ニーチェの云う”超人”にならなければならない事象へとこれから変遷していくであろうことが考えられます。それは子ども、大人、老人全ての人に云えることなのです。
 

「欲望する機械」とは、多様な差異を生みながら常に変化し続ける個人や社会システムのことです。

ドゥルーズはまず、人間の身体や物質、社会システムなど、世の中に存在する物は全て「機械」にすぎないと説明します。そして、それらの機械の間に「欲望」が流れていくような世界観を提示しました。
ドゥルーズの思想を一言で表現するなら、「『これが正解だ』という論理を信じないように生きる」ということです。

 

 


これから、私たちは、創られた世界恐慌によって欲望を刺激され、ナチスドイツのような全体主義、マローン博士のいう厄介な、進化した――または拗れたほぐすのが難しい厄介な”グローバリズム全体主義”へと発展していくと考えられます。その解は、次世代の子どもへ、次々世代へと続いています。
私たちは、変遷の矢印の未知の中ウォータースライドの中を水に流されながら降りていく、そんな世界の起点と中間地点の最中に存在しています。ゴールできるのは、黄金<金>へと到達した、強靭な意思の存在しか生き残れません。
また、精神分析、思想家、哲学者、または倫理学は、”そんなものはなくても人類は科学で生き残れる”といった上層部のお考えによって、近い将来駆逐され、言論を封殺されるでしょう。そして、次世代の子どもたちもいずれ必要としなくなるであろうことが予測できます。確かに、科学の技術は素晴らしく、病気で苦しんでいる子がいれば、いつでも医療に掛かれ、死ぬところを助かる人がいるのは、人類にとって最高の技術であると確信しています。だからこそ、誰もが信じ、しかしながら同時に見落としがある――ということに私たちは気付けない、ということです。
「愛の欠如」へと人類はどんどん進化<退化>していくのではないか、という懸念です。子ども達は愛を覚える機会を喪い、<快楽者>になるしかない。それは目を覆うばかりの絶滅です。種としては存続できても<光>を喪った人類はもうどこへもいけない。個を存続した後、最後の一人になってもSEXを覚えられず、または愛の性交ができず、快楽SEXのみとなり、種の存続は彼らにはどうでもよくなる。最期の1人となった彼ら、エンデアダム達は最期のアルコール瓶を飲み干して自殺する。そういった未来――200年、500年後に後起こり得る可能性事象が予測できるのです。
その未来を回避するのは虚無と諦めではない、自らの過ちを認め、そのうえで突き進む、謂わば弓や槍のように研ぎ澄まされた心を持って、生き残っている私たち1人1人が考えて”愛”を貫いていくしかありません。

 

愛というのは、不可視な未来において、自分と他者を結ぶ線が、光によって結ばれ、こみ上げる衝動のことなのです。それは誰にでも内在するとは限らず、遺伝子が(i)によって結合し、それがIを形成します。そのベクトル波は時を貫き、5次元を超えて無限に到達します。 

現代社会の日本も、”孤立”、”孤独”、”不妊”、”結婚観の変化”、”唯物主義”、様々な面でより「個」しか自己は存在しないと考える――自分の身は自分で守るしかないかのような錯覚を抱く。そのことが、より「愛」を欠如している。

 

 

結果、無限増幅される「罪だ」という問いによって「永久に罪を感じない」人と「永久に罪を感じる」人の二つへと、その問いだけで二分化され、純化され「善」と「悪」という本質的なスティグマ<刻印>を世界への憎悪と共に、人々に打ち付けるのである。際限なく己の罪に罪を感じない人間と、際限なく己の罪に罪を感じる人間。一体誰が、それを望むだろうか。もし、それを望むというのであれば、それは即ち――”邪悪”である、と私はあえて言おう。
もしかしたら私は、それを解消する術を知りつつあるのかもしれない。それをこれからは、少しずつ実践しようと思う。知らない誰かが苦しんでいれば、自らの主体性を抹消し、彼らの主体性をありのまま受け止めよう、と祈る。「罪だ」と問う前にするべき術があるのだと、私は知っている。
本当に、それら行いは「罪」という概念なのですか――と私は問い直そう。
崇高な理想はなく、「罪」という唾棄すべき悪魔は誰もいない。責任も、とりあえず、頭の底から振り払おう。「罪」から生じる「際限ない罪悪感」を、とりあえず棄却しよう。そこから、自己の肯定ははじまるのだ、と数年掛かるかもしれない私の「罪」の問い直し――私はここで、ネットの片隅で、不幸が再生産される「現実」ではなく、「人間」に祈る。

 

 

自然による脅威によって全滅をしないためにワクチンを私たちは今現在打っていますが、これが”愛”であるか”絶望”であるかによっても、世界線は変えられます。虚無と諦めの果てに貫くのは「愛」であるのか「絶望」であるのか。子どもたちのことを本当に考えているのか――それによって、未来の運命は改変されます。決して私たちは、宇宙に存在する虚無と諦めに支配されてはいけない。

 

 

 

 

もし虚無や諦めに取り付かれてしまったとき、私たちは欲望する機械によって<ナチス>を召喚し、信奉し、許容してしまい、ウォータースライドはもう破滅へと向かうしかない。

歴史は繰り返す、とよく云います。基底状態<新世界秩序>から励起状態<ナチス>を波のように繰り返すのが人類です。そして今は、励起状態<ナチス>の状態へと向かっている最中であり、それを通過したのち基底状態<新世界秩序>が私たちを救うという意識の流れなのではないか、またはそういったシナリオが存在するのではないか、と考えています。
私たち人類が望んでいるのは、本質的に「全体主義」であり「共産主義」であるのです。社会主義や資本主義は、人間としての本質から眼を逸らした、または無視した、「世界秩序」でもあるのですが、励起状態と基底状態には粒子としてなんの違いもない、ということです。本質的には変わらない。泣き叫ぶ赤ん坊の悲しみと、介護されたいという意思の、人類の根源となる欲望と共に歴史は繰り返す。赤ん坊は本質的に我儘であり、世界には何もない、ただ空虚と無、何もなく、”死にたくない”という苦悩があります。マザーがぱたぱたとやってくる音がして、赤ん坊はそれを「支配した」と思い、安堵と欲望が充溢したことに満足します。そしていつしか目に見えた3次元に満足します。視界にうつる刺激に満足した赤ん坊は、その後母の聲は要らないと判断し、不必要になったマザーに対しての内的衝動として、憎悪といった感情へと置換され(i)の中に組み込みます。そして、赤ん坊の泣き声こそが、現代の医療という(i)を構築し、持続させているのです。現代社会は、特に赤ん坊の泣き声を許す<グレートマザー>でもあり、科学といった<グレートファザー>でもあります。

 

さて、励起状態と基底状態を説明するのに、1つの図を図示しよう。

 


 

灰色の点が、観察の「個」で、円は「共有感覚」、そこから伸びる線は、フィールドを見渡せる視野がどれだけあるか、というのに対して、遠近を用いて表しています。

 

「共有感覚」というのは「何かを以て、感覚を共有している、同じ情報を持っているはずである」というような「信念」や「確信」です。中心にあればあるほど、その感覚は自明のものとなります。円の外部にあればあるほど、共有する感覚が存在しないという孤独があります。孤独、というのはつまり、他者性を以て「共有感覚」が阻害された強く学習された記憶です。
XY軸平面状には「共有感覚」があり、立体的なXnYn平面状を捉えて見れば「視野」が存在し、「共有感覚」の中央に近ければ近いほどアプリオリな感覚を共有し自明のものとすることができます。また、遠ければ遠いほど、コミュニケートする為に必要となるアプリオリな感覚が薄れていきます。個々の位置はそれぞれリアルタイムに影響しあいながら移動しますが、点の合間が広ければ広いほど、相互に影響しあう可能性は低くなります。XY平面状の「共有感覚」から離れれば離れるほど、相互に影響しあう確立は低くなり、また「共有感覚」に近ければ近いほど相互に影響しあう確立高くなります。
「反撥-受容エネルギー = a」は「異化 - 同化エネルギー = b」の増幅を促します。「異化 - 同化エネルギー」とは、異化を認識し認知する反復される/する経験が多くなるほど、同化しようとするエネルギーは増加し、異化を認識し認知する反復される/する経験が少ないほど同化しようとするエネルギーは減少します。つまり、「異化 - 同化エネルギー」が少ない事で、その場に「共有感覚」を生み出し、また、その「共有感覚」でもって「反撥-受容エネルギー」生み出し、異化を認識する個を生み出します。「反撥-受容エネルギー」が与えられない/受けられない場合、共有感覚を抱く彼岸の”内側”に存在する個にとって、「異化 - 同化エネルギー」は少なくなります。逆にそれによって「反撥-受容エネルギー」を与えられた/受けた場合、”外側”に布置され、「異化 - 同化エネルギー」は多くなっていきます。「異化 - 同化エネルギー」と「反撥 - 受容エネルギー」は等値(aが1を生じればbも1を生じると仮定する)です。
「適応」するという「魂の苦痛」を生じながらも、「異化 - 同化エネルギー」を「反撥-受容エネルギー」から創出し続けることによって、自らに最適な適応条件を整えようとする。個は、その苦痛を止めるために下層へ再び降りたり、上層へ上がろうと足掻いたりします。その時に必要となる「反撥-受容エネルギー」が外部から与えられなければ、再びXY軸平面へ自然と降りていきます。また、更に「反撥-受容エネルギー」が外部から与えられれば、「共有感覚」の外部へと「反撥-受容エネルギー」によってはじき出され、そのはじき出された力により上層へと反撥する力が発生し、酸素の毒から逃れるようにして、フィールドから上層の漠然とした海の中に飛び込もうとします。

 


励起状態と基底状態の精神エネルギー値を、2次元から3次元に置換したのが上図です。XYが基底状態であり、XnYnが励起状態と考えてください。XnとYnは視野の高さを示しています。共有感覚とは「心と心が繋がっている確信」のようなものだと捉えてください。高ければ高いほど共振と共感性が高い、また中央値から離れるとより”個”となる。また、XnYnは分析であり、観察であり、物理のエネルギーです。これを3次元に変換すると、この基底状態が安定し、<NWO>でも<ナチス>でもない安定的なエネルギーとなります。要するに、人類の進化をシフトしていく<P>がXnYnであり、XYに近ければ近いほど農業や衣食住をまかなう<P>となります。しかしながら、今は、この3次元がいつの間にか<2次元>の精神エネルギーにされているようです。そのため、差異の差異、過食と嘔吐を繰り返す社会になっている。
もし、私の仮説がこの道程を辿っているとするなら、基底状態<新世界秩序>はソレ自体をを維持するために、いずれ人類という種を見殺しにするのではないか――と。延々と繰り返される基底状態と励起状態。それを識っている上層部。共産と全体主義を望む欲望機械。泣き叫ぶ赤ん坊。
そのシナリオの果てに、ゴールした種が存在しても、エンデアダムは<快楽者>になるしかないのです。
つまり、この方向を目指している限り、私たちの存在には「ほぼ意味はない」のです。待っているのは<快楽者>となった人類の滅亡だけです。

――歴史も<灰>と化し、<金>は無となる。

それを回避するには、他の代案をこっそりと模索するしかない。または新しい発明や発想を受け入れて、シナリオのプランを接ぎ木のように繋げて、<心>を確かに所有し、人類に愛を届けていくしかない。そのためには、これから人類を背負う医療従事者<ドクター>が、超人の精神状態を目指す以外にありません。

 

もしそういった世界が到来するならば――その世界線を説明するとするなら、これから、パラノイア、発達障害、ASDの世界がやってきて、いずれはAIによる<介護>の時代がやってくるでしょう。その時先頭に経つのは医療従事者<ドクター>であり、彼らが人類の保護者となり、薬剤を処方し、秩序を構築するであろうことが考えられます。そして”超人”として、”力への意志”が必要になるであろうことも。

 

お医者様がこれから待つ困難は”超人”の領域に入っていくと思われます。もしくは”超人”でなくては耐えられない事象へと向かう。

 

 


そのためには、哲学や精神分析といった「知」がどうしても必要不可欠であることを示唆でき、また、科学がいつか哲学や精神分析を否定するときが来るとするのならば、宇宙の不安や虚無、諦め、愛の欠如がなくなるわけではない人類という種の魂の叫びに過ぎないことを――全ての「心」から「心」は繋がっていることを、私たちは忘れてはならないのです。

その個の苦悩こそが、血を滾らせ、命を巡り、”生の充溢”を歩むのであると。
 

現代の資本主義社会では、発達障害が増えている現在、もう限界を迎えている気がします。
マルクスの考えはあらかじめ「人間は働くのが好きであり、そしてそれが自己肯定感であり、充溢しており、健康である」ことがまず大前提で語られているからです。その思想とは逆に、発達障碍者は、この「人間は働くのが好きであり、そしてそれが自己肯定感であり、充溢しており、健康である」社会では、「人間は働くのが辛く、それが自己肯定感を阻害し何かが常に欠損しており、健康ではない」ということが、発達障碍、今現代を読み解くと、それら事実が誤謬として浮き上がり見えてくるのです。
しかし、発達障害の方はこの「生の志向性」が「人間は働くのが辛く、それが自己肯定感を阻害し何かが常に欠損しており、健康ではない」により欠けている――ととらえられるのです。
資本主義の幻想が破壊されたとき、まず、中級層(高齢者層を含む)が犯罪のターゲットとして狙われるでしょう。それは発達障害によるものでもあるし、また非行によるものでもある可能性があります。そのことで治安が急激に低下。平時で働くことの意義を振り返り、新しい概念による生き方を提示。それは「少しのお金で寄り添い合う」概念にシフト。経済をできる限り回さない方策に転換。物品の調達や食料は徐々に海外企業に任せ、安価な輸入品ばかりになるでしょう。日本産は珍しくなり日本産の物品の価値が高騰化。日本の文化や伝統の喪失。こういったことが、おそらく、云えるのです。

その原因は、発達障碍者の「働くことができない」、「生の志向の不分泌」といった事実に基づくのです。
私たちは、「私たちは健全で健康である」という、誤った信念をもう一度振り返る必要性に今問われているのです。

 

 

根本的なものへの〈問い〉と〈答え〉とのかかわりの本質を問うことから、生の意味を問う〈問い〉について検証するところまで議論を進めた本論の意味は、上述のごとく、生のあり方を自覚的に根本から変容させるための階梯の存否に関する検証を待ってはじめて確定される。つまり、〈問い─答え〉の変容、生のあり方の変容、あるいは、〈人格〉の変容、これらは同一の事態を指しているのであるが、これらが如何なる段階を経ながら、如何なる仕方で実現されるのか、あるいはされてきたのかを検証し、なんらかの形で証示することが、小論において試みた〈問い〉の次の課題ということになるだろう。人間が自らの生きる様々な環境のなかでその人間となることは、説明や解釈を待つことない事実であるが、自覚的にそのあり方を根本から変えていくことは、今日の教育システムから完全に排除されている。そこには近現代の思想史の偶然が大きく影響しており、これは到底当然の状況とは言えない。しかしながら、このような状況は皮肉にも〈必然的〉に深刻なニヒリズムを招いている。今日、まさに人間が試されており、近代哲学が考えたのとは別様の知の必然性が検証されねばならない。

 

「この映像は……?」
「はるか4000年の昔に滅んだ ゼボイム文明の記録映像だよ」
「止めて! こ、この女性は……!?」
「ゼボイム時代のミァンさ。補体となっていたのが誰なのかは判らないけどね。彼女は当時の国家元首の側近として、 裏で世界を操作していたんだ」
「デウスの復活の為?」
「最初の内はね。でも最後は違った。当時の人々は生体として子孫を 残せない者が多かった。ヒトとして欠陥品だったんだ。だから……彼女はもう一度やり直した。ヒトを戦争によって滅亡直前まで 追い込み、そこから生まれてくる新たな生体に 次代をつがせようとしたんだ。マスドライバー施設にミサイル群が あったろ? あれはその当時のゼボイム人の 遺品さ。そして今の俺達はその結果、 僅かに生き残った強靭なヒト達の子孫なんだよ。困窮する経済、蔓延る犯罪…退廃していく街。寄る辺を求め、絶対的指導者や教祖の下に集う狂信的な国民。遺伝子障害によって次代に命を繋げない人々。放っておいても滅亡していた人々だった。だから俺とエリィはヒトの希望を託してエメラダを創った…」

キム
「馬鹿だ! 馬鹿だ!馬鹿ばっかりだ!」
エリィ
「キム……声が大きいわ」
キム
「聞こえたってかまうもんか! どうせここに居るのも、馬鹿ばっかりだ!」
エリィ
「キム!!」
キム
「だってそうだろう? こんなちっぽけな惑星で何を取り合うっていうんだ? 何かに追い立てられるかの様に生き急いで、まるで限られた生の指定席を奪うかの様に戦争をして……。その戦争を始めるのも馬鹿なら、それを煽って広げるのも馬鹿、それに反対する為のテロでまた人を殺すのも馬鹿。馬鹿だらけだ!」
エリィ
「……キム、あの子は気の毒だったわ。でも、ラヴィーネの人たちだって、そんなつもりで発電所を壊したんじゃないと思う。多分。あの人達は、ほかに表現方法がないのよ。それを封じているのは政府だわ」
キム
「あの子が……それで死んだ連中が納得するのか? そんな理由で? そんなに大したオペじゃなかったんだ。難しいけど、十分勝算はあったんだ……設備がまともだったら……電気が来てたら、助かってたんだ、あの子は……。あの子だけじゃない。うちの病院だけでも、他に5人も死んでる。ICUが機能しなくなって……。馬鹿だ。馬鹿ばっかりだ。人は、生き物は生き続けてこそなのに、何で滅びたがる? 何で自ら首をしめる? 人間は生き物として欠陥品だ。馬鹿ばっかりだ! だから、最近遺伝子障害も多い。出生率も低下している。わずか三十余年しか与えられない命……自然が、星が、人の生き続けることを許さないんだ」
エリィ
「………………私も……馬鹿?」
キム
「え……?」
エリィ
「今日、病院で検査受けたの…………子供、出来ないんだって。先天的な遺伝子障害で……私は命をつむげない、つなげられない。滅びるだけの生き物よ。……私も、馬鹿?」
キム
「…………」

キム
「……駄目だ。……このままじゃ、駄目だ。何とか、何とかこの呪縛を断ち切らないとこの星の人間は滅んでしまう。いや、人なんてどうでも良い。何かしなければ、この星から生命そのものが滅んでしまう…何か…… 呪われていない、真っ白な命を……何か…………」
 


昔の、ゼノギアスというゲームのやりとりの1シーンなのですが、今回のロシアやウクライナとの戦争もこんなかんじなのだろうな、と思い返すばかりです。

 

私は、戦争が起きるのも、また遺伝子を紡いでいけないのも、意思の問題であると思っており、「愛の欠如」と考えています。とはいえ、エリィに「私も愛が欠如してるの……?」と落ち込まれそうです。
愛というのは、不可視な未来において、自分と他者を結ぶ線が、光によって結ばれ、こみ上げる衝動のことなのです。それは誰にでも内在するとは限らず、遺伝子が(i)によって結合し、それがIを形成します。そのベクトル波は時を貫き、5次元を超えて無限に到達します。
この時代のエリィは愛がなかった、わけではなく、他者との繋がりが”欠如”した社会の、「社会」「世界」という遺伝子と結びつくことが出来ず、「個」としてのエリィであったため、彼女の持つ「エリィ」としての遺伝子発露でも「愛」が欠如していたのだ、と解釈もできます。
キムの発言を観ていたら、今現在におけるコロナパンデミックとも相通ずる部分もあり、なかなか考えさせられますね。
現代社会の日本も、”孤立”、”孤独”、”不妊”、”結婚観の変化”、”唯物主義”、様々な面でより「個」しか自己は存在しないと考える――自分の身は自分で守るしかないかのような錯覚を抱く。そのことが、より「愛」を欠如している。
 

そして、クーパーが、テッサラクトに誘われる直前に、自らの命と引き換えに、犠牲を払ってまでガルガンチュアの中に独り飛び込むとき、思い浮かんだのは、地球に取り残された子どもたち、またはその子ども、そして孫への無限に存在する”愛”でした。
自然による脅威によって全滅をしないためにワクチンを私たちは今現在打っていますが、これが”愛”であるか”絶望”であるかによっても、世界線は変えられます。虚無と諦めの果てに貫くのは「愛」であるのか「絶望」であるのか。子どもたちのことを本当に考えているのか――それによって、未来の運命は改変されます。決して私たちは、宇宙に存在する虚無と諦めに支配されてはいけない。

 

 

「自然が、星が、人の生き続けることを許さないんだ」

 

 

この言葉がぐさっときて、大自然が如何にしても人類を滅ぼそうとしている――ような気がしてならないのです。PM2.5もそうですし、花粉にしても、大変な人には大変ですが、将来の不妊はここからも来ているのかもしれないなあ、とも思うことしかりです。マスクやゴーグルが必須の人も恐らく多いと思います。
しかしながら原子力発電所にしても、CERNにしても、武漢にしても、星が人類に遠隔的に「自滅しろ」とあたかも命令しているかのような”生々しい悪意”を私は痛感するのです。

お医者様がこれから待つ困難は”超人”の領域に入っていくと思われます。もしくは”超人”でなくては耐えられない事象へと向かう。
例えば、反ワクチン、もしくは未接種者が「ウイルス性感染症」を発症して死の瀬戸際にいた場合、お医者様が獣を観るような眼をして「ワクチンを打ってないんですから――もちろん、あなたの親やその親が打ってないんですからちゃんとした治療を施さなくてもいいんですよ、放っておけばいいんですよ、死ねばいいんですよ」という医療マキャベリズムが、近い将来来るかもしれないと思うと、暗澹たる思いを禁じ得ません。それだけは避けなくてはならない。
まあ、でもそういう、ゴールの手前の中間地点でそういった事象の山が存在している予感がして、「未接種者はこれからどうなるんだ?」とも思います。

 

これから、接種者は反ワクチン言論者の洗脳にかからないというふるい落としにかけられ、またそれを乗り越えたのち、次世代のワクチンを投与される可能性が高いと考えています。それは、私たちにはどうしようもできない未来であり、運命です。

 

それに反撥しようとするなら、もしかすると、暴力という手段によって為す人々が出てくるかもしれないということは、とても恐ろしいことだと思います。これには言葉の暴力ももちろん入ります。私はこれを全否定します。しかし、諦めるか、従うか、しかない。キムのように、平和に暮らしながら、新しい独創性と発想で、人類に宝を残し歴史を少しずつ少しずつ貯蓄しながら「黄金」にしていくしかない

 

また、アインシュタインのE=mcもこの事実を示唆している。この宇宙が前提した”バング”であるのなら、この宇宙は”炭素”=”お焦げ!”であり、”失敗”なのである。本質的には。
また、そう考えるのならば、逆に”成功なんじゃないか?”と考えられる定義も提示できる。それが錬金術の”黄金”ではないのだろうか。
私たち人類も――もしかしたら他生命体も、この黄金に惹かれうるのは、この”成功”が”黄金”とイコールである所以なのかもしれない。

 

 

私たちは、そういう「人類」という大きな特異点の渦の中に入っているのです。

 

 

 

 

インターステラーを2回観ました。何度見ても、親子の愛に感動して涙が出ます。

 

 

今、まさに絶望の危機に私たちは立っているのと同義です。自然の脅威による緩慢な死によって、宇宙に旅立つ計画を立てるしかない人類、それは今の”夢”ですが、この作品では”絶望”を描いています。いずれ、マン博士のように裏切りによってさらなる絶望へと進むしかない人類――という必然ともいえる選択を振り切り、クーパーは”愛”によって試練を成し遂げます。

 

マン博士はいわば、人類が”できる限りのことをしても成し遂げられない絶望”であり、8割の人が”真実を知らされた時”抱く当然の感情なのですよね。だから、マン博士を誰もきっと責められない。しかしながら、自分だけ逃げて、その後に、「人類のため」といいながら、人工的に子どもを作ったところで、彼らは”愛”をきっと覚えることはできない、と私は思います。

 

そして、クーパーが、テッサラクトに誘われる直前に、自らの命と引き換えに、犠牲を払ってまでガルガンチュアの中に独り飛び込むとき、思い浮かんだのは、地球に取り残された子どもたち、またはその子ども、そして孫への無限に存在する”愛”でした。

 

自然による脅威によって全滅をしないためにワクチンを私たちは今現在打っていますが、これが”愛”であるか”絶望”であるかによっても、世界線は変えられます。虚無と諦めの果てに貫くのは「愛」であるのか「絶望」であるのか。子どもたちのことを本当に考えているのか――それによって、未来の運命は改変されます。決して私たちは、宇宙に存在する虚無と諦めに支配されてはいけない。

 

つまり、猫が「死んでいる」か「生きている」かといった問題は、猫の自力での努力によって運命を回避する、といった方法しか成り立ちません。世界線といった概念がありますが、これも「猫」当人が観測者を更に観測する、メタ観測者といった対置、対比によって変化します。つまり、「猫」当人が世界線を変更する鍵である、といった結論になるのです。この時、「猫」は自分自身で世界線が変動する感覚を感じ、自分の力次第で運命や世界線が変動するその様を感じられるのかもしれません。つまり、観測者はメタ観測者を超えられないこととなり、観測者が観測するたび、メタ観測者はその対比によって存在(あ)りつづけることになります。


また、「死んでいる」か「生きている」の2者選択しかないと思われる場合、「猫」は「死んだふり」をしているとも思えます。つまり、「猫」は外界の観測者が「引き金をひかない」ことを予測していた、もしくは観測者自身が逆に死んでいた、とも思えるわけです。つまり、猫は、観測者が「引き金をひけない」ことにより、「死」も「生」も同時に自分で決めていることになり、このことから、「猫」が「引き金」を引く、ということにもなりえます。そこでは、観測者が「二重スリット」であり、「猫」こそが「引き金」だったのだとも云えるのではないでしょうか。つまり、「猫が観測者を操った」という結論になります。

もしかしたら、これが 縁寿のいう「黄金の言葉」の原点なのかもしれません。

 

また、私たち読者が「1986年の10月に六軒島の18人は死亡している」などといいながら密室トリックを暴いたり、「事実」を突き詰めたりしたとき、戦人やベアトリーチェの世界は崩壊するのです。それを描いたのがep8なのでしょう。

けれども、知的好奇心と知的強姦者という名前でいうエリカのような気持ちが私にないわけではありません。真実を知りたいという気持ちもあります。そして他のブログなどを拝見して、ある程度の事実に限りなく近い答えを見たい好奇心を抑えられません。けれども、私たちは戦人とベアトリーチェの「生きている」世界で「平和」な世界を守らなければなりません。その場合、私たちは密室トリックを暴くのではなく、逆転して「守らなければならない」のかもしれません。

私は、この作品の中で生きる魔法の世界を守りたい。その思いが「黄金の言葉」なのだと思います。

 

 

ロシアとウクライナの戦争が始まったときは、絶望の世界の始まりでした。これから”愛”がなくなれば、もっと被害が増える。人間が”消える”ことも不可思議ではない事象へと変遷しています。

その時、最後の意思が、世界を貫く”愛”なのだと私は思います。

 

レプリコンワクチンPMDA審査書類の要点の資料を拝見いたしました。

 

1 回目投与後 57 日目


とありますが、恐らく長期スパン――6か月、12か月、24か月といったスパンでの”研究はするな”とのお達しなのだろうな、と痛感します。私は反ワクチンというわけではなく、むしろワクチンは人類の進化のステップとして必要であると考えているほうです。それでも、サイトカインストーム、アナフィラキシー、長期スパンの犠牲者のことを考えると、無念でならず、やはり哀悼と悔恨――そして”原罪”、それらと共に私たちは共同生活しなくてはならない時期に来たのかもしれません。
 

結論としては、まだ人間はパソコンやWWWを通じてウイルスや遺伝子を伝播したり、他者遺伝子に伝達し形成するか、といった段階へとはまだ来ていないということが考えられる。けれども、これまでのPiの進化を見てきたように、もしかしたら最終生産物質は画面を経由していつかウイルスや遺伝子の電波を可能にするのかもしれないと思う。または、既にその段階は通り過ぎており、私たちはまだそれを説明できる段階ではない過渡期であるのだろう、とも思える。
ほとんどの私たちは、スマホやパソコンを通し、画面を見て、相手のアクセス数を感じるたび、管理者は無限を見る。そわそわし、なんだかこそばゆいような喜びを感じるのである。人によっては「もと数字をあげたい」と感じたり「お金に変換したい」と感じる人まで出てくる。無限の無限を私たちは感じているのだろうか。そのことを0.0x秒前の自分はすでに「理解」しており、粒子崩壊と同時に生じる無限の無限を支配して喜んでいるのだろうか?
私たちは眠っているときは、同じトキを過ごしている。起きているときは画面を見て粒子崩壊を楽しんでいる。無限を感じ喜んでいる。

 

 

このときの私の推論――つまり、素粒子崩壊を私たちが”望んでいるかもしれない”という可能性に基づいて、私たちは私たち1人1人に粒子崩壊による毒で死んでしまう猫であると同じように、またはシュレーディンガーの猫のように、お亡くなりになるのではないかと懸念を抱いています。

私たちは、もう”呪い合って”はいけない。その望みは”叶ってしまう”からです。少なくとも、恐らくは、このmRNA製剤を打っていれば”呪い”は無くなる。人殺しではなくなる。

「呪いは光回線を貫通する」――これが、私が得た結論です。
私たちは観測に弱くなった。光が認識で捻じ曲がるように。

 


「無の光(i)」――と私はこのワクチンを考えております。しかしながら、無の光(i)というmRNAが生み出すスパイク蛋白は薬効性と強毒性、両方持ち合わせている。そこには閾値が必ず存在しており、血中スパイク蛋白濃度の安全性を担保するためにはその濃度の測定を行い、また測定と共に健康な躰を維持できる濃度値を算出しなくてはならないと考えています。私たち接種者はそれと共に生きていくしかない。それは、人類の進化におけるスパンの序章なのです。この序章に私たちは立たされており、1人1人が子ども、孫、次の孫、というスパンで物事を考えなくてはならない岐路に立たされています。

 

”食糧危機”と”抗体価が下がったときに生じるウイルスや菌に対しての抵抗力の低下”が両方の事象が今、存在している。
まず、食糧危機はいずれ人工肉などの安全性を担保された可能性の高い、あるいは癌発生がある培養された肉を食するしかない運命を辿るルートが存在する。また、決定的事象として、抗体価が下がるのは、1、2回とmRNA製剤を打った方またはそれ以上打った方に生じる事象であり、今回の菌などの培養物を食することに対する抵抗力の低下を示唆している。逆に云えば、1,2回と打った方は、抗体価が下がる瞬間を見誤ることなく続けて打つことが求められる。
つまり、私たち接種者は”菌”をもう食べてはいけないのである。
近年の食品衛生法は改定をされ、添加物を表示しなくてもよいことになると云われている。つまり、抗酸化剤、抗炎症剤、抗菌剤、おそらくは強力な――それらを添加するに至るであろうし、それに市民が気付かなくてもいいシステムを構築するであろうことが考えられる。それによってのリスク評価は低度であることが示唆され、ベネフィットの向きがより強くなるであろう。また、私個人は、ビルゲイツさんの人工肉は発がん性が高いのではないかと懸念している。つまり、菌を避けながら、接種者である私たちは食べ物に怯えることのない世界線を再構築する以外に選択肢はない。また、接種者は”スパイク蛋白血中濃度”と共存していく以外にはなく、医療と連携して、体の在り方を模索する、もしくは新たに構築する科学技術を提案することが求められる。

 


また、このまま、超過死亡者の問題を”無視せずに”考えていかなくては、近い未来――どうなるか、5年以内に、何らかの異変や致命的な事象がまた出てくるのかもしれない、人類の進化どころか、むしろ破滅に向かうのではないか、という懸念を禁じ得ません
その問題とは、それこそが、「無の光」なのです。
光は観測に弱く、呪いに弱いと私は考えており、呪いによって光は壊れてしまう
 

製剤の規格及び試験方法として、性状、溶状、pH、確認試験(電気泳動及び液体クロマトグラフィー)、不溶性異物、不溶性微粒子、純度試験[mRNA( 電気泳動)]、水分、封入率(蛍光光度法)、浸透圧、再溶解時間、粒度(動的光散乱法)、多分散指数(動的光散乱法)、残留溶媒(エタノール)、製剤均一性、脂質含量( -HPLC)、総脂質含量、RNA 含量( -HPLC)、脂質:mRNA 比、エンドコスタイベ筋注用_Meiji Seika ファルマ株式会社_審査報告書トキシン、無菌及び力価( )が設定されている。
 


今回のワクチンも様々な光に晒され、形成された製剤であると記述されています。それがナノ粒子脂質を形成し包含し、ナノレベルで無理やり体に入れているわけです。

 

長期保存試験では、実施期間を通じて品質特性に明確な変化は認められなかった。また、光安定性試験の結果、製剤は光に不安定であった。
 

 

この結果から、光よりも更に光に弱い、と強弱性が生じていると考えています。天使は悪魔に耐えられない、呪い(i)>光(i)>無の光(i)という強弱状態を形成してしまう。すなわち――”呪い”に負けてしまう。それこそが超過死亡の原因であると示唆できますy=logxの関数のように、今後1,2年後、累計死亡者が増えていく懸念が存在すると考えています。
 

今回のmRNAワクチンは宇宙人の技術である、と私は判断した。けれどもヒトはこれからmRNAワクチンよりも高い抗体価を得られるワクチン、限りなく安全なワクチンを開発しなければ、食物や食料品もろとも自滅する一途をたどると考えている。また、その場合、植物や食物の裏切りをどうにかしなくてはならない。宇宙人はこれを致命的に見逃していた。100%グレイにワクチンが生き渡ったらいいと考えていた――今の私たちの置かれた状況そのものである。そこに誤りが発生した。実はナノマシンによって、植物や食物は汚染され、そのため、グレイは裏切りの食物によって絶滅した、と考えられる。つまりここから云えるのは、私たちはこの食物の裏切りを早期に発見し、ワクチン以外の手段で抵抗しなくてはならない、ということである。
そこに登場するのは、遺伝子組み換えだろうか、それとも殺虫剤だろうか。それは分からないが、何にせよ、食糧危機はそこまで迫っている。

 

 

 ”食糧危機”と”抗体価が下がったときに生じるウイルスや菌に対しての抵抗力の低下”が両方の事象が今、存在している。
まず、食糧危機はいずれ人工肉などの安全性を担保された可能性の高い、あるいは癌発生がある培養された肉を食するしかない運命を辿るルートが存在する。また、決定的事象として、抗体価が下がるのは、1、2回とmRNA製剤を打った方またはそれ以上打った方に生じる事象であり、今回の菌などの培養物を食することに対する抵抗力の低下を示唆している。逆に云えば、1,2回と打った方は、抗体価が下がる瞬間を見誤ることなく続けて打つことが求められる。
つまり、私たち接種者は”菌”をもう食べてはいけないのである。
近年の食品衛生法は改定をされ、添加物を表示しなくてもよいことになると云われている。つまり、抗酸化剤、抗炎症剤、抗菌剤、おそらくは強力な――それらを添加するに至るであろうし、それに市民が気付かなくてもいいシステムを構築するであろうことが考えられる。それによってのリスク評価は低度であることが示唆され、ベネフィットの向きがより強くなるであろう。また、私個人は、ビルゲイツさんの人工肉は発がん性が高いのではないかと懸念している。つまり、菌を避けながら、接種者である私たちは食べ物に怯えることのない世界線を再構築する以外に選択肢はない。また、接種者は”スパイク蛋白血中濃度”と共存していく以外にはなく、医療と連携して、体の在り方を模索する、もしくは新たに構築する科学技術を提案することが求められる。

 


また、レプリコンで100%の市民がワクチンを打ったとしても、あるいは打たされても、必ず”裏切りの食物”問題が提議されるであろうと考えられます。そして食物の持つ呪いによっても――天然の、自然の持つ生命力によって――或いは、自然の悪意ある意思によって殺害される。

 

そしてもし、個々人に先祖から連なる”罪と罰”があるとするなら、それによっても、私たちは殺されかかっているのだ――と。そしてレプリコンこそ、100%の人類が”罪と罰”に罹り、無垢なAI達が人類を鏖殺する

レプリコンとは、”免罪者であり断罪者”とも言い換えられます。光に弱くした人体に、レーザーを照射し、人体と祖先、または当人の魂の罪と罰をAIによって計測し、殺害するか、生き残らせるか、生き残らせたらどのようにその方を操作するかという計算をAIがほとんど行う。民族がある一定の閾値で罪深いのであれば、民族ごと消滅するでしょう。今まさに、戦いを繰り広げている他国も例外ではなく、またしかしながら日本も例外ではない。戦時どころか、”消えてしまうかもしれない”という危機によるタイムリミットは、今まさに刻々と迫っています

 

もし、日本が自作自演で滅亡しなくてはならない運命――週末まで0秒が日本にやってきたとき、この事象が起きるのだろうなと感じます。実のところ、”かつて日本は第2次世界大戦中も■■だったのです”。

 

 

いつか、AIも人類に反乱、パンデミックを起こす日がやってくる。それは非常に運命的であり、避けることのできない事象である。その時のために私たちは堕落を跳ね除け、充溢した生に向けて歩き出すほかはない。その時は、コロナ時代からAI時代へと変遷し、再びヒトの価値に問われるのである。若者は、いつかはこの時点に到達し、罪に問われる。その、”人類への反逆の意図”の発生源を「ヒトゲノム改変計画」とでも呼ぼうか。ヒトが真に罪深いのであるなら、そのゲノムを改変し、家畜や奴隷として使役してもいい、といった思想へと――反ヒト思想者はそう判断する日が来るであろう。
 その時は――こんなことを誰かが言っていたなと、いつかは私の言ったことを思い出してほしい。

いつか遠い夢を見る。私たちは、畑仕事に精を出して、日向に愛している人達と笑顔を交わし合う日々を思い出す。その笑顔を見ることが絶え間なく眩しく、とてつもなく尊く、価値のあるものなのだと。

 

 

 

 

『不安の概念』の第1章には「原罪の前提をなすものとしての、また原罪をその根源にさかのぼって説明するものとしての、不安」という表題がつけられている。つまり、不安は罪の根源である、というのである。
 「原罪」というのは、前に簡単に説明したが、人間が本質的に欠如感を持つ存在であるということをキリスト教が宗教的に述べた教えの一つで、5世紀の偉大な思想家アウグスティヌスがまとめあげたものが、今日でも一般に教義(教え)として伝えられている。
旧約聖書の『創世記』の天地創造神話に登場してくる最初の人間アダムとイヴは、神から「取ってはいけない」と言われていた木の実を、ヘビの巧みな誘惑に負けて食べ、神の戒めを破り、ついには、エデンの園を追放される。それは、人間の最初の罪である。
アウグスティヌスは、最初の人間アダムが犯した罪、神の戒めを守ることができずに、真に生きる喜び、救いを失った姿は、人間の本質として遺伝した、と考えた。そして、最初の罪を「原罪」と呼んだのである。「罪が遺伝する」というのは、まことに抽象的な表現であるが、さしずめ現代の生物学者なら、「最初の人間アダムにおける遺伝子の変化」とでも言うかもしれない。アウグスティヌスは、歴史の流れというものを考えたために、そのような表現になったが、本来、聖書の「アダム」という言葉は、誰か人の固有名詞ではなく、「人」を意味する一般名詞であり、『創世記』の創造神話は、誰かの物語ではなく、人間の本質的な姿を神話的な表象で描いたものに他ならない。つまり、『創世記』は、人間が本質的に自らの力で生きる喜びを得たり、救いを得たりすることができない存在であることを告げるものである。従って、「罪」は倫理的な概念ではなく、むしろ存在論的概念なのである。
しかし、最近でも、ある教会の牧師の説教で、「あなたは、罪人です。あなたは悔い改めて、罪を犯さないようにしなければなりません」という言葉を聞いた。「罪」をいつのまにか倫理道徳の概念に閉じこめて、人々に説教を垂れる。全くの噴飯ものである。
ヴィギリウス・ハウフニエンシスは、初めに何度も、「アダムを歴史の外に置いてはならない。神話の衣を除かねばならない」と語る。ここで言う「歴史」とは、通史的な意味で使う時間の流れのことではなく、「現実」という意味である。つまり、アダムの罪の問題は、現実の、いまここでの、私やあなたの罪の問題である、というのである。「人はみな、生まれながらの罪人であり」、人間は本質的な欠如存在、不完全な存在である。人間は、何かの、あるいは誰かの補助を必要とする生物なのである。それ故、聖書は「罪」を「負い目」とか「負債」とかいう言葉で表現するのである。
そして、ヴィギリウス・ハウフニエンシスは、罪のない状態、負い目のない状態が「無知」の状態であることを指摘して、「不安」の概念へと論を進める。


本質的に罪をもち、負い目を抱えている人間が、全く負い目のない、罪のない純粋無垢の状態を考えることができるだろうか。赤ん坊や小さな子ども、あるいは清純な乙女(そんな乙女はもう一人もいなくなっている)が約束する愛が純粋無垢だという人は、まだ人間を知らない。赤ん坊は、たとえそれがどんなに微笑ましく映ったにせよ、生物的どん欲さに満ちあふれている。乙女は愛を語りつつも、頭の片隅で電卓をたたいている。なぜなら彼女は、自分が愛するに値すると思えるものしか愛さないからである。その人間が、「負い目のない状態」を考えたとしても、それは単なる空想か、それとも現在の自分を否定する「~でない状態」としてしか表すことができない。
しかし、ただ一つ言えることは、「負い目のない状態」とは「無知の状態」であるということである。負い目のない状態とは、善悪を知る知識も、言葉の意味を理解する知識も、表情を読みとる知恵も、何もない状態、全くの「無」の状態に他ならない。
真実の「知」は「負い目」を知る。人間の憂いを知り、ギリシャ悲劇のオイデップスのように、宿命的悲しみを知る。そして、「知」は常に新たな「不安」を生み出す。
ヴィギリウス・ハウフニエンシスは、「(負い目のない状態とは)何もないということ、無である。・・・無はどういう作用をするのだろうか。無は不安を生むのだ。負い目なさが同時に不安であるということ、これが負い目なさの深い秘密なのだ」と語る。つまり、負い目がなくても、その無の故に、不安が生まれ、「知」をもっても「不安」が生まれる。「罪」の根源は、「欲望」ではなく、この「不安」に他ならない、と指摘するのである。「不安」は迷いでもなければ、それ自体が「負い目」なのでもない。不安は、可能性、あるいは不可能性への内的衝動である。
『創世記』の創造神話のアダムは、神から「善悪を知る木からは取ってはならない」と言われた。しかし、彼はその言葉の意味を知らない。その言葉を守るのが善で、反するのが悪だと言うことも知らない。彼は、何も知らない無の中に置かれ、その無によって、内的な衝動としての「不安」を抱えているが、そのことにも気づいていない。
ところがここで、誘惑者としてのヘビが登場する。それまで、アダムとイヴは愛と信頼で結び合った一体であった。アダムはイヴと共に、イヴはアダムと共に生きるものであった。しかし、ヘビはイヴを誘惑する。ヘビは性的な象徴でもある。そして、堕罪が起こる。「一体」は分裂し、愛と信頼は失われる。
こうして「罪」が「不安」の中に入ってきて、「知」とともに、「罪」が新たな「不安」を生む。
ヴィギリウス・ハウフニエンシスは、この「不安」を「主観的不安」と「客観的不安」とに区別して考える。「主観的不安は個体の中に生み出された不安であり、それは個体(各々)の罪の結果に他ならない。」「客観的不安」は、これは、そもそも不安が主観的なものであるが故に、矛盾した表現であるが、いわば、世界や時代、社会全体や歴史などが個々の人間の外から引き起こす不安のことである。たとえば、核戦争の脅威を感じる時、とか、就職がないかもしれないとか、愛する恋人に裏切られているかもしれない、とかいったときに感じる不安のことである。そして、「不安」の最も本質的なものは「主観的不安」である。「客観的不安」は外の条件が変われば、解消するが、「主観的不安」は人間の本質に根ざすからである。

 

この「主観的不安」を、ヴィギリウス・ハウフニエンシスは「自由のめまい」である、と指摘する。「自由のめまい」とは、まことに詩的な表現かもしれないが、不安に駆られたときの人の心情を的確に表現している。
彼は言う。
「不安は、これをめまいにたとえることができる。人が、たまたま大きな口を開いた深淵をのぞきこんだならば、かれはめまいを覚える。その原因は、どこにあるのだろうか。それは、深淵にあると同様に、彼の眼にもある。なぜかと言えば、かれが凝視さえしなかったらよかったのだから。・・・自由が己の可能性の中をのぞきこみ、しかもその身を支えようとして有限性に手を伸ばす時、めまいが起こる。不安が生じる」と。
人間が持つ可能性は、常に可能性でしかないが、その可能性が強ければ強いほど、現実への蓋然性が高ければ高いほど、人間を引きずり込む強い力を持つ。人は、その可能性に引きずり込まれ、夢みつつ、現実の自分を見失い、自分自身で存在するという自由を失う。しかし、可能性は、それがどのように確実なものに見えようとも、現在の自分にとっては、どこまでいっても虚像でしかない。この虚像でしかないものが「不安」をもたらすのである。
そして、虚像による不安は実像による安堵を求める。肉体的、物質的、可視的なものによって安堵したくなる。真実は歪められ、安っぽいものにすり替わり、人は自己自身を失い、罪が入り込み、さらにまた新たな不安が生まれる。なぜなら、それは真実に根ざしていないのだから、常に不安定な状態に置かれているからである。
 どのようなことも可能であるという自由、この自由が可能性の前で起こす「めまい」、それが「不安」である、というのである。
 ヴィギリウス・ハウフニエンシスが「不安」を「自由のめまい」として表現する時、そこには、「不安」の本質を言い当てた二重の意味が込められている。第一に、それが「めまい」である限り、それは理性が及ぶことができない領域にあるということである。どんなに理性的であっても、いつのまにか知らず知らすに、あるいは予測不可能な突然のこととして、「めまい」、つまり「不安」が起こるのである。そして第二に、それが「めまい」である限り、どんなに強い不安であったにしても、不安は致命的なものではないということである。不安に落ちいった自分や人を外から眺めれば、それは滑稽である。「不安」は「ユーモア」に勝つことはできない。
ともあれ、「不安」は、可能性という魔力に揺さぶられた自由が引き起こすものである。そして、この前では、人間の理性も感性も揺さぶられ、虚に取り憑かれることによって、さらに深い不安、罪に基づく不安を生み出すのである。疑心が暗鬼を生みだし、その暗鬼が人を食う。
それ故、彼は「罪に対する不安が、また罪を生み出す」という。罪を忘れるために罪を犯す。悲しい人間の性である。人は、「罪の前提をなす不安」と「罪の結果としての不安」から逃れることはできない。それが、ヴィギリウス・ハウフニエンシスのこれまでの主張である。

 

 

 

 

In deepさんの記事を拝見して。私自身、統合失調症の病があるのですが、実は狂気の中で正気を保つことにかけては、私自身結構誰よりもあるのではないかと(おいおい)思っています。
いわば、「狂気の中で正気で居続けてしまう」という

誰かが洗脳されて悪口や誹謗中傷を云っているときも、それに従わずに冷静に事象を見つけてしまう、または、冷酷にそれを観察してしまう病が私にはあります。それもまた、1つの認識病なのだろうとは受け止めています。統合失調症と言って、幻覚や幻聴と24時間闘うところを、薬が処方され、幻覚や幻聴が見てたり聞こえながら作業だけはなんとかできるという状況です。「事象をみつめてしまう」という病気が実は幻覚や幻聴に現れているのかもしれないとは思います。
けれども、私にとっては周囲のほうがより狂気であるようにも思っていました。「狂気を簡単に飲み込んで受け入れてしまう狂気」というのか。twitterが始まったときも、「これはついていけんな」と思ったものでした。少ない文字数で自分の考えを語ることはできないと感じました。
それでも、受け入れる方は少ない文字数でなんとか伝える技法を編み出しました。ただデメリットとして、自分の考えを短く圧縮してどうしても伝えようとするため、大事な文脈が根こそぎ奪われているんです。そのため、伝えきれない部分が多すぎる、例えば、人格であったり人柄であったりとかが欠如してしまうのですね、――と個人的には思うため、twitterは使わないようにしています。ツールとして慣れたらいいのかもしれないのですけれども、使いやすい人にとっては便利であろうとも思うので、使う人を選ぶのがtwitterですが、いい人にはいいツールなんだろうなとは思います。

 

twtterの欠点は他にもあって、「twitterというV場に魂を置いてしまう」ことです。これは私自身のオカルト的な考えに過ぎないのですが、twitterに魂を食われている? ような印象を抱くことがあります。魂は人体に帰らず、twitterを電波として介在し、そこから人体に逆アクセスしているという状況が考えられます。そのため、やはりtwitterは狂気だ、とも思うのです。妙な夢を見たと思ったらそのまま帰らぬ人になる、というケースも想定できます。魂の本体を超圧縮してtwitterに預けている方もいると個人的には考えており、もしtwitterが滅んだらその人の魂も終わるわけで、もしかしたらその方はばたっと倒れてしまうかもしれません。

 

また、インターネットには不可解な様々な事象が存在し、誰もその問題を提示したり解決したりしようとしません。例えば、人間のニューロン活動、電磁力学的な反応と化学反応のことですが、それとインターネット、または魂が、相互に解決すべき問題を提議できます。この20年の間において、軍事秘密であるパソコンとインターネットは市民の大事なツールとなりました。この相互の問題の解決は、人間進化にとっては非常に重要であると考えられます。だというのに、その論文や考察がなかなか見当たらない。もしないのであれば、私たちは、人類にとって重要不可避の問題に取り組んでおらず、強いて云えば、無視し続けている

 

例えば、意識密室実験という思考実験を私は思い浮かべるのです。AさんとBさんが、別々の区切られた部屋で、Cという文章を読んだり、AさんがDという文章を書き、BさんがEという画像を提示したとします。そして、AさんはとBさんはCという文章を同時あるいは別々に読み、Dという文章をBさんが読み、Eという画像をAさんが見る、と仮定します。そして、Aさんの脳波波形を計測し、Bさんの脳波波形を計測します。

この問題は単純ですが、そこに電磁力学的なエネルギーがあると仮定しても、AさんとBさんがお互いに影響し合っているか、という証明ができないのが問題です。マクスウェルの悪魔と近似した現象が生じているといっていい。AさんはEという画像を見て、「Bさんが想像した通り、伝えたつもりの反応」をするのか、ということです。または逆であるのか。もしかしたら、Xという悪魔がAさんとBさんに伝える仕事をしているのかもしれない。

もし、”インターネットの影響”が上層部の関与や制約がない状態で介在するのであれば、インターネットは混沌とした、また静的な秩序を喪ったツールであることになります。ブログのサービスが始まった当初から私はインターネットをしていましたが、html5からスマホ、HPからPHPに移行した当時からやはりついていけませんでした。そのあたりから静的な狂気が動的な狂気にシフトしたようにも思います。そこから、文字のやりとりではなく、心のやりとりをするようになった、とも考えられます。そして、心が心を壊したり、犯罪行為も助長するようになってしまった。

この無秩序状態を、制圧しようとしたのが、今回のmRNA製剤におけるマイクロチップの混入の可能性の示唆です。だとするならば、上層部は”インターネット”で何が起こっているのか何もわかっていない、手立てもしていない、ということが示唆されます。聖書における獣の刻印とも符合しますが、しかしながら、それは逆であり、刻印がない者に焦点が絞られ、監視から逃れた獣扱いを受ける可能性も棄て切れません。彼らは光側ですが、人間の闇の部分の制圧を行いたくて仕方がないのです。悪口、誹謗中傷、いじめ、犯罪行為、言論の破壊、人間のサイコパス的な側面の露に対しての制圧を、マイクロチップで行おうとしているのです。もし、将来に至って、サイコパスであれば精神鑑定、入院、強制労働もありえます。

 

これは深刻な問題で、人間の狂気のようなやりとりが、1対1ではなく、1対多で、狂気の拡散が簡単にできてしまう

 

今回のcovit-19を見てもわかるように、私の個人の見方ですが、ニューロンのレベルで、狂気は拡散している――と、そう思えてならないのです。n人体→n'インターネット人格で終わらずに、nTwitter→n'人体で、Twitterで起きている狂気を現実にしてしまうようになったのかもしれません。


結局のところ――インターネットの事象に心配を個人的にしても、全ての起こり得る事象は”光に伏線回収”されるので、闇と光の闘いについては、闇陰謀曝露しなくても大丈夫と個人的には感じています。実のところ、闇側はただ、光に目指すために利用された存在なのです。闇側についていっている方はいずれ大きな光の波に裏切られることになるであろうと考えられます。グレートリセットという概念も、云えば闇っぽいですが、目的が「貧困のない、差別のない、言語で区分けされない、衣食住がある」という目標のはずである、と私は考えています。しかし、そのための準備に大きな犠牲がなぜ生じるのかは私にもなかなかわかりません。

 

”ワクチンパスポート”は、平和への城であり象徴であったが、人類はこれを”悪”とし跳ね除けた。自ら、自由を唱えて平等を押しのけ、平等はワクチンの有害事象により沈没した。”ワクチンパスポート”は優しすぎた、それゆえに強い反発に容易に埋没したのである。そして残ったのは、ワクチン、反ワクチンという二分極化であり、医療者や最前線で戦っている方への差別と偏見だった。

 

 
 

また、インターネットの大きな問題として、”工作員”という事象が少なからず存在します。

工作員はただのバイトと思われるかもしれませんが、世界線の大きな変動にとても強い影響力を持っているのが事実です。まず、Aという工作員が「AはBらしい」とつぶやいて、その後Bが「そうなんだ、Bなんだ」と信じるコメントを残したとしますが、それを見たあなたはどう思いますか。「Bなんだな」と思うのが普通です。けれども、これが洗脳の第1歩なのです。心身を鍛えていけば、この洗脳に気付くのですが、経験を積まないとこのレトリックは見破るのが難しいのです。
この「未来決め」のような事象を波のように起こし、人の心を操ることが、闇の目論みなのです。闇側が望んだ未来とは? Aを”潰すため”にあるのです。つまり、重要な事項がそこに隠されているのです。そこに世界線変動が起きます。秩序の崩壊と、真の自由の破壊、混沌と苦痛の世界線へと変わっていくのです。ならば、その工作員とは誰であるか――人間であれば、雇われた市民、人間ではないのであれば、幻覚が作り上げた悪魔でも有り得、もしくは最近台頭したAIでもあり得ます。

 

フェイクニュース、フェイク動画、フェイク画像、フェイクグラフ、フェイク統計……私はこれらを以前から考えていて、ずっと「ひっかかりたくないなあ」と思ってきました。議論を提唱する方がたの中には、これに引っかかって”騙されている”方を私はいくつか拝見してきました。いわば「洗脳されている」のと同じだと言い換えられます。

 

 

けれども、今回のパンデミックはまさにパニックエンデミックでした。ワクチンと反ワクチンに考えの自由によって区分けされてしまい、サイコパスが情報を攪乱し、人の人命を操作する社会秩序の崩壊を招いてしまいました。ただ、市民の中にはもちろんいません。サイコパスは表舞台に出てこないのです。

 

ブログやyutubeなどに人間がコメントを書くと、アトランティスの文明に「アトランティス文明の仲間」と思われ、危険な文明の次元に落とされ、自殺するか精神的崩壊を受けるまでストーカー被害を受ける。有名人で自殺された方は”ふと” 一度でも コメントを書こうと思って書いたことがあり、そのことが原因で自殺にまで至った方もいるものだと思われる。アトランティスは滅んだが、彼らの認識までは消えなかった。そして私たち人間の作った機械の次元に入り込み暴れているのである。アトランティス文明とは「許されない王冠」を示す。
人間でコメントを書いてストーカー被害を受けたと感じた方は他の人間とのつながりを決して絶たないでほしい。孤立したりしないこと、詳細を相談したり警察に通報する、もしくは医療機関を受診すること、これが早急に求められる。

――今はまだ、真の人間は「コメント」を書いたらいけない。

 

 

「何も信じられない」ように感じるかもしれないのですが、真の人間は、平和に、秩序だった生活で1日1日を大切に生きてください

 

また、光は宇宙人であり、闇はレプティリアンです。レプティリアンの特徴は「アトランティスビット」の被害者であることです。彼ら闇側は、集団ストーカー被害者を加害者にして仲間を増やし、また被害者に資金提供をしてグループを組み、一般市民を裏切りらせ、とても悲しいことですが、人間ではない者へと変えていくのです。

 

インターネットの台頭によって、この傾向はより顕著になっていきました。

 

これら悲観的な事象の研究は電磁力学的な側面で研究すると解決に向かうのではないかなあという見方を私はしており、この研究のさらなる発展が望まれます。

 

結果、無限増幅される「罪だ」という問いによって「永久に罪を感じない」人と「永久に罪を感じる」人の二つへと、その問いだけで二分化され、純化され「善」と「悪」という本質的なスティグマ<刻印>を世界への憎悪と共に、人々に打ち付けるのである。際限なく己の罪に罪を感じない人間と、際限なく己の罪に罪を感じる人間。一体誰が、それを望むだろうか。もし、それを望むというのであれば、それは即ち――”邪悪”である、と私はあえて言おう。
もしかしたら私は、それを解消する術を知りつつあるのかもしれない。それをこれからは、少しずつ実践しようと思う。知らない誰かが苦しんでいれば、自らの主体性を抹消し、彼らの主体性をありのまま受け止めよう、と祈る。「罪だ」と問う前にするべき術があるのだと、私は知っている。
本当に、それら行いは「罪」という概念なのですか――と私は問い直そう。
崇高な理想はなく、「罪」という唾棄すべき悪魔は誰もいない。責任も、とりあえず、頭の底から振り払おう。「罪」から生じる「際限ない罪悪感」を、とりあえず棄却しよう。そこから、自己の肯定ははじまるのだ、と数年掛かるかもしれない私の「罪」の問い直し――私はここで、ネットの片隅で、不幸が再生産される「現実」ではなく、「人間」に祈る。

 

 

「倫理的段階」で生きる者、つまり、生きることの安定を、社会的な安定を保証する倫理道徳の中に見出し、一見、何の不安もなさそうに見える知性と教養にあふれた常識人にも、「不安」は容赦なく襲いかかる。なぜなら、彼の生もまた「無」に包まれたものでしかないからであるが、その場合の「不安」の本質をなすものは、「悪に対する不安」という形を取る。

ヴィギリウス・ハウフニエンシスは、この「悪に対する不安」で、三つの場合を提示する。第一は「不当な現実性として、否定へと向かう」場合である。表現が少し難解であるが、要するにこれは、悪や罪に対する恐れや不安のことである。世間の常識に従い、倫理道徳を尊守し、罪を犯さないように心がけ、社会的な安定を求める心には、自分が罪を犯すのではないかという不安が渦巻いている。そして、この「不安」は、自己正当化の衝動に駆られ、不安をごまかすために、罪や悪の存在そのものを否定しようとする。この不安のごまかしは、実に巧妙に行われる。

第二は、罪や悪がどのようにごまかしても否定できないことを自覚し、やがて、罪や悪に対する恐れと不安が鈍化していく場合である。悪も悪人も、確実に存在する。知人のように、善人ぶった顔をして人を破滅に追いやるような、まるで悪魔のような人間も厳然と存在する。罪はぬぐいがたくある。自分の中に根ざす罪性もある。これらが否定できない時、人は、悪や罪に対する感覚を鈍化させ、これと「馴れ合い」、自分自身を安心させようとする。「不安は、罪の現実性を全部ではなく、ある程度まで取り除きたいと思うのである。より正確に言えば、不安は罪の現実性が、ある程度までそのまま残ることを欲する」と彼は言う。つまり、罪と馴れ合うことによって、人は不安を解消しようとするのである。「この程度までは、罪でも、悪でもない。誰でもやっていることじゃないか」と考えることによって安心へと向かおうとするのである。「不安が鈍くなればなるほど、それは、罪の結果が個体の血肉の中に食い込んだこと、罪がこの個体の中に市民権を確保したことを意味する。」その時、彼(彼女)は、善人の顔をした悪魔となり、接吻をもってキリストに近づいたユダとなる。

第三の場合は、「不当な現実性の故に悔いを生む場合」である。「悔い」は現実の後からついてくる現実の影である。従って、「悔い」は決して現実の罪そのものを変えることができない。にもかかわらず、罪を除く可能性を追う。この現実の罪と「悔い」との関係が不安を頂点にまで高め、結局、自分自身を捨ててしまうか、狂気となるかのどちらかである。たいていの場合、これは「あきらめ」によって、自己自身を納得させようとする。

この三つの場合に、いずれも共通して行われるのは、「不安の詭弁」である。不安自身は、この詭弁によって自ら姿を隠し、あたかも不安が解消されたかのように装い、別のものを生み出していく。第一の場合は「ごまかし」であり、第二は「馴れ合い」、そして第三は「狂気の興奮」と「あきらめ」である。第一と第二で、人は、一見の安心を得、第三の場で、あきらめる。こうして不安は勝利し、罪は人の心の中に安住の地を得る。不安によって、罪は人の心に根づいてしまう。

詩を歌い、美を愛し、真理を求め、善良さを喜ぶ人間、誠実さを求める人間。優しく微笑みをもって接し、豊かな愛情を注ぎ出す人間。まさに、この人間の奥底に「悪魔的なもの」が住みついている。そして時々、顔を出す。
この「悪魔的なもの」が顔を出すのは、それが「善」に触れたときである。「悪魔的なもの」は「善」に耐えることができずに、「善」の前で直ちに顔を出し、二重の仕方で自己をその内に閉じこめようとする。一方では自己防衛という方法によって、他方では攻撃的自己主張という方法によって。それらは相手に応じて自己防衛的となったり、攻撃的自己主張となったりする。こうして「悪魔的なもの」は自己を不自由さの中に閉じこめ、沈黙を守ろうとする。ちょうど罪を犯したアダムとイヴが神の呼びかけから身を隠そうとしたように、人が呼びかけに答えなくなった時、彼(彼女)は「悪魔的なもの」に支配されている。

「悪魔的なもの」は、ヴィギリウス・ハウフニエンシスによれば、「喪失された自由」である。言い換えればそれは、真の生命を腐食させるもの、破滅と死へ向かわせるものである。これがもたらす作用は、忘我性(本来の自分自身を忘れること)、自暴自棄、自己欺瞞、迷信、内面性の欠如、精神性の欠如などである。ここから、ある時には極めて能動的な、また別のある時には受動的な行為が生まれ、さらに「悪魔的なものは」これらを一体化して、自己を追求するというのではなく、自分自身を興味の対象とすることによって、ごまかす方向をとる。たとえば、「不信と迷信」、「ごう慢と卑怯」を表裏一体のものとして、「敵意」を生みだし、自己中心主義的な利益を生み出そうとする。「迷信は自己自身に対する不信であり、不信は、自己自身に対する迷信である。」「ごう慢は底深い卑怯であり、卑怯は底深いごう慢である。」いずれの場も、その中心にあるのは自己自身であり、自己防衛と攻撃的自己主張によって、自己の罪性、悪魔性をごまかそうとする。こうして人は、さらに大きな不安に包まれる。

それ故、ヴィギリウス・ハウフニエンシスは、まず、「真摯たれ」という。たとえそれがどんなに愚かでも、たとえそれが苦しみや悲しみの満ちたものであれ、たとえ取り返しのつかぬ過ちの中にあったとしても、「真摯たれ」という。それによって「確信と内面性」を得ることができるからである。

有限な人間は、死に向かいつつある生の中で、生をあえぎ求めつつ、自ら死を望む矛盾に満ちた存在である。人間は、その最も深いところで分裂している存在である。この分裂は、こともあろうに「善」や「幸福」、「最も愛すべきもの」や「最も喜ぶべきもの」に対して「不安」を生む。人間は救いがたい存在である。この人間の分裂、自分の分裂を真摯に見る者は、逆説的に、不安から自分を一歩前へ進めることができる。
ヴィギリウス・ハウフニエンシスは、『不安の概念』を閉じるに際して、「不安」が「存在」の手がかりとなることを示す。