935年2月10日「金弐円也、香川、鹿角義助様」、「霊交」第208号,1936年「金弐円也、多度津、鹿角義助様」」等と記載が残る。
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<span style="color:#666666">20.

 地震学の父と呼ばれる大森房吉。その後輩で後に地震の神様と呼ばれた今村明恒が、後年あまりにも仲悪しかった事は良く知られている。

 大森が帝大に勤務中の時間は、今村はほとんど大學に登らず、大森が帰る時間に成ると今村は帝大の教室に顔を出すと言う程、二人は接触を避けていた。大森は今村が極端に自らを避けている事を知りながら放置し、今村の能力は評価しつつも今村の研究者としての姿勢に厳しい態度を取り続けた。

 二人の論争は、明治29年(1896)6月15日に発生した明治三陸地震津波(注.1)(注.2)に端を発してこじれ始め、特に今村が総合誌「太陽」に明治38年(1905.9)(注.3)に発表した有名な防災論文「市街地に於る地震の生命及財産に対する損害を軽減する簡法」の騒ぎで決定的と成る。

 太陽掲載の翌年初旬の大衆紙によるセンセーショナルな報道によって、帝都に大地震近しと言う風説(注.4)を広げ、実際に関東地域で地震が群発したこともあり(注.5)、首都圏で社会的パニックを引き起こす事と成った。(注.6)

 該当の論文での今村の主張は、大都市における防災のあり方を述べ、今日的に見ても災害被害を最小限化する「減災」の視点から述べられる示唆に富んだ物だが、それが出されたタイミングは極めて悪く、また、実際に地震が起きたこともあり、今村への政界や官界そして何より学界からの批判が噴出する事と成った。

 この一連の騒動で政界・官界から帝大地震学教室への風当たりが強く成り、大森はその対応に追われる事と成る。

 大森は政府筋の要望等も有り、世情を沈静化させる為、「東京と大地震の浮説」を太陽に発表し、以降、大災害到来に対する社会的な鎮静と言う役割を担う様に成る。大森は強い語調で、「今後約五十年ノ内二、東京二大地震ガ起コリテ、二十万人ノ死傷者ヲ生ズベシ」とした今村の論を「浮説」として一蹴した。

 そして、先に記した大正3年(1914)の今村が太陽誌上で繰り広げる事と成った桜島噴火予知を可能か?とする論争や、大正4(1915)の房総沖群発地震での今村の発言によるパニックの発生の度に、今村が引き起こしたパニックや論争を、大森が大家として登場して鎮静させるというパターンが繰り返される事と成る。

 学界では今村が一般雑誌や新聞への寄稿を続けたこともあり、今村を金目当ての見せ物屋とする批判が噴出する。今村の出稿のタイミングは確かに商業誌の販売目的のニーズに引きずられる物でもあった。

 この頃既に、大森が今村を思う度合いは、ほぼ嫌悪に近い感情まで伴って居たと言われる。今村は自説で防災を述べ、述べる為に予見される被害想定を描き、その被害回避の為にこそ対策を説くのであるが、社会はその被害想定の強烈さにのみ怯え続けた。
 今村のその信念は極めて強固であり続け、周囲の説得に耳を貸さず大森を悩ませる。

 しかし、地震学を社会的に有効性のある学問としてその立場を確立したい大森にとっては、今村の行為はいたずらに世の中の不安を煽り、風説を流布する事で地震学の信用を傷つけ、その将来性を危うくする暴挙に映った。
 そして、現実に今村の行動は社会的パニックや不毛な論争を数多く引き起こしている。(注.8)

 同時に、ここには日本の世論に常に潜む大災害への恐怖が社会心理としてベースにある中で、その願望として「地震の予測と減災」という議論を捉えて、「予知」と曲解する世の中の背景が大きく存在していた。

 大正12年8月1日より開催された第二回汎大平洋学術会議に、大森は他の日本人出席者達とともにオーストラリアに渡った。

 大森はこの渡航で、決して体調が優れなかったが、精力的に会議に出席し、当時の世界最高峰の権威として発言を重ね国際的評価を得た。閉会後、シドニーで大事をとって少し休息する事となり、9月1日リバビュー天文台の昼食会にメインゲストとして招かれている。

 食後の和んだ雰囲気の中、1時9分。天文台を地震が揺らした。
 天文台台長ピコットに案内されて大森は天文台の地震計の前に立ち、昼食会の出席者らに「太平洋のどこかで、今、地震が起きております。」と落ち着いて伝えた。

 しかし、大森は地震計の波形や集まった情報を整理し愕然とする。
 データーは東京近辺で非常に大きな地震が起きた事を示していた。これが「関東大震災」であった。
 
 同日日本時間午前11時58分、三つの大きな地震が連動して5分間という長い時間、首都圏は激しく震えた。推定されている揺れはM7.9。神奈川県を主にして甚大な被害が発生し、死者・行方不明者10万5千余人、全半壊家屋20万余棟、焼失家屋21万余棟という大災害となった。(注.9)

 これを受け大森はシドニーより、急遽帰国する。
 しかし、大森にとってその衝撃は大きく、次々と入る大被害の情報に大森は心痛を深める。自身が発表し続けた大震災否定の言説が被害を拡大したのではないか?。その心労から病状は急激に悪化し、大森は帰国した後しばらくして人事不省となり、11月8日に息を引き取った。

 風説の流布を抑止する為とはいえ、関東首都圏での地震の発生を否定していた大森にとって、被害拡大を招いたのは自分だとする自責の念が、病に有った生命を激しく損耗させたと言える。

 大森の死後、予知を続けて来た今村は関東大震災を予見したとされ一躍時の人と成る。
 大正末頃から昭和初期にかけての日本の地震学を牽引する多くの優れた仕事を残し、日本地震学の中心的役割を担い奔走する事に成る。
 有名な防災故事である「稲むらの火(注.10)」を尋常小学校教科書に掲載させたのは今村の運動による物であり、彼は終生強い信念で、防災とその為の予知に心血を注いいでいる。

 しかし、日本が戦争に突入する事で震災情報は軍事機密化し、防災に関する情報体制や地震被害情報の分析も又、国家機密と成った。それまで今村が構築した地震防災のSystemはほとんど機能しなく成る。

 その結果、敗戦直前の昭和19年(1944)12月9日に発生した東南海地震(注.11)と、翌年1月13日に発生した三河地震(注.12)では、今村の提唱してきた建築物の耐震化や、消火インフラの整備の呼びかけ等が全く機能せず、さらに地震被害に箝口令がしかれた事で地震災害情報の早期連絡も行われず、被害がいたずらに拡大する結果を招いている。

 新聞やラジオはこの大災害をほとんど報道せず、報道されたケースも三面記事の小さな扱いに止めた(注.13)。こうしてこの大災害は、戦後、多くの人々が全く知らない幻の出来事として急速に風化した。

 さらに1945~46年にかけて戦争の惨禍が拡大し、その後の敗戦の混乱期に日本全土で激しい地震や津波、噴火災害が相次いだ(注.14)。この時期、日本中で驚く程の天災が連続する。
 そして、ついに敗戦後の昭和21年(1946)12月21日南海地震が発生。死者・行方不明者1554名、被災者23万268人と言う膨大な被害を出した。
 
 昭和23年(1948)1月1日、今村は閑居の中で死去するが、その脳裏には戦中・戦後の大災害に対する無力感が強く有り、失意の中の死である。

 「~自分は地震の予知には強い関心が有り、一生をその仕事に捧げて来たが、自分の努力は報いられる事は無かった。~」(注.15)と、今村は死の半年前の昭和22年(1947)7月の準備委員会の席上そう述べた。
 それは今村に似合わぬ力の無い言葉であったと同席者が感じたと史料に有る。
 
 こうして、日本の地震学の黎明期から青年期に当たる時代を支えた二人の大きな存在は、自然災害に打ちのめされ、何より社会の願望と時代の波に翻弄されながらその一生を終えている。
 その軌跡は最後まで震災と言うより、人間社会の軋轢によって強く揺さぶられ続けた。

つづく

次回終稿 「落葉に降りる霜」


 

<span class="small">
(注.1)
 明治29年(1896)6月15日に発生した明治三陸地震津波は、最大震度4が最高で有りながら、大きな津波を発生させた。
 岩手県綾里村で38.2mを記録、このレコードは平成22年(2011)の東北地方太平洋沖地震の津波被害まで破られる事は無かった。地震で被害はほとんどなく、典型的な海溝型の地震津波だったと言われる。
 被害は死者・行方不明者合計、2万1959人、負傷者4398人、家屋流失9878戸と、東北地方太平洋沖地震を上回る甚大な被害を発生させた。

(注.2)
 津波の発生原因について大森が「流体振子説」をとったのに対して、今村は「海底地殻変動説」を称え激しく反論した。当時、大森の独壇場に近いと言われた地震学界は圧倒的に大森の学説を支持した。自説に対して剛直な今村が、柔和で謹厳な大森に論戦を挑んだ事から、今村を学界の「問題児」として忌避する雰囲気が高まった。ただ、今日の目から見ると今村の「海底地殻変動説」に正しさが有る。<<雁金

(注.3)
「市街地に於る地震の生命及財産に対する損害を軽減する簡法」今村明恒 明治38年(1905.9)
「太陽」11巻12号  P162~171

(注.4)
「今村博士の説き出せる大地震襲来説、東京大罹災の予言」東京二六新聞記事、明治39年(1906)1月16日。

 新聞は記事の中で、今村の論文中の死傷者20万人とする被災シュミレーションをとり上げ、関東震災50年周期説を指摘し、古来より災厄の年とされる丙午である本年に地震が到来すると説いた。
 東京二六新聞(二六新報・世界新聞)は、時に大衆世論迎合の立場から政府への批判報道を繰り広げた事で知られる大衆紙である。東京二六新聞と萬朝報が発行部数の首位をめぐり報道合戦を展開した事は有名で、その事がセンセーショナリズムにより牽引された大衆世論への迎合の風潮を作りだした。結果、戦前日本メディアの検証性を脆弱化させプロパガンダ色を強める働きを示したと指摘可能である。<<雁金

(注.5)
 明治39年(1906)1月21日、三重県沖東方でM7.6。2月23日に、房総沖を震源とするM7.3。2月24日に、東京湾口を震源とするM7.7。これらの地震には前後して小さな地震が多く伴った。<<雁金

(注.6)
 明治38年(1905)9月5日に日露戦争戦後賠償を巡るポーツマス条約が締結された。しかし、その内容は極めて日本にとって不利な物と理解され、政府に対する国民の不満は爆発し、官邸や報道機関、警察署、キリスト教教会等が群衆により焼き討ちされるという所謂「日比谷焼き討ち事件」が発生している。この暴動で死者17名、負傷者500名を出した。キリスト教会に多くの被害を出したのは、周旋国アメリカのロシア迎合と言うべき態度に対する被害意識の転嫁とされる。

 都内は9月6日より戒厳令下に入り、戒厳令廃止は11月29日にようやく解けると言う実に長い物だった。そうした世情大混乱の中、今村が誤解を与えかねない論文をわざわざ一般総合誌に発表したタイミングを大森らは批判したともされる。ただ、今村にしてみれば排除された学界ではなく、世に問うという形しか残されても居なかった。<<雁金

(注.7)
 明治39年(1906)2月24日に中央気象台(気象庁)を名乗る人物が、大地震到来の予報とする電話を、中央官庁、警察、病院、報道機関、企業等に伝えた。この風説の流布が2月24日に首都圏脱出のパニックを巻き起こす装置と成った。日比谷焼き討ち事件との関連も疑われる謎の多い事件である。<<雁金

(注.8)
 桜島噴火に関する日本気象学界「気象集誌」(JMSJ)での、今村と後の第5代中央気象台長 藤原咲平との論争等。藤原は事実上、予知は不可能として鹿角義助を擁護し、鋭い舌鋒で今村の社会に与えた誤解を糾弾した。今村はこの事で気象業界から激しい追撃を受けた。このような論争が起きる度に、大森は鎮火に奔走した。藤原咲平の甥に新田次郎(藤原寛人)が居り、新田は鹿角義助について、短編小説「桜島」を発表している。

 今村の説は大森の興した地震計計測と計測結果に対する数理的解析を基にした計測学的な初期の地震学に、史学に基づいた周期説を付与した物で、それは極めて統計学的な反復的予測率に支配された物であった。関東大震災の予知については、今村は大正初期に60年周期説を称え首都圏をパニックに陥れおり、その説は当たらず、次の100年周期説論争後に震災が起きた。大震災後の翌年に大阪大震災予知を行いその事も世情を騒然とさせた。

(注.9)
「災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 1923年関東大震災」内閣府 平成18年7月

(注.10)
「稲むらの火」Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E3%82%80%E3%82%89%E3%81%AE%E7%81%AB

(注.11)
 昭和東南海地震。昭和19年(1944)12月7日、震源は熊野灘の沖20km。マグニチュードは7.9と推定される。死者行方不明 1223人。三重県熊野等では津波による6.3mの遡上高が観測された。
 愛知県を中心に津波と地震による船舶流失 1898隻、鉄道被害48、橋梁流失 61、特に三重北部・愛知・静岡の軍需工場に被害が多かった。この地震被害に対して米軍はプロパガンダ作戦(ドラゴーンキャンペーン作戦)を行っている。地震被害に箝口令が引かれたため過少報告により、実際にはさらに被害が有ったとする見方も多い。

(注.12)
 三河地震。昭和20年(1945)1月13日に発生。震源は三河湾。震源は浅く10kmと推定され、M6.8ながら大きな被害を出した。昭和東南海地震の余震又は誘発地震とする指摘がある。死者・行方不明者 3432人。家屋倒壊等は2万を越えるとされるがここでも過小評価の為、数々の異論が有る。この地震の実態については現在でも良くわかっていない。
 当時、京浜地域では日本の航空機の6割を生産しており、これらの工業地帯を壊滅させたこの二つの地震で、日本の敗色は決定的と成り航空機生産は頓挫する。被害規模はB29二万機による絨毯爆撃に匹敵したと史料は記す。

(注.13)
「隠された大震災」山下文男 2009 P24。朝日新聞縮刷版昭和19年12月。等に拠る。

(注.14)
 昭和19年から昭和22年にかけて日本中で大規模な地震災害等が相次いだ。実際に地震が活動期を迎えていた事、さらに台風等の当たり年だった事と、何よりこの期間は戦争中と言う非常時の情報統制による災害情報の伝達に致命的な問題が多く発生し、戦意喪失を懸念して被害情報が全く隠蔽されると言う状態を招いた。

 戦後も、社会混乱期と成り報道や国の体制が破壊されていた事に加え、GHQによる情報統制によって被害情報が遮断された。その結果、被害が拡大した事は事実である。天災と戦争等の社会運動の関連を考える上で大変示唆に富む事例と言える。しかし、情報が少ないこともあり、この時期の震災について社会での広い認知・議論がなされていない事が残念である。
 その結果、阪神大震災と東日本大震災までの期間の日本の拡張期に、この社会的な被害形態の反省が充分、社会Systemに生かされなかった事が、戦後国土計画における災害軽視思想を招き、今日の防災の難しい部分の明らかな原因と成っている。<<雁金

(注.15)
「地震学百年」萩原尊禮 1982 P132</span></span>



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雁金敏彦著





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19.


 未然に大災害を予知し、そして人々が事前に知る事で、犠牲を最小限に止めたい。

 その素朴な人の願望は、やがて気象予報の世界で結実し、短期の気象予報に関しては極めて高い精度で未来を言い当てるまでに展開した。

 人々の多くが、かつて、風の匂いやクモの巣にかかる水滴、山辺の雲のかかりぐあいを見て、経験的に天候を予知していた感覚を失いつつ有るが、同時にそうした知識が無くとも、テレビをつけ、ネットに接続すれば、明日の天気を明確に知る事が出来る。

 地震や噴火、津波等の災害予知についても、やがて「完全予知」の時代が本当に来るのかという、その疑問は未だに実現の糸口は見えない。

 機械観測学の傾向が強い大森地震学の時代から、大正そして昭和に至り、地殻メカニズムに対する物理学的探求は躍進を遂げた。昭和40年代から50年代にかけて、日本社会が顔を上げ未来を疑っていなかった時代に合わせる様に、地球物理学の分野にも又、予知について楽観的な空気が支配していた。

 当時の学術探究のスピードから見た感覚からは、気象と同じ様に地表下の研究でも又、予知が可能に成ると信じられていた。

 地殻運動に関するデーターの確実な蓄積が進み、詰め切れていないメカニズム解明の幾つかの問題が解決され、展開中の探査技術が工学的に展開すれば、明日にでも予知は可能に成ると言うレールの上に載っているかに見えたと、多くの研究者が語る。

 70年代末頃には、研究は既に学術理論から、実践政策へと移され始めており、地震等の地質運動の予知は、研究予算ではなく実施予算として計上される様に成った。

 やがて飛躍的に研究は進み、日本において世界最高の密度で地震計やGPS位置測定装置等が設置され、それが電子情報網として瞬時に結合され、豊富に演算シュミレートされたデーターバンクから取り出され、即時に通達出来るというレベルにまで到達した。

 間違いなく、そのハードウェアーの体制は世界一だった。

 しかし、90年代頃から、幾らデーターを積んでも、理論研究が展開しても、計測技術が進展しても、ある種の偶発的な「ゆらぎ」による予知の障壁は残り、その読み切れない部分が研究者達の前に立ちはだかり始めた。

 個々の事象が積み上がる形で、細かいプロセスの解明を引き算して行けば、やがてそこに明確な「何か」が残るかに見えたが、机の上には何も残らないと言う「謎」が残った。

 研究者達はそれに困惑しつつも取り組み、偶発的非直線性に支配された「ゆらぎ」という壁を見つめる事と成った。

 地殻運動のメカニズムはその後に運動を解析は出来てたとしても、災害の「結果」を最後に決定している要素は、全く予期出来ない偶発的要素が複合的に組み合わさっていると言う傾向をどうしても排除し得ないという部分。
 つまりは不確実性の「ゆらぎ」。

 それが、最後に研究者達の机の上に残った。その部分が気象予報とは決定的に違った。

 例えば、気象の様な現象とは違い、地表下の運動は、むしろ生物の生体に似ている様に見える。

 ある生物の平均寿命と生息環境から、その個体のある程度の死亡日時をある誤差範囲で予測する事は出来ても、実際にその個体の死の日時は直前に成ってしか「予測」出来ない様な不確定性が、地面の下・・・・「個別」の地殻運動にも当てはまる。

 その平均寿命や死因の統計的可能性をデーターとして積み上げ、生存環境の影響を正確に複合的に指摘して出来ても、その死の瞬間の日時を事前に予知出来ない事に似ている。
 予測は出来ても、予知出来ないという疑義だ。

 同じ日に生まれたマウスを同じ環境下で育てても、生を終える日時は、生理的に死を迎える限り絶対に同時とはならない。
 クローンでさえ、そこに差分が生まれる。それが非直線現象の「ゆらぎ」だ。

 そうした生体の死の予測と同じ様に、地表下の運動は様々な理論や技術の努力によって、地殻災害の兆候を人々が察知する為に研ぎすませば研ぎすます程、ますます詰め切れない「不確実要素」が露呈してしまうことになる。

 阪神大震災も東日本大震災も、当時最高峰で最新鋭のはずの地震科学は予知出来ず、逆に明日起きてもおかしくなと1970年代から指摘され続けて来ている東海地震は一向に発生しない。

 東日本大震災発生の瞬間、地震研究者の決して少なく無い人々が、「東海地震を含めた連動地震が起きたと感じた。」と、後に素直に語っている。

 東日本大震災では6つの震源域が連動し、長期間かけてためこまれたひずみが解放され、M9.0という全く予期されない地震が日本全土を襲った。そんなことは、2011年の段階では研究者の常識として「起こる筈の無い」事だった。

 震災後、三年が過ぎ、追加された膨大な研究予算を背景に、真剣な研究者による探求によって、何が起きたのかは極めて高い精度で高い水準で解析されて来たが、逆にそれが逆算する形でなぜそのタイミングで連動して「起きなければならなかったのか」は未だに分かってはない。

 同時に、それほどの激震を受けながら、周期的に見れば関東や東海にかけて充分以上にひずみを溜め込んでいる筈の震源域が、何故反応しなかったのかも明らかに成っていない。

 にも関わらず、政治的な必要性と人々の願望によって、「予知」は可能な事であるかの様に理解され、長い間を経て確立されて来た「可能性の予測」は確実な「完全予知」であるかのように混同される。

 そして、現象が願望によって、誤解される時、大きの不幸が新たに構造化される社会現象と成り繰り返しを続ける。そうした意味で、私たちは百年前の桜島大噴火の構造性さえ、社会として解決出来ていないのではないかと気付かされる。

 そこには、未だに灼熱し黒々とした溶岩が煙を上げ続けている様な生々しさが、心像の荒涼となって宿っている。


つづく

写真は「地震雷火事親父」が晩餐している様子を描いた江戸末期の浮世絵。
災害に対する近世期の民衆心理が伺える。





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雁金敏彦著





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 大正3(1914)年2月、鹿児島新聞は桜島噴火後に、東京帝大大森房吉による「火山噴火の知識」についての談話連載を開始している。

 連載の第三回。
 大森は大森自身の学説によって導き、効を奏した事例として、有珠山(四十三山噴火)における蘭警察署長飯田誠一の偉業を誇らしげに紹介している。
 噴火の惨禍に打ちのめされた多くの鹿児島市民は、その逸話を読む事に成る。

 飯田は明治30年代のおわり頃、東京の警察監獄学校時代に大森による講演を聴いたとされる(注.1)。

 講演で大森は火山活動の危険性を指摘し、火山噴火のプロセスには必ず前兆現象として、群発地震が増加する事を指摘している。

 「火山周辺で火山を震源とする群発地震が起きる時、それが激しさを増すのは噴火の予兆である。」大森は壇上からそう述べた。

 その後、飯田は室蘭警察署長として北海道に赴任し、明治43年(1910)7月を迎える。
 有珠山は7月19日午前11時に有感地震が発生。21日に再び地震が発生している。22日には地震の群発が増加し、激しく鳴動。地震が群発し始めたと飯田は壮瞥からの連絡を受けた。23日に110、24日313回と増加し、強震62回に至る。

 壮瞥、伊達町長は県庁に専門技師の派遣要請を電報した。
 有珠山について大森の講演の内容が頭に有った飯田は、甚大な危機の到来を察知し行動に移る。

 壮瞥、伊達町長と協議し、有珠山から半径3里(12km)の退避を断行する。飯田は警察署長権限での避難命令を発令する。当初避難を拒む者も居た(注.2)が、飯田の高圧も加えた説得で住民15000人は無事避難し、住民の犠牲は未然に食い止める事に成功している(注.3)。
 事実上は独断である。飯田は県庁にも道警本部にも同意を得ていない。

 ただ、噴火は確かに起きた。7月25日午後10時、有珠山は現実に噴火し、自然の猛威が山麓を襲った。

 激しい噴火は噴煙と降灰をもたらし熱泥流をも発生させ、それに飲込まれた家屋の被害は20棟の全壊、さらには8500ヘクタールの農地が埋没している。しかしそれほどの被害を出しながら住民に関する人的被害は無い。

 噴火を予測しての住民への避難勧告と警察官を動員した避難の強行措置と言う、飯田の早急な行動は極めて大胆な物で、同時に大変な覚悟を伴った物でもあった。
 後に飯田は「噴火しなかったら、お詫びに切腹するしかなかった。」と述べている。

 中央も反応し、有珠山噴火の急報を受けた大森は農総務省技官の佐藤とともに、国の調査団として北海道入りする。そこで大森は火山噴火活動による地震計測と成功させ、地殻変動を精密測量によって捉えるという、世界で初めての偉業を達成している。

 大森らは飯田らの案内で、地元の実情を視察し、自らの警告が実地に効を奏した事を知る。そして自らの理論実証を成した事例として、鹿児島新聞の連載でこの事実を紹介するのである。

 記事の中で、大森は自分達の様な識者が、有珠山の様に事前に啓蒙出来ていれば、桜島の様な被害は無かっただろうとして、鹿児島県民に謝すと言う姿勢を見せた。(注.4)

 しかし、実際に犠牲者を出した鹿児島側にすれば、それをどう受け取るのか。

 大森は終始一貫して、測候所の実情として観測体制の限界を指摘し、気象家にとっての火山観測という専門外の不利と、何よりその難しさを述べている。しかし、同時に自説の優位性も言及し、その論を述べ続けた。そして、実績として有珠山での被害者0の事例を示している。

 結局、その指摘により鹿児島新聞の批判的な論調はますます加熱し、大森を権威として讃え、鹿角の責任を追及する動きが加速する働きをもたらし、問題の本質は見えなく成る。

 これは百年以上の時間を越えて、御嶽山の事例で驚く程の構造の相似性を見せている。
 有珠山が100年後に重複して登場する点は因縁めいた物すら感ずる。

 大正三年(1914)の桜島噴火に際して、事前に有効な警告を出せなかった鹿児島測候所と鹿角義助。そして対置する様に紹介される人的被害0を達成した明治43年(1910)の有珠山噴火の実績と、権威である東京帝大大森の自説の拡散。

 平成二十六年(2014)の、御嶽山噴火に際して、有効な警告を出せなかった気象庁。そして人的被害0を達成した2000年の有珠山噴火の実績と、北海道大学岡田名誉教授の述べる実効性のある火山警報Systemの構築。

 そこにおいて、岡田の功績は大森の講演を受けた飯田の覚悟と同様に動かない。故にこそ、その言葉は動かし難い説得力を帯びる。

 そして岡田の述べる様に、確かに観測網の充実とそのデーターの蓄積、さらに土地の地質特性を見据えた火山の個性の理解を土台に、危険性の性質と特徴を正確な情報として浸透させ各機関と住民による協議によって計画たて、有事の際には複合的なノウハウを蓄積した地域が一丸と成って危機に対応する。そしてそのことに成功しているのである。

 これは一日で成り難い困難な道のりでもある。

 そして、そこにおいて岡田が述べる問題とは、土地の特徴や実情理解に限界を孕む気象庁による全国一律のリスク管理と言う危険な手法であり、実にそれこそが今回の御嶽山噴火による犠牲者を招いたのでは無いのかと岡田は指摘するのである。

 その意見は順当なものだ。

 しかし、犠牲を招いたのは気象庁の対応責任と言うより、そうした地震・火山予測への誤解と過信の上に、不完全なSystemを生成した政治プロセスにこそ真の問題がある。

 つまり、防災を具体化させる為に制度化されたSystem。欠陥したSystemを作り上げた制度設計にこの問題の本質が有る。

 にもかかわらず、社会の多くの批判は、Systemの欠落ではなく、それによって起きた結果のみを批判する。その過失や失敗は、当然起きるべくしておきたに関わらず、制度その物では無く、その制度によってそう対応せざるを得んかった人々を攻撃する。

 そして、政治プロセスが作り出した不完全なSystemの下で発生してしまった回避不能な失敗をあげるとともに、Systemに依存しない覚悟と英断によって成された実績が誇示される事によって、さらに問題の本質は見えなく成る。

 世間が動かし難い実績と言う結果のみを注視することで、本来は問題視し、改革しなければ成らない、様々なプロセスが無視させるという逆効果を招いてしまう。

 誰かが問題の有るエラーの起きやすいSystemを作り出した結果、それによって発生した犠牲について、現場として対応する事を装置化された現業の実行者の責任の上に問題をトレースする点は、桜島噴火から百年後の今も、やはり同じ過ちを繰り返し、誤った認識を世間に拡散している。

 大森がそうであった様に、岡田も又、事態の本質的な問題をむしろ指摘している側であればこそ、残念なことだと言わざるを得ない。

 気象庁への責任追及と言う初めに結果ありきのメディア取材により、気象庁担当者の過失によるとするフレームがあらかじめフレーミングされた事で、「個々の実情に即した備えの構築があれば、犠牲を緩和出来る」という岡田の本来の主張は減衰し見えなくなる。

 そして、実績に裏打ちされた結果のみが一人歩きし、気象庁への批判として拡大する。

つづく



(注.1)
飯田が大森の説に触れたプロセスについて、複数の資料に齟齬が有る。飯田は直接講演を聴かず北海道で警察学校での講演録を読んだとする史料も採取した。東京監獄学校か警察学校かも記載が分かれる。時系列的には飯田手記が一次原典と思われるが現在調査中。

(注.2)
明治期の北海道の気風として、当時、中央政府によって排撃され移住して来た徳川や東北諸藩(奥羽列藩側)遺臣等が多く、官憲に対する反撥の意識が背景に強く有った。

(注.3)
室蘭から来ていた見物人二名が警察の非常線を突破し、内一名が火山泥流に巻き込まれ死亡している。犠牲はこの一名のみである。

(注.4)
鹿児島新聞
「桜島ノ破裂二関シテモ、余等ガ今一層之注意ヲ払ヒ置キタランニハ多少ハ有珠山ノ場合ノ如ク前知シ得べカリシナランニ事此処二出デザリシハ同島民二対シ謝スルニ辞ナシトスル所ナリ」




森林の国富論―森林「需要」再生プラン


雁金敏彦著





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 北海道大学の岡田弘名誉教授は、御嶽山の水蒸気爆発における人的被害に対して、水蒸気爆発は予測しにくい事を指摘し、「それは半世紀以上も前からいわれていることで、今回は明らかな前兆があった。十分対策は打てた」と取材に対して述べている。(注.1)

 そして紙面で岡田は、気象庁が火山地震の増加を認識しながら、警戒レベルを上げなかった事について強く批判する。

 気象庁に批判的なこの記事は、畳み掛ける様に実際に理学研究院附属地震火山研究観測センター教授として岡田が噴火を予知した事例を紹介する。

 ただ、記事では有珠山噴火を予知した事のみをさらりと触れている為、その噴火と予知の内容は明らかにされない。

 では、平成12年(2000)3月についての有珠山噴火とはどんなものだったのか?。

 平成12年(2000)3月27日、室蘭気象台や北海道大学有珠火山観測所が有珠山において地震を観測している。(注.2)

 27日は109回。28日は実に590回、うち有感地震が69回となる。29日は1,628回、うち有感地震628回。そして、30日に上空からの直接観察で、大規模な亀裂等を確認。そして、31日13時07分の噴火を迎えている。黒色の噴煙は3000m上昇した。当日の火山性地震は2,454回、 うち有感地震は537回。
 さらに、4月1日の3時12分には、M4.8地震の噴火を確認している。噴火の総噴出物量0.0009km3で、マグマの噴火がほぼ無い水蒸気爆発であった。

 被害は全壊234戸、半壊217戸。道路等を含めた被害総額は、約103億円とされる。そして、この噴火には人的被害は無い。

 有珠山は全国でも噴火活動の活発な山として知られ、気象庁の常時観察の対象であり、地震計、傾斜計、空振計、GPS、遠望カメラを設置し常に観測を続けている。さらに自治体や北海道大学も観測を続けており、豊富なデーターを持つ。

 有感地震が活発化した翌日の3月28日、0時の時点で、気象庁は「有珠山において火山性地震が増加。有珠山付近を震源とする有感地震が発生した。」と発表。その二時間後には、北海道本庁に災害対策連絡本部及び胆振支庁などに同連絡本部を設置している。

 そして、11時の時点で岡田自ら記者会見し、地震の前兆を警告している。
 気象庁予知連絡会の井田喜明会長も会見で、「今後噴火が発生する可能性があり、 火山活動に警戒が必要である」と自主避難を呼びかけている。これを受けて、住民は避難を開始する事が出来た。

 28日に岡田は記者会見を開き、「一両日の可能性が高く、 間違いなく遅くとも1週間以内に噴火する。」と、数日以内の噴火を断定し、火山活動の経過を見守る必要を述べた。その予知は的中し、事前に事態を察知していた住民や行政は迅速に対応し、結果として一人の人的被害を出す事も無かった。

 この事例では、気象庁、地元研究機関、行政機関の情報の共有と連動が迅速かつ的確に行われ、また、住民に適切な情報が伝わる事でパニックによる混乱は生じず、行政機関同士の連携と警察、消防による避難誘導もスムーズに機能した理想的な事例と言える。

 何より岡田の果断な噴火予知が事態を大きく牽引し、犠牲を抑制している。

 ただ、やはり有珠山は旧来から火山活動の顕著な山として知られ、近世後期から既に噴火活動の状態が克明に確認されてきており、観測体制も複数の組織や研究機関が手がけ、計測方法も大規模かつ多岐に渡る手厚い物であったと言える。(注.3)

 そして、明らかに有珠山の噴火傾向としても、前述した様に極端な数の群発地震と微振動を示すという有珠山独特の「顔」が見える。

 そうした点からも、大前提と成る大きなフレームが、有珠山と御嶽山では何より違うのである。

 それに加え、同じ「観光登山の対象」として御嶽山と変わらない事を比較されている事も多いが、有珠山の観光は昭和新山も含めた主に火山活動の観察であり、静穏な信仰登山と紅葉トレイルが人気を集める御嶽山とでは、人を集めると言う質的な意味がそもそも異なっている。

 現実に御嶽山の事例では、気象庁は群発地震の発生を自治体等には通告していたが、地元の観光時期を配慮したせいか、警告レベルを上げなかった。

 対して、有珠山観光に対する依存度を考えれば、周辺市町村の観光資源は分散しており(注.4)(注.5)(注.6)、一極的に有珠山観光に依存している訳でもなく、三次産業依存が進む現実は変わらないものの、王滝村の様な極端な依存を示す事例とは言い難いだろう。(注.7)(注.8)

 (もちろん、気象庁の今回の対応が「結果」として正しいと述べたいのではなく、今の問題の有る制度下では、結果責任が集中する気象庁に責を求めるのは道義的にも間違いだと述べたい。)
 
 地域の火山活動に対して、実地の観測と分析を積み上げた研究機関があり、何より岡田の様なリスクを取り込める人的資産に恵まれている地域と(注.9)、ほとんど活動履歴もない御嶽山とを一律で比較する事自体、適切では無いと指摘すべきかと思う。

 ただ、岡田の様な研究者がそれを言う事は事実を見えなくする。

 実績を持つ研究者にとって、強く他者を批判する気持ちが無くとも、一般に向けてその自らの信念と主張を述べ、実際に自らの実践と成果を述べる時、そこに結果の部分を拡大解釈しがちなメディア報道が拍車をかける形で、プロセスより結果が一人歩きするという事態が立ち現れるからだ。

 世論はまた簡単に沸騰するが、面倒な部分・・・つまり、そこに至るプロセスと構造問題の試行錯誤という見えにくい部分を見ず、噴火の瞬間と言う結果のみを注目し、大声で叫ばれる危機と、存在したかもしれない分かりやすい過失に向けて事態をヒートアップさせて行く。

 岡田は百年前の大森房吉と全く同じ轍を踏んでいるのだが、彼はその事を意識しているのだろうか?。

つづく

文責 雁金敏彦

 

(注.1)
「北大名誉教授が気象庁の対応を批判「明らかな前兆があった」 御嶽山噴火 (1/2ページ)」
http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20141003/dms1410031532018-n1.htm


(注.2)
「2000年(平成12年) 有珠山噴火災害」
http://www.bousai.go.jp/kaigirep/houkokusho/hukkousesaku/saigaitaiou/output_html_1/case200001.html

(注.3)
気象庁は1979年の御嶽山噴火から地震計とカメラを設置している。観察はつまり35年しか、情報の蓄積が無い。名古屋大学も活動の観測を開始した。また、王滝村では1984年の長野西部地震に地震計がなかったと言う程度の体制に過ぎなかった。有珠山と御嶽山では観測体制と観測データー蓄積において、その開きは大きい。<<雁金

(注.4)
「伊達市の概況」伊達市 平成24年度
http://www.city.date.hokkaido.jp/hotnews/files/00001300/00001323/20130806195125.pdf

(注.5)
「伊達市における観光の現状と課題」伊達市
http://www.city.date.hokkaido.jp/hotnews/files/00000600/00000639/20130219173340.pdf

(注.6)
有珠山噴火当時の観光の落ち込みは著しかった。<雁金
「(有珠山)噴火後も残る影響」P179
http://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/usuzan//pdf/uzn0602.pdf

(注.7)
「2000年有珠山噴火における洞爺湖温泉街の復興~これからの課題について~」
http://tatsuki-lab.doshisha.ac.jp/~statsuki/DoshishaThesis2/thesis/2007/12042002endo.pdf

(注.8)
「王滝村統計」王滝村
http://www.vill.otaki.nagano.jp/aboutus/data004.html

(注.9)
岡田教授の当時の大胆な行動と気象庁・地元の一丸と成った連携が、犠牲者を抑制したと言う事実は動き難い。<雁金


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雁金敏彦著





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 前にも書きましたが、「村山庁舎」についての議論が再び現実になりつつ有ります。

 国際的なエボラウィルスの感染拡大で、日本への上陸も時間の問題となり、今回の日本人男性感染の疑いと言うニュースは、ひやりとさせられる出来事でした。

 しかし、肝心の大きな問題は未だくすぶったままです。それは受け入れ施設の問題です。

 現在、日本には第1種病原体等取扱施設の認可を受けて、厳密なBSL-4病原体に対する治療行為を行える施設が有りません。

 聞き慣れない言葉かもしれませんが、第1種病原体とは、エボラウイルス、マールブルグウイルス、ラッサウイルス等の大変危険なウイルスを指します。

 日本でそれに対応可能な施設が稼働していないというと、ご存じない方は「えっまさか!?」と思われるでしょう。

 しかし、唯一事態に即応出来る能力を持つ、国立感染症研究所村山庁舎が、未だ第1種病原体等取扱施設として、厚生労働大臣の認可を受けていないのです。

 施設は有るのです。機材もスタッフもいます。しかし、認可が下りないので稼働出来ません。悪い冗談の様なお話しです。

 結局、これほど国際流通網に適応しつつ有る日本という国は、驚くべき事に現時点で最も危険な感染症に対応出来ないということになります。

 現在、日本ではBSL-4施設は1つも稼働はしていない・・・つまり、医療上の検査や明確な検査や治療等を行える体制が不充分です。

 認可された設備がないと、医師は検査・治療を的確に行えない為、未知の病原体に対して、現場レベルで山勘に頼るという信じられない事になります。それでは適切な治療がリアルタイムで行えるかは大変疑問です。

 エボラウイルスに即対応可能な施設は、国内で唯一村山庁舎のみです。
 別に理研の施設が筑波にありますが、遺伝子組み換え生物の施設であり目的が違います。(それも認可されていません。)

 ただ、施設の立地そのものに問題が有ります。施設周辺には住民が居住し、小学校等も有ります。結局、震災等の万が一に対して不安が残るとした住民側の反対運動により、施設稼働は棚上げになって来ました。

 そして、国立感染症研究所村山庁舎の1種病原体等取扱施設認定はのびのびになり、ずっと宙に浮いた状態で推移して来ました。

 膨大な予算を建てて建設し、実際に稼働出来る施設であるにもかかわらず、厚生労働大臣の認可が下りない為、施設はそのまま放置されているわけです。

 この時点で、日本の医学レベルを信じてられる方は、そういう状態をすごく変に思われる方がいらっしゃる事でしょう。

 日本の免学研究はもちろん世界トップレベルです。しかし、これは医療の問題ではなく、社会側のシステムの問題なのです。

 大変危険な病原体が、施設から万一社会に出てしまった場合の病害リスクが、うまく社会に織り込む事が出来ず、またリスク管理の社会的な意味での対応問題を考えた場合の見通しが選地に関しても甘過ぎました。

 同時に社会全体として見た場合に、BSL-3の病原体に対して医学領域で適切に対処出来ないというリスクは、危機が今すぐそこまで来た時、施設内の病原体が外部に出てしまう危険より、さらに深刻なリスクをもたらします。

 そして、その慢性的な問題を私達の社会は解決出来ていない訳です。
 厄介な難題として行き詰まったまま放置されており、解決の糸口もないまま、問題が棚上げされている。そして、私達は日常の多忙の中で、実際に深刻な問題が実際に起きてしまうまで、見て見ぬ振りを決め込んでいるわけです。

 深刻な問題とは、実際に犠牲者が出たり、現実に対処した担当者が当然起きるであろうミスをしたり、大事故が発生するまで放置するという事です。

 ですので、実際にBSL-4レベルの病原体を相手にした医療行為となると日本は対応出来ないという恐ろしい事態が構造化してしまっている。
 今までそういう危険な病原体が入って来なかっただけで実にラッキーであったに過ぎなかったとそういう事です。

 日本社会は、国際化がすすんだと言われています。
 しかし、国際化というのは望まない物が入ってくる事もまたグローバルだという事です。カオスを前提にシステムを変更し、改変していくしか道がないのです。

 感染症もまたグローバルに伝染していくという、「カオス」を前提としたグローバル社会のリスクそのものであり、それは経済等の恩恵の表裏の関係です。どちらかを良い所取りするのはそもそも無理な注文です。

 TPP等の経済自由協定や各種の規制緩和を受け入れる事は、こうしたリスクも受け入れるという事であり、そういうグローバリズムを推進するのであれば、リスクを前提として社会を組み替えていくしか有りません。
 それを放置して対策を組まず、慢性的な問題として抱え続けるのは、爆弾を抱いて布団に入っている事と同じ事です。
 
 BSL-4施設は施設維持に膨大な予算がかかり、東京都武蔵村山市がそうであるように周辺住民からも理解を得にくい施設でもあります。そうした事から、最新鋭の施設をずっと店晒しにして来たのが日本の現実です。

 こんなことで良いのでしょうか?。

 SARSの時も議論になりましたが、反対運動が盛り上がったこともあり、政治家の皆さんは見て見ぬ振りで放置プレーでしたが、しかし、それももう限界です。のんびり構えている猶予がないのです。

 富士フィルムホールデングスの未承認新薬にしても日本製です。

 報道ではフランスが絶賛し世界から引き合いが来ているんだとか、株価が上がったよとかそういう事は述べられますが、肝心のそれが実は実質的に運用出来ないという問題は語られません。

 ですので、幾ら立派な研究者や医療従事者がおられ、日本製の優れた薬が有ったとしても、ウイルスを管理出来る施設がないと言う事は、治療に際してウイルス量を見ながら薬物投与を計画的に投与するという事が出来ないのですから、結局、医療治療として日本は永遠に治療ノウハウを蓄積出来ません。

 今すぐ日本社会が真剣にこの問題に取り組み、適切な予算を組み、グローバル社会と言うカオスのに対するシステムリスクを正確に対処出来る体制を構築するか、それが出来ないなら鎖国でもするのが得策かもしれません。

 慢性的な社会リスクを自ら解決出来ないという事はそういう事です。

 毎日、娯楽番組でタレントさんが騒いでられるという事も結構ですけれども、メディアが社会問題を適切に提起出来ません。そういう目線で、日本人全体が慢性的な問題を放置し享楽に我を忘れるなら、日本は将来確実に慢性的な解決不可能な問題の為に恐ろしいしっぺ返しを食うでしょう。

 今回のケースでは、感染を疑われた男性は幸い陰性でありそれは大変ラッキーな事です。ただ、それだけです。

 これが仮に陽性なら、免学的に適切に経過観察して、完治を宣告出来る施設が無いということになり、強制隔離された人は仮に完治しても海外にわざわざ検体を送らないと治癒したかどうかさえ分かりませんし、そこには隔離伝染病の医師による告知問題が発生します。
 これは甚大な日本社会というシステムのリスクそのものです。

 外国の様に、国土の関係から砂漠の中に専用施設を作る事は出来にくいでしょうが、無人の離島か遠隔地の大深度地下等に施設を新設すべきでしょうし、現実的なのは、BSL-4施設稼働に向けた長崎大学の取り組みを一日も早く実現するべきでしょう。

 エボラに限らず危険なウイルスが入って来てから慌てるのは馬鹿げた事です。
 じっさいにここまでグローバル化したこの国に、万一の為の施設が無いというのはリスクでしかないと思います。
 そして、今回宿題にして来た事が現実になり、日本は何も備えが無いという現実が立ちはだかっています。

 外国か映画の中だけだと思っていた事が悪夢の様な現実になり、社会全体が危機意識を持つべき段階に来たのです。

 メディアの皆さんももっとその点を報道されるべきだと思います。
 良い面のみが語られる国際化というのは大変高くつく物だと、私達は思い知るべきでしょう。




ホット・ゾーン――「エボラ出血熱」制圧に命を懸けた人々



国立感染症研究所村山庁舎のBSL-4施設の稼動に関する質問主意書
平成二十一年三月五日提出
質問第一八八号
http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/a171188.htm

感染症法に基づく特定病原体等の管理規制について」厚労省
http://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/kenkou_iryou/kekkaku-kansenshou17/03.html

BSL-4施設設置に向けた取り組みの現状と今後の展望」長崎大学
http://www.nagasaki-u.ac.jp/ja/about/message/katamine/message112.html



雁金敏彦著





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